切ない光に照らされて、ようやく見えた、噂の幽霊の姿。
ついさっきまで無人だった筈の練習場に突如として現れた、赤い影。
それを見つけた時に、二人の間に小夜風が吹き抜ける。
ただ、何を言うでもない。その風に、二人の鬣は自由に踊る。
彼女は依然として、意地悪じみた表情で、埒の上からマーシャルを見下ろすように。咥えた煙草の先端が、上を向いたり下を向いたりしている。
「ここ、禁煙ですよ。そんなもの持ち込んだら、会長さんに叱られちゃいますよ」
マーシャルの声色は、彼女自身が思っている以上に落ち着いていた。
特に臆するわけでもない。まるで懐かしい人に、久しぶりに逢ったかのような、意外な程の安堵が彼女の心にはあった。その安堵は、少し表情にも表れていたのかもしれない。
埒の上のウマ娘は、マーシャルのその表情を見るや、ふっともう一度薄く笑い、ターフへ煙草を吐き捨て、埒の上から降りた。
そのウマ娘、思ったよりもずっと小柄だった。マーシャルの前に立って、身長が然程に変わらないことを知った。
月夜に照らされる表情は、とても幼く、それでいて活気に満ち溢れている。しかしお転婆娘というには、どこか余裕というか、大人のような貫禄が伺えるようだった。
勝負服は、スカートと一体になった黒いゴシックライクなドレスの上に、ストライプの入ったワインレッドカラーのジャケット。この中央で、こんな勝負服を纏う娘など、見たこともない。
「あなたが、"赤いウマ娘"さん……ですか?」
マーシャルのその問いに、赤いウマ娘は首を縦にも横にも振らない。彼女はただ、どこか感慨深そうにマーシャルの顔を覗いて、そして半宵に上る月へ、数回その瞳を瞬かせる。
「私、レッドマーシャルって言います。今日は、その、ここの学園で皆を困らせてる悪い幽霊さんを退治して欲しいって依頼を受けて来たんです。あなたが、その幽霊さんなんですよね?」
現実にそんなセリフを吐く日が来るとは思ってもみなかったな、とマーシャルは思う。
しかし、そうマーシャルがそう問いかけても、赤いウマ娘は表情一つ変えず、月や夏の星々を穏やかな表情で眺めていた。
「……アルタイル。その近くのデネブとベガを結べば、夏の大三角。あのジグザグとした星はカシオペア。七つの星は北斗七星。今日は、
赤いウマ娘は、ふっと視線をマーシャルへ戻す。彼女も同じように、星を眺めていた。
「昔、私に星の見方を教えてくれた人がいたんです。……その人と過ごした最後の日も、丁度、こんな風に星が綺麗に見える日でした。私は最後に、その人にちゃんと、さよならを言えなかった」
儚げな横顔がそう語った。
マーシャルの視線も、再び赤いウマ娘へ。そして、朧気な瞳で続けた。
「あなた、なんですか?……
それでも、彼女の表情は動かない。
暫く、沈黙にも似た時間が流れる。その時間が永遠かとも思われた時に、ようやく赤いウマ娘が動く。
コースの中央。1400mレースが行われる際の、スターティングゲートが置かれるポジションに向かって、顎で指す。それが何を意味するのか、マーシャルは直ぐに理解した。
赤いウマ娘が、その指した場所に向かってマーシャルに背を向ける。その背中に、マーシャルはもう一度呼びかけた。
「トレーナーさん……!」
そこからもう一度何かを言おうとした時、マーシャルの言葉を遮るように、赤いウマ娘が言った。
"You know where you are? You’re in the jungle baby, you’re gonna die!"
赤いウマ娘は両手を大きく広げ、マーシャルに向かってそう言った。その表情、不敵に笑っていた。俺はシケた話をしにきたつもりはない。吊り上がった口端が、そう語っている様だった。
『……ル。マーシャ……そ……に誰か……るのか?』
左耳から、大きなノイズ混じりにルドルフの声が聞こえた。だが最早、インカムを通じての意志疎通は不可能のように思えた。
しかし、微かに聞こえたルドルフの声に、マーシャルは本来の目的を思い出す。そう、今回の目的は、赤いウマ娘と呼ばれる謎のウマ娘を討伐することなのだ。その正体が誰であろうと、関係のないことなのだ。
不敵に笑った彼女の笑みに、マーシャルはようやく覚悟を決める。彼女は他の誰でもない、討伐すべき敵なのだ。
ノイズを叫び続けるインカムを外し、コースの隅に置いた。そして、赤いウマ娘に言った。
「分かりました。改めまして、"赤いウマ娘"さん。私、学園で悪戯ばかりするあなたを、懲らしめに来ました。……1400でいいんですね? 分かってると思いますけど、私……結構強いですよ?」
マーシャルが真っすぐとした瞳を彼女に向け、そう言った時に、赤いウマ娘はようやく歯を見せて笑った。
そう、彼女が望んだ"Red Sprinter"が、ようやく現れたのだ。
赤いウマ娘とマーシャルは、静かなターフの上に、二人並んで佇む。
夜風に身を任せるように、深く息を吸う。夜の空気は、とても吸いやすいと感じる。
見通す先は、水銀灯に照らされた芝1400。スターティングゲートはなく、その場からのスタンディングスタート方式での勝負。
マーシャルのコンディションは申し分ない。日中に眠れたことでの体力の保存と、仲間達からの期待と応援が、彼女の心に静かなる火を灯す。
もう一度、周囲を見渡す。闇夜の中、月と水銀灯に照らされ煌々と輝く二人だけのステージ。オーディエンスが少ないことが玉に瑕だと思える程には、マーシャルの心は冷静さを保っている。
インコース側に立つマーシャルの隣に並んだ赤いウマ娘が、懐からコインを一枚取り出す。
パチン、と一度親指でコインを弾き、手のひらに戻す。
これが、スタートの合図代わりだということを察したマーシャルは、赤いウマ娘へ、浅く頷く。
赤いウマ娘が、左足を後方へ置き、再び親指にコインを置く。
マーシャルもそれに倣い、左足を大きく後ろへ。
パチン、と金属がはねる音がする。
コインはくるくると空中を舞い、上死点を越して、重力に強く引かれ――
ターフの上に、コインが落ちる音がする。人の耳では到底聞き取ることの難しいそれを、マーシャルの耳ははっきりと捉える。彼女の耳に入力されたその音は、脳内のアンプリファイアで大きく増幅され、そして、ゲート開放時の轟音と比較しても遜色ない程にまでオーバードライブされたコインの音は、彼女の身体を一直線に前へと叩き出す!
ゲート無き、ゲート開放。
二つの赤い火の玉が、並んで夜の芝へと駆け出した。
―――――――――――――――――――――――
「走り出したッ!?」
第二コーナー終わりのバックストレッチから、マーシャルが途端に走り出す様を見て、沖野はそう声を上げた。
先ほどまで誰かと話しているかのように佇んでいた彼女が、突然のスタンディングスタート。その走りは見るからに、プラクティスのそれとは大きくかけ離れている。
本気の勝負モード。
マーシャルという、Red Sprinterが、前へ前へととかっ飛んでいく。歯止めの効かない暴走列車のように、音速への到達を目指しているかのように。
「マーシャル……一体何を」
彼女は明らかに一人だ。だが、その走り、ラインの取り方。どう考えても、単走時の走り方ではない。彼女は、誰かと走っているのだ。
「来たんだろう。"赤いウマ娘"が。彼女は今、それと戦っている」
ルドルフがそう言った時、二人の嗅上皮を、とある香りが擽る。
煙草と香水が入り混じった、二人がよく知る人物の香り。
「認めるしかない。来たんだ、彼は」
ルドルフは放送席の机に手を付くと、こちらからは見えない相手と併走するマーシャルを見て。
「……愉快適悦。随分と楽しそうに走っているようだな」
「それは、どっちが?」
「どっちもさ。彼も、彼女も」
―――――――――――――――――――――――
ドンズバのジャスト0スタート。
敗北を続けていたあの日から、何か一つの取り柄を確立しようと磨き続けたスタート技術。
強豪集う重賞の世界に身を置いて、それは更に精度を増している。
そして、この日、この勝負において、マーシャルはこれ以上ない程の、絶好のスタートを切った。
スタートがこんなにも完璧に決まると、清々しい気分にもなる。
何よりの恩恵は、ライバルとのアドバンテージ。1秒にすら満たない時間から生み出されるそのアドバンテージは、その後のレース展開に大きな影響を与える。
だが、赤いウマ娘はマーシャルに後れを取らなかった。
彼女の真横に貼り付くように、赤い影が漂う。
流石に、噂をされている幽霊だけのことはある。
0スタートからアクセスされたマーシャルのハイペースランに、赤いウマ娘は顔色涼しくついていく。
それどころか、並走状態から半バ身程、マーシャルをリード。
そのまま、第3コーナーへ。半バ身分のリードを使って、赤いウマ娘はアウトコースからインコースへと滑り込み、理想ラインへと乗る。マーシャルはコーナーワークでのイニシアチヴと取られた形になる。
だが、マーシャルは依然として冷静だった。
インコース側の埒を舐めるように駆け抜ける理想ライン。それはあくまで"理想"にしか過ぎない。
"理想”であっても、それが"正解"ではない。並み居る強豪たちを相手に渡り歩いてきたマーシャルにとって、理想ラインを奪われることはさして大きな問題では無かった。
それよりも、自分のペースを保ち、冷静で居続ける事。そちらの方が、遥かに大切な事だと言うことを、マーシャルは知っているのだ。
理想ラインを奪われたから何だ。だったら、それ以外のラインに乗って勝ちに行けばいい。
ここは、この勝負は、
むしろセオリーに則らず、すこーしネジの吹っ飛んだ、イカれた連中が跋扈し、勝利を搔っ攫っていくような、狂った世界なのだ。
そんな狂った世界の住人の一人が――レッドマーシャルなのだ。
第3コーナーからアクセスされた、第4コーナー。
マーシャルの視界、赤いウマ娘は十分に射程圏内。
コーナー出口が見えて、そしてマーシャルは横半バ身程、アウトサイドに出る。赤いウマ娘を、仕留める準備だ。
そして、肺へ一気に酸素を叩き込む。
吸った息を全身に巡らせる。
血液が沸騰する感覚を覚える。
心臓が高鳴りを鳴らす。
視界は前方を中心に狭くなる。
耳が僅かに聞こえにくくなる。
そして――
-7.000-
マーシャルの動きが、明らかに変わる。
さぁ、後は、持てるものの全てを出し切り、敵を仕留めるのみ……。
そのマーシャルの変化を見て、赤いウマ娘は、くすりと笑った。
-7.000-
「!?」
マーシャルの前を僅かに先行する赤いウマ娘の動きも変わる。
その姿勢、リズム。自分のスパート体勢と似た何かを感じる。
彼女は思い出す。勝負前、ライバルの一人であるオオシンハリヤーから直接聞いた証言。
――あいつ、君と同じあの限定スパートが使えるんだ。
少しだけ、弱ったなと思う。彼女の限定スパートは、必殺技でも何でもない。他のライバルと比べ、著しく劣った肺の機能をカバーするための戦術なのだ。
それを駆使して、彼女はやっと重賞という世界でライバルたちと対等に渡り合えているのだ。
つまりは、それを帳消しにされるような事態が起こってしまっては、彼女に勝ち目は無くなっていく。
「そんなの……ずるいや……」
冷静さを保っていたマーシャルの心に、僅かな暗雲。
だがもう、引き返すことはできない。
二人は既に、狂気の世界に踏み込んでしまったのだから――
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
-閑話-
とある日の、トレセン学園のお昼時間。
今日のマーシャルの昼食の量は、いつもより少な目。丼三つで御馳走様。
仲間たちが具合でも悪いのかと訊ねても、マーシャルは首を横に振って、一人になれるような場所を求めて、ふらりとどこかへ行ってしまう。
二階の廊下へ差し込む日の光が、少し鬱陶しく感じる。今は、こんなさんさん照りな気分じゃないのだ。
午前中に帰ってきた、中間テストの結果。……マーシャルにとっては、あまり良いものと呼べる点数では無かった。
最近、ようやくレースでの調子が出て来たと思ったら、次は勉強がなおざりか。
以前は、クラスの首位付近に順位を置くくらいには勉強も頑張れていた筈なのに。
それは、レースが勝てない分、せめて勉強だけでもという、それなりの原動力があったからだろう。
じゃあ、レースで勝てたら勉強はいらない? そんなの、文武両道を掲げるこの学園に対して誠実じゃない。それに、勉強は何より自分の将来の為にも軽視すべきことではないのだ。
ちゃんとわかっている。ちゃんとわかっている筈なのに……。
レースや練習が忙しくなって、机に向かう時間がいつの間にか減っていたのか。
文武両道とは、むつかしいものだな、と思い知らされる。
悶々とした心を抱え、彷徨った先。トレーナー室の近くだ。
彼女のトレーナーは、昼時になると、碌に食事もせずに近くのコンビニに行ってヤニ補給を行うので、この時間は大抵部屋には居ない。
しかし、彼はトレーナー室の鍵を掛けないものだから、いつでも入ることができるのだ。
今日のお昼はここで落ち着こう、とマーシャルの爪先がそこへ向かった時。
"You know where you are? You’re in the jungle baby, you’re gonna die!"
かなり癖のある声がトレーナー室の壁を突き抜けて、マーシャルの耳に飛び込んでくる。
何事か、トレーナー室の扉を開けると、部屋に置かれたオーディオから、激しいアメリカン・ハードロックの波。
奥には、顔に音楽雑誌を被せ、片足を机の上に置き、デスクチェアに深く掛ける大城の姿があった。
「トレーナーさん?」
「……んぁ?」
彼はハードロックの波の中から、マーシャルの声を拾い、雑誌を机の上に置く。
「よォ、どうしたよお前」
気怠い声の彼がそう問いかける。いつもより、元気がなさそうに感じた。
「私のセリフですよ! こんなおっきな音出して、外まで聞こえてましたよ! 一体どうしちゃったんですか!?」
大城はもう一度深くデスクチェアに掛けると、気の抜けた声で言う。
「しょーがねーだろ。こちとら気分が下がってんだよ。ったくやってらんねぇよクソが」
「……」
大城がレスポンスのないマーシャルを見ると、彼女は少し、意外そうな顔をしていた。
「……なんだよ」
「いえ、トレーナーさんでも気分が落ち込むことってあるんですね」
「お前俺を何だと思ってんだ?」
マーシャルはくすりと笑いながら、ごめんなさいと言って、後ろ手を組みながらデスクの前へ。
「何があったか当ててあげましょうか? 煙草、エアグルーヴ先輩に没収されちゃったんでしょ?」
「ライター、携帯灰皿、加熱式、諸々一式全部持ってかれたよ。それだけじゃあねぇ、車は駐禁切られるわ、本職と間違われて職質受けるわ、URAに呼び出されて詰問されるわ……まぁ、身に覚えのある事なんだが」
「みんな自分が悪いんじゃないですか」
「結果気分下がってることにゃ代わりねーんだよ。だからこいつでこんなシケた気分吹き飛ばしちまおうと思ってな」
そう言って、部屋の隅に置かれたオーディオに目を向ける。
さっきの曲が終わって、次の曲が始まる。また荒々しく攻撃的なハードコアナンバーだ。
「そういうことなんですね。なんか、トレーナーさんらしくて良いですね。でも、音は少し絞らないと、また会長さんたちに叱られて気分落ちちゃいますよ」
そう言うとマーシャルはオーディオの前へ。MASTERと書かれたノブを反時計の方向へ。
「これ、アメリカのバンドなんですか?」とマーシャルが訊く。
「ガンズ・アンド・ローゼズだよ。知らねぇのかお前」と大城。
「知りませんよぅ」とマーシャルは返す。幾度となくやったやり取りだ。
ボリュームを絞られた大城は、物足り無さを補うように、デスクの横のスタンドに放置されたエレキギターを手に取る。バーボン・バーストカラーのレスポール・スタンダードだ。
アンプには繋がず、ピックも持たず、指で適当なコードを押さえ、そして指板上のペンタトニックスケールとブルーノートを拾って即興のフレーズを紡いでいく。一通り指を動かした後に、70年代のフレーズだな、と自分で思う。
ギターから顔を上げると、そこにはマーシャルの顔。ぐっとギターを見入るようにその場に佇んでいた。
「よくそんなに指が早く動きますよね」と言った。
「昔の頃の方がもっと早く動いたよ。それこそ、ランディやエディに引けを取らねぇくらいにはな。一時はHR/HMみたいな激しいのに傾倒してた頃もあってな。ほら、RAINBOWとかホワイトスネイクとか流行ったろ」
「わかりませんよぅ……でも、ギターが難しそうなのは何となくわかりますけど」
「まぁ、ラクじゃねぇわな。本気で突き詰めようなら、部屋に籠って8時間は練習サ……んで、そういやお前結局なにしに来たんだ?」
「へ?」
マーシャルはふと顔を上げる。一人になりたかったから、誰も居ない筈のトレーナー室に忍び込もうとしに来た、なんて面と向かって言えるものか。
「ええっと、その……」
提出物がある訳でもない、ミーティングをしに来たわけでもない。マーシャルは少し、しどろもどろ。
部屋が煩かったから、と言っても、本当にそれだけか? と返されれば終わりだ。
「ま、言いたかねぇならそれでもいいさ。お前は自分の好きなところに居ればいい。出て行きたきゃ、それも好きにすればいい。もう煩くはしねぇさ」
大城はレスポールを抱え、再び深く、デスクチェアに凭れる。
「トレーナーさんって、そう言うところ、深くは訊かないんですね」
「理由がなけりゃ居ちゃダメだなんて言われたら窮屈だろ。理由が無くても居たい場所がある。理由が無くても去りたい場所だってのもある。俺たちゃキカイじゃねぇんだよ。リクツから外れたことができるから、人生は楽しいのさ。覚えとけよ若ぇの。自分の居場所ってのは一か所だけじゃないんだぜ。その時々で変わったっていい。今の自分が納得できる場所があるのなら、そこを居場所にしてしまえばいい。どこだっていいんだぜ。例えば便所の中とかな」
マーシャルは暫く押し黙った音、ゆっくりとソファに座る。
「じゃあ、今の私の居場所はここにします」と言った。「どーぞお好きに」と大城は言う。
「私もちょっと、トレーナーさんと同じで、気分が落ち込んでますから……」
「……太っ「違います!! いや違わないけど……兎に角、今はそういう落ち込みじゃないんですっ!」
大城は頬を膨らますマーシャルにひとしきり笑うと、ギターを持ったまま、席を立つ。
「じゃあ落ち込みモン同士、景気よくギター・セッションとでも行こうじゃねぇの」
「え、私ギターなんか弾けませんよ」
「すぐ弾けるカンタンなフレーズだってあるのさ」
そう言うと、大城は部屋の隅のハードケースを開けると、赤い"PRS CUSTOM24"を取り出し、マーシャルへ。
「ほら、SEじゃなくてホンモンだぜ」
「なんか高そうなギターですね……」
「お前にやったピアスよりたけぇぞ」
「なんでそんなもの学園に置いてるんですか……鍵も掛けないし」
「こまけぇこた気にすんな。グチグチ言ってるとロックンローラーになんかなれねぇぞ。まぁグチグチ言ってるアホもいるにはいるが」
そして、小型アンプをマーシャルへ。"Marshall"と銘打たれたそれを、マーシャルは少し気に入っている。
大城は"Hughes&Kettner"の小型アンプを。チャンネルはリードへ。
互いに煩くない程度の音量に設定したところで、大城とマーシャルは向かい合う姿。
ギターの構え方、ピックの握り方を軽く教わった後に、いざトライ。
挑戦する曲はディープ・パープルの"Smoke On The Water"世界的に有名なリフだ。
マーシャルはギターのネックをグリップし、弦を押さえる。「これで合ってますか?」と訊くと、大城が「いいや、こっちだな」とマーシャルの小さな指を摘まんで正しいフレットの位置まで動かす。
「よおし、俺に続いてやってみろ」と大城。ジャッ、ジャッ、ジャーンと馴染み深いフレーズを。
続いてマーシャル。大城に倣って弦を押さえ、ピックを振る。しかし、ピッキングが不十分で音はブチブチ。一つ音が鳴っても、次の弦までの指移動が全く思った通りにならない。
「え……っと。あれ、あれ? 指が、うまく……」
苦戦するマーシャル。その姿に大城の顔は綻ぶ。
「はっはっは、ヘッタクソだなお前」
「ひどい! 初めてやってるんですよ!」
「わりぃわりぃ。でも、いいさ。若いヤツのロックなんて、下手でいいんだよ。ギターのコツは感情を吐き出す事からさ。技術なんざ後からでいいんだよ」
大城の言葉を呑んで、もう一度、鬱屈な今の気分を吹き飛ばすように。
もう一度ダメなら、もう一回、もう一回。
そして、テンポもぐちゃぐちゃで、アンプのノイズまみれだけども、彼女は一応、そのリフを引きとおした。
アンプのスピーカーから聞こえてきた、自分がかき鳴らした、ディストーション・サウンド。普段なら不快感すら覚えるであろうその汚い音に、彼女は今、魅せられていた。
もう一度、もう一度弾いてみる。完璧には程遠いが、それでも、夢中で――。
彼女のその姿を見た大城は、満足そうに、ソファの下に隠してあった煙草を一本、火をつけずに咥えた。
マーシャルはふと、顔を上げる。時計を見ると、もうすぐチャイムが鳴りそうな時間だと言うことに気が付く。
「大変! 次移動教室なのに!」
「いいじゃねぇか、サボっちまえ。続きやろうぜ。これも音楽の授業さ」
「またそういうことを!……でも、ありがとうございました。ギターでちょっと、気分が晴れたかも。まぁ、本質的な部分は何も解決してないんですけどね」
「それでいいのさ。昔のミュージシャンは言っていた。"ロックは何も解決してくれやしない。悩んだまま俺たちを躍らせるんだ"ってな。まったくその通りだと思うよ。迷いだらけ、悩みだらけで、そんでもって何も解決しないもんだらけの世の中だからこそ、俺達にはロックが必要なんだよ。悩みながらも、転がる石であり続けなきゃダメなのさ。だから悩める時こそロックに行け。もしかしたら、何かが見えるかもしれない。そう信じてな」
マーシャルはこくりと明るい表情で頷くと、ギターを大城へと返し、小走りでトレーナー室を後にしていった。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
-閑話休題-
-6.594-
-6.594-
さぁ、もう後戻りはできない。
とりあえず、考え続けろ、走り続けろ。
赤いウマ娘とマーシャルのトップスピードとほぼ互角。故に、半バ身程開いた差はスパートを以てしても埋まらない。
今までにないタイプの相手だ。どんな相手にでも、唯一対抗できたのがこのスパートであった筈なのに。それがまるで役に立たない。
冷静さを取り戻せ。突破口は必ずある筈だ。俯瞰して相手をよく見て……。
相手をよく見るってったって、その相手は幽霊だ。実は空中浮遊だってできる相手なのかもしれないのだ。
そんな相手に、どう立ち向かえばいい……。
-5.642-
-5.642
今更そんなことを考えたところでどうなる。もう、やるしかないのだ。
身体の限界を絞り尽くしてでも、走り抜けるしかないのだ。
目を背けるな、相手を、例え幽霊だろうと、しっかり見て、何が最善かを考え尽くせ。
-4.649-
-4.649-
赤いウマ娘の背中。背丈はマーシャルと変わらず、小柄で身軽で、背中から余裕綽綽な表情が見えてくるようだった。
そんな背中を見せつけられて、少し癪に障る感覚を覚えるが、同時にこちらへ激を飛ばしているようにも感じるのは何故だろうか。
そういえば、いたな。とマーシャルは思う。
こんな風に、おちゃらけている様で、わたしの背中を叩いてくれてた人がいたなと。
幽霊の背中。まるで子供の様に無邪気に、芝の上を跳ね続けるその背中から、彼女の声が聞こえてくるようだった。
――ヘイ、ヘイ、ヘイ。そんなシケた面してどうしたよ。
この俺サマと走ってんだぜ? 辛気臭いのは無しに決まってんだろ。
考えてんのか? 悩んでんのか? でも、ブルージーな気分は無しだぜ。
悩めるからこそ、激しく踊り続けなきゃダメなんだよ。
その為の劇薬は何だ? 気分をブチ上げる為の、ニトログリセリンは。
甘ったるいラヴ・ソングや、気の抜けたレゲェなんて聞いてられねぇ。
恋人の運転するミニクーパーで死んだマーク・ボランのように、俺たちはブギーしていなきゃダメなんだよ。
いつだってそうだ。俺たちは、転がる石なんだ。
さぁステップを踏め、シャウトし続けろ、印象的なフックを刻め。そうさ、それでいいのさ。
ビート、ビート、ビート・ミュージック
ロック、ロック、ロックンロール!
激動の時代を潜り抜けた70's、シーンに革命が起こり混沌化した80's、現代のモダン・ミュージックの礎を築いた90's、そのDNAを体に刻み込むのさ。
気分が落ち着かないって? それでいいじゃねぇか。リラックスする必要なんかない。ずっと緊張していればいい。ピート・タウンゼントだってそう言っていた筈だ。
いくらてめぇが悩もうが、もう前に進むしかねぇんだよな。
心配すんな、ロックは死にはしないさ。
さぁ、忘れたとは言わせねぇぞ。俺たちの合言葉は――
マーシャルの口端が、僅かに吊り上がる。忘れるわけないじゃないですか、と声にならない声で呟く。
そう、合言葉は
-Let's Rock-
-Let's Rock-
――baby
――baby
さぁ、恐れることは何もない。
その言葉が胸にあれば、なんだってできるのさ。幽霊退治でも、何でもな。
マーシャルの走りが、また少し変わる。
温存無しの、120%スプリントモード――早い話が、昔ながらの根性勝負に持ち込んだのだ。
-3.731-
-3.731-
7秒の使い方ならば、誰よりも上手くこなせる自負が彼女にはあるのだ。
小細工などいらない。
トップスピードは、僅かに赤いウマ娘を上回る。そして、膠着したままだった半バ身の差が、徐々に動き出す。
-2.495-
-2.495-
二つの赤い影が、サイド・バイ・サイド。
ようやく、赤いウマ娘の横顔が見えた。一瞬だけ、彼女と目が合った。
マーシャルは、心で呟いた。
――トレーナーさん。私、新しい居場所が見つかったんですよ。
と。
-1.959-
-1.959-
-1.191-
-1.191-
-0.777-
-0.777-
-0.069-
-0.069-
-0.000-
-0.000-