租庸調の庸   作:山田甲八

1 / 12
この物語は架空のものであり、登場する人物、団体、場所、施設名等の固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。



一 出向

「東京国税局からまいりました楠田隆と申します。どうぞよろしくお願い致します」

 楠田は両手に持った辞令を椅子から立ち上がった南条潤之助に向け、そう言うと、深々と一礼した。

「南条です。どうぞよろしく」

 南条はそう言って軽く頭を下げた。

「楠田さんの席は大佐の隣になります。これで室内は一巡しました。組織としては官邸にセンターがあるのですが、そちらの方はまあ、あいさつしないでもいいと思います。顔を合わせることもないでしょうし」

 楠田をここまで案内してきた総務班長が言った。今日は七月十日、国税職員の定期異動の日だ。国家公務員の人事異動は随時行われるが、定期的に行われる定期異動というものもある。定期異動の日というのは特に明確なルールで決まっているわけではない。それでも各省庁とも計算の便を考えてか、一日、特に四月一日、七月一日、十月一日、一月一日が多い。ただ、一般職の国家公務員として六万人という最大の人員を誇る国税職員の定期異動日は毎年七月十日と決まっている。

 国税庁は七月一日から六月三十日までの「事務年度」と呼ばれる、暦年でも会計年度でもない独自の年次管理を行っている。所得税の確定申告の受付が毎年二月十六日から三月十五日までの期間で行われるため暦年や会計年度では管理しづらいからである。国会との関係もある。例年、六月中には通常国会が会期末を迎える。国会が終わると、財務省の幹部の方から順番に人事が決まっていき、ノンキャリアと呼ばれる現場の国税職員の定期異動日七月十日を迎えるのである。四月に採用された新人は三ヶ月の研修を経て、六月の末頃に全国の税務署に配属される。

 午前中に古巣の京橋税務署で出向の辞令交付を受けた楠田は、途中で昼食を取り、約束の午後一時に遅れないようにここ永田町の内閣府庁舎にやってきた。一階のロビーで内閣情報調査室経済部総務班長の出迎えを受けた楠田は、午後一時きっかりに内閣情報官から辞令交付を受け、そのまま総務班長の先導で内閣情報調査室各部をあいさつして回り、最後に自分の座るべき席にやってきたのだった。

「今、南条さんのことを大佐と呼びましたけど、もちろん大佐ではありません。本当は一佐です。自衛隊では大中小という呼び方はしませんから」と総務班長。

「南条さん自衛官でいらっしゃるんですか?」と楠田。

「ああ。陸上自衛隊から出向してきてもう八年になるよ。自衛隊から出向してるのは、今は俺だけだ」と南条。

 内閣情報調査室は、プロパーの職員もいるがその多くは出向者だ。諜報機関というその性格上、警察出身者が多く、事実上の室長である内閣情報官は歴代警察庁キャリアが務めていて、上りポストの一つといってもあながち的外れではない。その他にも外務省や総務省、厚生労働省、農林水産省といった省庁の出身者も少なからずいて、各部にばらけていた。

「では仕事の説明は大佐から受けてください。先ほども申し上げましたが、楠田さんの前任者の方はまったく別の仕事をしていましたので。では、大佐、よろしくお願い致します」と総務班長。

「了解」

 南条はいかにも軍人風にそう言うと総務班長は「では」と言って二人の席が並んでいる空間から出て行った。

 楠田と南条がその空間に取り残された。それで改めて楠田は周囲を見回してみた。小さい部屋に二つの机が横並びにされているというのが第一印象だったがそれが錯覚であったことはすぐに分かった。大きな部屋が背の高いキャビネをパーティション代わりに仕切られているだけなのだ。キャビネの上の方には隙間があり、耳をすませなくても向こうの物音が聞こえてくる。一番窓際のキャビネは一段背が低く、その開いた空間にテレビが置かれていて、そのテレビはつけっぱなしになっていた。恐らく二十四時間ぶっ通しのニュースチャンネルが流されているのだろうと画面を見た楠田は思った。

「国税局から来たって言ってたな」

 楠田が黙って周囲をキョロキョロしていると南条がそう言って自分の椅子にデンと腰かけた。楠田は軍人の荒っぽい口調にハッとし、少し改まった。

「あっ、はい。東京国税局から出向してきました。でも国税局本局というよりも僕はずっと税務署勤めですので」と楠田

「何か違いがあるのか?」と南条。

「税務署は地方支分部局に過ぎませんから。ですからまあ、本局勤めのエリートではないと……」そこで南条がさえぎって、「どうせノンキャリなんだろ?ノンキャリは、所詮ノンキャリ。エリートもへったくれもないよ」

 馬鹿にしたような口調だったが楠田は特に腹を立てなかった。

「もちろんです。キャリアだったらそもそも税務署勤めなんかしませんし。まあ、署長にはなるのかもしれませんけど。キャリアは。……ところで南条さん?」と楠田。

「大佐って呼んでくれよ。ここじゃみんなにそう呼ばれてるんだ。自衛隊じゃそんな呼ばれ方したことなかったからなあ。まあ気持ちのいいもんだよ」

「はあ」

「で、なんだ?」

「あっ、はい。で、仕事のことなんですけど、その~、僕はどういうことをすればいいのでしょうか?」

「どういうことって?」

「仕事ですよ、仕事」

「ああ、仕事ね」

「僕の前任は別の仕事をしていたようで、引継ぎを受けることができないんです。さっきも総務班長さんが大佐から説明を受けるようにって言ってましたけど」

 国税庁には内閣情報調査室にノンキャリア用の出向ポストが一つ準備されている。そしてその出向ポストは一番近い東京国税局に割り当てられている。東京国税局はめぼしい人材を一人あてがい、その人材は二年の奉公を終えると国税局に帰っていく。そういう約束になっている。

「ああそうだな」と大佐。「君の前任は研究会の仕切りみたいなことをやってたなあ。でも君は何も心配することはないよ。ここでの君の仕事はない」

「はあ?」

「まあ、最初だから慣れないのは仕方ないけど、ハッキリ言ってここでの仕事はない。仕事がないのが仕事なんだ」

 難しいのか簡単なのか分からないロジックだ。禅問答のようだ。

「スミマセン。どういうことかよく分からないんですけど」と楠田。

「そうだなあ。働かないアリの話は知ってるかな?」と大佐。

「ああ、はい。それなら聞いたことがあります。詳しくは知りませんけど、アメリカかどこかの研究者が働きアリの中に相当数の働かないアリがいることを発見したとか、そういうことだったと記憶しています」

「そうだ。だから俺達はその働かないアリということなんだよ。それで、君の記憶の中にも同じものがあると思うけど、その働かないアリというのは緊急事態が発生した時のために力を温存しているんだな。そしていざ、そういう事態に陥った時には働き出して危機を救うというわけだ」

「緊急事態、…ですか?」

「まあ、大規模災害とか他国からの攻撃とかね。まさか怪獣の出現や宇宙からの侵略はないだろうけど」

「実際にそういうことはあったんですか?」

「君も知ってのとおり地震や原子力災害はあったよ。しかし、ここ数年は、もちろん自然災害はあるけど耐性ができたのか、俺が忙しくなることはない」

 大佐はそう言うと、それまで読んでいた雑誌を机の上に雑然と置いていた鞄の中にしまった。どこかに出かけるようだ。クールビズなので上着はない。

 二人の机は窓側が大佐、通路側が楠田と横並びに置いてあるのだが、机の上は週刊誌や新聞が積み重ねられていて、整頓はされていない。

「君。今日は何か用はあるのかな?あいさつ回りとか、書類を書くとか」と大佐。

「もちろん通勤届を書いたりとかはありますけど」と少し考えて楠田。

「別に急ぎではないな?」

「はい」

「では、一緒にあいさつ回りに行こう。すぐに出られるかな?」

 大佐がそう言って立ち上がったので楠田も勢いで立ち上がり、「はい」と言った。

 鞄を手にした大佐はそのままキャビネで仕切られた空間を出て総務班長の席に向かい、不意を突かれた楠田は慌てて辞令を鞄の中にしまい、後を追った。楠田が大佐に追いついたときには、大佐は総務班長に話しかけていた。何か、「直帰する」というようなことを言ったようで、総務班長が「お気をつけて」と言い、大佐が部屋から出て行くと楠田は後を追い、エレベーターホールの前で追いついた。

「あいさつ回りってどこに行くんですか?」

 楠田がそう言うとエレベーターの表示を眺めていた大佐は楠田の方を向いた。

「楠田君とか言ったかな?」

「はい」

「いくつだ?」

「三十一です」

「そうか。俺とは丁度二十年離れているな」

 大佐がそう言うとエレベーターが到着したので、待っていた数人と乗り込み、楠田がボタンの前に立って一階のボタンを押した。

 エレベーターが一階に到着し、かごの中から人が吐き出されると、一番最後にかごを降りた楠田は一番最初に降りた大佐の後を追った。大佐は後ろを振り返って楠田を確認することもなく、一階のホールを真っ直ぐに進んで正面玄関を出た。衛視が敬礼する。

 正面玄関を数メートル歩いたところでようやく大佐は後ろを振り返り、楠田を目視した。

「さてと、どこに行くのかという質問だったかな?」

 そう言う大佐に楠田は「はあ」と答えた。

「別にどこにも行かないよ。今のはエスケープするための口実さ」

「はあ?」

「また、『はあ?』か。まあここでは『はあ?』と言ってしかるべき場面だね。さっきも言ったけど、ここでは特に仕事はないんだ。だから裏を返せばとても暇ということになってしまう。それを承知で一日中パソコン画面に向かいゲームに没頭する人もいる。まあ、君のポストは元々病気の人のためのものだからそれはそれでよかったのだけど、君は使えそうだし、何か仕事は考えないといけないね。今日は特に仕事はないから、あいさつ回りをネタに早引けするということになるけど。まあ、明日、昼ご飯でも食べながら今後のことを話し合おう。じゃあ、俺は地下鉄だから」と大佐は言い、地下鉄の入口に消えて行こうとするところで振り返って、「ああ、君」と言って、立ち止まったまま身体を楠田の方に向けた。

「一つ言い忘れたけど、緊急事態にはすぐに対応しなければならない。その緊張感は常に持っていなければならない。携帯に出はぐることはくれぐれもしないでくれよ」

 大佐はそこまで言うと「じゃあ」と言って右手を挙げ、地下鉄の入口の中へと消えていった。

 

 大佐は地下鉄丸ノ内線を荻窪まで乗り、JR中央線に乗り換えると七つ目の国分寺で降りた。ここから自宅まではいつもはバスなのだが今日は時間があるので歩いてみる。

 普段はじっくり見ることのない街の風景。いつもは気が付かないが街は生きている。そして誰も気が付かないうちに少しずつ変化しているのだ。大佐は自分の周りに高齢者用の住宅が多く立ち並んでいることに気付いた。以前はなかった風景だ。「介護付き老人ホーム」、「グループホーム」、「小規模多機能」、「デーサービス」、そんな看板がやたらと目についた。それは大佐の抱いている問題意識の裏返しでもあった。

 暑い中を十五分ほど歩き、自宅に到着した。家の前には「訪問介護サービス」という表示が側面に入った軽自動車が止まっていた。

 大佐が玄関を開け、「ただいま~」と言うと奥の方から「おかえりなさ~い」という中年女性の声がした。そのまま奥の方に進むと、和室の中にベッドが置いてあり、ベッドの上では大佐の母が上半身を起こしてテレビを見ていた。横には六十前後の女性ヘルパーが座っていて、その先には洋式の簡易トイレも見える。

 大佐がそのまま和室に入ると母はようやく息子の帰宅に気が付いたのか、顔をあげた。大佐は母と目を合わせ、もう一度「ただいま」と言った。

 母はそれには応えず、テレビに視線を戻した。大佐は小さなため息をついてヘルパーの方を向いた。

「おかえりなさい。今日は早いですね」とヘルパー。

「ええ。出先から直接、帰って来ましたから。それにしても早いですけど、今は国会も閉会中なので暇なんですよ」と大佐。

 国会が閉会中だから暇だというのは嘘だ。

「今日はもういいですからおかえりになっていただいて結構ですよ。後は俺がやっときますから」と大佐。

「いいえ。五時までの約束ですから」とヘルパー。

「そんなのいいじゃないですか。時間までやったことにすれば。どこかで一服してきてくださいよ。もちろんこのことは秘密にしておきますから」

「そうはいきませんよ。どこに耳があって目があるか分かりませんからね」

 ヘルパーは少し笑ってそう言うと席を立ち、和室から出て行った。家事の続きをやるようだ。大佐はその後姿を見送ると、ベッドの脇まで移動して、さっきまでヘルパーが座っていた椅子に腰掛け、母と向き合った。母の視線がもう一度テレビから大佐に移動した。

「おかえり」と母。

「ただいま」と大佐。

「今日は随分帰りが早いようだねえ」と母。時計が分かるというよりも、日が高く、ヘルパーがいる時間に帰宅したことに違和感を覚えているのだと大佐は理解した。

「出先から直接帰宅したからね」

 大佐はさっきヘルパーに言ったことを復唱した。

「あんた自衛隊に勤めてるんだっけ?」と母。

「今は内閣官房に出向してるよ」と大佐。

「内閣官房…随分、難しいところにいるんだねえ。で、あんたいくつになった?」

「五十一だよ」

「あたしはいくつになったのかねえ?いくら言われても覚えられないや」

「俺はお母さんが三十六のときの子どもだからお母さんは今年、八十七だよ」

「そんなになるかい。あたしも子どもの頃は病弱でこんなに長生きするとは思わなかったけどね。で、あんたお嫁さんはどうした?」

「死んだよ」

「死んだ?」

「そう。もう何年も前にね」

 これも嘘だ。本当は死んでなどいない。母の介護に参ってしまい、心を病んでしまったのでやむなく別れたのだ。未練はあったがあのままこの家にいたら本当に死んでしまっていたかもしれない。別れてからは直接、連絡を取ってはいないが、息子経由で間接的に消息が分かることはある。元気ではいるようだ。母には何度も説明したが、理解してもらえないのでもう何年も前から死んだことにしている。

「そうだったかい。それももう何度も聞いてるんだろうね」

「そうだね」

「息子がいたよね?」

「京一だよね」

「一人息子だったよね?」

「そうだよ」

「京ちゃんは何年生になったの?」

「大学三年生だよ」

「大学三年生っていうことはもう二十歳過ぎたかね?」

「二十一歳だよ」

「まあ~、お祝いも何もあげてない」

「お祝いはもらってるよ」

「そうだったかね~。で、どこの大学に行ってるの?」

「ブラジルの大学に行ってるよ」

「ブラジル?」

「そう。留学中だよ」

「なんでまたブラジルなんかに?」

「京一は動物が好きでさ、特に野生生物とかが大好きでその研究をやりたかったんだよ」

「別にブラジルに行くことなんかなかったんじゃないの?」

「俺もそう思ったけどさ、高校の時にはもうポルトガル語の勉強を始めて、留学資金を貯めるためにバイトも始めて、その本気さに俺も負けたんだよ」

「そうだったかい。初めて聞いたよ。で、あんたは自衛隊に勤めてるんだっけ?」

「そうだけど、今は内閣官房に出向してるよ」

「内閣官房…随分、難しいところにいるんだねえ。で、あんたいくつになったの?」

「五十一だよ」

「あたしはいくつになったのかねえ?」

「俺はお母さんが三十六のときの子どもだから今年、八十七だよ」

「そんなになるかい。で、あんたお嫁さんはどうしたかねえ?」

「死んだよ」

「死んだ?」

「そう。もう何年も前にね」

「そうだったかい。…息子はどうした?京ちゃんっていうのがいたよね」

「京一は大学三年生だよ」

「まあ~、お祝いも何もあげてない」

「お祝いはもらってるよ」

「そうだったかね~。で、どこの大学に行ってるの?もう何べんも聞いてるかもしれないけど」

「京一はブラジルの大学に行ってるよ」

「ブラジル?なんでまたそんなところに」

「京一は動物が好きでさ、野生生物とかが好きでその研究をやりたくて、高校のときからポルトガル語の勉強を始めて、留学資金を貯めるためにバイトも始めて、奴は本気だったんだよ」

「よく反対しなかったねえ」

「したけど最後は奴の熱意に負けたのさ」

「そうだったかい。で、あんたは自衛隊に勤めてるんだっけ?」

「今は内閣官房に出向してるよ」

 そんな会話を親子で交わす間に日は暮れていき、ヘルパーは帰っていった。

 

 大佐を地下鉄の入口で見送った楠田はしばらく立ち止まり、この後どうしようかと考えたが、そこに突っ立っていても通行の邪魔になるだけなので国会記者会館から衆議院別館の方に向けて歩き出した。国会議事堂はちょうどその背中が最高地点なのでどちらの方向に向かうにせよ坂を下らなくてはならない。

 楠田は地下鉄丸ノ内線を利用するので本当ならば大佐がくぐった入口から駅に入ってしまう方が近道なのであるが、駅のホームでバッタリ大佐と再度顔を合わせるかもしれず、それも何か気まずい感じがして国会議事堂前の駅は避けたかった。しかし、七月のうだるような暑さはいかんともしがたく、少し歩いた衆議院第二別館前の入口から駅に入った。歩みを遅くすれば出くわすこともないだろう。そう考えてゆっくりと丸ノ内線のホームを目指し、丸ノ内線を四ツ谷で降りて、JR中央線の特別快速に乗り換えた。

 楠田はこれからどうしようかと考えていた。時計は午後二時前を指している。もしやるべきことがあるとするならば保育園に長女を迎えに行くことだが、早くても五時頃に迎えに行けば十分だ。そもそも自分の自由になる時間が突然降って湧いてくること自体が、経験に乏しかった。家に帰れば溜まっている家事をやることになるだろう。しかしせっかくの神からのギフトをそんなことに使ってしまうのはもったいない。

 楠田はそう考えてまずはスマートフォンを取り出し、妻にショートメールを打った。

 

(今日は僕がお迎えに行くからどうぞごゆっくり。既に帰路。)

 

 ほどなく妻から返信が来た。

 

(それはビックリ。いきなり終電で帰宅かと思ったよ。では今日は顔合わせみたいなのをやるので飲んできますね。)

 

 楠田の妻も同じ国税職員だ。ありきたりの職場結婚。国税の職場は、かつては女性の正規採用がないほど男尊女卑が甚だしい職場で、国会で問題にされたこともあったくらいなのだが、女性に門戸を開放してからは女性の進出がすさまじく、男女比がバランスよくなっている。若い男女がこれに反応しないはずはなく、職場結婚はごくありきたりの自然現象となっている。

 妻にとっても今日は定期異動日だ。妻は異動することはなかったが、全職員の三分の一が異動するこの日を境に税務署内の職員の貼り付けも大きく変更される。東京郊外の税務署の個人課税部門に勤務する妻の職場も例外ではなく、今日は新任者を交えての顔合わせが税務署近くの安い居酒屋で開催されるのだろうと楠田は思った。

 結局、楠田はやることを見つけられず、最寄り駅の武蔵小金井でJRを降りると本屋を冷やかし、読み応えのありそうな雑誌を一冊買うと後はショッピングセンターのフードコートで午後五時を待った。

 四時半が過ぎ、待ちきれなくなった楠田は団地行きのバスに乗り、途中で降りて保育園に向かった。目指す保育園はバスを降りてすぐのところにあり、園庭に入ると先に娘がパパを見つけた。

「パパ~」

 叫びながら近寄ってくる娘を楠田はしっかりと抱き上げた。半袖に短パンの娘は汗びっしょりだ。園庭で子ども達を監視している何人かの保育士が五月雨式に「おかえりなさ~い」と声をかけ、楠田は「お世話さまで~す」と言って応じた。

「今日はパパなの?」

 いつも迎えに来るはずのママがパパなので娘が聞いた。

「今日はお仕事が早く終わったからね。じゃあ帰ろうか」

 楠田はそう言って娘を降ろし、娘は園庭で遊ばせたまま園舎に入って、娘の汚れた備え付けのタオルや着替えを新しいものと取り換えた。本当は次の日の支度はその日の朝にしなければならないのだが、前の日にやっておくと次の朝が楽なのだ。荷物を背負うと、園庭で娘と合流し、保育士にサヨナラのあいさつをして二人は保育園を出た。

 保育園から自宅までは徒歩数分の距離だ。そもそも保育園に近いからという理由でこの物件を購入したはずだったのだが、世間はそんなに甘くはなかった、というより楠田も妻も世間知らずだった。保育園入園はどこも激戦で、公立の認可保育園の、しかも三歳児未満のクラスなどは一撃で入れるレベルのものではなかった。近いはずの保育園にすぐに入ることはできず、遠くの無認可園でしばらく耐えながら保活に励んだ。市役所に足しげく通い窮状を訴え、市議会議員に相談し、市長に手紙も書いた。そういう努力が実り、ようやくこの四月からこの保育園に通うことができるようになったのだ。

 娘は三歳を過ぎ、そろそろもう一人が欲しくなる頃で妻もそれは希望している。しかし、あの保育園入園手続きをもう一度やれと言われるとしり込みしてしまう。

 帰宅すると楠田は子守をテレビに任せ、冷蔵庫から肉じゃがの入った鍋を取り出してガス台にかけ、保育園から引き揚げてきた汚れ物を洗濯機に入れて回転させ、風呂を洗った。

 娘は饒舌で保育園での出来事を休む間もなくしゃべりまくっていたが、まだ小さいがゆえに論旨は滅茶苦茶で、楠田はあまり理解できなかった。食事が終わると久し振りに親子で風呂に入り、妻は遅いようだったので風呂からあがるとそのまま横になった。そして娘を寝かしつけている間に楠田自身も眠ってしまっていた。

 

 人の気配を感じて目を覚ますと部屋の中には妻の姿があった。楠田はまどろみながら「おかえり」と言った。

「ただいま。起こしちゃったかな。寝てていいからね」と妻はろれつの回らない口調で言った。楠田が自分のスマホを確認すると妻から何本かメールが届いていた。時間はもうすぐで次の日を迎える。

「随分飲んできたね?」と楠田。

「久し振りだからね」と妻。

 思えば妻は保育園のお迎えがあるので普段の生活ではほとんど酒を飲まないし、職場での付き合いもない。勤務時間が終わると保育園にダッシュしなければならないからだ。そのことで夫婦間がもめることも稀ではない。楠田は酒をたしなむ方ではないのでむしろ自身が保育園の送迎を担いたいと思っているくらいだ。しかし、都心に勤務していて通勤時間の長い楠田にそれはなかなか許されない。結局、保育園の送迎は朝夕を問わず近くの税務署に勤める妻の専担で、楠田はいつもそのことを妻から咎められ、それは楠田にとって最も苦痛なことだった。

「今日は随分早かったんだね。明日から遅くなるのかな?」

 楠田が無言でいると妻が聞いてきた。

「それがまだよく分からないんだけど、あまり忙しくはなさそうなんだ」と楠田。

「またまたあ。予算と国会で連日終電じゃないの?」と妻。

「確かにそういう噂はあったけど、今日の話では特に仕事はないということだったんだよ。だから今日もあいさつ回りに行くって言って出てきて、そのまま直帰できたんだよ」

「仕事がないってどういうことなの?」

「まあ正確には決められた仕事がないってことなのかなあ。僕もよく分からない」

「なるほどね。遊撃隊ってことなのかな。じゃあ保育園のお迎えもお願いできるようになるのかな?」

 酔っぱらっていたはずの妻の目が少し輝いた。妻は仕事大好き人間だ。恐らく楠田よりも妻の方がはるかに仕事に対する情熱を持っているだろう。楠田は起き上がり、妻の買ってきたコンビニのお菓子をつまみながら明日からのことを少し話した。楠田の話を聴きながら妻は、長椅子に横になったかと思うとそのまま眠ってしまった。きっと朝起きたら「歯も磨かず、化粧も落としていない」と騒ぎまくるのだろう。

 さっき娘とうとうとした楠田は眠れそうもなく、妻と娘の寝顔を見ながらこれからのことを色々と考え、コーヒーをごくりと飲んだ。

 新しい仕事は拍子抜けするほど楽そうだが、楠田のように予定調和型のサラリーマンにとってはたとえ楽な方向への予定外だったとしてもそれはそれでストレスだ。

(「実は今日の出来事は幻で、明日になれば激務が待っているのかもしれない」)

 そんなことを考えもしたが、日中の大佐の行動からして、大佐の言ったことはきっと本当のことなのだろうとも思った。

 税務署勤務は実際、そんなに忙しいということはない。もちろんポストや時期によっては忙しいということもある。しかし、それでも毎日終電で家には寝に帰るだけ、週末は週日の疲れを癒すためにただただ寝て過ごすということはない。一方、霞ヶ関の本庁や築地の国税局は、若い楠田にまだその経験はないが、忙しいと聞いている。特に霞ヶ関は、国会や予算の時期ともなれば泊りだって珍しいことではないだろう。楠田は、だから内閣官房もその延長線上にあるものと考えていて、異動の内示から今日までの一週間、妻とはこれからの生活について緊張関係にあった。

 もし、これが事実なら保育園のお迎えだって自分ができるかもしれない。そうすれば娘とももっと触れ合えるし、何よりも仕事大好き人間の妻に大好きな残業をプレゼントすることだってできるだろう。妻と娘がすやすやと眠る姿に楠田はそんなことを考えながら異動第一日目の夜は更けていった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。