それから三年が経過した七月の中旬のある夕方、エミータは一人息子を迎えに行った保育園の園庭で久し振りにフェイスの姿を見つけた。子どもが同じ保育園に通っていることからこれまでにも何度かエミータはフェイスと顔を合わせているが、夕方のお迎えの時間に顔を合わせるのは久し振りだ。
「やあ、久し振り」
黙って手を振るエミータにフェイスが声をかけた。
「お久し振り。珍しいね、フェイスがお迎えだなんて。いつもは奥さんなのに」とエミータ。
「ああ。七月で定期異動があったんだ」とフェイス。
「また異動したの?」
二年前、内閣情報調査室から出向元の国税局に戻るとき、とにかくどんな希望でもかなえるということでフェイスは自宅に一番近い税務署を希望し、それが実現していた。どこにでも好きなところに異動させてもらえるという話はエミータも聞いていて、エミータはてっきりフェイスが海外勤務でも希望するのかと考えていたら、フェイスは子育てを優先したいということで保育園の送迎に一番便利な自宅近辺の税務署を希望したのだ。
「いや、異動したのは僕じゃなくて妻の方さ。妻も、厳密にいうと異動ではないのかもしれない。税務署が変わったわけじゃないからね。この七月から忙しい仕事に変わったのさ。残業のいっぱいある。だから朝も帰りも保育園は僕が対応することになった」
「そうかあ。うらやましいなあ。フェイスみたいな人がいれば私も子育てをあまり気にしないで仕事に取り組めるのになあ」
「お子さん、来年卒園だよね?」
「ああ、うん。フェイスのところはまだまだだよね?」
「下の子が入ってきたからね」
二人でそんな話をしているうちに園庭で遊んでいたそれぞれの子どもが親に気付き、「おかえり~」と大きな声を出して二人に近付いてきた。
次の日の午後、エミータは勤務先の老人介護施設で車椅子を押す、珍しい人を見かけて声をかけた。
「大佐じゃないですか!」とエミータ。
「ああ、エミータか。久し振りだな」と大佐。
しばらくぶりの再会だった。車椅子には年老いた母親が座っている。
「お変わりなさそうですね。お母様も」
「エミータはむしろ若返ったみたいだな」
「お蔭さまで。人手があり余るくらいになりましたからね。今日はお休みですか?」
「大きな声では言えないけど、正確にはサボってるだけだ。実は勤務中だ」
「こんなところでどうしたんですか?って、入居の申し込みですね?」
「いや、見学って言った方が正しいよ。あれから時間が少し経過して、おふくろも要介護二に二階級特進したんだ。施設のキャパもあれ以来劇的に増えているし、そろそろお互いに楽しようと思ってね。介護施設を物色してるってわけだ。エミータはここの施設で働いてたんだ?」
「ホントは隣のR市の施設だったんですけど、最近はこちらの人手が足りなくなってきて、こっちの方がメインになりました」
「人手が足りないって、こんなに人があふれているのに?」
大佐が周囲を見回して言った。周囲にはなるほど被介護の高齢者はもちろんいるが、介護者の方が数の上で優っているようにも見えた。国民徴庸法導入前にはありえなかった光景だ。
「確かに人手は増えましたけど、徴用の人が多くて、やはり現場で指揮するのは社員でないと無理ですから。もちろん人手が増えたことは助かっていますけど。特に夜勤の時とかは」
「てことはエミータ、君は正規の職員になったのか?前は契約社員って言ってたけど」
「いいえ。正社員か?って言われると相変わらず契約社員なんですけど、徴庸法ができるまでは正規と非正規しかいませんでしたけど、徴庸法ができてからは正規と非正規ともう一つ、徴用というカテゴリーができましたからね。ボランティアでもないし、法律どおり義務的に労役を提供する人達。そういう人達は介護のプロでもありませんからどうしても指揮する人が必要で、正規だろうと非正規だろうと、徴用でない人がいわばプロとして指示を出すという体制になってます」
「なるほどね。軍隊みたいだな。君達は将校ってわけだ。で徴用されてきた連中が兵卒ってわけだな?」
「軍隊のことはよく分かりませんけど、きっとそうなんだろうと思います。でも皆さん、本当によくやってくれますよ」
「エミータは正規の職員にはなれないのかな?これだけ介護ビジネスが活況を呈してきてるんだし、エミータももはやベテランの領域なんだろうからそういう話もあるだろ?」
「確かにありますけど、お断りしています。やっぱりマスコミに戻りたいですから。ジャーナリストに未練がありますから」
エミータにそう言われて大佐はランチミーティングのときの話を思い出した。
「あの時のことはまだ記事にしていないのかな?」
「あの時のこと?」
「Kチームのことだよ」
「ああ。フェイスが国税局に戻ってからKチームは自然に消滅してしまいましたね」
「でもまだ解散はしてないはずだぞ。解散式もやっていないし」
「そうですね。でもKチームのことは記事にはしていません。書きたいことはいっぱいありますけど、大佐に『マルクスに会いに行くまでは待て』って言われましたから」
「覚えているんだ。その約束は守っているのか」
「はい」
「フェイスとかとは会うのかな?」
「コングはご無沙汰ですけど、フェイスとは保育園でたまに。昨日もお迎えの時に会いました。なんでも奥様が忙しい仕事に異動して、朝も夕方も保育園はフェイスの担当になったそうです。うらやましいです」
「元々彼は家庭優先だったからな。兼業主夫っていったところかな」
「兼業主夫?」
「専業主婦のカウンター概念さ。兼業農家という言葉もあるだろ?それで、フェイスとはしばらく保育園付き合いかな?」
「そうですね。フェイスも下のお子さんができましたし、小学校もうちの子と同じになるでしょうから、しばらくは地元でのお付き合いになると思います。大佐は?」
「最近はフェイスともコングともご無沙汰だよ。フェイスは内調の二年の奉公が終わって、この辺の近くの税務署勤務に戻ったし、家は近いはずなんだけど、世間は狭いと思っていてもやっぱり案外広いのかもしれない。彼も最近は都会の空気を吸ってないんじゃないかなあ」
「じゃあ、久し振りにレユニオンでもやりますか?」
「同窓会フェスティバルか。そうだね。それもいいかもしれない」
「大佐はまだ内調ですか?」
「ああ。おふくろが片付くまでは無理だよ。ここか、どこか別の施設に入れてもらったらまた制服に戻ろうと思ってはいる。でも制服に戻ったところで防衛大の教授とか名誉職で余生を送るんだろうなあ」
「スミマセン。私、仕事中ですので。またゆっくりお話ししましょう」
「ああ。引き留めてすまなかった。もしおふくろが世話になるようだったらよろしく頼むね」
大佐がそう言うとエミータは一礼し、大佐の視界から消えていった。
階段を一つ降りたエミータは二階のミーティングルームのドアを軽くノックした。中から「どうぞ」という男の声がして、エミータはドアを開け、「失礼します」と言って中に入った。
「帰り際に申し訳ないね。本部から強く言われているもんだからさ。まあ、座ってよ」
部屋の中には明らかに肥満体の男がエミータの方を向いて座っていた。施設長を名乗るこの男は、学生時代は相撲部に在籍していて、その身体つきの割には敏捷性がある。
「失礼します」
エミータはもう一度そう言って施設長の対面に座った。
「何度も同じことを言うようで申し訳ないんだけど、徳井さんの処遇についてお話をさせていただきます。前から言ってますけど、正社員になるつもりはないのかな?」と施設長。
「はい。私の方も何度も申し上げているかと思いますけど、そのつもりはありません」とエミータ。
「昨日も施設長会議があって、その話が出たんだけど、また新しい施設を作るんだよ。S小学校の再利用については聞いているよね?」
「ええ。廃校後、介護施設になるんですよね?」
「そう。それでまだ本決まりじゃないんだけど、その話、どうやらうちが取れそうなんだ。それで緊急に地元に明るいスタッフが必要でさ。今の徳井さんなら本採用になってすぐに副施設長くらいなれるよ。今でも、徴用の人、テキパキと切り回しているし。スタッフからも入居者からも評判がいい。それで数年後には施設長。給料も今の三倍くらいにはなると思うけど」
「申し訳ありませんが私にはその気はありませんから」
「給料も三倍、責任も三倍なら尻込みしちゃうかもしれないけど、仕事の内容は今とあまり変わらないよ。今でも十分、やってもらってると思ってるし。会社としても徳井さんの、その努力に報いたいんだ」
「ありがとうございます。会社には感謝しています。でも、別に何か不満があるというのではなくて、自分のことは自分で決めたいんです」
「何がつかえているんだ。私で解決できることなら相談に乗るけど」
「ジャーナリストに戻りたいだけです。給料とか、処遇じゃないんです」
「諦められないってことか」
「ええ。人間、自分の本当の夢はそうそう捨てられるものじゃありません」
「僕はさっさと捨てちゃったけどね。徳井さん、今日はもう上がりだね」
「はい」
「どうもお疲れ様でした。でも、もし気が変わったらいつでも言ってくださいね」
施設長がそう言うとエミータは「ありがとうございます」と言って席を立ち、「失礼します」と言ってミーティングルームを後にした。
仕事を終えたエミータが施設を出ると表に停まっているクルマがパッシングした。エミータはドライバーに手を振り助手席に乗り込んだ。隣には五十を超えたキザな男がハンドルを握っている。クルマが発進した。
「お待たせしました。ホントに来てくれたんですね」とエミータ。
「今日はやっこちゃんの誕生日だからな。仕事の方は何とか都合をつけてきたよ。それにしても夜の席をご一緒できないのは相変わらず残念だな」と政治部長。
それはエミータも同感だった。別に政治部長のことが好きなわけではない。嫌いというわけでもなく、無関心なだけだ。しかし、誕生日を保育園に通う息子にしか祝ってもらえないというのも寂し過ぎる。エミータにとって政治部長は寂しさを紛らわせるためのアイテムに過ぎない。
「保育園にお迎えに行かないといけませんからね」
「やっぱりそうか。それなら、君もまた一つ齢を重ねたことだし、そろそろ身を固めるってのはどうだ?息子さんもあまり大きくなり過ぎない方がいいだろ?」
「そのことなんですけど」とエミータ。
「うん」と政治部長。
「申し訳ありませんけど、やっぱり私は部長のリクエストにはお応えできません」
「どうして?何がつかえてるんだ?俺がこんなじじいだからか?」
「そういうことではありません。部長には本当に良くしていただいていると感謝しています」
「じゃあなんだ?マスコミに未練があるのか?なんならもう、息子さんも落ち着いてきてるだろうし、会社に復帰するようにしてもいいんだぞ。それは今の俺でも決められることだ」
「もう、あのセクハラ、パワハラ、マタハラ、ハラスメント満載の会社には戻りたくありません」
「じゃあ何が望みなんだ?」
「今度、R市内に新しい介護施設を作る予定になっているんです。今度はかなり大きな規模のものを。廃校予定の小学校の校舎を再利用するんです」
「学校の再利用はあちこちで行われるようだね。その話は聞いている」
「それで、私、正社員になることを打診されているんです」
「正社員になるのか?」
「正社員になったらいきなり副施設長にして下さるそうです。施設長は本部からやってくるお飾りでしょうから、私が実質的なトップということです」
「そんな苦労しなくても、俺のところに来ればもっと楽させてやるぞ」
「お金の問題じゃないんです。私が欲しいのはやりがいです。私にとって、介護の仕事はもう天職みたいになってしまいました。このままずっとこの仕事でもいいのかなと」
「そんなんでいいのか?ジャーナリストに戻りたいんじゃなかったのか?」
「そう思っていた時期もありましたけど、新聞記者時代の経験が私には辛すぎました。私は自分の人生を自分で決めたいだけです」
「そうか。…分かったよ。結局、…俺は振られたってことかな。まあいいよ。君の人生だ。でも、陰ながら応援はさせていただくよ」
政治部長はそう言うと少し強めにアクセルを踏んだ。
同じ頃、コングは自分の住まいに少し早めの帰宅をした。日はまだ高い。国会は閉会中で永田町は忙しくない。
コングが違う名字の表札が並ぶアパートの一室に戻った時、早番だった彼女はもう帰宅していた。部屋の中には段ボールに荷物を詰め込んでいる彼女の姿があった。周りにはおびただしい数の段ボールが積まれている。
「ただいま」とコング。
「おかえり」と彼女。
「どうしたんだ、これ?引っ越しでもするのか?」
段ボールの数に圧倒されたコングがビックリした声で言った。
「うん。私、……ここを出て行くね」
彼女は作業の手を休め、コングを見つめて冷静に言った。
「何かあったのか?」
コングの方は少し緊張している。
「私ね、結婚することにしたの」
「結婚?」
「そう、結婚。私ももう三十半ばになって、もう人生このまま終わるのかなって思ってたけど、最後に逆転だったね。去年、国民徴庸法ってできたでしょ?」
「ああ。できたのは三年前だけど、去年施行されたね」
「それで、私の保育園に色々な人が来るようになったの。徴用ということでね。その中に今の彼氏がいて、それで、見染められたの。どう?すごいでしょ?見染められたんだよ。この歳で。もうそんなこと諦めていたのに」
「……」
コングが黙っていると彼女は淡々とした口調で続けた。
「お相手さんはねえ、商社に勤めてる人。歳は同じくらいなんだけど、年収は二千万円くらいあるの。それで一緒に仕事をしているうちになんとなく意気投合。シンデレラストーリーだね」
「俺のことは何か言ってるのか?」
「弟と暮らしてるって言ってる。だからもしそういう場面があったら話し合わせといてね。私に弟がいるのは事実なんだから?晋ちゃんは会ったことないけど」
「ここはどうするんだ?」
「私はその彼氏のマンションに引っ越すことにしたからここの権利は晋ちゃんに譲るよ。私との不動産賃貸契約は解除しちゃうけど、晋ちゃんが続いて借りられるようにはしておくから後は好きにやってね。別にここに住むではなくて、他に引っ越すでもいいけど」
「……分かった」
コングは冷静さを取り戻して事態を飲み込んだ。もう借金は返済してしまったし、彼女の方が出て行くというのであれば今のコングには彼女にすがる理由はない。むしろ彼女という重しが取れることを国民徴庸法に感謝したいくらいだ。
「私、晋ちゃんのことは今でも恨んでる。っていうより、一生許さないと思う」
「覚えておくよ」
「でも良かった。国民徴庸法様々だね。でもあれできたのって私のブログがきっかけになってたりするんだよね?前、そんな話してたよね?」
「きっかけっていうよりは部品の一つ程度だよ」
「それでもいいよ。あの法律作った人には感謝しなくちゃ。あの法律がなかったら今の彼氏には出会えなかったんだから。その人に足を向けては寝られないね」
それを聞いてコングは一度大きく深呼吸し、一層低い声で続けた。
「楠田隆だよ」
「えっ?」
「楠田隆だよ。あの法律を作った男。楠田隆。よく覚えておけよ。そして、もし、彼が何かピンチに陥ったような場合には君には彼を助ける義務があるからそのことも忘れるなよ」
彼女は息を飲みこんでコングを凝視した。
「……クスダタカシさんね。分かった。どこかにメモしておきます」
彼女は静かにそう言うと、もうコングには注意を向けず、引っ越し作業を再開させた。
それからさらに半年ほどが過ぎた一月のある日の午後、フェイスは築地にある東京国税局の打合せ室と呼ばれている小部屋の一つにいた。この日の午前、突然、勤務先の総務課長から目的を告げられないまま国税局に行くよう命じられ、命じられるまま指示された窓口に行くと、この部屋に通された。しばらくすると年配の男が入ってきて、フェイスの机を隔てた対面に座り、監察官だと名乗った。監察官は手短に自己紹介をすると、本題に入った。
「君は内閣官房に出向していたね?」と監察官。
「はい」とフェイス。いきなりの質問にフェイスは動揺した。
「君が内閣官房に出向していた頃のことを聞きたい」
監察官が低い声で言った。内閣官房の頃、確かに何らかの違法行為をした記憶はある。緊張感が増した。
「はい」
「ここにこうして呼ばれて、何か思いあたることはないか?」
「さあ」
ないこともなかった、というよりKチームでの活動は今でも鮮明に記憶に残っている。しかし、やぶ蛇になるのを恐れたフェイスは取り敢えずとぼけたふりをした。
「四年前の十二月十四日、君は政権与党の内部LANをハッキングしてそこにあった文書を書き換えているね?」
フェイスは目の前の監察官がそれと分かるくらい激しく動揺した。息遣いが荒くなる。
「どうなんだ?」
監察官は少し声を荒げて迫った。
「……おっしゃるとおりです」
「やったことは認めるんだね」
「はい。そうおっしゃるということは既にすべてお調べになっているのでしょうし」
「君のIDでハッキングしていたからね。それはすぐに分かったよ。実は半年くらい前に他の情報漏洩事件が明るみに出て、その際に内閣情報調査室のシステムの運用状況を改めて監査したんだ。それで発覚したってわけだ。それから我々は警視庁と合同でずっと内偵していた。もっとも内偵を始めたのは警視庁が先で、君の名前が出てきて、我々に声がかかったんだけどね」
「そうだったんですか」
「それだけじゃないな。君の不祥事は」
監察官がさらに追及した。
「はあ?」
「北海道に出張したとき、フリーのジャーナリストをあたかも大手の新聞社の記者のように偽って同行させただろう?」
「確かにしましたが」
「君は軽い気持ちだったのかもしれないけど、それも虚偽公文書作成の罪にあたるんだよ」
「それも分かってはいました」
「君は本当に軽い気持ちだったのかもしれない。ばれなければいいと思っていたのかもしれない。しかし、君のやった行為は明らかに職務犯罪なんだ。だからそれなりの責任は取ってもらうことになる」
フェイスは頭の中が真っ白になった。そして自分のことや仕事のことよりも真っ先に子どものこと、家族のことが頭に浮かんだ。
「スミマセン。今、こんなことをここで言って不謹慎かもしれませんが、今日、僕は帰れるのでしょうか?その、……子どもを保育園に迎えに行かなければなりませんので」
対面の監察官が大きく深呼吸した。
「残念ながら今日の帰宅は無理だ。まあ、奥さんもうちの職場だったことは不幸中の幸いだな。奥さんの勤務先の方には別の監察官が説明に行っている。だから、こういう言い方も変だけどお子さんのことを心配する必要はない。家のことは大丈夫だよ。今は、…自分のことだけを心配するんだな」
「僕はこれからどうなるんですか?」
「君はここの建物をよくは知らないかもしれないが、ここには留置施設がある。査察もあるからね。今日はそこで泊りということになる。明日以降は滝野川の宿舎に缶詰ということになる。悪く思わないでくれ。これは組織としての最大限の誠意だと思ってほしい」
「僕は逮捕されるんですか?」
「逮捕はしないよ。そのための滝野川宿舎での缶詰なんだ。逮捕は君のためにも、君の家族のためにもならないだろう?」
監察官はそう言ったが、本音は組織のためにならないということだった。税務署ではそろそろ所得税の確定申告期を迎える。そのような、納税者が多く税務署にやってくる時期に税務職員の不祥事を公にさらすわけにはいかない。公務員の不祥事では本人はもちろん、上司も責任を追及される。逮捕となればマスコミへの公表は避けられない。組織としてそれは避けたかった。
「確かにそうかもしれません」
「なんでこんなことしたんだ?ただの遊び心か?」
「違います。言い訳になりますけど、僕は言われたことをやっただけです。…確かにハッキングはしました。しかし、それは僕の意思じゃありません。僕は言われたことをやっただけです」
大佐には申し訳ないと思ったがかばう余裕はなかった。いかに内閣情報調査室に出向していたとしても本物のスパイではない。それに今のフェイスには失うものが多すぎた。
「言われたことって、誰に言われたんだ?」
「南条潤之助一佐です。南条一佐のことはご存知ですか?」
「それは我々も承知している。南条一佐の存在については」
「では彼に聞いてください。それとも彼にはもうお聞きになったんですか?」
監察官は残念そうにかぶりを振った。
「南条一佐は行方不明で話を聞くことはできなかった」
「行方不明?」
「南条一佐のことは承知しているし、我々としても十分に調べたつもりだよ。君と席を並べていたし、とかく君と行動を共にしていたと聞いているからね。それは間違いないね?」
「はい。…大佐が、…いや、南条一佐が主犯です。今回のことはすべて南条一佐の指示に従ってのものです。南条一佐に聞いていただければ分かります」
フェイスは少し声を荒げて言ったが、それは監察官の耳には届かなかった。監察官はもう一度首を横に振った。
「我々も努力はしたよ。南条一佐も大切な証人の一人だからね。でも彼は三ヶ月前に自衛隊を辞めてしまってブラジルに行ってしまったんだ」
「ブラジルですか?」
「そう。何でも息子さんがあちらにいらっしゃるようで、息子さんを頼って行ったそうだ」
「南条一佐は要介護の母親を抱えていたはずですが」
「施設に入ったんだよ。君の作った国民徴庸法のお蔭で施設に入れたのさ」
監察官は少し大きな声でわざとらしく言った。
「僕が作った、ですか?」
「そうだよ。我々は、実はもう色々な人から既に証言を取っているんだ。前の内調経済部主幹や、元国税庁長官にだってね。北海道の大学の先生だって。みんな君が首謀者だと言っていたよ。保育士を増やして保育園に入りやすくしたいと君が言っていたと、前の内調経済部主幹は言っていた」
それを聞いてフェイスは再び激しく動揺した。主幹にそう説明したことについては確かに記憶があった。フェイスは次の言葉を探した。
「みんなですか?例えば、さっき話に出てきたフリージャーナリストとかは?」
「ああ。あの徳井というジャーナリストは君をかばっていたな。でもあんなどこの馬とも知れない者の言うことは裁判官も信じないよ。これだけお偉いさんの証言があるし、君のIDとパスワードでコンピュータがハッキングされていること、君の作成した公文書が虚偽のものであることも事実だ。公文書は保存年限経過前で現物が残っている。それに添付されている徳井の名刺が偽物だったことは紛れもない事実だ。これだけ証拠がそろっていたら君はとてもじゃないけど、逃げられないよ」
「南条一佐に聞いてください。彼も僕をかばってくれるはずです」
国民徴庸法は大佐が母親を施設に入れるためのものだったはずだ。それはKチームのメンバー共通の認識だったはずだ。確かにフェイスも悪いことはしたかもしれない。しかし、フェイス一人が背負う十字架ではないはずだ。
「無理だ。ブラジルには我が国と犯罪人に関する協定がないんだ。たとえ、君の言うとおり、南条一佐が首謀者だったとしてもそれを証明するものは何もない。逆に楠田君、君を有罪にするための証拠はもう十分過ぎるくらいそろっているんだ。さもなきゃ君を今日、こんなところに呼びつけたりはしないよ。我々も暇ではないんだ」
監察官は何でも知っているようだった。Kチームのこと以外は。フェイスは突然、弱気になった。
「僕はこれからどうなるんでしょうか?」
「君を逮捕するつもりはないが、起訴することにはなる。もちろん我々が確実に立件できるのは不正アクセス禁止法違反と虚偽公文書作成の二件だけだ。端から見ればそんなことは微罪かもしれない。でも君を厳罰にしてほしいという声もあるんだ」
「……」
フェイスは絶句した。フェイスには犯罪の意図など最初からなかった。フェイスが持っていたのは大佐の言うとおりに行動したいという気持ちだけだった。それがこんなことになるとは想像もしなかった。監察官は静かに続けた。
「不満かもしれないけど、身から出た錆だ。それは君が身をもって償うしかない。起訴となれば間違いなく有罪になるから懲戒免職になる。懲戒免職ともなると退職金ももらえない」
「家族に合わせてください」
フェイスは懇願した。
「今の君は誰とも連絡は取れない。携帯も預からせてもらう。弁護士を呼ぶこともできない。あくまでもこれは任意の事情聴取だ。強制捜査ではない。だからもし従えないと言うのであれば君がここの部屋から出て行くことは自由だ。あくまでも任意だからね。でもそうなると我々は君を逮捕しなければならない。それが君にとって賢い選択ではないことはさっき説明したとおりだ」
「……」
「しかし、最後に一つだけいい話をすると、君は間違いなく犯罪者だが、君が刑務所に入ることはないと思うよ。君が裁判で反省の意思を示せば、本当に反省していなくても反省しているそぶりを見せれば、君には間違いなく執行猶予が付く。刑務所はどこも満員だからね。君のような凶悪犯ではない者を収容する余裕はないんだ。君はまだ若いんだし、時間はいくらでもある。これからの人生、やり直せると思うよ」
監察官はそう言ったが、そんな言葉でフェイスの気持ちが軽くなるはずはなかった。