フェイスは監察官の言うとおり逮捕されることはなかった。しかし、それが本当に良いことだったのか?いっそのこと逮捕されてしまった方が良かったのではないか?フェイスはそんな風に思ったりもした。
フェイスは北区滝野川にある昭和の時代に建てられた国税局の宿舎に軟禁されることになった。与えられた部屋は三K、すなわち部屋が三つでキッチンが一つあるという、リビングもダイニングもないが、建設された当時としては画期的だったはずの構造だった。なるほど、あくまでもフェイスの任意の意思に基づくものであるからこの軟禁状態は強制処分である刑事訴訟法上の逮捕ではなく、拘留でもない。しかし、そこに自由はなく、携帯電話は取り上げられ、家族との連絡はおろか、テレビの視聴や新聞の購読など、あらゆる外部との接触が遮断されていた。
取り調べはここの間取りのソファのある一室で行われ、毎日、監察官が通ってきた。暇な時間は監察官が差し入れる読書だけが許された。また、家族は無事であるという事実だけは伝えられていた。
人間は不思議なもので、そんな生活でも二週間もすると慣れてくる。これまで家と職場と保育園を往復していた毎日が遠い昔のように感じられた。軟禁生活に慣れた頃、フェイスは起訴され、刑事被告人となり、弁護士がやってきた。
フェイスと同じくらいの年恰好の弁護士は、簡単に自己紹介をして監察官が取り調べ用に使っていたソファにフェイスを座らせると自分は対面に座ってフェイスと向き合った。
「どうですか?ここの生活は?」と弁護士。
「いいわけないでしょ」
フェイスは憮然と答えた。フェイスは拘留されておらず、ここでの生活はあくまでもフェイス自身が選んだ任意のものということになっている。形式上は在宅起訴に違いなかった。弁護士は軽く深呼吸して続けた。
「私の仕事はもちろん刑事被告人の弁護ですけど、根本的にあるものは刑事被告人の不満の解消です。ここに来てから監察官以外の人間とお会いになるのは初めてですね?」
弁護士の問いにフェイスは憮然としたままうなずいた。弁護士が続けた。
「ではまずリクエストをお聞きしましょう。何かお望みなことはありますか?」
「真実が知りたいです。本当のことが。情報を遮断されることがこんなに苦しいとは思いませんでした」
「ご家族のこととかですか?」
「家族のことだけは監察官から話を聞いているので監察官が嘘をついていない限り、無事だということは分かっています。それが一番気がかりでしたから」
フェイスがそこまで話すと弁護士は黙ったまま鞄を開き、中からクリアファイルを取り出した。クリアファイルの中には二つに折られた一枚の紙が挟まれていた。弁護士はそのクリアファイルをフェイスに渡した。
フェイスはそのクリアファイルに挟まれた紙を一瞥して驚愕した。中には離婚届が入っていて、妻の欄には署名押印がなされている。
「これは…?」
フェイスがかろうじてそう聞くと、弁護士は一言「そういうことです」とだけ言った。
フェイスがしばらくかたまっていたので弁護士の方から「他には何かございますか?」と声をかけた。フェイスはクリアファイルを手に持ったまま弁護士を見た。
「南条潤之助一佐のことをお聞きしたいです。この事件の真相、真相を一番知っているのは自衛隊の南条潤之助一佐だと思います。先生も南条一佐のことはご存知ですよね?内調で僕の隣に座っていた。彼はブラジルに行ってしまったと聞いています。彼に話を聞くことはできたんですか?先生はどのくらいこの事件のことをご存知なんですか?」とフェイス。
「まず最初に申し上げておきますけど、実は私は国選ではないのです。新田晋太郎に依頼されて弁護を引き受けたのです。私選なのです」と弁護士。
そう言われ、フェイスは思わず「コング?」とつぶやいた。
「楠田さんの仲間内では新田のことは『コング』と呼ばれていたのですね?まあ、二メートル近い大男ですからコングとでも呼びたくはなるでしょう。それは新田からも聞いています。Kチームというグループが暗躍していたことも。実は私は三年前、例の左翼政党の女性議員の公設第一秘書をやっていたのです。政府にあの質問をしたセンセイです。あれがこの事件のスタートでしたね?そして、あのセンセイに質問させた張本人は実は私なのです。新田の依頼を受けて仕組んだのがあの質問だったのです。それ以前から、私は新田とは法科大学院時代のクラスメイトでした。だから長い付き合いです」
「コングは法科大学院の出身だったんですか?」
「新田には随分と助けられました。ですから私は彼のリクエストを拒否することはできませんでした。センセイに質問させることも、今回の弁護も」
「南条一佐とは連絡が取れないのですか?」
「ブラジルで行方不明です。大使館にも問い合わせましたが無理でした」
「コングは、新田君は?」
「新田は今でも政権与党のセンセイの政策担当秘書です。だから彼があなたのことを表から弁護できないことは察してください。彼には彼の生活がありますから。彼はいわゆる三振法務博士です。三振法務博士をご存知ですか?」
「はい。何となく分かります」
「ですから秘書の仕事を失ってしまったらまた、彼は路頭に迷ってしまう。だから私が派遣されてきました。これは新田なりのあなたに対する誠意だと思ってください」
「徳井靖子というジャーナリストはご存知ですか?」
「今回の件で唯一、あなたに有利な証言をしているということは聞いています。ただまだ私は会ってはいません」
「では彼女を証言台に立たせることはできますか?」
「不可能ではありませんけど、やめた方がいいと思います」
「どうしてですか?真実を探ることが刑事裁判なんじゃないんですか?彼女はご存知かもしれませんがKチームのメンバーでした。彼女はKチームのすべてを知っています。南条一佐のかかわりについても」
「そうですか。そうかもしれませんがさっきおっしゃった真実の探求というのは実は理想にすぎません。現実は、…この裁判の目的はあなたに執行猶予をつけることです。誰しもが執行猶予付きの有罪判決を望んでいます。あなたも、罪を認めている以上、有罪判決は覚悟しているでしょうけど、刑務所には入りたくはありませんよね?」
多くの人が執行猶予付きの有罪判決を望んでいることは真実に違いなかった。しかし一番それを強く望んでいるのは成功報酬をもらいたいこの弁護士だった。
「僕はどうすればいいんですか?」
「罪を認め、反省の弁を述べればいいんです。そうすれば初犯だし、執行猶予はつくでしょう。もっとはっきり言ってしまうと、担当の検事とはあらかたシナリオができ上がっています。検事は懲役三年を求刑してきます。しかし、本件に限らず、あらゆる刑事裁判がそうですが、求刑目いっぱいの判決が下るということは滅多にありません。もちろん刑事裁判史上、求刑を上回る判決が下されたということはあります。しかし、それは本当に希な例です。通常は求刑の半分くらいの刑が宣告され、凶悪犯でない限り執行猶予が付きます。ですから本件は懲役一年六ヶ月で、執行猶予が、そうですね、三年くらい付くのではないでしょうか。本音を言うとこの事件は担当検事がまるでやる気を見せていないくらいの微罪なのです。本当は起訴猶予にしてもいいくらいの犯罪です。あなたは職を失ってしまったし、もう十分な社会的制裁も受けている。起訴されたのは政治的な意図があってのことと思ってください」
「政治的な意図?」
「ハッキングしたのが政権与党のサーバーだったのがまずかったです。政権与党も面子がありますから、あなたを許すわけにはいかなかったのでしょう」
「それで警察が動いたってことですか?しかし、Kチームがいたからこそ、国民徴庸法ができてみんな、こんなに助かっているんじゃないんですか?いかがです?」
「それはそのとおりかもしれません」
「それは評価されないんですか?」
「開き直るのは良くないと思います。ソクラテスの真似でもするつもりですか?」
「ソクラテスの真似?」
「ソクラテスは、扇動罪のような罪をかけられ、死刑判決を受けるわけですけど、裁判では自分のやったことは正しく、自分は勲章と年金をもらいたいくらいだというようなことを言っています。確かにあなたの行動は正しかったかもしれない。しかし、政権与党の面子を潰したことも事実だし、あなたの行動の正当性でそのことが免責される場面ではないということです」
「そうですか。……もう家族には会えないんですね?」
「監察官にはそう言われています。ご家族の方も、今のあなたに会いたがるかどうかは不明です。きっと会いたくはないのだと思います。その意思表示が先ほどの書類です。きっと裁判の傍聴にも来ないでしょう。今回の起訴のことは既にマスコミで報道され、あなたの実名も世間に知れ渡っています。刑事被告人の家族がどんな思いでいるのか、それはあなたも理解できるはずです」
国税職員は年に数回、「予防講和」という名前の研修を受ける。その研修でフェイスは今までに何度も刑事被告人となった職員のドラマをDVDで見せられてきた。フェイスは弁護士の言ったことを刹那に理解した。
「…分かりました。では、せめて徳井靖子に会わせてもらえないでしょうか?」
「証人に呼ぶつもりですか?それは止めた方が…」
「会って話がしたいだけです。今回のこの僕の起訴のことを彼女はどう考えているのか、彼女の意見を聞いてみたいんです。Kチームのメンバーだった彼女に」
弁護士は少し考える素振りを見せた。
「……分かりました。連絡先とかはご存知ですか?」
「いいえ。すべて取り上げられてしまいましたので、今は分かりません。でも新田君に聞けば分かると思います。もし分からなければ、彼女のお子さんとうちの子が保育園で一緒だったのでその辺から調べてもらえれば分かるかと」
「分かりました。聞いてみます。リクエストはそんなところでよろしいですか?私がこの部屋にいられる時間も無制限ではありませんので」
「はい」
「では、私の方から今後の弁護方針についてお話をさせていただきます」
弁護士は今後の方針について事務的に語り始めた。
数日後、弁護士はフェイスの軟禁部屋にエミータを連れてきた。数日前に弁護士と向かい合ったソファでフェイスとエミータは向かい合った。フェイスは戦友に再会したような気分で少しうれしかった。弁護士は少し離れた場所に椅子を持ってきて腰かけている。
「エミータ、お子さんは大丈夫かな?」
平日の午前にやって来たエミータに対するフェイスの第一声がそれだった。
「今日は、仕事は休みだけど平日だからね。仕事があることにして子どもは保育園にお願いしてきた。だから夕方のお迎えまでは大丈夫だよ」とエミータ。
「いきなりだけど、君はジャーナリストだよね?」とフェイス。
「うん」
「ジャーナリストは真実を追求することが使命だよね?」
「そうだけど」
「今回の僕の起訴は真実だと思うかい?」
「嘘はついてはいないけど、もっと奥深いところに真実が隠されているってとこかな」
「そうだ。真実は別のところにある。最初から整理してみよう」
「まず、内閣情報調査室で情報漏洩事件があった」
「うん」
「それで内調は過去のシステムの稼働状況を再調査した」
「それは監察官から聞いていて、僕も知っている」
「それで、フェイスがハッキングした時期と左翼のセンセイと少子高齢化社会担当大臣のやり取りが大体同じ時期で、捜査当局はこの二人にも尋問したのね」
「そうだったんだ」
「詳細は不明だけどこの二人はフェイスに踊らされていたという風に解釈したようで激怒。フェイスを厳罰にするように警察に圧力をかけたというのが真実のようだよ」
「なるほどね。だからとにかく僕に有罪判決を下すのが目的となっているわけだ」
「私のところにも警察は来た。私は真実を話したつもりだけど、大佐の存在は重視されていないみたいだった」
「大佐は最初から僕に罪をかぶせるつもりだったのかなあ?」
「さあ。でもフェイスを紹介されたとき、別に大佐はフェイスが画期的なアイデアを思い付いたとは言っていなかったよね。少なくとも私には」
「それで大佐は行方不明なのかな?お母様がいたはずだけど」
「大佐のお母様は、実は今、私が勤めている施設にいるの」
「ええ!じゃあ、大佐と連絡取れるじゃないか?」
「それが連絡は取れていないの。大佐は、ただブラジルに行くと言っただけでお母様を置いて行ってしまったの。今の、あの状態のお母様に大佐の居所が分かるはずがない。もう自分のことも分からなくなっているんだから」
「緊急連絡先とかないの?」
「緊急連絡先は福岡にいる大佐のお兄さんの所になってる。お兄さんのことは?」
「大佐に兄弟がいるなんて今、知ったよ」
「そのお兄さんにも聞いてみたけど、大佐の連絡先は分からなかった」
「どうなってるの?」
「つまり、大佐はもう日本には帰っては来ないつもりでお母様を施設に預け、ブラジルに旅立って行ったってこと。生きているかどうかも分からない」
「大佐に最後に会ったのは?」
「お母様が施設に入って二ケ月くらいした時に会ったのが最後かな。その時に実はブラジルに行く。少し長くなるってことは聞いていたの。ただ、私としてはお母様が落ち着いたんで今までできなかったことをやるのかなあくらいにしか捉えてなくて、まさか連絡が取れなくなるなんて思わなかった。大佐は帰国したらKチームの同窓会をやろうとか言ってたから」
「そうか。それでエミータにお願いがある」
「うん」
「法廷で証言してほしいんだ。僕は決して主役ではなかったことを」
「それはいけません!裁判では反省の弁をちゃんと述べてもらわないと」
今まで黙って二人の会話を聞いていた弁護士が急に会話に割り込んできた。弁護士が続けた。
「お気持ちは分からないでもありませんけど、どうか理解してください。もう、シナリオは出来上がっているのです。このシナリオどおりに法廷が進めば楠田さんは収監されずに済むんです。楠田さんも刑務所には入りたくはないでしょ?どうか子どもみたいなこと言わないで下さい」
少し沈黙の時間が流れた。
「結局、僕はこのドラマの主役を演じるしかないのかな?」とフェイス。
「本当は英雄なんだけどね」とエミータ。
「英雄?」
フェイスが聞き返した。
「そりゃ英雄だよ。だって、国民徴庸法のお蔭で本当に多くの人が助かったんだよ。要介護の高齢者もそう、介護にさらされていた家族はそれ以上だと思う。保育園の保育士達も、空きを待っていた待機児童の親も。フェイスはみんなを幸せにしたんだよ」
「英雄ねえ。有罪判決を受けるのに…」
「…しょうがないよ。今は流れに身を任せるほか。でも英雄であることは間違いない。それは歴史が証明してくれると思う」とエミータ。
「何か杉原千畝みたいだね」とフェイス。
「法を犯したのは事実なんだから、今のところはしかたないね。でも本当に悪いことをしたわけじゃないんだからそこは自信を持っていいと思う。それと私にも責任の一端はあるから、フェイスのことは一人にはしないよ。このままだとフェイスは天涯孤独になりそうだけど、フェイスのことは私が引き取ることにするから心配しないでね」
エミータは事務的にさらりと言った。
「引き取るって?」
「身元引受人には私がなるから。実はね、フェイスには良平のパパになってほしいと思ってるの。いいでしょそのくらいなら。その代わり、フェイスが食べていかれるようにはするから」
「エミータのお子さんの?それって?」
「ああ、誤解しないでね。別に私と結婚してほしいとかじゃないの。私自身、結婚はもうコリゴリだし。でも良平にパパがいないのはかわいそうだし、前も言ったことがあると思うけど、ビジネスパートナーならぬハウスパートナーになってくれないかなと」
「ハウスパートナー?」
「実はね、フェイスに保育園で初めて会ったとき、かなり衝撃を受けたの。保育園の送迎をやってるお父さんがいるんだあと思って。私の夫だった人では考えられないことだった。勤めていた新聞社でも保育園の送迎はもちろん、家事、育児は女の仕事と決まっていたし、新聞の論調も働く女性という視点で子育てはすべて女性に押し付けていた。でもフェイス、あなたは違った。保育園の送迎を引き受けるために近くの税務署への転勤希望を出したんでしょ?あなたみたいな優秀な人が」
「優秀かどうかはともかくとして、転勤希望を出したのはそのとおりだけど」
「さっきだって、まず最初に保育園のお迎えのことを心配してくれたじゃない?だから私はあなたのような人をハウスのパートナーにしたいの」
「そういうことか」
「奥さんとは別れるんでしょ?」
「それはまだ決まったわけじゃない」
「書類にはサインはしたんじゃないの?」
「サインはしたけど」
「じゃあ決まりじゃない」
「君に迷惑をかけることになるんじゃないの?」
「確かに大の大人を一人食べさせていくんだから大変ではあるかもしれない」
「君に迷惑はかけたくないよ」
「いいよ。そのくらい。その代わり、フェイスにお願いがあるの?」
「お願い?この期に及んで?」
「うん」
「何?」
「Kチームのこと書かせてほしいの」
「書くって?」
「記事にするってこと。大佐には自分が死ぬまで待てって言われてたけど、もう待っていられない」
「記事にするってこと?」
「そう」
「分かったよ。いいよ。好きにやれば」
フェイスは投げやりに言った。
「ありがとう。素晴らしい記事が書けそうな気がしてる。なんてったって、私はあの中にいたんだから」
フェイスの淡々とした表情とは裏腹に、エミータはニッコリと微笑んだ。
裁判は既に筋書きができていることもあってスムーズに進み、桜の頃には最終弁論を迎えた。弁護士はひたすら反省の弁を述べるようフェイスに求めていたが、公判中、フェイスがそれに言及することはなかった。
検事は懲役三年を求刑した。シナリオどおりでフェイスは特に驚かなかった。続いて弁護士が何か発言していたがフェイスの耳には入らなかった。
フェイスはそんなやり取りは上の空で、これまでの出来事をもう一度振り返っていた。
国民徴庸法の言い出しっぺは間違いなく大佐のはずだ。大佐が母親を介護施設に入居させたいという、そのまったく個人的な動機に裏付けられていたはずだ。しかし、この裁判ではフェイスがその首謀者として全責任を負わされようとしている。
確かに大佐は出会った多くの人にフェイスが考え出した画期的なアイデアとして国民徴庸法を紹介していた。大佐は最初から計算づくで、自分に火の粉がかからないように立ちまわっていたのだろうか?ハッキングしたのも大佐の指示だったはずだがIDもパスワードもフェイスのものだったことは間違いない。北海道への出張予定表の記載ですら大佐は自分の名前を直接汚していない。
結局、大佐はこの結果さえもすべて予想して立ちまわっていたのに違いないのだ。フェイスはそう考えた。大佐は、自分が何度もそう感じさせられたとおり、文字どおり百戦錬磨の強者だ。とても自分がかなう相手ではない。大佐のことは許せないとしても、復讐するのは今ではない。今は負けておくしかない。大佐への復讐はずっと後で良いはずだ。
では、今のフェイスにできることは何か?この証言台で本当に悪い奴がいて、そいつは何ら咎められていないと吠えることだろうか?大佐のことを暴露することだろうか?違う。そんなことをしても誰も信じてはくれないだろう。自分が余計傷つくだけだ。どうすれば良いのか?
そんな時、弁護士に言われた一言が頭の中に甦った。
(「ソクラテスの真似でもするつもりですか?」)
ソクラテスの真似こそが今の自分にふさわしい一撃なのかもしれない。
「被告人は証言台へ」
フェイスがそんなことを考えていると眼鏡をかけ、法衣をまとった女性裁判長が言った。フェイスはそれに返事をすることもなく、黙って証言台に向かい、裁判長を正面に見据えた。
「これで審理を終えますが、最後に言っておきたいことがあれば簡潔に述べてください」と裁判長。
フェイスは黙ったまま後ろを向き、傍聴席に家族の姿を探したが、妻も子どもも、父母の姿もそこにはなかった。仲間だったはずの大佐もコングもいない。監察官はいたようだったが目には入らなかった。目に入ったのはエミータの姿だけだった。
エミータと目が合った。エミータはニッコリと微笑んだ後、すぐに真顔になり、そしてゆっくりとうなずいた。それを見てフェイスも力強くうなずいた。
「どうしました?何か言っておきたいことはないんですか?」
裁判長が催促した。フェイスは正面に向き直り、目をつむり、軽く深呼吸してから裁判長を見た。
「申し訳ありません。考え事をしていました。今回の、この僕の事件のことを考えていました。今回のこの事件、おっしゃるとおり、検事さんのおっしゃるとおり、僕が首謀者です。僕は国税局から内閣情報調査室に出向してきて、自衛隊から出向していた南条潤之助一佐の隣の席に座ることになりました。南条一佐はとても優秀で物知りの同僚で、これは役に立つと思って、彼には持てる力を存分に発揮してもらいました。彼の人脈は最大限、使わせてもらいましたし、北海道に行くときにはヘリコプターもチャーターしてもらいました。お蔭さまで素晴らしい法律を作ることができたと思っています。皆さん、僕のことを犯罪者として、処罰したいとお考えのようですね。確かに僕は、法は犯したかもしれません。しかし、僕のやったことはその違法性を補って十分あまりあるものだったと思っています。三年前、我が国は介護士不足で要介護老人があふれ、絶望的な状況だったはずです。高齢者に希望がないことはもちろん、高齢者を介護している若者にも希望はなかったはずです。老老介護で殺人事件だって起きていたじゃありませんか。でも、今はどうです。国民徴庸法ができて、介護施設には介護職員があふれるようになったじゃありませんか。保育園には保育士があふれ、病院には看護師があふれ、僕はどの政治家もなしえなかった問題の解決をやってのけたんですよ。たった一人で。僕は勲章と年金をもらいたいくらいです」
そこまで言ってフェイスは大きく息を吸った。傍聴席はざわついている。裁判長と検事は呆れた顔つきでフェイスを見た。
「反省の弁はないのですか?」と裁判長。
「さっき言ったとおりです。どうして反省しなければいけないのですか?後悔はしていません。僕はとても良いことをしたと思っています。事実、とても多くの人が助かっているはずです。それでも僕を処罰したいというのであれば、それが正義だというのであれば、裁判長や検事さんのその正義に僕の身を委ねたいと思います。長い話を聞いてくださいましてありがとうございました」
フェイスは裁判長に一礼し、被告人席に戻った。傍聴席はまだざわついていた。
裁判長は憮然とした表情で判決公判の日程を宣言し、続いて閉廷を宣告した。被告人席に弁護士が近付いてきた。
「楠田さん。あなたって人は」と弁護士。
「僕は後悔していません」とフェイス。
「これであなたを裁くシナリオは崩壊です。今の弁論が裁判官にとても悪い印象を与えたことは自覚していますね?」
「もちろんです。そのつもりだったんですから」
「これで執行猶予はつかなくなりますよ」
「仕方ありません。身から出た錆ですから。でもスッキリしました」
「……もう、私の仕事は終わったようですね。どうもお付き合いいただきましてありがとうございました。でも、最後に一言だけ言わせていただきますと、どうやら私もスッキリしたようです。執行猶予の成功報酬をもらえないのは残念ですけど、そんなことは本当にちっぽけなものでした。楠田さんの弁護を担当できてとても良かったと思っています。この前、徳井さんもそんなことを言っていましたけど、楠田さん、あなたはやはり英雄です。これまで誰も成し遂げなかったこと、分かっていながらできなかったことをたった一人でやってのけたんですから。執行猶予を付けることはできないようですけど、私が法曹として本当にやりたかったこと、正義の実現は何だかできたような気がしています。あなたにやりたくもない反省の振りをさせて執行猶予をもぎ取るような真似をしないで済んだことはあなたに感謝しています。裁判に負けることが決定したのに何かとってもすがすがしい気分です。あなたは本当に素晴らしい人だ。あなたのことをとても尊敬できる気がします」
弁護士は満足そうな笑顔でそう言った。ふとフェイスが傍聴席に目をやると、エミータがフェイスを向いて微笑んでいた。