次の日、楠田は勤務開始時刻の九時半よりもかなり早く、八時頃には内閣府庁舎五階にある内閣情報調査室経済部の自分のデスクに到着した。まだ二日目、というより自宅からの出勤は今日が初めてなので保育園はいつものように妻にお願いし、楠田は早めに家を出た。
目指す内調経済部の部屋は電気がついておらず、誰も来ていなかった。やることもないので楠田は仕方なく、大佐と楠田の両方の机の上に高く積み上げられている週刊誌を読んだ。しばらくすると若い女性職員がやって来て、「新聞です」と言い、大佐の机の上にどさっと置いた。何紙もあるようで、横文字のものもあった。楠田はその女性職員に「これは?」と聞いた。
「あっ、楠田さんは初めてだから分からないですよね。内調でとってる新聞ですよ。これは大佐と楠田さんの分です。経済部は三セットとってるんですけど、そのうち一セットはここに置くように言われていますので」と女性職員。
なるほど、情報収集はマスコミからということなのだろう。一セットというのは全国紙五紙と英字新聞一紙を指すようだ。楠田はそう理解し「ありがとう」と言うと、一番上に積まれた全国紙を手にした。こんなにゆっくりと新聞を読むのは初めてかもしれない。しばらくして楠田は社説まで読んでいる自分に気が付いた。
十時が過ぎる頃になってようやく「おはよう」と言いながらクールビズの大佐が入ってきた。大佐は自席に座っている楠田の後ろを通り過ぎ、自分の椅子にどかっと座った。楠田は心なしかかしこまって「おはようございます」と言った。
「何時に来たんだ?」と大佐。
「ええっと、八時頃です」と楠田。
「そりゃ早過ぎるな。誰も来てなかったんじゃないのか?」
「ええ。電気もついていませんでした」
楠田がそう言うと先ほど新聞を持ってきた女性職員が、大佐の飲む麦茶をお盆の上にのせ、二人のスペースに入ってきて、「おはようございます」と言うと大佐の机のコースターの上に置いた。大佐は「ああ。ありがとう」と言うとすぐにコップをとってコップ半分くらいを飲み、女性職員は無言で立ち去った。
「さて、昨日君には仕事はないと言っていたが、二つ仕事があったことを思い出したよ」と大佐。
「はあ」と楠田。
「まず、朝来たらそこのテレビをつけてもらいたい」
大佐はそう言って自分の机の上に置いてあるリモコンを手に取り、二人の背後にそびえ立つキャビネの一番奥の上に置いてあるテレビに向けてスイッチを押した。テレビがつき、ニュース番組が映し出された。
「ケーブルテレビの二十四時間ニュースチャンネルをつけっぱなしにしておくんだ。ここは内閣情報調査室だけど、結局、情報はマスコミの方が早くて、内調といえどもリアルな情報はマスコミが頼りとなる。一度スイッチをオンにしたら君が席をはずそうが、誰も見ていなくても退庁まではつけっぱなしでいいから」と大佐。
「分かりました。それで、もう一つは?」と楠田。
「二つ目は君が今読んでいる新聞だ。その新聞各紙の社説をまとめて、独自のデータベースを作ってもらいたい」
「データベースですか?」
「いつ、どこの新聞がどういう論調を出していたか。そういうことが半年後くらいに突然、問題になったりすることがあるんだ。具体的には各紙の社説のコピーを取る。全部読む。要旨をまとめる。そういうことをするんだけど、まとめたものは午前中の早い時間に主幹に入れておいてもらいたい。まあ、実際に主幹がそれを読むかどうかはまた別の話だけどね」
主幹とは内閣情報調査室各部にいる、筆頭参事官で事実上の部長職といってもあながち的外れではないだろう。経済部なら経済部の主幹が慣例として財務省から派遣されてきている。大佐は続けた。
「それでそれがストックされていって自動的にデータベースができ上がるというわけだ。まあ、ルーチンの仕事はそんなところだ。でも、それだけでは君のここでの二年間がとても暇になってしまうだろう。君はどうしたい?」
「どうしたいのかとおっしゃいますと?」
楠田は質問の意味を読み取れない。
「今まで君が公務員として予算や国会対応で一年三百六十五日、一日二十四時間働き詰めに働いてきてとても傷んでしまっていて、少し休みたいというのであれば、この二年間をのんびり新聞や雑誌を読みながら過ごすということもかなわない夢じゃない。これから向こう二年間、大規模な自然災害やテロなんかがなければそれも可能だろうと思う。実際、今まで君の席に座ってきたお歴々は体調を崩している人ばかりで、いわば病気休職中の人のための席だったと言ってもいい。見たところ、話したところ君は健康体のようだけど、実際はどうなんだろう?」
「おっしゃるとおりです。特に病気をしているということはありません。というより、むしろ健康体なんだと思います。働き詰めに働いてきたか?と聞かれればそうでもありません。むしろ定時に退庁するありきたりの役人人生を送ってきたのだと思います」
「そうか、じゃあ、俺と一緒に何かやらないか?」と大佐。
大佐がさっきつけたニュース番組では政治家の討論会の風景が流れていた。国会閉会中は政治ニュースも暇なものだ。だから討論番組でもやらないと政治ニュースは間が持たない。
テーマは少子高齢化問題のようで、少子高齢化社会担当大臣に左翼政党の女性議員が食いついていた。大臣がしどろもどろなのに対して女性議員は元気いっぱいで、とんちんかんな答えにイライラしているようだった。
「一緒にやるって、何をやるんですか?」
「何か世間をあっと言わせるような面白いことだよ。ここは政府の情報がいっぱいある。それに俺達は内閣事務官だ。いわば内閣総理大臣の手足となって行動できる立場にあるってことだよ。法律の一つくらい俺達の力でできてしまうかもしれないよ。二年くらい時間が与えられればね」
そう言ってのどが渇いたのか、大佐は手に持ったコップの麦茶にもう一度口をつけてから続けた。
「国税出身の君と組むというのも何かの縁だ。じゃあ、税制改革なんかどうだ?今まで誰も気が付かなかったような画期的なやつを作るんだよ」
「そんなことできるんですか?」と楠田。
「まあ、実際にはできないとは思うよ。できなくてあたり前だ。俺達にそんな力はないからね。でも最終的に法律はできなくても、経済財政諮問会議の答申に盛り込むとか、そしてそれが全国紙の一面トップを飾るとか、そのくらいはできるかもしれない」
「税制改革ってどんなこと考えてます?」
「そうだなあ。例えば滞納国税が多額に上っているだろう?」
「はい、たぶん」と楠田は言ったが、徴収出身ではない楠田にはよく分からない。
「それを民間に安く払い下げて取り立ててもらうんだ。言わば裏書譲渡みたいなもんだ」
「はあ」
「イタリアだったかな?そんなことをしてる国もあると聞いたことがあるからまるっきり非常識な話でもない。君は今、政府に求めたいことが何かあるかな?今の君なら自分の手でそれを実現することだってできるかもしれないんだぞ」
「はあ…」と楠田。大佐はまくしたてるが今日が二日目の楠田には今一つピンと来ない。
「逆に大佐は何か政府に求めたいことはあるんですか?」
楠田が逆に質問した。
「そうだなあ…」と大佐はテレビの方を振り返り、液晶を指さし、「今、そこで少子高齢化の問題を議論しているな?」
「はい」
「今、この大臣とおばさんが話しているのは施設の人手不足についてだよ」
「はい」
楠田と話をしつつも大佐のもう一つの耳はテレビの討論を捉えているようだった。
「高齢化が進む中、老人福祉施設への需要は沸騰している。とても供給が追い付ける状況じゃない。その原因が人手不足にあるという認識ではこの二人の意見は一致している」
「ええ」
「問題はその先だよ。おばさんの方は給料が低いから介護士のなり手がないと言っている。大臣もそれを認めてはいるが政府にはお金がないという認識だ。そこからこの二人の意見は二股に分かれてしまって政策が前に進まない」
「それは理解できます」
「ではどうすればいい?ネックはお金がないことだ。つまり財政の問題で、むしろ税制と言ってもいいかもしれない。君の専門のはずだ?」
「……月並みですが、消費税率をアップするとかですか?」
楠田は少し考えてから答えた。大佐は一瞬、ため息のようなものをついた。
「本当に月並みだな。そっちの方が、実現可能性が低いんじゃないのか?この国は民主国家だ。民主国家は声のでかい方が勝つ。そして、国民受けしない政策は実現できない」
「ではどうしろと?大佐は何かアイデアがあるんですか?」
「……あるよ」と大佐は少しもったいぶって言い、続けた。
「俺は軍人出身というより、現役の職業軍人だよ。戦争を遂行するために人手が必要な場合、どうすればいいかは君にも分かるだろう?」
「……召集令状ですか?」
「そう。強制的に動員するんだ。だから介護士も赤紙一枚で集めればいいということさ」
「……なるほど、召集令状ですか。軍人らしい発想ですね。でも、それと税制改革と何が関係するんですか?」
「何を言っているんだ。君は税制の専門家じゃないのか?租庸調の庸だよ」
「はあ?議論、飛び過ぎてませんか?」
「飛び過ぎているよ。そんなことは百も承知だ。だから画期的な税制改革なんじゃないか。税制と言えば、地租改正が行われてから、税金はお金で納めるものと相場が決まってしまっている。でも昔は労役の提供も租税として認められていたはずだ」
そう言われると楠田も理解できる。なるほど租庸調の庸を復活させるということであれば税制改革の文脈として捉えるということも、乱暴ではあるが不可能なロジックではない。楠田はそう考えた。
「なるほど、ロジックは理解できました。しかし、実現可能性はゼロですよね。話としては面白いですよ。SFみたいです」
「なるほど、SFか。…君は『ザ・マン~大統領の椅子』という古いアメリカのテレビ映画を知っているかい?というより知らないだろうなあ」と大佐。
「ええ」と楠田。
「古い上にメジャーでもないからね。俺は中学生の頃かな、テレビでやっていたのを見たことがあって、随分と印象に残っているんだ。大統領と下院議長が事故死、病気の副大統領に代わって上院臨時議長の立場からアメリカ初の黒人大統領となった男の苦悩というのがあらすじだ」
「はあ」
「注目してほしいのは、この作品が当時、SFに分類されていたということだ。そのくらい、黒人が大統領になるなどありえないと考えられていたということで、そのSFの中でさえ、黒人大統領は選挙で選ばれるというのではなく、偶然が重なった結果、誕生するという設定になっていた。しかし、ふたを開けてみたら現実の世界はSFよりも斬新だったというのが結論で、アメリカ初の黒人大統領は偶然の積み重ねなどではなく、堂々と民主的な選挙で誕生している」
「はい」
「何が言いたいかは分かるだろ?確かに税の専門家である君の目からしても租庸調の庸を復活させるなどということは非常識なことでこの物語もきっとSFに分類されることだろう。でも未開の人にとってはライター、いやマッチすらもSFなんじゃないのかな?」
「そうかもしれません。きっとそうでしょう。でも一体どうやって実現しようとするんです?スミマセン、僕は大佐の実力を知らないので偉そうなことを言っているのかもしれませんが、少なくとも僕の力では無理ですよ」
「もちろん一人の力でどうにかなるものではない。しかし、何人かの人間がチームを組んで、持てる力を発揮すれば案外、いいところまでは行くのかもしれないよ。君は税の専門家ということでプロジェクトに参加してくれればいい」
「はあ」と楠田。大佐の迫力に圧倒され、ため息交じりの返事しかすることができない。
「じゃあ決まりだね。租庸調の庸を復活させよう。現実には無理でも、最低でも経済財政諮問会議の答申に盛り込むくらいまでは持って行こう。そのくらいなら俺達の力で何とかなるよ。今、そこで話してる大臣」と言って大佐はもう一度キャビネの上の液晶を指さした。「本人はよく知らないけど、政策担当秘書はよく知ってるんだ。早速、アポをとって、できれば、この午後にでも議員会館に会いに行こう。きっと俺達の意見に賛同してくれると思うよ。奴も大臣同様へこまされてるだろうからな」
大佐がそこまでしゃべると総務班長が楠田のところに紙を何枚か持ってきた。通勤届など、異動に伴って記載しなければならない書類だった。総務班長が来ると大佐は黙り、自分の机の上に積まれている全国紙を一部取って読み始めた。
「さて、昼はどうする?」
総務班長から渡された紙をまだ仕上げきらないうちに大佐が聞いてきた。時計は十一時半頃を指している。
「まだ早くないですか?」と楠田。
「それは分かっているけど、あたり前の話だけど、正午が近付くにつれて食堂は混むからね。いつも昼はどうしてたんだ?」と大佐。
「まあ、僕は基本的に外回りでしたから、外で食べるのが基本でしたけど、中にいるときは署内の食堂とか、……あるいは隣に都税事務所があったんですけど、都税の食堂とかに行ってました」
「外回り?」大佐が怪訝な声色で聞いた。
「ああ、外回りといってももちろん営業じゃないですよ。僕ら、…税務署の職員は調査とか滞納処分とか外に出かけるのがメインなんです。僕の場合は法人課税部門の職員でしたから会社の調査とかに出るのが普通で、税務署の中にいる方がむしろ希でしたね。管理運営部門の、…税金の出納をする職員とかは出かける方が希かもしれませんけど」
「そうか。俺は税務署の連中は税務署の中でふんぞり返って仕事をしていて、納税者を高飛車に呼びつけているのかと思ったよ。まあ、今日は外に出よう。隣に行こう」
「隣、…ですか?」
「記者会館の一階の食堂に行こう。国会も閉会中で記者連中も暇だからな。多分、すいてると思うよ。まだ早いし」
大佐はそう言って席を立ち、楠田は後を追った。
外はやはりうだるような暑さだった。今年はもう既に梅雨が明けていて、お彼岸までこの厳しい暑さが収まる気配はない。楠田は大佐の長いストライドの後ろをチョコチョコとついていった。
記者会館に入ると二人は食堂に真っ直ぐと進み、既にできている厨房前の列の最後尾に並んだ。
「何かお勧めとかあるんですか?」
初めて入る場所に周りをキョロキョロさせながら楠田が聞いた。
「お勧めを聞かれるとカツカレーという答えになるな。俺もそれを頼むつもりだ」と大佐が言っているうちに順番が回ってきて、大佐は中にいる女性に「カツカレー」と叫び、後ろに控える楠田も「僕もカツカレーでお願いします」と続けた。
そのまま精算を済ませると、「お席にお持ちしま~す」という給仕の声を背中で聞きながら、大佐はカツカツと再び長いストライドで席の方に向かった。まだガラガラだったのでどこに座っても良さそうなものだったが、なぜか大佐は端っこで一人カツカレーをつついている女性の隣の席に立ち、椅子をつかんだ。
「ご相席よろしいかな?」
大佐はそう言うと手に取った椅子をスライドさせドスンと腰かけた。同じタイミングでカツカレーの女性は「まあ大佐。お久し振り。相変わらずお元気そうですね」とフランクに言った。ワンテンポ遅れて楠田が大佐の対面、女性のはす向かいに座った。
「こんなところで飯食ってて、クビになったんじゃなかったのか?」と大佐。それには答えず「新しいお友達ですか?」と女性。
楠田と同世代のその女性はカジュアルとフォーマルを足して二で割ったような服装をしている。
「ああ、紹介しよう。昨日、国税から出向してきて俺の隣に座ることになった楠田君だ。こちらジャーナリスト…って言っていいのかな?今は無職かな?とにかくマスコミ関係者の徳井靖子君だ」
大佐はそう言って二人を順番に紹介した。
「はじめまして。東京国税局から出向してきました楠田です」と言い、楠田は少しまじまじと徳井の顔を見た。見覚えがあるような気がしたのだ。
「こんにちは。徳井といいます。今、大佐からも言われたけど、マスコミ関係と言われればマスコミ関係なんだけど、今はフリーのジャーナリストってとこかな」と徳井。
「フリージャーナリストって、自称フリージャーナリストじゃないのか?」と大佐。徳井は少し笑って「ハハハ。確かにね。でも警察に捕まったら契約社員か介護職員って言われるんじゃないかな」と言った。
「介護士なんかやってるんだ?老人介護施設で働いてるんだ?それはビックリだなあ」と大佐。
「介護士じゃないですよ。ただの介護職員。サムライはつかないですよ。介護福祉士は国家資格。勝手に名乗ったら名称詐称。軽犯罪法違反ですよ」
徳井は自嘲気味に笑い、続けた。
「で、わざわざこの席を狙ってきたってことは何か面白い話でもあるんですか?」
「ああ。実は楠田君と何か面白いことをしようと思っていてね。で、君の耳に入れるのはもちろん、また色々と協力してもらいたいと思ってるからさ」と大佐。
「面白い話って?」と徳井。
「君も現役の介護職なら話が早い。介護職、人手が足りないだろ?」
「ええ。それは身に染みて感じますけど」
「だからさ、徴兵制を導入して、国民を介護に強制動員しようっていうんだ。案を作って、経済財政諮問会議の答申に盛り込もうって訳だ」
大佐がそう言うとカツカレーを片付けた徳井の目が輝いた。本当に興味を持っているようだった。
「素晴らしい。さすが大佐ですね。是非、そのお話、詳しく聞かせてください。でも、スミマセン。私、次があるので今日はこれで。今度、ゆっくりお話聞かせてくださいね。地元ででもいいですから」
徳井はそう言うとハンドバッグの中から肩書と名前とメールアドレスのみが書かれた名刺を二枚取り出し、まだ何も置かれていない二人の前に置いた。
「メールアドレス登録して、空メール送って下さいね。じゃあ」
徳井はそう言って二人に手を振り、視界から消えていった。
徳井の姿が見えなくなると、給仕が大佐の分のカツカレーを運んできて大佐の目の前に置いた。「じゃあ、お先に」と大佐が言ってスプーンを手に取った。
「今の方、お知り合いなんですか?」と楠田。
「うーん、きっかけは忘れてしまったけど、この記者会館にいた政治記者だよ。名前はあえて伏せておくけど、大手の新聞社の政治部にいたんだ。それで彼女はもちろん情報が欲しいし、俺は俺で流してほしいニュースとかもあったから、それでお互いに仲良くなったということだ。まあ、共生関係にあったってことかな」と大佐。
「地元ででもって言ってましたけど」
「ああ、そうだな。滅多に会わないけど、最寄り駅が同じでごくたまに会ったりもする」
「今はフリーなんですか?名刺の肩書きは『ルポライター』って書いてありますけど」
「フリーだというのはそのとおりだろう。でもライターが付くかどうかは解釈の問題だ。彼女、その大手の新聞社にいたんだけど、結婚して妊娠したら、何とワシントン特派員の内示を受けてしまったんだ。これから子どもを産もうというときにそんな打診は到底受け入れられない。それで断ったらクビにされて、今はフリーというわけさ。その新聞社もやるよな。絶対に引き受けられないポストを打診して事実上のクビだよ。それから旦那とも険悪になって、別れて、今は一人で息子を育てているようだね。シングルマザーってやつだ。介護職員って話は、今初めて聞いたんだけど、それも理解できない話じゃない。とてもフリーのルポライターじゃ食えないからバイトしてるってとこかな。まあ、そっちの方が本業でライターが趣味になっちゃってるのかもしれないけど」
「なるほど、だから解釈の問題ということですか」
大佐がおいしそうにカツカレーを食べるのを見ながら楠田は自分のカツカレーが出てくるのを待ったが、ほとんど同じタイミングで注文した割には中々楠田の分は出てこなかった。
丸ノ内線に飛び乗った徳井は四ツ谷で中央線に乗り換えると西に向かった。特別快速に乗れたことといい、大佐と久し振りに会えたことといい、今日はツキがある。それでもこれから始まるグループホームでの遅番勤務のことを考えると憂鬱になった。
まさか自分がこんな、非正規の、時給で給料が計算される介護職に就くなどとは思っていなかった。全国でも屈指の中高一貫校を卒業し、Wから始まる大学の文学部に現役で合格したのは小学生の頃から新聞記者に憧れていたからだった。小学生の時、市内の新聞コンクールで優勝したことがある。あの経験がなかったらもっと別の道も考えたのかもしれない。しかしその時の徳井に迷いはなかった。そして小学校の頃に描いた青写真どおり全国紙の記者となってからもすべては順風満帆だった。
風向きが変わったのは入社数年後、結婚前に息子を身ごもってからだった。大学は男子大学といってもいいような男女比だったが、バンカラな校風は女子校出身の徳井を警戒させ、モテはしたものの間違いが起こることはなかった。そこそこ遊びはしたし、体育会系の部活に熱中もしたが、新聞記者になるという目標を忘れることはなく、勉強はもっとした。しかし、目的を達成した瞬間にタガがはずれてしまったのだ。
優等生の徳井はそっちの方面ではまるで幼く、無防備だった。急いで世間でいうところの「できちゃった結婚」をしたが、それは徳井の本意ではなかった。さらに追い打ちをかけたのがワシントン特派員の内示だった。海外、しかもワシントン特派員など新聞記者にとっては夢のような話に違いない。しかし出産を控えた徳井にとってのそれは手の届くところにあるのに食べられないおいしそうなケーキに過ぎなかった。「チャンスはまた来る」との夫の言葉を信じて出産を選択、面目をつぶされた新聞社はパワハラに転じ、徳井は依願退職を余儀なくされた。それは「依願」という美名に名を変えたクビに過ぎなかった。出産後は夫も豹変し、夫婦間でのいさかいが絶えなくなった。夫は暴力を振るい、徳井は息子と共に夫のもとを離れた。
それでもジャーナリストの夢は捨てきれなかった。フリーランスとしての活路を見出そうと、当座の糧を稼げる職場を探した。さすがにヒトコブラクダに優しくしてくれるところは少なかったが、フリーランスの仕事を認め、さらに託児所もついているということで今のグループホームを運営する会社に契約社員として入ることとなった。
就職難と言われているが、需給バランスが崩れているだけのことであり、常に求人を募集している職種もある。その一つが介護職だ。
介護職は過酷な労働環境にある上、低賃金だ。離職率は高く、どこの介護施設も職員の確保に頭を悩ませている。お金はないので高給で職員を集めることはできない。結局、徳井のような訳ありの、賃金以外の雇用条件に強い関心を示す労働者に賃金以外の魅力的な雇用条件を提示して労働者を集めるしかない。
徳井にとっての条件はフリーランスとしての仕事と子育てとの鼎立だった。運営会社はこれを認め、徳井は就業場所としてあてがわれたグループホームの近くに引っ越して来た。少し待ったが、シングルマザーということもあり、市立の認可保育園にも入ることができた。徳井は現在、市立保育園と介護施設運営会社の託児所を掛け持ちできているので同じ境遇にある親としては恵まれている方だ。
仕事は交代制なので厳しい面もある。辛くてくじけてしまいそうになる時がある。そんなときは電車に乗って都心の空気を吸いに行く。そして昔なじんだ国会記者会館の食堂でカツカレーを食べ、全盛時代の自分から力をもらうのだ。
徳井は中央線を降りると宮沢賢治の小説を冠したバス会社のバスに乗り、息子の待つ保育園に向かった。まだ早い時間だ。保育園に着くと、園舎の各部屋はカーテンが閉めてあり、静まりかえっていた。お昼寝の時間帯だ。
徳井が門を開け、園庭に入ると、セキュリティーシステムが反応するのだろう、ピンクのエプロンをつけた中年の保母が静かに現れた。
「お疲れさまです。じゃあ起こしてきますね」と保母。
徳井は「よろしくお願いします」と言って保育室の前に掛けてある、汚れ物の入った荷物を整理する。そこに息子が現れ「ママ~」と叫んだので徳井は慌てて人差し指を口の前に持っていって「シーっ」と言った。他の園児は午睡中なのだ。息子は慌てて口を結んだ。
それから徳井は息子と荷物を自転車に乗せ、老人介護施設に向かった。十五分くらいで到着し、息子を託児室に預ける。ここは徳井の勤務している施設ではない。ただ、託児室はここにしかないのでここで息子を預け、さらに自転車で勤務するグループホームに向かう。雨の日はもっと大変だが、今日のような炎天下も厳しいものだ。本当はクルマで移動したいのだが中古の軽自動車すら購入する余裕は今の徳井にはない。元夫から養育費をもらってはいるがそれは全て貯金しており、手を付けてはいない。いつ養育費が入らなくなるとも限らないからだ。そんな不安定な収入をあてにすることはできない。息子を身ごもってからというものの、厳格な両親ともギクシャクしていて金銭面も、子育ても頼ることができない。徳井は今まで順風満帆だった人生のツケを一気に支払わされているのだ。
グループホームに到着し、更衣室で仕事着に着替えると担当する三階へと向かった。徘徊防止のために二重にロックされた鍵を開け、中に入ると糞尿をふき取った後のあの独特の臭いが鼻についた。消毒液や消臭剤をまいても消えるものではない。その臭いを脳が捉えた瞬間、徳井は昼の大佐の話を思い出していた。
(「徴兵制を導入して、国民を介護に強制動員しよう」)
もしそれが実現できるならば徳井の仕事は劇的に楽になる。たとえ実現できなくても大佐の言う経済財政諮問会議の答申に載せ、マスコミにのるだけでも介護職の絶対的な不足という深刻な問題を国民の前にさらけだすことができるかもしれない。徳井はそんなことに期待しながらこれからの長い勤務を乗り越えようと考えていた。