楠田のカツカレーを給仕が運んできたのは大佐が自分のカツカレーを片付けてからだった。
「随分来るのが遅いですね」
給仕が遠くに去ってから、楠田はスプーンをつかみながらポツリと言った。
「そうなんだよ。例えば三人並んでいて同時に注文を出しても、ここは三人分が同時に出てくることはない。五月雨式に出てくるんだ。それだけ出来立てを提供しているのかもしれないけど本当のことは分からない。まあゆっくり食ってくれよ」と大佐は言い、クールビズの胸ポケットにしまっていたスマホを取り出してガチャガチャいじり始めた。
楠田は食堂の中央に置かれた大型液晶に映し出されるニュースを見ながらスプーンを動かした。ニュースはさんざん庁舎内の二十四時間ニュースを見ていたので目新しいものは何もなく、五分ほどでカツカレーは片付いた。
「お待たせしました」と楠田。
「じゃあ行こうか」と大佐。
二人はお盆を下げ口に持って行き、並んで記者会館を出た。うだるような暑さが再び二人を襲ってきた。
「では議員会館に行こう」と大佐。
「議員会館、ですか?」と楠田。
「ああ。さっき言っただろ?さっきテレビに出ていた少子高齢化社会担当大臣の政策担当秘書は顔見知りなんだ。まあ、君の着任あいさつという口実で会いに行ってみよう」
「いきなり行って大丈夫ですか?それに今はお昼時ですよ」
「さっき、君がカツカレーをやっつけている間に『これから行く』とメールをしといたからいきなりではないよ。返信はないけど、いないならいないで別にいい。そこでアポをとればいい話だから。なんてったってそこだからね。何度だって出直しはきく」
そう言って大佐は目の前の衆議院第一議員会館を指さした。信号を渡り、議員会館のセキュリティーはやはり堅牢ではあったのだが内閣情報調査室のIDカードでそれを突破し、二人は目指す大臣の部屋に直接向かった。
大臣の部屋の前まで来て大佐がドアをノックすると、中から「はい~」という男の図太い声がしてから少しタイミングがあり、ドアが中から開いて身長二メートルはあろうかという大男が顔をのぞかせた。年恰好は楠田と同じか、少し若いくらいだ。
「ああ、大佐。いらっしゃい。スミマセン。メールいただいたのに返信もしませんで」と大男。
「いや、こっちこそ突然来てすまなかったな。今、時間いいかな?悪ければ出直してくるけど」と大佐。
「大丈夫ですよ。今は私しかいませんから。お昼はお済みですか?まだならご一緒させていただきますけど」
「いや、今、記者会館で済ませてきたところだ。帰りにこっちに寄ったのさ」
「そうですか。立ち話もなんですからどうぞお入りください」
大男はそう言って二人を部屋の中に入れ、応接に案内した。それから冷蔵庫の麦茶をグラスに入れ、二人の前に並べて置き、自分は対面に座った。
「新入りが来たんであいさつに来たのさ」と大佐。大男は楠田の方を見た。
「こちら昨日、国税から出向してきた楠田君。俺の隣に座ることになった」と大佐が手の平で楠田を示しながら言ったので、楠田は「楠田と申します。どうぞよろしくお願い致します」と言って座ったまま一礼した。初対面の楠田は少し緊張していてぎこちない。大男は「こちらこそどうぞよろしくお願い致します」と軽く頭を下げてから立ち上がり、自分の席まで行って小さな紙を一枚取り、また楠田の目の前に戻ってきて両手で名刺を差し出した。
「少子高齢化社会担当大臣の政策担当秘書をしております新田と申します」
大男がそう言うと楠田は立ち上がり、両手でその名刺をうやうやしく受け取った。名刺には「政策担当秘書 新田晋太郎」と記されている。
「スミマセン。まだ名刺ができていませんもので」
楠田が言い訳した。
「朝、テレビを見たよ。親分、随分とやられていたなあ」
二人のあいさつを見届けたところで大佐が言った。
「まあいつものことですけどね」と新田。
「で、何か打開するアイデアでもあるのか?」と大佐。
「アイデアといいますと?」
「今朝、テレビで議論されていた状況を打開するためのアイデアだよ」
「なるほど、アイデアですね?私も政策秘書ですから、色々と調べていますし、施設に話を聴きに行ったりもしています。それ以前に毎日、色々なところから陳情が寄せられます。しかし、やはり行きつく先はお金の問題。お金の問題になると財務省がいい顔しませんし。まあ、それ以外にも外国人介護士を輸入しようとか色々研究はしているんですけどね」
新田がそこまで言うのを聞くと、大佐はソファに浅く座り直し、前かがみになった。大佐と新田の顔の距離が近付いた。
「実はそのことなんだけど」と大佐。さっきより少し声が小さくなった。
「はい」と新田。
「そのことというのは介護士の不足を補うためにどうすればいいのかってことだよ。それに関してこの楠田君は画期的なアイデアを持っていて、内調で極秘に行動しようとしているんだ」
大佐がそう言うのを聞いて楠田は「ちょっと!」と思ったが、ここで言葉を差し挟むと大佐の面目をつぶしてしまいそうにも思い、成り行きに任せた。新田は一瞬、楠田の方を見ると、再び大佐と視線を合わせた。
「画期的なアイデアとおっしゃいますと?」
「俺もなるほどと思ったんだが租庸調の庸をやるというんだ」
「租庸調の庸?」
「租庸調は知っているよな?」
「ええ。私は税制が専門ではありませんが日本史は受験用に随分と勉強しましたから理解しているつもりです。兵役の義務とかそういうことだったと思います」
「残念ながら減点だ。兵役の義務は防人、庸は単なる労役の提供だよ」
「なるほど。なんとなくおっしゃりたいことは分かります。国民に召集令状を配って介護職員として強制的に働かせるってことですね?」
「そう」
大佐は大きくうなずいた。
「しかしそんなことってできるんですか?」と新田。
「本当にできるかどうかはこれから研究する。しかしアイデアは素晴らしいと思わないか?だから君にも協力してもらいたいんだ」と大佐。新田はしばらく考える素振りを見せた。
「それって介護士だけですかね?」と新田。
「介護士だけとは?」と大佐。
「つまりですね、少子高齢化というのは、朝のテレビの討論では介護士の不足を議論していましたけど、問題の人手不足は介護士だけじゃないんですよ。保育士も絶対的に足りない。いや、足りなくはないんだけど、免許持ってる人はたくさんいるんだけど労働市場に出てこない。その原因は分かりますよね?」
「労働条件が合わないという?」
「そうです。介護士と根は同じです。低賃金にしては労働環境が過酷過ぎる。老人介護施設も保育園も市場原理に乗せるととても需給バランスがとれないから必然的に公営になるでしょう?公営にするには予算が必要。すなわち財政の問題になる。さっきと同じ理屈です。協力するのはやぶさかではありませんけど、もしやるんだったら保育士の問題もパラレルに考えていただきたいです」
そう言って、新田は楠田の方を見た。新田と視線を合わせて、楠田の頭の中に昨夜、寝る前に浮かんだことがよぎった。
「それは僕も賛成です。僕も子どもを保育園に通わせているんですが保育園は入園すること自体が既にハードルが高くて、やはり根底には保育士の問題があると思うんです」
楠田はそう言って大佐と新田を交互に見た。
「よし、じゃあ保育士もやろう。もちろん新しい法律が必要になるけど、法律の名前は国民徴庸法でいいかな?」と大佐。
「まだ具体的に何も決まっていないのにいきなり名前ですか?」と新田。
「最近の法律はやたらと長い名前のものが多くていけない。長いのと短いのとどっちが国民に分かりやすいと思う?」と大佐。
「『少子高齢化社会に対応するために国民が一定期間介護職又は保育職に従事することを義務付ける特別措置法』とでもしますか?」と新田。
「結局、いわゆる国民徴庸法とかいって短くされちゃうんじゃないのか?それに時限措置じゃ駄目なんだよ。恒久的措置じゃないと」
「まあ、形は何でもいいですがプロジェクトが始まることは分かりました。で、具体的にはどういう青写真ですか?」
「まだ青写真は描けていないけど、経済財政諮問会議の答申に制度の概要くらいはのっけたいと思ってる」
「答申っていつです?」と新田。
「さあ。例年、六月頃かなあ。予算編成が本格化する前だと思うけど」と大佐。
「じゃあまだまだ時間ありますね。それまでにうちのセンセイを諮問会議のメンバーに押し込めればいいですけど」
新田がそういうと部屋のドアが突然開き、秘書と思われる男性が入ってきた。男性は来客に気が付くと「こんにちは~」と元気に言い、大佐も「こんにちは」と応じて、再び新田を見た。
「ではこの辺で今日は失礼するよ。時間はいっぱいあるし、絶対にやらなければならないことでもない。できなきゃできないで仕方ない。まあのんびりやろう。内閣の方はよろしく頼むよ。これから青写真を描き始めるから」と大佐。
「はい。またゆっくり話し合いましょう」と新田は言って席を立ち、対面の二人も立ち上がり、「どうも失礼しました~」ともう一人の秘書に大佐が言って二人は部屋を出た。
議員会館を出ると再び灼熱の太陽が二人を襲った。
「何だか僕が提案したようなこと言ってましたけど」
議員会館では押し黙っていた楠田がポツリと言った。
「まあいいじゃないか。取り敢えず内閣にも基盤ができたということだ。マスコミにもできたし、このプロジェクトが誕生してからまだ三時間も経過していないことを考えると上出来だと思うよ」と大佐。
「これからどうされるんですか?」と楠田。
「とにかくさっき言った青写真を描いてみよう。これから財務省とか厚生労働省とか色々なところに根回ししないといけないし、いざ法案となったら与野党のセンセイにも話を通さないといけないだろうから」
大佐はいたずらを仕掛ける子どものように楽しそうに言った。
「財務省とか厚生労働省とかにもツテをお持ちなんですか?」
「いや、直接のツテはないけど、間接的なツテをたどっていけば何とかなると思ってる。まあ実際そんなもんだろう」
「すごい人脈ですね?」
「そんなにすごくはないよ。君もその気になればこのくらいのことはできるということだ」
「しかしそんな人脈は僕にはありませんよ」
「君になくても人脈がある人の人脈を利用すればいいということだ。わかるかな?」
「さあ?」
「ケビン・ベーコン数て知ってるか?」
「ケビン・ベーコン数ですか?」
「そうケビン・ベーコン数」
「いいえ、存じませんけど」
「じゃあケビン・ベーコンは知ってるかな?」
「さあ?」
「では、『アポロサーティーン』というアメリカ映画は知っているかな?」
「ああ、それなら。見たことはありませんが何となく筋は分かります。アポロ十三号の遭難と奇跡の生還を描いた映画ですよね?」
「そう。その映画にジャック・スワイガートというパイロットが出てくる。まあ遭難する宇宙飛行士の一人なんだけどね。そのジャック・スワイガートの役をやったのがケビン・ベーコンだよ」
「ああ、じゃあケビン・ベーコンというのは俳優の名前ですね?」
「そう。それでケビン・ベーコン数なのだけれども、俳優ケビン・ベーコンと共演したことのある俳優をケビン・ベーコン数一と勘定する」
「勘定ですか?」
「数を数えるということだよ。そしてケビン・ベーコンと共演をしたことはないけれどもケビン・ベーコン数一の俳優となら共演したことのある俳優をケビン・ベーコン数二と勘定する」
「分かります」
「以下、同じようにケビン・ベーコン数二の俳優となら共演したことのある俳優はケビン・ベーコン数三、ケビン・ベーコン数三の俳優となら共演したことのある俳優はケビン・ベーコン数四というようにどんどん勘定していく。それでどういう結果になったと思う?」
「ケビン・ベーコン数の平均はとても小さいものだったということですね?」
「全世界の俳優についてアメリカの大学で研究が行われたようなのだが、ケビン・ベーコン数の平均は三.五だったそうな。それで誰でも六人隔てればアメリカ大統領に到達すると言われるようになった。ここで重要なことは、世間は君が思っているよりもはるかに狭いということだ」
「そのようですね」
「後は君の力量次第だ。君は人見知りする方かな?」と大佐。
「ええ、だぶん」と楠田。
「きっとそうなんだろうなあ。さっきも新田君を前にしてあまりしゃべらなかったもんな。まあ、君は、頭は良さそうだから後方で作文を練ってくれればいいよ。対人交渉は俺がやるから」
大佐がそう言うとようやく冷房の効いた内閣府の庁舎に到着し、二人は酷暑から逃れることができた。
その日の夕方、帰宅ラッシュが始まる前に新田晋太郎は家路についていた。湾岸の寂しい埋め立て地を一人トボトボと歩く。日はまだ高く、太陽の灼熱が容赦なく降り注ぐ。新田は首に巻いたタオルで汗をぬぐいながらダラダラと歩いた。
マンションという名のアパートに到着し、階段を昇ると、新田ともう一つ別の苗字が記された表札がかかっているドアのノブをガチャガチャと動かした。鍵がかかっているようなので鍵を開け、ドアを開けて「ただいま~」と言った。中からは弱々しく「おかえりなさい」という声が聞こえた。
新田は声のする二LDKの奥に進み、布団の上に横たわりながら新聞を読んでいる彼女を見つけた。新田は立ったまま彼女に「ただいま」ともう一度声をかけた。
「おかえり~。お疲れ様でした。随分早かったね」
彼女は新聞から新田に視線を向けると横になったまま言った。
「国会がなければ秘書も暇さ。それに今日は君が早番って聞いてたし」と新田。
「ゴメン。疲れちゃって何もやってないや。しばらく横になってていいかな?」と彼女。頭を枕に乗せ、タオルケットを半分かけている。枕元にはストローで飲むタイプのチルドコーヒーとせんべいの袋が置かれていた。部屋は閉め切られ、エアコンの風が心地良い。
「晩御飯はどうする?」と新田。
「何も考えてないや」と彼女。
「じゃあ、適当に作るね」と新田。
「お風呂湧いてるからお先にどうぞ。私はしばらくゴロゴロしてるから」と彼女。
そう言われて新田は浴室に移動し、着ているものを脱いで湯船に浸かった。湯は熱かったが、随分と汗をかいていたのでそれも心地よかった。新田は湯船に浸かりながら昼の珍客について思いを馳せ、横になってせんべいを食べていた彼女のことを考えていた。
彼女は妻ではない。一昔前、昭和の時代ならば「内縁の妻」と表現されていたかもしれない。
新田は法曹に憧れて片田舎から上京してきた。彼女はセレブの妻になることを夢見ていた。そんな二人が東京で出会った。
新田は法科大学院に行くためのお金が必要だった。彼女は貢いだ男がビックになってお嫁さんにしてもらうことに憧れていた。その時の二人の利害は一致していた。
二人が出会ったとき、新田よりもお姉さんだった彼女は既に認可保育園の保育士だった。公務員だった。そして大学院生の新田を支えた。彼女は自分の部屋に新田を住まわせ、食事を提供し、法科大学院の安くはない学費まで負担した。
新田は法科大学院を修了し、三回の試験に挑戦し、三回の失敗を経験した。残ったものは「法務博士」という、法曹でなければ頭が悪かったことの証明にしかならない学位だけだった。奨学金という名の借金は彼女のお蔭で免れることができたが、そのことは新田の地位が書生から奴隷へと転落したことを意味していた。
それでも新田は人生そのものを諦めたわけではなかった。法科大学院時代に国会議員政策担当秘書の資格試験に合格していたことを思い出した新田はハローワークの門を叩いた。世間ではあまり知られていないが、国会議員の秘書は回転が良く、ハローワークでも求人を募集していることが稀ではない。その多くは地元の私設秘書だったりするが、捨てる神もいれば拾う神もいる。たまたま政策担当秘書の募集があり、新田は今の地位を得ることができた。
政策担当秘書になれば一気に一千万円プレーヤーとなる。彼女は一瞬喜んだが、すぐに冷静になった。国会議員の秘書は永遠の仕事にはならない。猿は木から落ちても猿だが、国会議員は選挙に落ちればただの人間だ。ボスが選挙に落ちれば公設秘書はただちに無職になる。そんな地位に甘んじることはできない。
新田のボスは既に大臣の地位にあるベテランだ。近いうちに引退の憂き目にあうだろう。それでなくとも国会が始まれば直ちに衆議院が解散し、落選、新田は今の地位を失うかもしれない。
彼女は引き続き保育士の職にとどまっている。改革の波は保育業界も直撃していて、待機児童が増え、保育園不足が深刻な社会問題となっているにもかかわらず保育士の待遇は悪化する一方だ。資本主義の理屈がまるで通用していない。
保育園改革の波は非正規雇用の保育士を激増させた。彼女は幸いなことに正規雇用の地位を手にしている。しかしそれが幸せなことなのかどうかは、本当は分からない。生活は安定しているかもしれない。期末手当ももらえるし、有給休暇だってある。NPO法人が経営する保育園で、非正規として働いている短大時代の同級生と比べるとざっと三倍は稼げているだろう。しかし責任は重い。アラサーだが「主任」の肩書を持つ彼女の元には上司である市役所の児童課、同僚の保育士、園児の保護者、果ては近隣住民まであらゆる方向からのクレームが寄せられ、彼女はそのエンドレスクレームに対峙しなければならない。
精神だけではない。身体の方もボロボロだ。保育士の仕事は肉体労働だ。彼女はもう若くはない。そろそろ腰がやられる年齢に達している。
だから帰宅するといつも横になってしばらくは立ち上がれない。そのまま歯も磨かず、化粧も落とさずに眠ってしまうことも希ではない。そんなときは新田がすべてを立ちまわってくれる。その意味では新田は便利な存在だ。だから手放せない。
二人が出会ったとき、二人はあまりにも若過ぎて、世間を知らなさ過ぎた。今は痛いほど世間を知り過ぎている。だからアラサーであるにもかかわらず結婚の見通しがない。二人とも田舎の親には心配ばかりかけている。そろそろ孫を抱かせてやりたいという思いはある。しかし他人の子どもの面倒は一生懸命見なければならないものの、自分の子どもを産むことができるかどうかはその可能性すら分からない。
政策秘書になってようやく新田は法科大学院時代の学費を彼女に返済することができた。しかし、まだ彼女は新田のことを許してはいない。セレブの妻になるという夢も捨ててはいない。彼女は新田のことを離さない。かといってこの二人が愛情で結ばれているかどうかは分からない。
昼の珍客が言っていた政策が実現できれば、少なくとも今の彼女の仕事の負担を減らすことができるかもしれない。それが今の自分が彼女のためにしてやれるせめてものことなのかもしれない。そんなことを考えながら新田は風呂を出た。
彼女はまだ布団に寝そべり、ゴロゴロしていたが、新聞はやめて、テレビを見ている。夕方の情報提供番組のようだ。
「出たよ~」と新田。
「は~い」と彼女は応えたものの注意はテレビの方に向いている。
「体調悪いのか?」と新田。
「腰がねえ」
彼女は視線をテレビに向けたまま言った。
「整体にでも行って来れば?」
「今日はまだ早いし、そうしようかなあ。でも整体ばかり行ってるとそれだけで保育園の稼ぎが飛んじゃうけどね。整体手当でも出てくれればいいけど」
そう言われて新田はさっきまで考えていたことを思い出した。
「ねえ、ちょっといいかなあ?」
新田はそう言って下半身にバスタオルを巻きつけたまま彼女の枕元にしゃがんだ。
「ん?」
彼女はようやくテレビ画面から注意を新田の方に向けた。
「実は、仕事の話なんだけど、今、うちの大臣が、保育士の待遇改善について随分と攻撃されているんだ」と新田。今朝は介護士だったがその辺は嘘をついた。
「いい話だねえ。攻撃できるものなら私も攻撃してやりたいよ。お前もやってみろって」と彼女。
「それで色々と保育士の待遇改善のための施策を考えないといけないんだけど、どうだろう?君は現役の保育士だから現場のことをよく知っているだろうし、色々とアイデアがあると思うんだけど」
「そりゃ、言いたいことはいっぱいあるよ。お給料のこととか」
「給料を上げろって?」
「そう。あっ、でも私のはいいから、契約の先生とか、福祉員の先生とか、バイトさんとかのね。そっちの方が優先だと思う」
「君自身のはいいの?」
「もちろん良くはないけど、後回しでいいってこと。仕事の内容に比べれば安く雇われているとは思うけど、非正規の人の方はもっと悲惨だもんね。それでそういう非正規雇用の先生達のストレスが私のところに来るんだな。それがたまらない」
「でも、お金はそんなにないんだ。分かってるとは思うけど、国の財政は大変なんだよ。借金が膨大なんだ」
「でも、それって今の年寄りの人達が作った借金でしょ?私達には責任ないと思うけど。年寄りの人達からいっぱい取ればいいじゃない。大体おかしくない?私達が作った借金じゃないのに、親が作った借金なのに子どもが返済しないといけないなんて」
「それはそうだけどお金は使えないんだ。お金を使わないでできる保育士の待遇改善ってないかなあということなんだけど」
話がそれてきたので新田が軌道修正した。
「そんなのあるのかなあ?保育っていったら資源は人だよ。機械化できるわけでもないし。もちろん人型の保育ロボットみたいなのができれば機械化なのかもしれないけど、そっちの方がお金かかるもんね。外国から出稼ぎ労働者に来てもらうにしても言葉の壁があるだろうし」
「実は今日、内閣官房の職員が僕の所を訪ねて来て、こんな話をしたんだ。介護士の不足を埋めるために国民に一定期間介護に従事することを義務付ける法律を作るって」
「ええっ、そんなことできるの?」
疲れていたはずの彼女が上半身を起こした。
「もちろんまだ構想の段階で、内閣でも議論にすら上がっていないよ。日本史は、少しは勉強してるかな?租庸調って分かるよね?」
「ああ、なんか大昔の税金の話かな。何となく言葉は聞いたことがある」
「租庸調の祖と庸と調ってなんだか分かる?」
「うん。祖はお米でしょ?庸は労働の供給かな。調は地域の特産物だったと思う。それを国に納めるってことだったよね」
「まあ、俺も日本史は大昔の話で正確には思い出せないけど、そんなことだったと思う。それで今、話した構想は介護士不足を補うために租庸調の庸を復活させようっていう話なんだ」
「なるほどね。だからお金使わなくてもできる政策ということか。でもそれって介護士だけでしょ?」
「内閣官房の人はそう言ってた。だから俺は協力するのはやぶさかでないけど、保育士も不足していて待遇改善が求められているからやるんだったら保育士にも動員するようにしなきゃって言ったんだ」
新田がそう言うと彼女は少し静かになった。少し沈黙があった。
「へ~、晋ちゃんにしては割とまともなこと考えたね」と彼女。
「まあ、真っ先に君の疲れた表情が目に浮かんだからね」と新田。それは嘘ではなかった。ただそれが愛情の結果かというといささか怪しい。彼女のストレス解消の標的から一瞬でも逃れたいというのが本音のところだった。
「へ~っ、じゃあまだ愛情が残っているのかな?」
「さあね。でも君のことが真っ先に浮かんだのは嘘じゃない」
新田は自分の気持ちを素直に白状した。もし自分の気持ちに嘘をついているのであれば、「愛情の結果だ」とか何とか言って、彼女の機嫌を伺ったことだろう。
二人は一緒に暮らしているし、端から見れば夫婦同然だが、二人が愛情で結ばれているかどうかは二人にもよく分からない。ただ、もう何年も一緒に暮らしていて、お互いがお互いをあたり前の存在として認識している。まだ結婚もしていないのに既に倦怠期に入っているようだった。
「だから、保育園というか、保育士の現状と、何を求めているのかということを色々聞きたいんだ。僕もそのプロジェクトには参加したいから」と新田。
「何を話せばいいの?」と彼女。
「特に悲惨な状況だよ。強制的に労力を動員しなければならないほど、保育士の待遇は限界に来ているってことかな。待遇が悪いことによって事故とか、特に死亡事故とかが発生しているのならそういうことも教えてほしい」
「あいよ~。じゃあ保育園仲間にも聞いてみるね」
「でっ、聞くのはいいんだけど、これはまだ構想中で、変な情報が漏れると、例えばうちの大臣が動いているとか、そういう情報が漏れると頓挫しちゃうからくれぐれも言動には気を付けてね」
「じゃあ、どうすればいい?」
「う~ん。今、こういうことを研究している人がいて、意見を求められているとかだったらいいや」
「は~い」
彼女がそう言うと、見ていたテレビの情報提供番組が最新の芸能情報に切り替わり、彼女の注意が再び液晶画面に向かった。