租庸調の庸   作:山田甲八

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四 フードコート

 内閣情報調査室の執務時間は午前九時半から午後五時四十五分までだ。勤務二日目の昨日、あまりにも早く出勤し過ぎた楠田は、早く出勤してもあまり意味のないことに気付いたので、勤務三日目のこの日は朝の保育園を引き受け、娘を保育園に送ってから出勤することにした。

 妻は朝が弱い。娘も朝が弱く、起こすのは楠田の仕事だ。妻はともかく、娘は無理してでも朝ご飯を食べさせなければならないので娘好みのDVDを目覚まし代わりに掛け、起きた口にシリアルを突っ込んだ。今朝は夫に娘を託すことで完全に安心したのか、何度起こしても妻が目覚めることはなく、七時過ぎに「じゃあ行ってきます」と枕元で妻に一言言って外に出ると、楠田はフラッカーズの前に娘を乗せ、保育園へと出発した。

 保育園の開園時間は午前七時十五分から午後六時十五分までだ。子どもが十一時間も保育園で過ごさなければならないことに関しては賛否両論あるところだろう。一方、労働者の勤務時間の相場は九時から五時までではあろうが、八時半からとか、五時半までとかバリエーションがある。結局、保育園の送迎を担う労働者は家庭と保育園と職場の行き来にその週日のすべてを捧げなければならないので自分の時間などあったものではない。せめて、パートナーと送りと迎えを分担できれば少しでも負担を軽減でき、自分自身の時間を持てるのかもしれないが、この負担は、別にそんなルールが明文で定められているわけでもないのに、女性の方に一方的に押し付けられているのが現実である。

 楠田夫妻は妻の方がバリバリのキャリアウーマン志向で夫の方がむしろゴーイングマイウェイ派だ。世間の常識とは真逆なのでこの夫婦は生きるのが少し厄介だ。

七時十五分、娘に見送られた楠田は、「自分がお迎えにも行かれるようになれば、妻にはもっと職場の付き合いとかさせられるのになあ」とか考えながらフラッカーズで駅に向かった。

 昨日に比べると随分と遅い出勤ではあったが、それでも八時半には職場に到着し、経済部の部屋には総務班の女性職員が来ているだけだった。始業時間までまだ一時間ある。新聞は既に楠田のデスクの上に置いてあり、リモコン操作でテレビのスイッチを入れた楠田は一紙一紙、隅から隅まで読んでは社説をまとめた。昨日から不意に老人介護の問題意識を持ち始めたためか、少子高齢化に関する記事がやたらと目に入る、これまでは読み飛ばしてきたものだったのだろう。

 楠田が社説をまとめていると、午前十時、大佐が現れ「おはよう」と言った。昨日とまったく同じ、コンマ一秒の狂いもない時刻だった。すると同じようにコンマ一秒の狂いもない正確さで総務班の女性職員が登場し、大佐の机の上に麦茶の入ったコップを置き、同じように大佐はそれに口をつけた。

「早速、社説をまとめているのかな?」と大佐。

「はい」と楠田。

「社説もいいけど、国民徴庸プロジェクトの青写真も作ってくれよ」

 大佐にそう言われて楠田はパソコンに向かっていた手を止め、椅子を九十度回転させて大佐の方を向いた。

「それは理解しているつもりですが、青写真って具体的に何をすればいいんですか?」

「昨日も話が出たけど、君は、頭は良さそうだけど、コミュニケーション能力は今一つのようだ。いや、失礼、コミュニケーション能力にも長けてはいるのだろうけど、俺の方が得意な分野のようだ、と言うべきかな?」と大佐。

「まあ、頭がいいかどうかはともかくとして、コミュニケーション能力という分野ではとても大佐にかないそうもありません」と楠田。

「ということで、昨日も言ったけど、君には作文をしてもらいたい」

「確かに文章を作るのは嫌いではありません。しかし、何を書くのかが今一つピンとこないんですが」

「まあ、簡単に言うと法案ということになるかな」

「法案ですか?」

 楠田はそういう話になるであろうと予期はしていた。法律を読むのは苦手ではないし、そういう仕事もしてきたが、財務省にいたわけではないし、立案などはしたことがない。

「まあ、そんなに難しく考えることはないよ。内閣にも国会にも法制局があるからね。むしろ法案を作るのは彼らの仕事だ」

 楠田が黙っていると大佐が言った。

「法制局の存在は知っています。でも具体的にどういうことをやっているのかは知らないのですが」

「法制局は言ってみれば抽象的な法案の状態のものを具体的な条文の形にする作業をするところかな。彼らはその筋のプロだ。もっと言ってしまうと、君は税制のプロだ。税金のことなら法制局の連中よりも君の方が経験も知識も、すべての分野で優っているだろう。防衛なら君や法制局の連中より俺の方が優っている。しかし、第何条第何項というように条文の形にするのは彼らの方がはるかに上だ。どのくらいプロかというと、君は頭の中にある、こうしたいという政策を口にするだけでいい。それだけで彼らはあっという間に条文の形にしてみせてくれるよ」

「そんなもんなんですか?」

「実際のところ内閣法制局の連中の実力はよく分からないのだけれども、衆参両院の法制局の連中はそんなものだよ。それに誤解を招くようなことをあえて言ってしまうと、彼らは閣法、すなわち内閣提出の法案にライバル意識を持っている。彼らは我々と違って行政官じゃないからね。国会こそが国権の最高機関、国民の負託を直接受けた内閣よりも一つ上の存在だと思っている。だから議員立法の方が閣法よりも上だと思っているし、それを担っているのは自分達だというプライドもある。そのプライドをうまく利用するんだよ」

「おっしゃりたいことは分かりましたけど、僕にその法制局を使う力があるんですか?」と楠田。

「君にはないよ。だから昨日も言ったけど、そういう力を持っている人を使えばいいのさ。昨日、新田君を紹介したろ?あの大男だ。彼は電話一本で衆議院法制局を使う力を持っている。それだけじゃない。国会図書館だって使えるよ。だから君はアイデアを出しさえすればいい。後はそういう人達の力が結合されて法律ができ上がるというわけさ。政策なんてそんなもんだ」と大佐。

 楠田はキツネにつままれたような思いを抱いてはいたが、これまでの役人人生が退屈だったことを思うとこの状況を楽しんでやろうかという気分にもなっていた。

 

 何日かが過ぎ、楠田が異動して最初の週末がやってきた。楠田のような、古い言葉でいうところの夫婦共働き世帯では、週末はというと必然的に溜まっている家事をやるということになる。洗濯機をフル回転させ、掃除機をかけまくるわけだ。しかし、仕事と家事、育児の疲れも溜まっているし、やはり人間、自分自身を取り戻したくもなる。だから、楠田夫妻は随時、自分時間を設置して自分を取り戻すようにしていた。夫デー、妻デーという日を設け、その日はもう一人のパートナーに娘を預け、自分は完全にリフレッシュする。そんな時間がなければやっていられなかった。

 この日の土曜日は妻デーであり、普段どんなに起こしても目覚めない妻は目覚まし時計を鳴らすこともなく、一人勝手に目を覚まし、夫と娘に気付かれもせず、どこかに出かけていった。楠田が娘に起こされた時には午前九時を回っていた。楠田は朝風呂に入ると退屈そうな娘を連れ、駅前のショッピングセンターへと出かけた。

ほぼ開店と同時にショッピングセンターの中に入った楠田と娘はキッズコーナーのある四階の「暮らしのフロア」に向かった。まだ開店間もない時間ということで店内はすいていた。

どちらかというと出不精の楠田は娘とツーショットの時間を過ごさなければならないときは大概このショッピングセンターにやってくる。週日は仕事と家事でバタバタしており、週末くらいはゆっくりしたい。しかし、家の中にいると結局、休まるどころか終わりのない家事に時間も労力も費やされてしまう。

 かといって、どこか遠くに遊びに行くとなると時間も労力も、そしてこの場合にはお金も費やされてしまう。クルマでもあればまた別の生活が楽しめるのかもしれないが、若い楠田にはまだその余裕はない。クルマは結局金食い虫で、クルマさえなければ月に二万円くらい余裕でタクシーに乗れてしまうのだ。のんびりできてお金も使わないレジャーとなると、結局、近所のこのショッピングセンターに落ち着いてしまう。

 その点はショッピングセンターもプロだ。消費者の動向というものを科学的に分析しているようで、老若男女が飽きないようなコンセプトが準備されている。独り者は独り者、カップルはカップル、子ども連れは子ども連れ、高齢者は高齢者の、それぞれのエンターテイメントが準備されていて、ここを訪問する人々は飽きることなく長時間を過ごし、なおかつ少なくないお金をそこに落とすような仕組みが作られている。

 楠田はキッズエリアで娘を遊ばせ、自分は娘から目を離さないところに置かれたベンチに座って異動初日に買った少しボリュームのある雑誌の続きを読んだ。

 キッズエリアは特に何か面白いものがあるというわけでもない。しかし娘は飽きもせず、今日出会ったばかりの見ず知らずの子ども達と熱心に遊んでいた。

 そのうち正午が近付き、楠田はお腹がすいてきた。しばらくすると娘も、遊びに飽きたようではなかったが、お腹がすいたようで「パパ~、お腹すいた」と楠田の元にやってきた。

「じゃあフードコートにでも行こうか。何か食べたいものでもある?」と楠田。

「ドーナツ食べたい」と娘。それは聞かなくても分かっていることなのだ。娘の食べたいものはドーナツとラーメンとアイスしかない。そしてこの三種類は確実にフードコートにある。

 フードコートはキッズコーナーと同じフロアにあり、既に七割くらいの席が埋まっていた。座席の奥にはファストフードやうどん屋、ラーメン屋、ドーナツ屋、アイスクリーム屋が屋台のように並んでいる。楠田はそのうちのドーナツショップでドーナツ四個と自分用のコーヒーを買い、あいている席に座って娘と向かい合った。あちこちからラーメンができ上がったことを教えるアラーム音が聞こえる。

 娘はドーナツに注意を寄せつつも周囲をキョロキョロ見回していた。楠田はコーヒーを啜りながら雑誌の続きを読んだ。

しばらくすると「楠田君じゃないか」という聞き覚えのある少し低い男の声が聞こえ、楠田が雑誌から目を離して声の方向を見上げると、目の前には車椅子に座ったおばあさんの姿があり、その後ろにはその車椅子を押す、中年男の立っている姿が見えた。よれよれのポロシャツを着た風貌はまったくさえないが、目だけはギラギラしている。

「ビックリしたなあ。こんなところで会うなんて」と大佐。楠田はもう一度中年男をしっかりと見て、それが正真正銘、南条潤之助大佐その人であることを確認した。

「ああ。おはようございます、というかもう『こんにちは』の時間ですかね。大佐の方こそどうされたんです?この辺にお住いなんですか?」と楠田。同僚となって時間がたつが、お互いに個人情報は提供していなかった。

「まあ近所といえば近所だけど。M市に住んでるんだ。君は?」

「僕は隣のR市に住んでます。まあR市といっても最南端で、ほとんどM市との境ですね」

「じゃあ最寄り駅は国分寺かな?」

「そうですね」

「そうか。じゃあ最寄り駅は俺と同じだな。で、今日は買い物って訳か?」

 大佐にそう言われた楠田は顔を少し動かして娘を見た。娘はドーナツを中断し、突然現れた中年男とパパを見比べていた。

「娘の子守ですよ。特に買い物に来たわけではありません」

「奥さんも来てるのかな?」

「妻は、今日は自分時間です。だから子守なんです」

「自分時間?」

 大佐はすぐには飲み込めないようだった。

「普段、育児を妻に押し付けているものですから、休みの時くらい、自分の自由な時間を満喫してもらいたいと。そういうことです」

「君も、案外、奥さんの尻に敷かれているんだな?」

「別にそういう意識はありません。それに僕も娘と二人きりで過ごす時間も欲しいですから」

 楠田はやや抗議する口調で言った。

「そうか。せっかくだから奥さんにもあいさつをと思ったんだけど、またそれは次の機会かな。まあ、俺も子守みたいなもんだよ。ちょうどよかった。食うもん買ってくるんで、ちょっとおふくろを見てもらっててもいいかな?」と大佐。

「見るって?」という楠田の問いには答えず、大佐は娘の隣の椅子をどかし、あいたスペースに母の車椅子を入れ、母に「いつものでいいね?」と一声掛けると、母の承諾を得る間もなく売り場の方に消えていった。

 大佐の後ろ姿を見やってテーブルの方に身体を向けると、母と目が合った。

「あんた、ノリオちゃんだっけ?」

 それが楠田を見た母の第一声だった。楠田は刹那に母の置かれている精神的な状況を理解した。

「いいえ。僕の名前は楠田隆といいます。お母さんの隣に座っているのは僕の娘です。今週、…この月曜日からなんですけど南条さん、…息子さんの隣の席で仕事をさせてもらっているんです。息子さんとは職場の同僚なんです」と楠田。

「あれ、ノリオちゃんじゃなかったっけ?随分、似てると思ったんだけど。潤之助は今、どこに勤めているのかねえ?」と母。

「今は内閣官房に勤めています」

「内閣官房?随分、難しいところだねえ。あの子は自衛隊にいたんじゃなかったっけ?」

「ええ。それで今は内閣官房に出向しているんです」

「へ~。何回聞いても忘れるんだろうけどね。ここは一体どこかね?」

「ここは武蔵小金井の駅前のショッピングセンターです」

「武蔵小金井ってどこだったかねえ?聞いたことはあるんだけど。そもそもあたしはどこに住んでいるんだっけねえ?東職人町じゃないよね?」

「スミマセン。僕はまだ南条さんがどこに住んでいるのかは存じていません。ただ、僕の家の近くではあるようです」

「あんたはどこに住んでるの?」

「R市のJ町です」

「聞いても分かんないねえ。この子はあんたの子かい?」

 母の注意が隣の娘に向かった。

「はい。僕の娘です」

「いくつになるの?」

「三歳です」

「そうか。あんたに子どもがいるとは知らなかったよ」

 母はまた別の世界に入っていったようだった。楠田がそれに答えられず、二人がしばらく沈黙していると、「お待たせ~」と言いながら、二つのトレイにうどんと天ぷらをのせた大佐が戻ってきて、そのうちの一つを母の目の前に置き、もう一つは母の対面の空いているテーブルの上に置いて自分はそこに座った。母は「まあ、こんなおご馳走初めて食べる」と言いながら箸を取り、掌を合わせて目を閉じた。

「先週も同じもの食べたんだけどなあ」と大佐。

 母は目を開けると「いやあ、あんた達が兄弟だったとは、初めて知ったよ」と言った。

「また、何か勘違いしてるね?この人は職場の同僚。今週から俺の隣に座ることになったんだよ」と大佐。

「だってノリオちゃんだろ?」と母。

「はあ?ノリオちゃんって誰?」と大佐。

「ノリオちゃんは誰なんだろう?あたしのいとこになるのかなあ。もう何年も会ってなかったから分からないや。あんた分かるだろう?」と母は楠田に振った。

「スミマセン。僕はノリオちゃんじゃないんで分からないんです」と楠田。

「そんなこといいからさっさと食ってよ」

 大佐がそう言うと母の注意がうどんに向かい、母はそれを啜り始めた。外はうだるような暑さで、うどんもさすがに冷たい汁を掛けたものだ。

「すまんな、訳の分からない話をさせて」と大佐。

「いいえ」と楠田。

「まあそういうことだ」と大佐は言い、自分もうどんを啜った。

「お母様の介護をされているんですね?」

「そう。本当は施設に入れたいんだけどどこもいっぱいでね。見てのとおり、うちのおふくろは自分で食べられるし、排せつもできる。頭の方は随分と認知症が進んでしまったけれど、人間の生きる基本っていうのは食事と排せつだからこの二つができる人間の面倒は後回しということになるんだ」

「ご家族の方が見ていらっしゃるんですか?」

 楠田は大佐が自分と同じように、家族に自分時間を与えるために今日、ここに母を連れてきたのではないかと理解しようとした。

「残念ながら今は俺一人で見ているんだ。妻はいたんだが、介護のことで参ってしまってもういない。一人息子は外国に留学していて、今は三DKに俺とおふくろとで二人暮らしだ」

「一人で介護をされているんですか?」

 楠田は少しビックリした口調で言った。

「う~ん。まあ家族はいないけど、今は訪問介護とかデーサービスとか色々な形態の介護サービスが受けられるからそれを利用しているというところかな。おふくろはさっきも言ったけど食べると排せつはできるから要介護認定は受けられていない。今は要支援二だ。要支援二って言っても君には分からないだろうけど、まあ、世間ではそれほど介護が必要だとは思われていないってことだよ。世の中にはもっと酷い状態の人がたくさんいるからね」

「随分と親孝行なんですね」

 楠田はそう言って引退はしたものの元気に第二の人生を送っている自分の両親のことを思った。

「そうだよ。親孝行だ。誰にも褒めてはもらえないけどね。自分で自分にご褒美をあげたいくらいだ。…ところで君は読書が趣味なのかな?」

 大佐の注意が、楠田の読んでいた雑誌に移った。雑誌は文芸誌と総合誌を合わせたようなものだった。

「そうですね。嫌いではありません。むしろ好きかもしれません」

「作文も得意だと言っていたな」

「得意だとは言いませんけど、嫌いではありません」

「それは得意だと言っているようなもんだよ。俺も子どもの頃は親に本をたくさん読まされたんだけど、決まって偉人伝だったよ」

「伝記ですか?」

「そう。親に、そこでうどん啜っているおふくろに読まされたんだ」

 母は少し耳が遠いようで、大佐の言葉に注意を向けてはいないようだった。うどんに集中していた。大佐は続けた。

「小学校低学年の小さい頃からだった。正確にいつからだったかは確かな記憶はないけど、案外、漢字が少し読めるようになってすぐだったかもしれない。俺は元々本を読むのが嫌いだったから読まないでいたら、今度は漫画の偉人伝を買ってきやがった。だから仕方なく、俺は読んだよ。別に偉人伝が読みたいのではなく、漫画が読みたかったということでね。なんでそんなにしてまで親は俺に偉人伝を読ませたと思う?」

「さあ。子どもに立身出世してほしいからですか?」

「俺も最初はそんな風に考えていた。ところがそうじゃなかったんだな。孝行息子に育てるためだった。ボーっと読んでいると気が付かないけど、偉人ってのは実はみんな親孝行なんだよ。野口英世だって単身アメリカに渡っているけど、結局、「シカ」とか言ったかな?自分のおふくろをとても大事にしている。てことで、俺は偉人伝を読んでいるうちにすっかり洗脳されてしまったんだよ。おふくろとしてはしてやったりだ。それでこのざまって訳だ」

 そこまで一気にしゃべって大佐はうどんを啜った。

「それはいくらなんでも言い過ぎじゃないんですか?」と楠田。

「作ってると思ってるだろ?ところがおふくろが今の状況になって、財産とか、おふくろの管理しているものを全部整理したんだけど、昔の日記とかも出てきたんだ。まあ、言ってみれば日記兼家計簿といった方が正確なんだけど。そこにそう書いてあったんだよ。孝行息子に育てるために偉人伝を読ませて洗脳するって。本当に洗脳という言葉が使われているんだ。まだうちにあるから機会があったら見せてやるよ。まさしく完全犯罪だよ。誰もそんな犯罪の意図を見抜くことはできないからね。もちろん世の中には親不孝な偉人もいるのかもしれない。しかし、そんな偉人は伝記が出版されていないか、出版されていても親が買い与えないかのどちらかで俺が目にすることはなかった」

「お父様はどうされたんですか?」

「おやじは俺の大学入学を見届けるように死んでいったよ。おやじは癌だったんだ。それでも随分と生き延びたんだけど、俺が防衛大に入ったら安心したのかそれからはあっという間だった。まあ、防衛大の制服姿を見せて安心させたんだからここでも俺は親孝行だったんだろうなあ」

「今のポジションにいるのは、…制服を脱いでしまったのは介護をするためですか?」

「結果的にそうなっているね。ここだけの話だけど、実は俺は防衛大を首席で卒業したんだ。そんなこともあって、入隊してしばらくはトップランナーだった。だからおふくろがいなければ俺も地方総監くらいにはなれたのかなあっていう思いはいつも持っているよ。でももう無理だろうなあ。あそこで残りの公務員人生を全うするんだと思う」

「僕はまだ介護は無縁ですけど、大佐のお気持ちは分からないでもありません。僕もそこにいる娘の面倒を見ているわけですけど、独身者とか妻が専業主婦とか、百パーセント仕事に注力できる連中がうらやましく思うことが時々ありますよ」

 楠田は大佐を慰めるように言った。

「なるほどね。子育てと老人介護は絶対に逃げられないという文脈では同じということか。でも決定的に違うところがあるぞ。子育てはいずれ終わりが来る。もちろん介護もいずれは終わりが来るんだろうけどそれがいつになるかは誰にも分からない。子育てはある程度見通しがつくじゃないか。俺は経験者だから何でも言えるけど、子どもはいつまでも子どもじゃない。あっという間に『メシ、カネ、うるせえ』しか言わなくなるよ」

「うちは娘ですけど」

「でも離れていくのはあっという間だ。君も今は『パパ、パパ』って言ってもらって一緒に風呂に入ったり、同じ布団で寝てくれたりしてもらえるのかもしれないけど、そのうち『パパ臭い』とか言われるようになるぞ」

 大佐がそう言うと黙ってうどんを啜っていた母が「あたしはもうお腹いっぱいだからあんたが天ぷら食べなさいよ」と言った。大佐と楠田の会話はまったく耳に入っていないようだった。それを聞いて大佐は何も言わず黙って母のトレイの上の、うどんの入ったどんぶりとは別の皿に取り分けられているイカの天ぷらをはしでつまんで自分のどんぶりの中に入れ、つゆに少し浸して口の中に入れた。

「親孝行を後悔されているんですか?」と楠田。少し、咀嚼のタイミングがあって、「貧乏くじを引かされたという思いもある。しかし、貧乏くじか当たりくじかは、本当はまだ分からないのかもしれないし、それがくじかどうかも分かっていない。でもやはり出世している同期とか見ると穏やかでない気分にもなる。今でも同期会とかにはたまに行くからね。世間には『親孝行できるなんて幸せだ』っていう輩もいるよ。そういう連中は親不孝のまま親を亡くしていたりするんだけど、結局、人間ていうのは我ままで、いつもないものねだりばかりしているだけなのかもしれない」

「確かにそうかもしれません。僕はやはり娘にぐずられたりすると嫌になっちゃいますけど、不妊治療とかで苦労している人の話とかを聞くと、自分は恵まれているのかなと思ったりもします」

「まあ、どんな人生も自分の思いどおりにはいかないということで、もし思いどおりにいく人生があるとしたらそれはどこかが間違っているということなんだと思う。ともかく、今日、ここで君に会えてよかったよ。これで、俺がなんで国民徴庸法に熱心なのか、少しは理解してもらえたと思う」と大佐。

「はあ?」と楠田。

「つまり、俺が国民徴庸法にこだわる第一の理由は極めて個人的な動機ということだよ。この母親を施設に入れたいんだ。そうすれば俺もおふくろも今よりは少し幸せになれると思うんだ」

 大佐はしんみりと言った。

「なんでこんなことになっちゃったんでしょうね?親孝行がこんなに辛いものになってしまうなんて」

「それは日本人が長生きし過ぎたのさ。平均寿命を延ばすのは、それはそれで政策としては間違ってはいないかもしれないけど、やはり過ぎたるは及ばざるがごとしさ。頭の寿命と身体の寿命を乖離させてまで長生きさせる正義って一体何なんだろう?確かに国民皆保険制はすぐれた制度だとは思う。でもここでも過ぎたるは及ばざるがごとしでさ。アメリカみたいに病気になったら死ぬか破産するかしかないというのも、それはそれで福祉国家としてどうかと思うけど、もうとっくに頭の寿命が尽きた人の心臓を、税金を使って極限まで動かすっていうのもどうかと思うけどね」

「税金ですか?」

「君は税金の専門家だな。だからよく分かるだろう?君は税金を集める方法だけではなく、その使われ方もよく知っているはずだ」

 確かに税金がどのように使われているのかを広報するのも国税官である楠田の仕事であるから「よく知っているはずだ」と言われるとそのとおりなのだ。「長生き」はとても好ましいものであるはずだ。しかし、今の自分がどうあるのかさえ分からなくなってしまっている人が、ただ心臓が動いているという理由だけで生き続けるというのはどんな意味があるのだろう。楠田はよく分からなかった。

 

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