Kチームが結成されて間もなく、法案は衆議院法制局の手によって瞬く間に完璧な法文の形になった。ほぼ同時に世間は夏休みになり、Kチームも夏休みに入った。夏休みは政治ニュースも暇で、永田町にも霞ヶ関にも大きな動きはない。
業務が再開されたのは十月に入ってからだった。この年は六月に参議院選挙が行われたことから国会議員が疲弊しており、さらに参議院選挙後の八月に短い臨時国会が開催された影響もあって、なかなか秋の臨時国会が始まらず、ようやく開催されたのは十月も半ばになってからだった。
国会が始まると国会議員政策担当秘書のコングは猛烈に忙しくなる。ただでさえ、忙しいのに、コングの場合はボスが国務大臣なのでその忙しさが尋常ではない。下町にある自宅に帰るのも夜は遅く、朝は早い生活となる。そこが自宅と言えればだが。
衆議院での代表質問が終わった日の夜の十時頃、コングは違う名字の表札が並んだ生活の本拠地に戻ると、部屋の中にはテレビをつけ、電気をつけ、窓を開けたまま眠っている彼女の姿を見つけた。メイクは落としていなかったのできっと歯も磨いていないのだろう。枕元にはいつものようにストローで飲むタイプのカフェオレと口が開いたせんべいの袋が置かれていた。仕事から帰ってすぐにこの形になったようで部屋着にも着替えていない。むろん風呂にも入っていないのだろうし、晩ご飯も食べていないのだろうとコングは考えた。晩ご飯も食べられないくらい疲れ切ってしまうことは彼女にとって稀ではない。
コングは彼女の傍により、彼女を揺り動かして「ただいま」と言った。
「う~ん」と言ってから少し薄目を開き、彼女は「帰ってたんだ」と言った。
「今、帰ったとこだよ。この状況だとまだ歯磨いていないよね?」とコング。
「ゴメンゴメン。テレビつけっぱなしで寝ちゃってた?」と彼女。
「テレビや電気はともかく、歯は磨いた方がいいよ。それとメイクも落とした方が」
「じゃあ、メイク落とし持ってきてくれる?」
「はいはい」
コングはそう言ってネクタイにスーツ姿のまま、近くにある鏡台の引き出しを開け、メイク落とし用ジェルの入った瓶とコットンを取り出し、彼女に渡した。こんなことは日常茶飯事なのでコングの方も慣れている。
「ありがとう。今日も遅かったんだ?」
彼女は横になったまま、瓶を開け、ジェルをコットンに垂らすと顔を拭き始めた。
「国会中は仕方ないよ。それで、君に頼みがあるんだけど」
「へ~。珍しいね。晋ちゃんが私に頼み事なんて」
「この前、この前って言ってももう三ヶ月前になるけど国民を介護職や保育職に強制動員するプランがあるって言ったよね?」
「ああ、覚えてるよ。その後、どうなったかは聞いてないけど。もっと人手が増えれば私も楽なんだけどね」
彼女が眠そうに受け答えする。
「下地ができたんでそろそろプロジェクトを進めるんだけど、その件で一つお願いがあるんだ」
「うん」
「君はブログをやってるよね?」
「ああ、まあね。『現役保育士の愚痴』っていうやつね。チェックしてくれてるんだ。匿名だけど、発信者が私だってことがばれたら、私も公務員だから処分されちゃうかもね。滅茶苦茶愚痴ってるし」
「匿名の方がいいんだ。それで、今の保育園、とにかく人手が足りないってことを発信してほしい。そして、さらに人手不足解消のためには徴兵制のように国民を強制動員するしかないってことをそのブログの中で言ってほしいんだ」
「それで、…どうするの?」
「それをネタに国会で誰かに質問させる。そしてうちの大臣が答弁するんだ。そういうプランも実はあるとね」
「へ~。私、政治のことはよく分からないけど、要するにやらせってこと?」
「そうかもね。とにかく、保育士の数を増やすためにも、君にも力を貸してほしい」
「それは構わないけど、文章は晋ちゃんが考えてね。そのとおりにアップするから。ところでそこの暇な人」
彼女はそう言ってメイクで汚れたコットンをコングの目の前に差し出した。
「これ捨てといて、それと歯磨きセット持ってきて」
横になったままの彼女は自分のことに手一杯で、コングの言ったことに強い興味は持っていないようだった。
同じ頃、国分寺駅近くのスナックのカウンターには女を待つ男の姿があった。歳は大佐と同じくらいだが、金をかけているのか若作りで、実年齢よりもかなり若く見え、狭い店の中で一人水割りをチビチビやっている。他に客はなく年季の入ったママは熱心に男に話しかけるのだが、男は興味がないようで、足を組んだままスマホいじりの方に夢中になっている。
ママは男が何者かを知っていた。とある大新聞の政治部長だ。別に本人にそう聞いたわけでもないし、名刺をもらったわけでもない。その男は何度かこの店に足を運んでいるのだ。そして、二回りは若いと思われる女と会っている。状況から察してきっと情事の待ち合わせにこの店を使っているのだろう。ママはそう考えていた。もちろん大切なお客様の秘め事、他言するわけもない。
和服のママが水割りのお代わりを催促しようかどうしようかと迷っていると、入口のドアが開き、女が入ってきて、ママがやや退屈な声で「いらっしゃい」と言った。ドアの方を振り返った男は女にゆっくりと微笑みかけ、黙って右手を挙げた。
「ごめんなさい。お待たせしちゃって。それにこんな所まで来てもらって」とエミータ。
「そんなこと気にしないでいいよ。俺とやっこちゃんの仲じゃないか」と政治部長。
それを聞いてエミータは微妙な深呼吸をした。二人がどういう関係であるのかについて二人の認識にずれがあることをエミータは政治部長に会うたびに意識する。エミータはかつての上司と部下としか思っていない。政治部長はそれ以上だと思っている。
「それと、申し訳ないんですけど、仕事の途中に抜けてきたので、そんなに長くはいられないの。今日は泊まりなんで」
エミータがそう言うと、政治部長は一言「あそう」と言ったが、その表情に落胆の色は隠せなかった。その雰囲気をちょうど壊すようにママがエミータに向かって「何にする?」と聞いた。
「アプリコットブランデーあります?」とエミータ。
「あるよ」とママ。ママはこの店に女子が入ってくるのが気に入らないようで、ぶっきらぼうだ。
「じゃあ、チャーリーチャップリンを」
エミータが言うと、ママは再びぶっきらぼうに「あいよ」と言い、カウンターの下からシェーカーを取り出した。和服とはまるで似合わないがママは気にしていないようだった。
「君が久し振りに俺に会いたいっていうんで期待したんだけど」と政治部長。
政治部長の期待とエミータの期待は最初から違っている。それをエミータは最初から完全に理解しているのだが、政治部長はまったく理解していない。
「それはスミマセン。ご期待に沿えなくて。でも、これから私が出すものは部長の期待以上だと思いますよ」とエミータ。
「仕事は大変なのか?」
政治部長は何とか自分のペースに持ち込もうとする。自分のペース、すなわちそれは下心だ。
「ええ」
エミータは適当に相槌を打つ。
「なんなら俺のところに永久就職するでもいいんだよ。もちろん俺はこんなに歳がいってるから子供がなつくには時間がかかるかもしれないけど、君と子ども一人の面倒を見るくらいならなんてことない。今まで待った甲斐があったってもんだ」
「今日は、日頃の感謝を込めての情報提供があるの」
エミータは政治部長の真意を無視して、自分のペースに持ち込んだ。
「情報提供?」と政治部長。
「今、介護職員や保育士が足りなくて大変なことになっていますよね?それについて部長はどう考えてます?」とエミータ
「……それは、まあ社会部の守備範囲になるのかもしれないけど、介護職や保育士の成り手がなくて、随分とひどいことになっていることは理解しているつもりだよ。殺人事件も起きているしね。介護者が被介護者を殺したり。子どもが親を殺すだけでなくて、施設の介護職員が入居者を殺したりね。まあ、それは極端な例で、そんなに数はないだろうし、あっちゃ困るんだけど、それと紙一重のことは日常的に行われているんだと思う。親や子に手をかけようとしてハッとするとかね」
「実はこないだ、久し振りに永田町の宴席に出たんですけど…」
「宴席って、夜の席にかい?」
政治部長にそう言われて、エミータはどう言い訳しようかと一瞬、冷やりとしたが、軌道修正に時間はかからなかった。
「いいえ。子どもがいるのに夜の席なんて無理じゃないですか。昼食会があったんですよ。それで、その日はたまたま仕事が休みで、それでも仕事には行ったことにして、子どもは保育園に預けて、それでそのランチミーティングに参加したんです」
「なるほどね。やっこちゃんにもたまには息抜きが必要って訳だ」
「まあ、ランチミーティングっていっても、昼間からビール飲んでましたけどね。でも、名目はあくまでも勉強会です」
「それだけのハンディを抱えて、なお勉強会に参加かい?それもすごいね」
「別にすごくはありません。ただ、…少し野心があるだけですよ。それで、その席に、少子高齢化社会担当大臣の政策担当秘書殿も参加していたんです」
「それで?」
「彼、昼間だっていうのに飲み過ぎたようで、忘れ物をしちゃったみたいなんですよね」
エミータはそう言ってA四サイズの角二封筒を政治部長の前においた。
「盗んだのか?」
「人聞きの悪いこと言わないでください。占有離脱物横領でもないですよ。昼食会が終わって、参加者は三々五々帰っていったんですけど、やはり最後に残る人が忘れ物とかチェックするじゃないですか。忘れ物をチェックしていたらこの封筒が残っていたって訳です」
エミータがそう言うのを聞きながら政治部長は封筒を開け、内容物を引っ張り出した。「国民徴庸法(案)」というタイトルの紙数枚を綴じたものが現れた。
「忘れ物は警察に届けないといけないんじゃないのか?」と政治部長。
「確かにこれが財布とか携帯とか誰が見ても価値のあるものだったら届けますよ。でもペットボトルとかだったら届けないですよね?」とエミータ。
「ペットボトルはゴミだろ?同列には扱えないよ」
「じゃあ、中身の入っているペットボトルだったらどうします?ゴミではないですよね?」
「ゴミと解釈したというわけか?でもその秘書の持ち物だということは分かっていたんだろ?」
そう言いながらも政治部長は紙をペラペラとめくった。興味はあるようだ。少し静かな時間が流れ、ママはエミータの前にできたてのチャーリーチャップリンを置いた。エミータは政治部長を観察しながらそのグラスに口をつけた。
「彼はたまたま私の隣に座ってましたからね。私はこれを拾ったけど、彼に届ける義務はない。政府の機密ってこうやって漏れていくもんなんですね」とエミータ。
「さすがは突撃記者だな。それでこれをどうするつもりだ?」と政治部長。目は紙の方を追っている。政治部長の興味がエミータから紙の方に移ったようだ。
「日頃の感謝を込めて部長に差し上げますよ。スクープですよ」
「しかし、スクープはスクープで裏をとらないといけない。誤報だったら自爆しちゃうからね。情報提供者は取材源の秘匿ということで逃げ切れるだろうけど、情報の信ぴょう性は担保しないと」
「そのとおりです。さすがは慎重ですね。でもチキンレースですよ。私が手に入れられるくらいだから、国会で質問とかされちゃうかもしれませんよ。そうしたらせっかくの特ダネ、抜かれちゃいますよね。まあ、私としては部長に手柄を差し上げたいだけですけどね」
エミータがそう言って、カクテルに口をつけると政治部長はニヤリとした。
「君とは一度ゆっくり話をしないといけないようだな」
「じゃあ、今度は二人だけのランチミーティングでもしましょうか?」
エミータはそうリップサービスすると、もう一度カクテルに口をつけ「じゃあ、今夜はこれで。また連絡します」と言って席を立ち、政治部長に手を振ってスナックから出ていった。
一人残された政治部長は再び水割りに口をつけ、渡された書類の続きに目を向けた。
さらに一週間が過ぎ、国会でも予算委員会で論戦が繰り広げられるようになった十月の末の午後六時頃、大佐はフェイスを連れて霞ヶ関を歩いていた。もう日が暮れるのは早くなっていて、辺りは暗い。
いつもと違うのはこの二人に内閣情報調査室経済部主幹が同行していることだ。経済部主幹は、肩書は内閣参事官だが、内閣情報調査室経済部内では数人いる内閣参事官の同輩中の首席であり、事実上、経済部長の職にある。
今日、これからどこに行くのか、フェイスは知らされていない。ただ「ビックリするようなところに連れて行ってやる」と言われているだけなので、また何か大佐は企んでいるのだろうとフェイスは考えていた。主幹は承知しているようだったが、それでもフェイスには教えてくれなかった。
大佐は主幹を先導するように霞ヶ関のとあるビルのアングラに降りていった。霞ヶ関というと官庁街というイメージがあり、それはそのとおりなのだが、霞ヶ関ビルに代表されるように、オフィス街も一部ある。とあるビルはその数少ないオフィス街の一角にあり、中には飲み屋が入っている。霞ヶ関とはいってもそこは所詮サラリーマン相手の店だ。
「いらっしゃいませ」と元気の良い店員に大佐は「幹事だ」と名乗ると、「お待ちしておりました」と言われ、奥の座敷に案内された。座敷では二十人ほどの宴席がセットされ、既に十人ほどが来ていたが、どれも汚い、くたびれたおじさんばかりだった。
大佐を先頭に座敷に入場し、「お待たせしました~」と言うと、座っているおじさん達が五月雨式に「お疲れ様~」と声をかけた。
主幹は席の端に座っている、顔見知りと思われるおじさんの対面に座り、大佐は真ん中付近に陣取っているツルとフサのコンビの対面に座った。二人はともに恰幅がよく、ツルの方がフサよりも幾分、年齢がいっているように見える。フサはロマンスグレーといっても的外れではない。ただ、着ているスーツがいかにも安売り店のつるしであることは見て取れる。安月給なのか、高給でも家のローンや子どもの教育費にそれ以上のお金を費やさなければならないかのどちらかなのだろう。
「スミマセン。お忙しいところわざわざお越しくださいまして」と大佐。いつもグイグイ来る大佐が珍しく気を使っているということはそれなりに気を使う相手なのだろうとフェイスは理解した。
「まあ、忙しいのは確かにそのとおりだけど、この会は楽しみだからね。終わったらまた役所に戻るけど、大佐がこういう会を開催してくれているのは本当にうれしいよ」とフェイスの対面に座っているツルの方。
「そうおっしゃっていただいて光栄です。ところで今日のこの会合、どういう集まりかということを実はこの新顔の楠田君には説明していないのです。ちょっと彼を驚かせてやろうと思いましてね。最初に紹介させていただきます。この新顔が七月の異動で国税から出向してきた楠田君です」
大佐はそう言って隣のフェイスの方を向き、続けた。
「楠田君。君は国税の出身だからこの目の前の紳士がどなたかご存じだよね?」
大佐にそう言われたがツルの顔にフェイスはまったく心当たりがない。どこかで会ったような覚えもないし、新聞雑誌などで見た記憶もない。
「スミマセン。存じ上げません」
しばらく考えはしたものの思いつくはずもなく、フェイスは早々に降参した。
「何を言っているんだ君は。このお方は国税庁長官殿であらせられるぞ」と大佐。
「あっ、そうでいらっしゃいましたか。申し訳ございません。それは、……存じませんでした。……長官とおっしゃいますと、僕にとってはとてもとても雲の上のお方なので」
フェイスの言葉は大袈裟でも何でもなかった。フェイスのようなノンキャリアの税務職員にとっては、国税庁長官はおろか東京国税局長ですら雲の上の存在だ。正直、長官の顔はもちろん、名前すらも知らない。
「ハハハ。まあいいよ。実際にそんなもんだろう」
ツルの長官はまったく意に介していないように言った。
「それで長官の隣に座っていらっしゃるのが前経済部主幹の現財務省主計局主計官殿であらせられる」と大佐。大佐の対面に座っているフサの主計官はただニコニコしながらうなずいた。大佐は続けた。
「ということで君には黙っていたけど、これで今日の会合の趣旨をお分かりいただけただろう。この会合は内閣情報調査室経済部歴代主幹の集まりなんだ。歴代会というわけさ」
「そう。大佐が着任するまではこういうことはやっていなかったんだけど、大佐殿がこういう場を設けてくれてね。我々にとっても期別を超えた情報交換の場になっていてなかなか楽しい集まりになっている。大佐には感謝感謝だよ」と長官。
「ところで話は変わるのですが、今、全国的に介護や保育の担い手が足りないことが社会問題となっていることは十分ご承知いただいていらっしゃいますよね?」と大佐。
「何だ。何を言い出すかと思ったらいきなり金の無心か?」と主計官。
「いえいえ、主計官殿に金の無心など恐れ多すぎます。そうではなく、ここ最近、少子高齢化社会担当大臣も随分とっちめられていますので、その対策を内閣官房でも研究しているのです。その話をまずお耳に入れたいと思いまして」と大佐。
「対策?」と長官。
「実はこの楠田君、さすがは長官の部下でとても頭がいいのです。この閉塞感を打破するために画期的なアイデアを出してきたのです」
「金を使わないで人手を集めるアイデアがあるのか?」と主計官。
「まさか打ち出の小槌じゃあるまいし」と長官。
「それがあるんですよ。楠田君、言い出しっぺの君の口から直接、上司に報告してみたまえ」
大佐がフェイスに振った。フェイスはいきなりのことで心の準備ができていなかったし、「言い出しっぺは大佐だろう」という思いもあったが何とか口を開いた。
「…実は、…租庸調の庸を復活させることを検討しています」
その一言で専門家である対面の二人はフェイスの言いたいことのすべてを理解したようだった。
「なるほど赤紙で強制動員か」と長官。
「しかし、そんなことができるのか?」と主計官。
「もちろんハードルは高いですけど、不可能ではないとこの優秀な楠田専門官は分析しています。きっと大丈夫だと思いますよ」
フェイスが黙っていると大佐が自信満々に言った。
「租庸調の庸ということは税制改正の一環で行くのかな?」と長官。
「そうですね。そうなるかもしれません。そこはまだ勉強中です」と大佐。
「では主税局長にも話はしておこう。まあ、金を使う話ではないから反対はしないと思うし、渡りに船なんだろうけど。もう少し詳しく聴かせてもらえるかな?」と長官。
「私も主計局長に話をしておきましょう。官房長はそこにいるから君の口から直接話すといい」
前主幹の主計官はフェイスにそう言って、遠くの方で現主幹と熱心に話をしている男を指さした。
同じ頃、衆議院第一議員会館ではコングが内線電話をかけ、同じフロアにいる、くだんの左翼政党の女性議員の公設第一秘書を呼び出していた。「今、部屋に一人でいるからコーヒーを飲みに来い」と言ったのだ。一分もしないうちにドアがノックされ、コングが「開いてるからどうぞ」と言うとドアが開き、小柄な男が入ってきた。コングは「まあ、座れよ」とぶっきらぼうにソファを勧めた。
二人は、身長差が三十センチくらいはあるし、体重差もそれなりにあるから、端から見ると大人と子どものようだ。小柄な男はソファに座り、コングはコーヒーを入れることもなく、対面にドカッと座り、ひそひそ話でもするかのように前かがみになった。
「お前は俺にとても感謝してるよな?」とコング。
それを聞いて公設第一秘書はとてつもなく嫌な顔をした。「またか?」といった表情だ。
「ああ、言葉にできないくらい感謝しているよ」
公設第一秘書のその言葉に嘘偽りはない。あるとしたらいくばくかの誇張だけだ。
「お前は俺のことを三振法務博士とか言ってさんざんバカにしていたよな?」
「もうその話はいいよ。聞き飽きたし、俺もそんなに忍耐強く作られてはいないんだ。いいよ。どうせ金の話じゃないんだろうし、お前のためなら何でもやるよ」
公設第一秘書は本当にコングのためなら人を殺してもいいとさえ思っていた。むしろそのくらいのことをしてやった方がスッキリするとさえ考えていた。感謝しているのは事実だが、こう毎度毎度恩着せがましく来られると、そっちの方が苦痛なのだ。
「でも不思議だよな。『もう一度アメリカと戦争をやって今度は勝ちたい』とか言ってたお前が左翼政党の公設第一秘書になるなんてな」とコング。
「まあ背に腹は代えられなかったということだ」と公設第一秘書。
「借金は返済できたのか?」
「まだだ。返済できて、貯金もできるようになったら弁護士に戻るよ。それまでもう少しの辛抱だ」
「そんなこと言ってて、秘書が天職になるかもしれないぞ」
「そん時はそん時だ」
今から数年前、コングと公設第一秘書は同じ法科大学院に同時に入学し、同時に修了した。二人は同じ釜の飯を食った同士だったのだ。それからコングは三振し、三振法務博士の汚名を着せられ、一方、公設第一秘書は苦戦したものの、三度目の正直で見事、司法試験に合格し、司法修習生となった。しかし、修習は無事修了したものの、雇ってくれる弁護士事務所はなく、居候させてくれる事務所すらなかった。結局、弁護士資格を得たは良いものの、仕事はなく、逆に法科大学院の学費と司法修習生時代の生活費のための数百万に及ぶ借金が残されることになった。借金返済のために朝から晩まで働いたが、それはコンビニや居酒屋やガードマンなど、弁護士資格とは無縁のものばかりだった。
公設第一秘書が司法修習生時代に三振法務博士とさんざんバカにしていたコングとの再会を果たしたのはちょうどコンビニのバイトでレジに立っていた時だった。人生とは不思議なもので、あの時、コングがたまたま買い物に来ていなかったら、来ていたとしても公設第一秘書のシフトが明ける数分前でなかったならば、彼の人生はまた別の展開を見せていたことだろう。
その日、公設第一秘書はコングとご飯を食べに行くことになり、バカにしていたことを詫び、窮状を訴え、支援を請うことになる。
既に政策担当秘書の地位にあったコングは格別、意地悪をしなかった。そしてちょうど議員会館の同じフロアにいる左翼政党の代議士が秘書の欠員を埋めたいと願っているという情報を提供したのだ。
背に腹を代えられない公設第一秘書はコングのアドバイスに従い、その左翼政党に入党し、機関紙の購読を始め、カラオケボックスで「インターナショナル」の練習もした。そして党歴こそ短いものの、若い頃からそのイデオロギーに染まっている青年のふりをして秘書の採用面接を受けに行き、見事に採用された。後は幸か不幸か、その代議士センセイの秘書にアクシデントが重なり、あっという間に公設第一秘書の地位に登りつめた。借金はまだ残っているが、アルバイトを掛け持ちしていた時代の半分の労働時間で倍稼いでいることを考えると今の生活はバラ色だし、コングには心底、感謝せざるを得なかった。
「さっき、『何でもやる』って言ったよな」とコング。
「ああ。悪魔に魂を売り渡してもいいよ」と公設第一秘書。
「じゃあ、早速、悪魔に魂を売り渡してもらおうか」
コングはそう言ってワイシャツのポケットからスマホを取り出し、液晶を見せた。
「このブログを読んでくれ」とコング。
「ブログ?」
公設第一秘書はそう言ってスマホを受け取った。
「そう、匿名のブログだ」
公設第一秘書は右手の人差し指で画面をスクロールしながら静かに最後まで読んだ。
「どうだ?」とコング。
「赤紙でも配れっていうのか?」と公設第一秘書。
「そうだ。徴兵令だ」
「で、俺に頼みというのは?」
「大切なのは保育士が人手不足で疲弊しているということだ。そこで、お前んとこのセンセイにこのブログを引用してもらって、こういう意見が出ているけどどうだ?と政府の見解を質してもらいたい」
「それで?」
「うちの大臣が答弁に立って、今、内閣官房で検討中だと言う」
「なるほど、マッチポンプか」
「そういうことだ」
「分かった。いいだろう。俺はまた誰かを殺せとかそういう指令かと思ったよ」
公設第一秘書はスマホをコングに返しながら言った。
「それはあいにくだったな。残念ながらこれは人殺しじゃない。人助けだ」
「で、いつだ?」
「可及的にすみやかにだ」
そう言ってコングはスマホをポケットにしまい、不敵に笑った。