北海道への日帰り出張の次の日の午後、大佐とフェイスの二人は早速、教授とのインタビューの結果を内閣情報調査室経済部主幹に報告した。主幹から指示を受けた時と同じソファに座って向かい合い、二人は主幹にペーパーを示しながら説明したが、そのペーパーは既に出張前にほとんど完成していたものを微調整したものに過ぎず、大佐の書いたシナリオどおりにことは進んでいた。
「お疲れ様でした。実は本件については内閣情報官も強い関心を示されています。今度の総理大臣報告の際に官邸に持って行かれるようです。いや、きっと持って行くでしょう」
一通り話を聞いた主幹はねぎらうように言った。内閣情報官は内閣情報調査室のトップだが、週に一回、総理大臣に直接面会して内外の情勢について報告するという破格の待遇が与えられている。内閣情報官が国民徴庸法について総理大臣について報告するということは総理大臣も強い興味を持たざるを得ないということだ。
「本当に内閣情報官がですか?」
大佐はニコニコしながらも懐疑の声色で主幹に確認した。主幹は少し微笑んだ。
「さすがは百戦錬磨の大佐ですね。私の心情など既にお見通しというわけですか。まあ、完全に大佐のお考えのとおりではないかもしれませんが、かなり近いことは間違いないようです。実は租庸調の庸を復活させるという話、財務省の方ではかなり前向きに受け止められています。財政健全化の切り札と言っても言い過ぎではないでしょう。何で今までこれに気が付かなかったんだろうという意見もあるようなのです。ですから私が財務省の意を汲んで、内閣情報官に総理報告の進言をしたというのが正直なところです」と主幹。
「では、例えば今度の税制改正大綱に載せるとか、そのくらい現実味を帯びているんですか?まあ、税制の話ではないのかもしれませんけど」と大佐。フェイスはさっきから黙って二人の話を聞いている。
「なるほど税制改正ですか。確かに租庸調は税制ですけど、ちょっと話はそれているかもしれません。もちろん主税局は主税局で頑張ってはいます。ただ、ここに来て、何でも新しいことをしようとするとそうですが、反対勢力というか、守旧派が声を上げてきていることも事実です」
「守旧派と言いますと?」
「まずは文科省です。今回のこのアイデア、子どもの少なくなった学校の空き教室や廃校になった学校の校舎を利用することを想定していますよね?」
「そうですが」
「それだけじゃない。あの北海道の先生はある程度、学校を統廃合して、人為的に廃校を作り出して、その分、人と物と金を介護施設に回せとまで主張しています」
「ええ。私ももっともだと思いますけど」
「私もそう思います。しかし、真実は人を傷つけることもありますね。廃校を人為的に作り出すということは教育公務員の削減を意味しますし、教育行政にぶら下がっている出入りの業者から仕事を奪うことも意味します。そういう人達が抵抗することは必至です。そういう人達がぶら下がっている国会議員も少なくはありません」
「なるほどね」
「でも、この問題には既に手を打っています。少子化の流れから学校の統廃合、そして、特に地方のということになりますが、大学の閉鎖はやむを得ないということは霞ヶ関共通の認識として共有されています。ですから文科省としては既に守りに入っています。財務省としては削減される教育公務員の受け皿として介護施設のスタッフ職、しかも管理職を準備するという方向で文科省の説得にあたる方針です」
「では文科省の方は何とかなりそうですね?」
「そうです。問題は厚労省の方です。厚労省方面では介護関係、保育関係は今回のプラン、大賛成です。そういう人達の教育ができるのか?人材のクォリティーは確保できるのか?そういう問題はありますが、とにかく労力が提供されることが第一だと彼らも考えていますので、厚労省本丸は大丈夫です」
「それでも反対勢力がいるんですか?」
「反対勢力という表現がふさわしいかどうかはともかくとして、医師会が注文をつけています」
「医師会ですか?」
「そうです。医師会は厚労省の強力な圧力団体ですから厚労省としても無視できません。それは永田町も同じだと思います」
「医師会は何と?」
「数が足りないのは介護職や保育士だけでなく、看護師も同じだというんです。すなわち、もし国民徴庸法を導入するなら、看護師も対象に入れてほしいというのです」
「それは駄目です!」
大佐は隣で黙っているフェイスが少し身震いするくらいの大きな声で言った。対面の主幹も一瞬、ビクッとした。大佐は少し沈黙したがやがて冷静になり、続けた。
「スミマセン、少し興奮してしまいました。この法案は楠田君のものでした。私がとやかく注文をつける立場にはない」
大佐はそう言ってフェイスを見た。
「楠田さんはどう思います?徴用の対象に看護師も含むとすることは?」と主幹。
フェイスはよく分からなかったが、大佐が即座に否定したということは何か思うところがあるのだろうという認識は持っていた。
「スミマセン。すぐにはお答えできません。少し検討させてください」
フェイスはそう言って大佐を見た。大佐はうなずいた。
「ではご検討よろしくお願い致します。お疲れ様でした」
主幹がそう言って席を立ったので二人も席を立ち、二人は同じ経済部の中にある、主幹エリアとは反対側の自分達のエリアに戻ってそれぞれ腰かけた。
「どうしたんですか?」とフェイス。
「どうしたって?」と大佐。
「いや、いつも冷静な大佐が急に大声を出したのでビックリしたんですよ。看護師が制度の中に入ってくるとそんなにまずいですか?」
「さあ。さっきも言ったけどこれは君の法案だ。最終的には君が決めるべきだろう」
「僕としては大佐のお考えがとても気になるのですが。きっと主幹も同じだと思います」
「…そうか。よし、じゃあ、また四人で作戦会議をやろう。チームの発足式と同じように俺の家でいいな?早ければ今夜にも。急がないと税制改正大綱ができあがってしまうからな。まあ最初からあまり期待はしていないから駄目なら駄目でそれでいいんだけど、間に合うなら大綱に載せてしまいたい。主幹もああ言っていたし、可能性は出てきたからな。まあ、ベストは尽くそう」
大佐はそう言うと自分のスマホを取り出し、ガチャガチャといじり始めた。エミータとコングに連絡を取るようだった。
その日の夜、四人は大佐の自宅に集合した。ヒトコブラクダのエミータは子どもを連れてきている。二階のKチームの発足式が執り行われた部屋で四人が向き合った。四人の前にあるお膳には缶ビールと乾き物が置かれている。
「さて、本題に入ろう。SNSでも流したけど、医師会が注文をつけてきている」と大佐。
「看護師も何とかしろっていうんですよね?」とエミータ。
「で、君達はどう思う?」と再び大佐。
「いいですか?」とフェイス。
「うん」と大佐。
「僕は別に看護師を付け加えることに反対はしません。恐らくコングもエミータも同じ意見だと思いますよ。それよりも不思議なのはなぜ、大佐がそんなにも熱く反対するのかということです。今日の会合も、むしろ大佐がこの三人を説得するために設定したんじゃないんですか?そんな気がするんですけど」
大佐は三人をじっくりと見回して、軽くため息をついた。
「おっしゃるとおりだよ。俺は看護師を加えることには反対だ。絶対に反対だ。もしそんなことをしたら制度の意味が半減してしまう。いや、それ以上かもしれない」
「どうして?」と再びフェイス。
「フェイスには前にも話したことがあるかもしれないけど、日本の医療制度を今よりも進んだものにしてはならないと思うからさ。日本の医療制度は今でも十分すぎるくらいだ。進み過ぎている。もっと今よりも劣化させて、病気や怪我が治りにくくしなければならないくらいだ」
大佐がそう言ったが、三人は黙ったままだった。仕方なく、大佐が続けた。
「俺の言ってることの意味は分かんないだろうな。俺のような境遇に置かれなければ、誰しも国民皆保険で平均寿命が長いことは素晴らしいことだと思うんだろう。そりゃ、社会保険がいい加減で、病気になったら死ぬか破産するかどちらかしかないというような社会はおよそ文明社会とは言えないかもしれないけど、そこはやはり過ぎたるは及ばざるがごとしさ。どんなに平均寿命が長いのがいいといってもみんながみんな二百歳とかまで生きるようになったらさすがに問題だと思うだろ?」
大佐が三人に視線を向けると三人はそれぞれうなずいた。
「今は二百歳と言ったから分かりやすいけど、百五十歳とか百歳とか年齢をどんどん下げていっても同じことだ。要は、人間は、人間に限らず生物は、動物も植物も、天寿というものがあり、神から、神からと言いたくなければ自然からと言ってもいいのだけれども、与えられた寿命というものがあって、それよりも長くても短くても幸せな死に方はできないということだ。君達には分からないかもしれない。でも、下で寝ているおふくろを見てみろ。あれが幸せな姿か?自分のことも分からなくなってしまっているのに、ただ生かされているだけだ」
「……じゃあどうしろと?」
しばらく沈黙の後、コングが言った。
「俺は今回のプロジェクト、おふくろを介護施設に入れたいだけだ。純粋に個人的な動機だ。国の社会福祉政策なんて糞食らえだ。だからプロジェクトを成功させたいという思いはある。でも、国民医療を今より、より良いものにすること、国民の寿命をさらに長く伸ばそうとすることには抵抗があるんだ。医療は不運にも天寿よりも短い人生をまっとうしようとしている人に集中的に向けられるべきだ。だから看護師への動員は反対したい。しかし、厚労省がうんと言わないとプロジェクトの推進は難しいだろう。だから今のこの、俺の気持ちを汲んで、君達の知恵を拝借したいんだ」
「そんなに長生きは罪なことなんですか?」とフェイス。
「長生きも財政に負担を掛けなければ素晴らしいことかもしれない。でも今の長生きは間違いなく財政にとんでもない負荷をかけてるだろ?俺は昔、たばこが財政に与えるインパクトについて研究したことがある。もう何年も前だ。そのとき俺はあるシミュレーションをした。たばこを吸う人は一日に平均二十六本たばこを吸っている。国民全員に毎日、二十六本たばこを吸わせたらどうなるか試算してみたんだ。たばこは一本吸うと寿命が三分縮まると言われている。その仮説も取り入れた。どうなったと思う?たばこが財政に与えるインパクトだ」
「医療費の負担がとんでもなく高くなったとか?」とエミータ。
「そう思うだろ?ところが医療費の負担増はそんなでもなかったよ」
「じゃあ、たばこ税の税収が格段に伸びたとか?」とフェイス。
「たばこ税も影響はあるにはあるがそんなでもない。逆にたばこ税をなくしても財政に決定的なダメージを与えることはない。一番大きなインパクトは日本人の平均寿命が十ヶ月短くなるということだった。そして、そのことによって年金会計が年間で二兆円助かるという答えが出たんだ。どうだ、すごいだろ?財政健全化策の最も確実な方法は日本人の平均寿命を短くすることだったんだよ」
「しかしそれは試算ですよね?」とコング。
「もちろん仮説にすぎないよ。あるいはイデオロギーに基づく独断なのかもしれない。しかし、妙に説得力はあるだろ?ただ単に寿命が長いのが文化的な生活ではないということだ」
大佐がそこまで言うと三人はまたしばらく沈黙した。しばらくしてからコングが重い口を開いた。
「じゃあどうしましょう?」
「厚労省というか、その背後にいる医師会が納得して、平均寿命を延ばすこともないような、魔法のような施策を考えてくれ」と大佐。
「じゃあこうしましょう」とコングの回答は意外にも早かった。「条文には看護も付け加えましょう。それで医師会への義理は立つはずです。その代わりその後にカッコ書きを入れるんです」
「カッコ書き?」と大佐。
「介護、保育又は看護、カッコ看護師の免許を有している場合に限るカッコ閉じる、とね。どのみち看護は人の命を預かるわけですから無免許じゃ困るでしょ?」とコング。
「でも人の命を預かるということなら介護も保育も同じじゃない?」とエミータ。
「ああそうか。でも看護の相手は病人や怪我人なんだし、医師という絶対的な免許職の補助なわけだから同列に扱わなくてもいいと思うけど。そうすれば看護は看護師の免許を持っている人だけに限定されるわけだから無尽蔵には増えないし、それでいて看護職の担い手を増やせという医師会のリクエストには応えたことになる」とコング。
「さすがは政策秘書だな。よくパッと思いつくもんだ」と大佐。
「こんなことばかりやってますからね。ご満足いただけましたか?」とコング。
「不満はあるけど贅沢も言っていられないだろう。おふくろを施設に入れるのが最優先だ」
大佐がそう言って缶ビールのプルタブを起こすと、ホッとしたのだろう、それを合図に他の三人も次々と缶ビールを手に取った。
十二月に入ると永田町は税制改正大綱の作成時期になる。大綱というのは翌年度の税制をどのようにしたら良いのか、おおまかな道筋を決めることで、細かな法律の条文や政令あるいは省令はその道のプロが作ることになる。いわば税制の方向性を決めることが政治家に課された仕事なのだ。
税制改正は毎年行われているが、いつも同じパターンの繰り返しで、年末の与党による大綱の決定、年明けの内閣による大綱の閣議決定、その後の予算案との国会への上程、三月年度末ギリギリの予算案と同時の可決成立という流れになっている。税制改正で大切なことは与党の大綱決定がすべてだということだ。なるほど、憲法は国会が国権の最高機関であると謳ってはいる。国会で可決成立しなければ法律としての効力は有さない。しかし、与党で決定された大綱と異なる大綱が閣議決定されることはまずないし、閣議決定されてしまえばそれが衆参両院で否決されることはなく、修正すらされることはない。この黄金パターンは慣習憲法といってもいいくらいの不文律で、だからこそ税制改正に興味も持つ人は国会での審議などには目もくれず、与党税制調査会での議論に注目するのである。
何か税制に求めるものがある人、例えば新しい発明品を普及させたいと願う特許権所有者は与党税制調査会のメンバーに働きかけて、その発明品を購入した会社に特別控除が受けられるよう熱心に根回しするのである。間違っても与党税制調査会のメンバーではないセンセイに頼むことはない。
与党税制調査会とは別に政府税制調査会という政府の勉強会もあり、学者や実務家など偉い先生がメンバーに選ばれてはいるが、こちらの方は誰かがかつて言ったように軽視される存在ではなく、無視される運命にある。
租庸調の庸というからには税制に付言しておきたいということでKチームは与党税制調査会の税制改正大綱最終案に「国民徴庸制度の導入」を盛り込みたいと考えていた。いきなりの盛り込みは、なるほど唐突ではあるが、既にマスコミをにぎわせているし、国会でも、与野党でも話題に上っている。法案は完璧な形ででき上がっているし、載せてしまえば後は一気に因果関係が進行するだろう。そう考えていた。
与党税制調査会に一番近い位置にいるコングが何度か大綱への盛り込みにチャレンジしたものの、その壁は厚く、その都度跳ね返された。そして最終的に断念を伝えてきたのは発表前日の十二月十四日の午前が終わろうとしている時間だった。
「コングも一応、政権与党の党員なんだろ?最終案に勝手にチョコチョコって書き込むことはできないのかなあ」
いつもどおりの早めのランチタイムを終えた大佐が内閣情報調査室経済部の自分の席で携帯電話の向こうのコングに言った。大佐の傍にはフェイスが座っている。
「確かに党員ですが、私は党の職員ではないので党本部のLANには勝手に入れませんよ。無理です」と電話の向こうのコング。
「党本部の職員にお友達はいないのかな?」と大佐。
「もちろん知り合いはいますけど、勝手な書き換えを頼めるほど親しい人はいません。それに、目指すワードファイルは厳重にロックされてますし」とコング。
「そうか、無理かあ~」
大佐は大層残念そうに嘆いてみせた。コングが続けた。
「後はハッキングでもするしかないんじゃないんですか?」
それを聞いて大佐はハッとなり、姿勢を正した。
「今、何て言った?」
「今ですか?ハッキングでもするしかないって言いましたけど」
「そうか。そうだ、ハッキングすればいいんだ。何だ、簡単なことじゃないか。で、コング。今どこにいる?」
「議員会館ですけど」
「じゃあ、今から党本部に行こう。時間あるかな?」
「ええ」
「よし。では今からこっち出るから党本部の前で待ち合わせよう」
「分かりました。玄関の前でいいですね?」
「うん。明日、十時の大綱発表までに間に合うかなあ?」
「今日の夕方に印刷してマスコミ関係者に配るって聞いてます。もちろん明日の十時まではトップシークレットですけど」
「間に合いそうだな。じゃあ二十分後くらいに」
大佐はそう言って電話を切り、隣の席のフェイスを見た。
「ハッキングとか言ってましたけど」とフェイス。
「うん。それでこれから与党本部の前でコングと待ち合わせることになった。君も来てくれ」
大佐がそう言い、上着を取って席を立ち、フェイスが続いた。
しばらく後、党本部の前で顔を合わせた三人はその建物の中を、税制調査会の担当部署を目指して歩いていた。
「どうするんですか?」とコング。
「税制調査会の事務方の、そうだなあ、末席の方がいいだろう。税制改正大綱のゲラをその場で印刷してもらうんだ」と大佐。
「くれますかね?」
「どうせ明日の十時には公表なんだし、それまで箝口令が敷かれていることも承知しているだろうから後は口八丁手八丁だよ。まあ紙はくれなくてもいい。俺はその職員殿がどういう動きをするのかが見たいだけだからさ」
そんな話をしているうちに三人は階段を昇り、目指す部屋に到着した。
税制調査会の事務方メンバーは何人かいるが、いずれもコングとはお互いに知った顔だ。そのコングが連れてきた二人も特に怪しいとは思われなかった。コングは大佐に言われたとおり、末席に座る三十代の職員の席に近付き、斜め後ろから声をかけた。
「お忙しいところスミマセン」とコング。
職員は振り返って「何でしょう?」と言った。一応相手は大臣の政策秘書、敬意が感じられた。
「明日の準備でお忙しいところ恐縮なんですが、大綱のゲラをいただけないでしょうか?」とコング。
「印刷しますか?」と職員。
「そうしていただけるとありがたいです」
「明日の十時までは取扱いに十分注意してくださいね」
そう言うと職員は黙ってパソコンに向かい、カチャカチャと操作して印刷のボタンを押した。
「一部でいいですね?」と職員。
「ああ、大量出力ですね?」とコング。
「百三十八ページあります。そこのプリンターから出ますから持っていってください」
職員は五メートルくらい先にあるプリンターを指さしてそっけなくそう言うとその注意は元のルーチンワークに戻った。三人はプリンターの辺りに移動し、コングが百三十八枚の紙を抜き取り、持ってきていたマチ付きの封筒に大切そうにしまってその部屋を後にした。
「ありがとう、コング」
党本部の建物を出ると大佐がコングに礼を言った。
「これ、持って行きます?」
コングはマチ付き封筒を掲げて言った。
「そうだな。せっかく打ち出してもらったんだからもらっていくか」
大佐はそう言って封筒を受け取ると、三人で議員会館の前まで歩き、そこで大佐とフェイスはコングと別れた。
コングと別れた大佐は首相官邸の交差点を内閣府庁舎とは逆方向に右折した。
「どこに行くんですか?」とフェイス。
「ハッカーの所さ」と大佐。
「ハッカーですか?」
「そうハッキングしてもらうのさ」
「ハッカーにもお知り合いがいるんですか?」
大佐の人脈の広さにはフェイスも今さら驚かない。
「知り合いというよりも同僚だよ。俺の同僚ということはフェイス、君の同僚でもある」
「スミマセン。おっしゃっていることの意味が分からないんですけど」
「ブラック企業という言葉を知っているな?」
「はい」
「ブラック企業は悪い企業だ。でも良い企業のことをホワイト企業とは言わないな?なぜだ?」
「さあ?でも、それがどうかしたんですか」
「ハッカーの話をしたいんだよ。ハッカーは悪いやつらだ。悪いに決まっているから特別ブラックハッカーとは言わない。でも世の中には善玉のハッカーもいるんだよ。そして善玉のハッカーはホワイトハッカーと呼ばれている」
「なんとなくおっしゃりたいことは分かりました。そのホワイトハッカーに会いに行くのですね?」
「そう」
「それでそれが同僚だと?」
フェイスのその問いに大佐は答えず、首相官邸の崖の下にある内閣府別館の中に入っていき、入口付近にある庁舎内案内板を指さした。指先には「内閣サイバーセキュリティーセンター」との表示がある。
「ここにその善玉のハッカー、ホワイトハッカーがいるというわけさ」
大佐がそう言うと、二人はエレベーターに乗り込み、目指す部屋に向かった。
内閣サイバーセキュリティーセンターはあたり前のように堅牢なセキュリティーに守られていたが、二人は内閣情報調査室のIDカードでそれを突破し、やや広い、パソコンが雑然と言えば雑然に、整然と言えば整然と並んでいる、どちらにも解釈可能な部屋に入り、入口近くのパソコンの前に並んで腰掛けた。部屋には約三十台のパソコンに対して約十人の職員がおり、それぞれ自分の仕事に集中すべく、液晶とにらめっこしていた。何人かが大佐とフェイスの侵入に気付いたが関心はないようで誰何されることはなかった。
「さて、パソコンを立ち上げよう」
大佐はそう言って目の前のパソコンのスイッチを入れた。パソコンが立ち上がり、認証画面が現れた。
「では、IDとパスワードを入力して」と大佐。
「僕のでいいんですか?」とフェイス。
「ここも内閣官房の組織の一つだ。君も内閣事務官だから当然、君のIDとパスワードで立ち上げられる。問題はその後だ」
フェイスが自分のIDとパスワードを画面に打ち込むと見慣れたデスクトップが現れた。
「次、どうしましょう?」
フェイスがそう言うと大佐はたまたま近くを通りかかった男性職員を呼び止めた。
「君、ちょっと手を貸してくれないかなあ」
声を掛けられたホワイトハッカーは大佐とフェイスの首にぶら下がっている内閣情報調査室のIDを一瞥してから「なんでしょう?」と言った。見た目にも若く、まだ二十代のようだ。
「政権与党の部内LANに侵入してもらいたい」
大佐は抑揚のない声で言った。ホワイトハッカーは返事をすることもなく、中腰になると無表情にキーボードをたたいた、しばらくすると政権与党内部LANのトップページと思われる画面が現れた。
「ありがとう」
大佐がそう言うとホワイトハッカーは無言で立ち去った。
「どうしたんですか?何をしたんです、彼は」
ホワイトハッカーがルーチンワークに戻ったことを確認するとフェイスは声色を弱めて大佐に聞いた。
「詳しいことは俺も知らないし、知りたくもないし、知らない方が安全だと思っているくらいだ。分かっていることはこのフロアにいる連中にとって政権与党のサーバーに侵入するくらいのことはすね毛を抜くよりも簡単にできるということだ」
大佐がそう言ってフェイスに指示を出し、フェイスがマウスを操作しているうちにさっき政権与党本部の事務室で見たのと同じ画面が液晶に現れた。画面はID番号とパスワードの入力を要求している。
「じゃあ俺の言うとおりに入力してくれ」と大佐。大佐の言う、英数字を画面に打ち込み、フェイスがエンターを押すと、画面にはさっき見たのと同じフォルダ群が現れた。
「誰のIDだったんですか?」とフェイス。
「さっきの党本部の職員のIDさ。さっきキーボードに打ち込んでいたのを盗み見たのさ。どうだ、スパイ映画さながらだろ?」
大佐は自慢げに言って、目指すファイルを指さした。フェイスがダブルクリックすると税制改正大綱とタイトルの打たれたワードファイルが現れた。
「さあ、これからは君の作業だ。国民徴庸法は君の法律だ。君がどうしたいか自由に書き込むといい」
大佐は言ったがどうすれば良いのかフェイスには分からない。
「どこに書き込んだらいいでしょうか?やっぱり本文よりは付記書きでしょうかね?」
「そうだな。介護職と保育職及び看護職の絶対的な不足を解消するためにすべての国民に労役の提供を義務付ける国民徴庸法の制定を検討するくらいでいいんじゃないか?いきなり制定するじゃいくらなんでも唐突過ぎて誰も消化できないだろうからな。それでも経済財政諮問会議の答申に入れるのに比べれば実現可能性は桁違いに高くなる」
大佐にそう言われ、フェイスは座り直してキーボードに向かった。
「これで明日の十時にはみんなビックリですね?」とフェイス。
「案外そうでもないかもしれないよ。マイナンバーのときもそうだったけど、国民は生活に密接に関連することであっても政治には無関心なものだ。へ~、そういえばそんなこと議論されてたなあくらいでケロッとしてるかもしれないよ」
白昼堂々のハッキングにも関わらず、大佐は相変わらず冷静だった。