カチコチと、規則正しくリズムを奏でる音がおぼろげな意識に波紋を打った。
薄く開けた視界の内には、淡い光の靄が広がっている。その靄が、窓から差し込んだ朝日であると気付くのにはさほど時間はかからなかった。
ふと真横に目を向ければ、腹をむき出しにして床に転がる阿良々木の姿がある。どうやら、二人して敷き布団も無しにいつのまにやら寝入ってしまっていたらしい。それを証拠に周囲には本やらなんやらが無造作に散らばっていた。
それらをうつ向きのまま一瞥し、そして若干痛む背中の筋をグッとのばしてから、俺は上体を起こす。次いで、時間を確認すべく目覚まし時計に目をやった……その瞬間だった。
床に落ちた時計の先、弛緩した顔で仰向けになる阿良々木の更に向こう側の扉から、突如として轟音と共に二つの影が飛び出してきた。
『おっはよー!お兄ちゃん、朝だよー!』
重なる声に並列する二つの顔。
蹴飛ばすように大きく開かれた扉から現れたのは小町と阿良々木月火だった。そんな騒々しくも鬱陶しい妹コンビの登場に、俺は自然と眉根を寄せる。
……つーか朝からテンション高すぎだろ、こいつら。なんなの?もしかしてエナドリでもキメちゃってるの?
「あれ、お兄ちゃんが起きてる?もうっ、なんで起こす前に起きてるのよ!ほんとごみいちゃんは空気が読めないんだから!」
「なんちゅう理不尽な……」
第二声から意味のわからない文句を言い放つ阿良々木月火だった。
というか、夜遅くまでせっせと調べものをしていた俺にこのキチ女はなんという言い草だろうか。やはり俺にとっての妹は小町ただ一人である。さあ、真なる我が妹よ!こんな奴は放っておいて、俺の荒んだ心に爽やかな息吹を吹き込んでくれ……!!
と。
寝起きのテンションのせいか幾分気持ち悪いことを考えながら小町へと視線を向けるが、しかし小町は小町で悪の科学者みたいな悪どい笑みを浮かべて阿良々木の顔を覗き込んでいる最中だった。
その手元にはGABANなブラックペッパーと白い作り物めいた鳥の一枚羽が握られている。
……あの、君は君でなにをしようとしてるのでしょうか、小町ちゃん。もしかしてもう既に阿良々木(妹)の瘴気に充てられちゃったの?良くない影響もろに受けちゃったの?
お兄ちゃん、何だかすごく不安。
具体的に言えば今後バットの打ち下ろしで朝を起こされるようになりそうでわりかしマジで不安だった。
楽しげな小町、何故かそれに加わる阿良々木月火を横目に、俺は触らぬ神にとばかりにひっそりと室内を脱出、のすのすと階段を降りる。
すると、すぐ眼下でピンクを基調とした見慣れた制服を目撃した。
「ーーうんーーだから今日はーー」
羽川だ。どうやら携帯を片手に誰かと通話をしているようで、こちらに気付いている様子は無かった。
「ごめーー戦場ヶ原さーー大丈ーーーーうん、じゃあね」
耳元から携帯を離し、羽川は蝶の羽ばたきのような溜め息をこぼす。それからようやく俺の存在に気付いたようで、はたとしてその顔を上げた。
「わっ、びっくりした!いつのまにそこに居たの?」
「……あー、悪い。盗み聞きするつもりは無かったんだけどな」
「んん?」
なんのこと?とでも言いたげに小首を傾けてから、羽川の視線が自分の携帯へと移る。そして「ああ、そのことか」とあっけらかんと言うなり、ニコリとこちらに笑みを向けてきた。
「べつに聞かれてマズイ電話ってわけじゃないからいいよ、気にしてないで。それよりも、おはよう。昨日はよく寝れた?」
「……まあ、ぼちぼちって所だ」
本当は今すぐにでも部屋に戻って二度寝をかましたいぐらい眠かったが、しかしついついそんな風に見栄を張ってしまった。
それと、どうでもいいけど上目遣いのまま笑いかけないでもらえたい。俺が並みの男子だったら今のだけで速攻で惚れてたまであるぞ。いや、マジで。
「うん?どうかした?」
「別に、なんでもない。それよりも羽川、昨日の件についてなんだが……」
「あ」
俺が言葉を言い終わる前に羽川はその視線を俺の背後に向けた。つられて俺も振り返る。するとそこには、
「ほらほら、お兄ちゃんっ。シャキッとしなきゃ、シャキッと〜♪」
「んー?羽川さんにお兄ちゃん?二人してそんなところでなにしてるの?」
「……………………」
きょとんとした顔で俺達に無遠慮な視線を向ける阿良々木月火。最後尾でウキウキ声を発する小町。その間に挟まれた中間にはグッタリとした表情で肩を落とす阿良々木の姿が。
恐らく最悪の目覚めを迎えただろうそんな阿良々木に憐れみの視線を向けるべきか、同情の念を向けるべきか、色々と考えた末に俺はとりあえず階段を降りる作業を再開した。
そのままの足でリビングに入り、ソファに腰をかける。と、不意に左肩に柔らかい感触が当たった。そして俺が反応するよりも早く、鈴の音のような声が耳を打つ。
「……話はまた後で、ね」
振り返った時にはもうすでに、彼女はこちらに背を向けていた。
キッチンの奥からは今日も今日とて姦しく騒ぐ妹ーズの声が聞こえてくる。
そんな騒音めいたBGMに人知れず溜め息を吐きながら、俺は一人、休日のお父さんのような心境でテーブルに置かれた新聞に手を伸ばした。
軽めの朝食を取り、そうして第二次千葉散策へと出かけた小町と阿良々木(妹)を見送った直後のことである。
俺達三人、つまりは俺と阿良々木と羽川は顔を突き合わせて、最後の作戦会議を進めていた。
とはいえ、出来ることといえば事前の打ち合わせぐらいしかない。せいぜいが阿良々木の未だ知らぬ雪ノ下や平塚先生の外見的、内面的特徴を教えたり、はたまた今回の舞台である総武高校舎の大まかな見取り図を書いて見せた程度のもので、やはり特にこれといった対策が出来たわけでは無かった。
昨日、羽川が言っていた考えとやらも、単純に他校からの助っ人という形で阿良々木に付き添うというだけの事であるらしい。
まあ、その辺りは羽川のアドリブ能力に賭けるしかないだろうと。
最後にそう結論付けて、俺は手に持ったペンをテーブルの上に置く。
ううーん、と。
阿良々木は顔をしかめさせながら、低く唸っていた。
「……なんだろうな。なんだか、準備を進めれば進めるほど緊張が……」
「あっはー、大丈夫大丈夫。そんな固くならないでよ、阿良々木くん。なにかあったら私が全力でサポートするからさ」
「ああ、ありがとう。僕としてはお前が居てくれるという事実だけでも十分心強いよ」
覚悟は決まったらしい。
そもそもが気負い過ぎることでもないというのに。こいつもこいつで根が真面目というかなんというか。
「まあ、いざとなったらバックれちまえばいいさ。昨日も言ったが場合が場合なんだ。例え直前で逃げ出したとしてもなんの支障もねえよ」
「はは、そう言ってもらえると多少なりとも気が楽になるよ。でも、大丈夫、やれるところまでやってみるさ。僕のせいで比企谷に迷惑をかけるわけにもいかないからな」
そうやって、あくまでも他人の為にと。
平然と言い放つ阿良々木を前に、俺は返す言葉に詰まってしまった。
やはりというか。どうやらこいつもまた、羽川と同じでお人好しの部類にカテゴライズされる人種であるらしい。
つくづくやりにくい事この上ない。
どうせなら雪ノ下のように悪意全開で来られた方がまだ答えようがあるってのに……どうにも、身体がむず痒くなって仕方がなかった。
「……ん、まあ……頼んだ」
「ああ、頼まれた」
「うん。じゃあ時間も迫ってることだし、そろそろ行こうか」
羽川の号令に、俺達は揃って玄関へと向かう。
制服姿にローファーな二人は三和土に、対する俺は寝起き姿のまま、ぼそりと羽川に言葉を向ける。
「……本当に良いのか?俺は付いていかなくて」
「あはは、ごめんね。なんか仲間ハズレにしたみたいで」
「いや、別にそんなことは思ってねえけど……」
というか人生を通して仲間ハズレ扱いみたいなものなので今更ハブられた所でまるで気にもならない。むしろ、周りが妖怪ウォッチやってる中を一人人間ウォッチングしてるまであるぐらいだ。
……って、じゃなくてだな。
「わかってるよ。私達を心配してくれてるんでしょ?ホント、比企谷くんは優しいね」
「……別に心配もしてねえよ」
「ふふっ、ツンデレツンデレ。でも大丈夫だよ。私達だけでもなんとかなると思うし、逆に言えば比企谷くんが来ることで余計に怪しまれる可能性が出てきちゃうかもしれないしね。それに、そんな格好で登校するわけにも行かないでしょ?」
グレーのパーカーにジーンズな格好の俺を指差しながら、羽川は困ったように笑った。
……まあ確かに、羽川の言う通りである。こんな格好では校門すらくぐれそうにない。速攻で教師に叩き出されるのが目に見えていた。
「だな。じゃあ、俺は引き続き蜘蛛についての記述でも探しとく」
「うん。……あ、そういえば学校の宿題とかはないの?」
「あるにはあるが、けど今はそんな場合でもねえだろ。まだ夏休みも二日目だし、後でいくらでも取り返しはつく」
「ホントに?現状解決に精を出すのもいいけど、だからって勉強もちゃんとやらなきゃダメだよ?学生の本分は勉学にあるんだからね。阿良々木くんも、全部終わって元の生活に戻ったら出来なかった分をみっちりと勉強しなきゃね」
「は、はは……そうだな」
引きつった笑いはどう見ても言葉とは裏腹な感情を物語っていた。
とりあえず、心の中で合掌しておく。
がちゃりと。扉が開き、熱気と共に強い日差しが漏れ込んできた。
「それじゃあ、行ってきます」
「おう」
短い返事を終え、ゆっくりと扉は閉まった。
一転して静かになる玄関で一人立ちぼうけとなりながら、俺はボソリと一言。
「さて、やるか」
そして、散漫な足取りで再び二階へと足を向けた。
ーーピンポーンーー
呼び鈴が鳴る音で俺は意識を活字の海から現実へと急速浮上させた。
読んでいた本から視線を離し、脇に置いた時計に目を向ける。
短針はまっすぐと真上を指し示している。いつの間にやら、時間は朝から真昼へと移行していたようだった。
ーーピンポーンーー
またしても鳴る電子音。
突然の来訪者の存在に、しかし俺は完全なる居留守を決め込んだ。
どうせ扉を開けた先はセールスかなにかに決まっている。おまけに今の俺はこの家において部外者でしかないのだ。つまり対応に出たところで徒労に終わるだろうことは明白の理であり、要するに時間の無駄だという結論が簡単に導き出される。以上、Q.E.D証明終了。
引き続き、俺は活字の羅列へと向き直った。
ーーピンポーンーー
ーーピンポーンーー
ーーピンポーンーー
ーーピンポーンーー
ーーピンポーンーー
……が、今回のセールスはやたらとしつこかった。
いつまで経っても泣き止まぬピンポン音に、俺は耳に差したイヤホンの音量を限界にまで上げることで対抗。
けれど、音は止まぬどころか激しさを増し、
ーーピピピピピンポンピンポピピピピピピピンポンピンポンピンポーンーー
「……っ、だぁ!うるせえ!!」
高橋名人ばりの連打のせいで今にもピンポンのゲシュタルト崩壊を起こしそうだった。
怒り猛った右手でイヤホンを耳から引っこ抜き、怒髪天を衝く足取りで踏み抜くようにドスドスと階段を降りる。出る気はさらさら無いが、せめてどんなやつが来たのかだけは確認せずにはいられなかった。
玄関口に立ち、ドアスコープを覗く。だが、しかし、そこには誰も立ってはいなかった。
「…………?」
気付けばピンポン音も止んでいる。
突然の沈黙に少なからず不気味なものを覚えながら、俺はつい扉を開けてしまった。
蝶番が軋み、日差しが降り注いでくる。急な眩しさに一瞬だけ視界が白に覆われた。思わずつむってしまった瞼をゆっくりと開く。再び開けた視界の先には、いつの間にか一人の女が立っていた。
「あら、こんにちわ。お久しぶりね、阿良々木くん。死になさい」
「……は?」
言葉の意味を理解する間もなく。
ガッ、という鈍い音を最後に。
俺は意識を手放した。