「羽川、翼……?」
がらんどうな室内に四人。それぞれに向かい合った形の中で、雪ノ下のそのつぶやきだけが吸い込まれるように僕の鼓膜を震わした。
僕は不安を隠せず、雪ノ下は継続して怪訝な表情で、そして由比ヶ浜は呆気に取られたように口を丸く開け、けれど羽川だけはごくごく自然体な笑顔を相対する二人に向けている。
そんな混沌とした空間の中、何故か意味深げに羽川を凝視する雪ノ下に次いで言葉を発したのは由比ヶ浜だった。
「羽川、さん?」
「こんにちは、由比ヶ浜さん。昨日ぶりだね。ペットの子にはちゃんとご飯あげれた?」
「あ、うん。それは、大丈夫だったけど……」
途切れ途切れに受け答える由比ヶ浜は、やはり予期せぬ羽川の登場に戸惑いを感じているようだった。
そのやり取りを前に、雪ノ下の視線が羽川から由比ヶ浜へと移る。
「由比ヶ浜さん。貴女、彼女とは知り合いなの?」
「えっと……まあ、そうなるのかな?昨日ちょっとヒッキーの家で話したぐらいなんだけど」
「比企谷くんの家で?」
彼女の視線は次に僕へと向けられた。
問い詰めるようなーーさながら、異端者を前にした審問官のような隙の無い眼差しに、僕はドキリとしながらも、ついつい出来そこないの愛想笑いを浮かべてしまう。
しかし、それは比企谷的にはあり得ない対応だったのだろう。
雪ノ下の表情に、まるで隠そうともしない不快感が瞬く間の内に広がっていた。
「……そう。まさかとは思ったけど、とうとう語るに堕ちる域にまで達したようね、比企谷くん。確かに貴方のような人種が女子と関わりを持つには、それこそ第三者の仲介なくしては有り得ないのだろうけれど。だからといって由比ヶ浜さんをダシにして、それも他校の女子を騙すだなんてね。信じられないわ。犬畜生にも劣る小悪党ぶりね。そんなことまでして生き恥を晒すぐらいなら、もういっそ死んじゃった方がいいんじゃないのかしら?」
「いや、ちょっと待て。今なにか、自分の預かり知らぬ所で取り返しのつかない誤解が生まれたような気がするんだが……」
ダシにしてって。
騙すって。
聞き捨てならないにもほどがある。一体、彼女の中の僕はどんな犯罪計画を実行したというのだろうか。
普通に怖いよ。
何が怖いって、一片の迷いもなく部活の仲間を犯罪者に仕立て上げた雪ノ下の思考が一番恐ろしい。こいつ、ある意味で、そして悪い意味でもやっぱり戦場ヶ原に似てるんじゃないのか?
推察がとんでもない飛躍を見せる所とか。
躊躇いもなく毒舌を吐く所とか。
お世辞にも褒められたものではない部分ばかりが、見事なシンクロニシティを奏でていた。
……まあ、文房具を手に襲撃する所とかは多分、あいつだけのマイノリティーであるとは思うけれど。
というか、そんな所まで似ていてたまるかというのが僕の本気の本音ではある。
「あのさ、雪ノ下。とりあえずその物騒極まる見当違いな見解を取り下げてはもらえないか?羽川は純粋に俺、の友達であって、別に騙して連れてきたわけじゃない。ましてや、由比ヶ浜をダシに使ったわけでもない。ただ単純に、彼女とはSNSを介して知り合いになっただけの、本当にただそれだけの関係なんだよ」
「SNS?……そう、つまりはネットを経由して彼女を脅迫したと。そういうことね?」
「だから違うって言ってるだろ!!というか、なんで騙すから脅迫へと密かに犯罪の度合いが増し増しているんだ!?お前はどうあっても僕を犯罪者に仕立て上げたいのか!!」
「……僕?」
「っ、あ、いや……」
しまった。ついつい戦場ヶ原を前にしたような心境で言葉を返してしまっていた。
焦燥に駆られながらも視線を逸らす僕に、雪ノ下の不審気な眼差しが突き刺さる。
というか昨日と同じ失敗を繰り返すとか。
普通に救いようがなさすぎるだろ……僕。
「ああ、うん、ちょっとごめんね。話の腰を折っちゃうようで申し訳ないけれど、その件に関しては私から説明させてもらってもいいかな?そもそも、この場に私が居る理由もまだ全然話せてないわけだし。それを比企谷くんに全部任せてしまうというのも、若干の心苦しさがあるというか……ね?」
と。
しかし、そんな愚かな僕さえもフォローしてくれるのが羽川だった。
「後は私に任せて」と、言わんばかりの彼女の目配せに僕は感謝の面差しで応える。
というわけでーー役者交代。
そうして。
僕なんかとは打って変わって、羽川は実に流暢に、分かりやすく、そして整然と時系列を順序立てて雪ノ下達に事の経緯を伝えていった。
そこはそれ、やっぱり流石は羽川さんである。
その全てを伝えるにものの五分も必要とせず、話しが終わる頃には雪ノ下に纏わり付いていた剣呑オーラも、いつの間にやら霧散していた。
「なるほど。おおむね、事情は把握しました。それに、既に学校側の許可も取られているのであれば、私からは何も言うことはありません。ようこそ、羽川翼さん。私たち奉仕部は貴女を歓迎します」
「ありがとう。今日と明日の二日間、どうぞよろしくね、雪ノ下さん」
そう言って、羽川は雪ノ下へ右手を差し出す。
対する雪ノ下は、何故かきょとんとした表情で目を数回瞬かせてから、やがておずおずと手を差し出し返した。
友好の証、ということだろう。
それはいかにもというような、委員長気質の染み付いた実に羽川らしい所作だった。
「ほお、もう友情を深め合っていたのか。うんうん、実に少年マンガっぽい良いシーンだ。ジャンプ好きな人間としては喜ばしいものがあるよ」
突然の背後からの声。振り返ると、すぐ目の前に平塚教諭が立っていた。
扉の戸当たりに寄りかかりながら、彼女はニヤニヤと羽川と雪ノ下の二人を眺めている。その表情はどこか微笑ましいものでも見るようなーー例えるならば、気難しい猫が人に餌付けされているシーンでも見るような、そんな感じだった。
「……平塚先生。いい加減、入室の際のノックを習慣付けてはもらえませんか。最低限のマナーです。それすら守れないようでは生徒に示しもつかないのでは?」
「ふむ、まあ一理ある。だがな雪ノ下。今回に限って、私は決してマナーを軽んじてはいないぞ?なんせ、その叩くべき扉が開けっぱなしだったのだからな」
「……いい大人が屁理屈を言わないでください」
不愉快げな雪ノ下。そして何故か、再び僕が睨みつけられる。
……確かに、扉を閉めなかったのは僕の不注意ではあるけれど。しかし、それだけで僕を親の仇のように睨むのはやめて欲しい。
親の仇というか。むしろ目の敵にされているような気分だ。
「まあ、細かいことはこの際置いておこうじゃないか。それよりも、生徒会の方である程度の準備が済んだようなのでな。早速、君達の力を貸してもらいに来た」
「……ええ、わかりました」
溜め息と共に、雪ノ下は膝の上に置いたブックカバーを静かに閉じる。
そして立ち上がり、羽川とはまた違う堂々としたーー言うならば威風堂々とした足取りで颯爽と僕の横を通り過ぎていった。それに続いて羽川も彼女の後を追う。
さて、それじゃあ僕も行こうかーーと。
開いたままの扉に視線を向けた所で、不意に、右腕の裾が小さく、軽く、後ろへ引かれた。その微かな違和感に、僕は咄嗟に振りかえる。
そこにはーー
「…………」
「……由比、ヶ浜?」
人差し指と親指で。
申し訳程度に僕のカッターシャツをつまむ由比ヶ浜がそこにいた。
俯いたその顔からは表情を読み取れない。
ただ、ギュッと引き締められた唇から、彼女はぽつりと。
「……ヒッキー、さ。なにか、あたし達に隠してる事とか無い、かな?あたしとゆきのんに、ちゃんと、言ってない事」
動揺。そして僕は咄嗟に息を呑む。
問われたその言葉は直球でいて、なおかつ唐突に過ぎた。
由比ヶ浜は俯いたまま、僕のカッターシャツから指を離さない。小さい力ながらも、しかし返答を聞くまでは逃がしはしないとでも言うような、それはそんな意思表示にも思えた。
幾ばくの沈黙。
僕は動揺を隠そうとして、けれど完全には隠しきれていない上ずった声音で、
「な……ないよ。ない。由比ヶ浜達に隠してることなんて、なにも、ない」
「……そっ、か。うん、そう、だよね。ゴメンねっ、なんか変なこと聞いちゃってさ」
やっと上げられた顔にはぎこちない笑顔が張り付けられていた。
そして彼女はシャツから指を離すと、トコトコと小走りに部屋を出る。
一人、室内に取り残される僕。
無意識に呟きが口から突いて出た。
「……まいったな」
これはーーともかく、一旦羽川と相談する必要がありそうだ。
先の痛々しい愛想笑いを思い出してから僕は暗鬱とした吐息を吐き出す。心中では比企谷に謝罪の言葉を述べながら、僕は重い足取りで由比ヶ浜の後を追った。
どうやら話に聞いていた通り、僕らは主に雑用担当を任される事になっていたようで。
コの字形に机が配置された会議室の中、生徒会らしき役員達がせっせと書類やらパソコンやらに向き合っている中を、僕達はパチンパチンと、ホッチキスで『総武高等学校のしおり』に校内案内図を綴じていた。
僕の隣には羽川が、そして少し距離の離れた向かい側の机には雪ノ下と由比ヶ浜が違う冊子を、これまた同じく綴じる作業に従事している。
その間、時折チラチラと由比ヶ浜の様子を窺いはしたものの、けれど彼女は一度として僕に視線を向けることなく、また、彼女の手前ということもあって、未だ僕は羽川に話を切り出すことも出来ずにいた。
とはいえ、なにからなにまで彼女に頼りっぱなしというのも、一人の男としてどうかとは思うけれどもーーだからと言って、僕なんかが頭をひねった所で事態解決の妙案が出てくるわけでもないんだよなぁ。
思わず、溜め息を一つ。
もれなく憂鬱が全開だった。
「ん?比企谷くん、手が止まってるよ?」
「…………はぁ」
「……阿良々木くん?」
「え?」
声に呼ばれてそちらへ向くと、羽川が様子を窺うような上目づかいで僕を見ていた。
その透明な瞳の内には、見慣れぬ僕の顔が映しだされている。
比企谷八幡ーーああ、そうだ。またやってしまった。今の僕は阿良々木暦ではなく、比企谷八幡だというのに。
「いや、悪い。ちょっとその……ボーっとしてただけだよ」
「どうかしたの?見るからに『憂鬱だー』って顔に書いてあるけれど。確か、こういう単純作業は得意な方じゃなかったっけ?」
「……やっぱりお前はなんでも知ってるんだな」
「べつになんでもは知らないわよ。知ってることだけ」
もはやサービス精神の境地で僕の問いにいつも通りの答えを返してくれる羽川ではあったが、しかしその表情はどこか不満げでもある。
まあ、あからさまに話を逸らされたのだから、それも仕方のないことかもしれない。といっても、僕としてはただ言葉に困った末の咄嗟の返答だったのだけれどーーいや、まあ、ちょうどいいか。
僕は、慎重に周囲に目を配りながら、小声で羽川に耳打ちする。
「……羽川。今が作業中だということは重々承知の上だけど、でも少しだけ時間を取れないか?その……出来ればお前に話しておきたいことがあるんだ」
「話?」
羽川は最初はキョトンとした表情で、けれどすぐに事情を察してくれたのか。
頷きを一つ、次いで、パチンと音を一つ。
そして手元の冊子を置くなり起立し、室内脇のパイプ椅子に腰を落ちつけていた平塚教諭のそばまで歩いていく。それから二、三言ばかり言葉を交わしあってから、羽川はすぐにこちらに戻ってきた。
一体、平塚教諭と何を話していたんだろうかーーなんて疑問を向ける間もなく、羽川は口を開く。
「手元の冊子は全部綴じ終わっちゃったからね。だから後は雪ノ下さん達に任せて、私たちは校内清掃の班に回ってくれって」
どうやら、彼女は僕の頼みを即座のうちに反映してくれたらしかった。
即断即決。
一切の迷いない、そのある種超人じみた決断力と行動力が今はとても心強い。
僕はその言葉に頷きを返し、羽川と連れ立って部屋を出る。
と、その際。
「…………」
ーー背中に感じた視線が誰のものであるかを、僕は確かめることはしなかった。