「……どういうことだよ、羽川。比企谷が、この状況を願ったって」
「…………」
羽川は俯くだけだった。
どこか辛そうに、どこか申し訳なさそうに眉尻を下げながら、彼女は言葉を探すように視線を彷徨わせる。
ある意味衝撃だった。
羽川がこんなにも狼狽えている姿は初めてだったから。
「……比企谷、羽川が言ったことは本当なのか?」
「…………」
答えない。
言葉の代わりというように視線だけが一瞬向けられ、次いで比企谷は羽川を見た。
その唇が最小限の動きで上下する
「羽川、俺がこの状況を願ったっていう根拠はなんなんだ?」
「……一つは、孤毒蜘蛛の性質だよ。孤毒蜘蛛は人の持つネガティヴな感情、深い心の闇に反応して、その内にある秘められた願いを汲み取るの。そして孤毒蜘蛛は今、比企谷くんにーー比企谷くんの心、精神に寄生している」
心の闇に反応して、寄生する。比企谷自身から伝え聞いた忍の言葉だった。
その言葉が正しいのであれば、それは確かに根拠の一つとしてなりうる。
「けど、それはあくまでもあの幼女がただ言ってたことなだけだろ?もしかしたら俺じゃなく、阿良々木に孤毒蜘蛛が憑いていた可能性だってある」
「それはありえないの。何故なら孤毒蜘蛛は依り代となる神体を媒体として人の心に宿るから。そして私達の町の星神神社には神体が無い」
「神体が無い?」
驚きを見せた僕に羽川は頷きを返し、
「実は私、以前ボランティアで星神神社の清掃を手伝ったことがあるの。その時に社の中も掃除したんだけど、そこに神体は無かった。気になって試しに神主さんに聞いてみたら『何年か前の地震で落ちて割れてしまった』って。だから、私達の星神神社にはもう孤毒蜘蛛は居ない。もし孤毒蜘蛛が憑くのだとしたら、それは神体があるこの町に住む比企谷くんしか考えられないのよ」
「…………」
神の居ない神社。
神の居る神社。
だからこその確認だった。星神神社がこの町にあると知った時には恐らく羽川は気付いていたのだろう。その答えとも言うべき結論に。
「忍ちゃんが言っていたのよね。イトを辿れって。多分それって蜘蛛の吐く『糸』ではなく、思惑の方の『意図』だったんだと思う。どうやって比企谷くん達が入れ替わったのかじゃない。『どうして』比企谷くん達が入れ替わったのか。視点が違っただけ。私達はそこに目を向けようとしていなかったのよ」
「視点が違った……ね。じゃあ聞くがな、羽川。俺は一体なにを願ったって言うんだ?俺が、怪異になにを願ったって言うんだ?」
比企谷の願い。孤毒蜘蛛に彼はなにを願いーーそしてなにを求めたのか。
「……これはあくまでも私の憶測でしかないけれど、比企谷くんは恐らく自分に無いものを求めたのだと思う。いえ、無いものではなくて、心の奥底に捨て去ってしまったもの。自分ではもう絶対に手に入らないと諦めてしまったものを。だから、孤毒蜘蛛は反応した。その比企谷くんの想いに。でも同時に貴方は知っていた。その想いは『比企谷八幡が比企谷八幡である限り』叶わないと。それは多分、比企谷くんの強い理性のようなものがそう思わせたのかもしれないけれど。そうしてある種の呪いとも言える強迫観念が、貴方の願いを歪ませたのよ。自分の持っていない『何か』を持つ誰かに『自身が成る』という願いの形に」
「それが……僕?」
「うん。怪異は怪異を惹きつける。阿良々木くんは元々、怪異との関わりも多かったから。だから接点の有る無しに関わらず入れ替わりの対象に選ばれたのだと思う。比企谷くんの願いを体現するモノとして」
「…………」
比企谷はなにも言わなかった。
僕も、なにも言えなかった。
羽川は辛そうに目を伏せたまま、戦場ヶ原は静観を保ったまま、僕達の時間は止まる。
ーーそれからどのくらいの時間が経ったのだろう。未だに口を開けないでいる僕の目の前で、大きな音を立てて突然比企谷が座り込んだ。足の骨が無くなったかのように足を投げ出して、彼は左手で顔を覆っていた。
「比企、谷?」
「……笑えねえ。結局、全部俺のせいだったってわけか。まるで笑えねえよ。ここまで死にたくなったのは初めてだ。むしろ今すぐ首くくる縄が欲しいまである」
掌で隠された比企谷の顔がどんな表情を浮かべているのかはわからない。
ただ僕はその声が泣いてるようにも思えた。どこかおどけた風の言葉だというのに、その内に秘めた感情はどこか悲しく、虚しい。
自分が吸血鬼になったと知ってしまったあの頃の僕のように、比企谷は涙は流さず心で泣いているようだった。
「……ごめんなさい、比企谷くん。私はあなたの心を土足で踏みにじったの。結果の為だけに、あなたの心を暴くようなことをしてしまった。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「べつに羽川が謝る必要なんてねえだろ。お前はお前でやるべき事をやっただけだ。責められる謂れはない」
それになーーと、比企谷は続けた。
「俺はお前の主張を百パーセント信じたわけじゃない」
「え?」
「お前の推測は、お前が言っていた通りあくまでも推測でしかないってことだよ。だから俺はお前の言葉を全部信じてやらない。俺はたとえそれが無意識下の願いだったとしても、俺は俺が今まで抱いてきた『信条』を信じるだけだ」
比企谷が信じた信条。それは果たしてどんな想いなのか。比企谷八幡ではない阿良々木暦には果たしてそれがなんなのかは解らないけれど、でもまあーー
「ーーそれでいいんじゃないか?」
と、僕は言った。
「比企谷は比企谷で、僕は僕だ。だから僕には比企谷の心なんて解らないし、お前だって僕の心なんて解らない。信じるものだってきっと違うだろうさ。けどーー信じるものを信じたいという想いは多分同じだと思うから。お前はお前の信じる通りにすればいいと僕は思う」
結局、比企谷の願ったモノさえも僕には解らないけれど。それは解らないままでいいのだろう。
比企谷の想いは比企谷だけのものだ。
僕の想いが、僕だけのもののように。
「……さて、じゃあ羽川。準備の続きをしよう」
「準備?」
「そうだ。僕と比企谷が元に戻る為の準備。そもそも、その為に僕達はここに来たんだろう?」
「……そうね。確かにその筈だったわね」
それまでの沈黙を破り、戦場ヶ原が言った。
……どうでもいいけど、その手に持った僕の親指くらいなら簡単に切断出来そうな裁縫ばさみがそこはかとなく怖い。
いや、今回に限っては正しい用途として使われていると解ってはいるのだけれど。
「んん?どうかしたの阿良々木くん?なんだか無性に切られたそうな顔をしているけれど」
「それは確実にお前の勘違いだ!というか切られたそうな顔ってどんな顔だよ!?」
「虐げられたそうな顔をしているけれど」
「やめろ!虐げたそうな顔で僕を見るな!」
「冗談よ。だって私と阿良々木くんは切っても切れない縁で結ばれているのだものね」
「僕は今すぐにでもその結び目を切りたい気分だけどな……」
溜息を一つ。
やはり戦場ヶ原ひたぎだけはどこまでもいっても戦場ヶ原ひたぎであるようだった。
なんだよその不安定な安定感は。
末恐ろしすぎる。
「まあ、というわけだ比企谷。いつまでも座ってないで仕事の続きをしようぜ。雪ノ下も言ってたぞ?労働は尊いものだってな」
手を伸ばす。
比企谷はその手をどこか不機嫌そうに見ていた。
それはいつもの比企谷のように、いつもの比企谷らしい表情で。
そして彼は気怠そうに言った。
「……あいにくと俺の信条の一つが『絶体に働かない』なんでな。労働が尊かろうが素晴らしかろうが知ったことじゃない。俺は俺の信条を優先させてもらうまでだ」
……どうやら、どんな状況でもブレないのは戦場ヶ原だけじゃないらしい。
ひんやりと冷たい掌を握りしめながら、僕は一人、そんなことを思った。
蝋燭の灯火だけが辺りを照らしている。
遮光の済んだ室内の中央で比企谷は一人で立っていた。
神前の儀式。そのどこか厳かな雰囲気を肌で感じながら、僕は囁くような声量で羽川に言葉を向ける。
「……羽川。本当にこれで上手く行くのか?」
「蜘蛛がくれーー真宵ちゃんが見つけてくれたあの史書に書かれている事が確かなら、この手順でいいはずよ。あそこには神様の祝福を受ける儀式の他に、裏切りものからその祝福を取り上げる手段も書かれていたから」
祝福を取り上げる。要するに破門のようなものだろうか?
昔の人が神という存在をどれだけ崇拝し、重視していたかは知っている。だからこそ、彼らにとってそれは死と同等ほどの業だったに違いない。
昔の人の絶望が、今の僕達の希望と思うと少し複雑な気分にはなるけれど。
今はーーこの希望に縋るしかない。
「でも……これで、ようやく元に戻れるのか」
たかが三日間、されど三日間だ。
思えば色々と濃密な時間だったような気もする。そりゃあ、あの地獄のような春休みやゴールデンウィークに比べればなんてことのない事件ではあるけれど、それでもあの時は自分が他人のフリをして生活するなんてことは無かったのだから。
孤毒蜘蛛。人の願いを叶える神様。
その真相に辿りつくまで本当に色々と右往左往しーー
『ーー結局は成し遂げられていないんだけれどね』
「……ん?」
ふと奇妙な感覚に襲われた。感覚というかーー違和感というか。
再び言葉が脳裏をよぎる。
『ーー細々と餌を食らうだけの怪異』
それは確かーー忍の言葉だっただろうか。比企谷が聞かせてくれた彼女の言葉。そこで僕達は初めて孤毒蜘蛛という怪異を知った。
「……あれ?」
おかしい、と。唐突に思った。その疑念を上手くは掴めないけれど、とにかく何かがおかしいと思った。
口が開く。僕は気付けば彼女に言葉を向けていた。
「羽川、ごめん。繰り返しになるんだけどさ、もう一度だけ確認してもいいかな?」
「……なにを、かな?」
羽川の横顔は動かない。
ただわずかに細められたその瞳を見ながら僕は言うべき言葉を探した。
順序がアベコベなのは自覚している。それでも言わなくちゃいけない言葉があると思ったのだ。
捻り出す。考えて、咀嚼して、そして僕はその喉に詰まっていた言葉をようやくのこと吐き出した。
「ーー『孤毒蜘蛛は、本当に人の願いを叶える怪異』なのか?」
「…………」
記憶を呼び起こす。それは考えてみれば少しおかしい話だった。
孤毒蜘蛛は人の毒を喰らう怪異だ。調べたどの文献にも確かにその特徴は書かれている。それは、あるいは人の悪意、穢れを浄化するという意味合いを持っていたのかもしれない。多くの穢れを集め、浄化する受け皿としての役割。元が神様という点で考えればスンナリと納得もできる。
けれど、それは『願いを叶える事と同義』ではなかった。
事実、孤毒蜘蛛が大和朝廷を呪いで滅ぼしたなんて記録はどこにもない。そもそも『孤毒蜘蛛が願いを叶えるだなんて記述さえどこにもありはしなかった』のだから。
僕は彼女の答えを待つ。
羽川はーー
「ーーやっぱり、気付いちゃったか」
おどけた声で、泣きそうな顔を浮かべた。
「ごめん、阿良々木くん。私ね、皆に一つ嘘をついていたの。孤毒蜘蛛は人の願いを叶えるわけじゃない、ただ願いを集めるだけの怪異なんだよ」
「……!?」
言葉を失った。
でも、じゃあ比企谷に憑いている怪異はーー
「けど、比企谷くんに憑いている怪異が孤毒蜘蛛である事も確かなんだよ。この意味が阿良々木くんには分かる?」
「お前は、なにを……」
わからない。お前は……お前はなにを言ってるんだ、羽川。
「……大丈夫。私に任せて。一応、幾つか対応策は考えてきたから。もしそれでもダメだった時は……それこそ『彼女』に助けてもらうしか方法がないんだけれどね」
ポツリと、一滴の雫を水面に落とすように言葉をこぼして、羽川は歩いていった。
僕はーー後を追うことができない。
ただ、羽川が最後に見せた覚悟を決めたような表情が網膜に焼き付いて、先に進ませることを拒絶していた。
「……じゃあ始めるよ、比企谷くん」
そして、そうこうしている内にも儀式は始まる。
羽川の合図に従って、比企谷は歩き出した。
一歩、また一歩と歩みを進める。床板を鈍く軋ませながら
、そうして比企谷は祠の前でピタリと動きを止めた。
右手が伸びる。その指が祠の内にある銅鏡に触れたーー瞬間。
「ッ、!?」
一陣の風が吹いた。それは立てた蝋燭の灯りに触れ、巻き上がるようにその火を炎と変える。
強い光に照らされた室内で僕は確かに見た。
驚く戦場ヶ原を、警戒を見せる羽川を、呆然と立ち尽くす比企谷を。
そして、
「アレ、は……!?」
銅鏡から生まれ出でた一つの闇。それはやがて人の形を形成していき、一人の影になった。
眼前の光景に僕は驚きを露わにする。
「比企、谷……!?」
全身を闇色に染めた人。人影。
そこに『もう一人の比企谷八幡』が立っていた。