そこは公園だった。
視界に広がるセピア色の世界の中で、僕と同年代くらいの子供が遊んでいる。男の子が三人、鬼ごっこでもしているんだろうか。きゃいきゃいと騒ぎながら走り回る彼らはみな楽しそうに笑っていた。それが羨ましくて、仲間に入れてもらいたくて、だから勇気を出して声をかけてみた。
「ぼくも仲間に入れて!」
声は……届かなかった。何度も何度も言ったのに何故か届かなかった。
仕方がないから僕は一人で遊ぶ事にした。
暗転。
僕は教室に居た。下校のチャイムが鳴っている。クラスメイト達はランドセルを背負い、溌剌と廊下へ出ていく。
僕は一人で帰る支度をしていた。本当は誰かと一緒に帰りたかったけれど、誰も一緒に帰ってはくれなかったから。
教科書をしまい、文房具をしまい、ランドセルを背負う。と、教室の隅に僕以外に一人だけ女の子が居た。僕が好きな子だった。彼女は困った顔で机の周りを見渡している。なにか探しものをしているのかもしれない。声をかけるのが少し恥ずかしかったけれど、僕は彼女を放っておけなかった。
「探しものしてるの?だったら俺も手伝うよ!」
けれど、また声は届かなかった。やがて彼女は諦めたようにランドセルを背負い、そそくさと教室を後にする。
仕方がないから僕も一人で帰った。
暗転。
またしても僕は教室に居た。放課後。夕焼けに染まった教室。目の前には女の子が居た。
憧れていたクラスメイト。勇気を出して告白したけれど、すぐに断られてしまった。泣きたくなった。でも泣き顔を見られたくなかったら急いで家に帰った。
次の日、クラスの皆が笑っていた。
僕を指差しながら笑っていた。
右から左から前から後ろから、笑い声が僕を取り囲む。頭が割れそうに痛んだ。心が軋むように痛んだ。
仕方がないから僕はその日一日を耳を塞いで過ごすことにした。
暗転。
……気付けば一人だった。どうしようもなく一人だった。
仲間に入れてもらいたかっただけなのに。楽しく会話したかっただけなのに。一緒に居て欲しかっただけなのに。
それなのに、気付けば僕は一人で暗闇の中に居た。
息が苦しい。けれどすぐに慣れた。身体が寒い。けれどすぐに慣れた。世界が暗い。けれどすぐに慣れた。心が痛い。けれどすぐに慣れた。
やがて……孤独にさえ僕は慣れていた。暗闇が僕の全てになっていた。
だからもう他に何もいらない。何も欲したりしない。痛みも苦しみも絶望もこの世界にいる限り届かない。
僕は一人でいい。僕は一人がいい。
誰も傷つけない、誰にも傷つけられない世界で。
そうして僕は一人で眠りについた。
暗転。
『ーー阿良々木くん』
……声がした。どうしてだろう。何故だか心が弾む。閉じていたモノが、柔らかく開かれていくような感覚がした。
『ーー阿良々木さん』
呼ばれている。僕は、それが僕を暗闇から引きずり出そうとしていることに気が付いた。嫌だ。嫌だ。絶対に嫌だ。僕はここから出たくない。もう痛いのも苦しいのも嫌なんだ。もう辛いのも悲しいのも嫌なんだ。
開こうとするモノを押し留め、僕は再び闇の中に身を沈める。
『ーー阿良々木先輩』
うるさい。やめろ。黙れ。消えろ。あっちに行け。一人にさせてくれ。もうなにもいらないって決めたんだ。もうなにも欲しないって決めたんだ。だから、頼むから、僕を放っておいてくれ。
『ーー暦お兄ちゃん』
けれど声は止まらなかった。心の騒つきも止まらなかった。
何が違ったんだろう。どこで間違えたんだろう。僕とアイツとの間に大した差なんて無いはずなのに。僕とミンナとの間に違いなんて無いはずなのに。どうして僕だけが苦しい思いをするんだ。どうして僕だけが辛い思いをするんだ。悪いのはなんなんだ。わからない。教えてくれ。誰か僕に教えてくれよ……。
『ーーラギくん』
違う。もうそいつの名前を呼ぶな。聞きたくない。考えたくないんだ。僕は【ーー】じゃない。僕は……僕は……『俺』は……!!
「ーー阿良々木くん!!」
「ッ……!?」
チリンッーーと、鈴の鳴る音がした。
「阿良々木くん!!」
モーニングコールにしてはやけに穏やかさに欠けた声で目を覚ます。
視界の中央、すぐ眼前には羽川の姿。顔が近い。え、もしやこれが朝チュンというやつなのか?
「待て……しかし僕には戦場ヶ原という心に決めた人が……」
「……はあ。起きて早々に何を言い出してるのよ、この男は」
呆れたように溜息を吐かれてしまった。ボンヤリとした意識が次第にハッキリとしていく。
「……羽、川?」
「うん。おはよう、阿良々木くん」
「っぅ……もしかして寝てたのか、僕は」
「まあ、そんなところかな。それよりも身体の方は大丈夫?どこか痛む所はない?」
「いや、特に問題はないけど……」
精々、気怠さが多少あるぐらいか。それ以外にはこれといって異常は見当たらない。腕が無くなってるとか、足が血だらけだとか、そんなことも一切無く、いつも通りの阿良々木暦の姿がそこにあった。
「……って、え?」
しかし、だからこそおかしい事に気が付く。
そうして困惑を浮かべる僕の前に、横からコンパクトミラーの鏡面が差し出された。
「……戻ってる」
「みたいだね。でも、おめでとうって言うにはまだちょっと早いかな?」
「え?」
羽川の横顔は睨むように僕の後方を見ていた。
振り返る。奥行きさえ解らない濃厚な暗闇の中を、不思議な事にそいつはその輪郭をハッキリと映し出しながらそこに立っていた。
「……比企谷?」
呼んで、けれどすぐに『違う』と確信した。比企谷の形をしたソレは不気味に笑う。
頭の中に響く声がした。
【本物が欲しい】
「……え?」
【仮初めのものなんていらない。偽物なんていらない。建前も気遣いも偽善も欺瞞も必要ない。俺はただーー安らぎが得たい】
「っ!?」
響く声に混じって感情が流れ込んでくる。孤独、絶望、諦念、悲哀。胸が締め付けられるような感覚。痛くて苦しくて切なくて寂しい。
目の前がーー暗くなっていく。
「ダメだよ!呑まれちゃダメ!しっかりしなさい!」
「……!!」
チリンッ。
またその音がした。薄ぼんやりとした意識が再びクリアになっていく。視界の端に羽川の姿が見えた。彼女の手首に巻かれたソレに僕は視線を向ける。
「鈴の音色ーーやっぱりお前の仕業だったんだな、羽川」
糸に括られた丸い金色が羽川の手首から澄んだ音を発していた。
その音色が、不思議なことに内から湧き上がる負の感情を霧散させていく。ただ、声だけは依然として頭の中に響いていた。
「声に意識を傾けちゃダメだよ。いまはまだ流れ込んでくる悪意を鈴の音で祓えてはいるけれど、それにも限度があるの。こちらから向こうに足を踏み入れてしまったら、たちまち呑まれてしまうわ」
「そ、んなこと言われても……!!」
聴覚を通さずに直接響いてくる声は否が応でも意識をそちらに集中させる。
ダメだ。無理だ。この声を無視するには僕はあまりにも脆弱すぎる。
【本物が欲しい。触れて壊したくない。触れられて壊れたくない。だから俺は本物が欲しい。だから、俺は本物だけが欲しい。だからーー】
「っ、避けて阿良々木くん!!」
「なっ……!?」
暗闇が歪む。歪みはやがて亀裂に変わり、亀裂の内からは漆黒の触手が生まれ出でる。合計六本の触手。それはまるで蜘蛛の足のように比企谷の周囲から生え、唐突にこちらに振り下ろされた。
僕は咄嗟に回避行動を取る。だがあともう少しの所で間に合わない。躱しきれなかった触手の一つが撫でるように僕の右腕に触れた。
「ッーーあああぁあぁあぁぁああああああああ!?!!」
痛いーー痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!
まるで腕ごと硫酸の中に突き入れたような激痛だった。神経が肉ごとズタズタに引き裂かれる感覚だった。あまりの痛みに腕が千切れたのかとも思ったが、けれど現実として僕の右腕はちゃんと身体に繋がっている。どころか、見た限りでは些細な外傷一つすらそこにはついていない。
「阿良々木くんッ!!」
「っぅ……いや、大丈夫だよ、羽川。怪我は……ないみたいだ」
怪我は無い。たしかに無いが、それに反して右腕は未だ断続的に痛みを伝えていた。広がる痛み、その苦痛を僕はつい先月に起こったある事件で経験している。
「これはーー毒か」
毒。蛇の毒。蜘蛛の毒。性質は違えど、それが身体を蝕むものであることには変わりない。
不味いーーと思った。吸血鬼は毒に弱い。おまけに忍に最後に血を飲ませたのは五日前だ。大した吸血鬼性も備えていない今の僕では、あの触手を受け切るのはあまりにも至難の業だった。
「……右腕、動かないの?」
「いや、大丈夫だよこれくらい。全然、まったく、なんともないーーって、ごめん。強がった。正直に言うと当分は動きそうにない」
「そっか。じゃあ足は?両方共ちゃんと動きそう?」
「そっちはまあ、大丈夫だけど」
「よかった。それじゃあーー」
言って、羽川は僕の前に一歩出る。
「ーー反撃開始だね」
「反撃って……なにか手があるのか?」
「一応、一つだけね。でもその為には阿良々木くんの力を……じゃないか、うん、ごめん。言い直すね。阿良々木くんの『命』を私に預けて欲しいの」
「命……」
羽川は真剣な表情でそう言った。
この状況で彼女が命を賭けろと言うのであれば、それは掛け値なしに危険を伴う行動なのだろう。もしかしたら死ぬかもしれない。もし運よく生き延びたとして、五体無事でいられるかもわからない。
緊張が走る。
恐れがあった。
けれどーー迷いは無い。
僕は即答した。
「わかった。今から僕の命はお前のものだ。僕は羽川翼に阿良々木暦の全てを預ける」
「……ありがとう、阿良々木くん」
羽川は笑う。だから僕も笑った。
一歩、僕も前に出て羽川の横に立つ。
「ーーさあ、反撃開始だ」
今更ながら状況確認をしようと思う。
攻略すべきは一人と六つの触手。対する戦力は僕と羽川の二人だけだ。
周囲は暗闇。だが何故だか互いの姿は見えている。どうやら、この空間そのものが比企谷もどきの作り出した領域であるようだ。戦場ヶ原の姿がどこにも無いのは、彼女が比企谷もどきの意志で領域の外に弾き出されたからーーそれが本当だとしても不安は消えてはくれなかったがーーだろうと羽川が教えてくれた。加えて、あの比企谷もどきが比企谷に憑いた怪異であると同時に比企谷本人であるということも。
つまりは『ブラック羽川』ならぬ『ブラック比企谷』。
だが、伝え聞いた僕の動揺を見透かしたように羽川は喝を入れてくれた。
「今は私の話に集中して。これは言ってしまえば比企谷くんを助ける為の作戦でもあるんだから」
だから絶対に失敗は許されない。しかし、考えるまでもなく戦力比は絶望的である。純粋な手数も、地理的なアドバンテージもあちらが有利だった。
そんな状況で僕が羽川から伝えられていた作戦は二つ。
一つは、
『ひたすら逃げ回って彼の注意を引いて』
要するに囮ということだろう。だが、これに関しては難なく実行出来た。邪気を祓う鈴の音から遠ざかったせいか、触手は羽川ではなく僕を優先して狙ってきたのだ。
しなるように縦から振り下ろされ、滑るように横から振り払われ、そうして繰り出される触手に途中何度も危うい場面を見せながらも僕は付かず離れずで彼の触手を引き付ける。アレにわずかでも触れたらダメだ。例えそれが体毛の先、爪の先程度のものだとしても、毒は瞬く間に周囲に広がる。極論でいえばシューティングゲームのようなものだと考えればいいだろう。問題なのは自機が一つしかないという事と、このゲームがこちらからは反撃出来ない超難易度仕様という事なんだけれど。
触手が走る。
「くっ!!」
鋭くはないが、縦横無尽に繰り出される敵の攻撃を僕は後ろにステップを踏んで躱す。前に飛び退いて躱す。転がって躱す。神経を削るその作業はもはや数えるのすら億劫になる程の回数に到達している。しかし、それは羽川も同様だった。僕ほどではないにしろ、迫る脅威を持ち前の反射神経で彼女はやり過ごしている。いや、やり過ごしているだけではない。そうして触手を躱しながらも、羽川は『ブラック比企谷』を挟んだ僕の対面でタイミングを伺いながらジリジリと彼に近づいていた。
僕はともかく、羽川が危険地帯に入っていく事が焦燥を駆り立てる。それでも僕は根気よく待った。羽川からの合図を、いずれ来る好機の瞬間を。
そうして待って、躱して、待って、避けて、待って、逃げてーーやがてその時がやってきた。
「……!!」
羽川が一瞬、僕を見る。それが最初で最後の彼女からの合図だと気付いた瞬間、僕は躊躇も捨てて触手のイバラに飛び込んだ。
僕に任された策。その二つ目を思い出す。
羽川は無茶をしなくていいと言った。無理なら無理でいいと。
だけどそれこそ無茶で無理な相談だ。頭脳明晰な羽川ならともかく、愚鈍な僕にはこういうやり方しか思いつかないんだから。
だから僕は走る。二本の触手が振り下ろされた。それを横に飛んで躱す。続いて二本の触手が交差してこちらを襲う。間一髪のところで前転、回避。立ち上がる手間すら惜しくなって、僕は這うように、転がるように彼に近づいた。と、気付けば一つの漆黒が貫くように間近に迫っている。身を捻る。ギリギリで躱せたと思ったが、微かに触手の端が肩に触れたらしい。激痛。悲鳴を奥歯に力を込めて嚙み殺すが、その瞬間に見せた隙が命取りになった。最後の一本、必殺のタイミングで振り下ろされた触手が正中線に沿って僕を引き裂こうと迫る。
だから、
「ゥーーッァァアアアア"ア"ア"!!」
残る左手で掴み取る。掌の皮膚が根こそぎ灼けるようだった。
手の感覚が無くなる前に触手を振り払い、足に力を込める。比企谷との距離を一から零にーーとは、しかし、いかなかった。
「ウグッ!?」
どうやら少しだけ遅かったらしい。
右の肋骨を砕くような衝撃。真後ろからなぎ払うように振られた触手が僕を紙くずのように吹き飛ばす。だけど、それでいい。何故なら僕は『僕の役目を果たせた』んだから。
動かぬ身体で僕は比企谷を見る。『比企谷の真後ろにいる』羽川を見る。擦り傷だらけの彼女の手には、一枚のお札があった。
『一瞬でいいから、隙を作って』
羽川は比企谷に迫る。触手が羽川に迫る。彼女は札を持っていない反対の手でコンパクトミラーの鏡面をかかげた。まるでその小さな枠内に活動範囲を制限されたかのように触手は動きを止める。もはや彼女を遮る障害は無かった。羽川は手を伸ばして、比企谷に触れーー
「……え?」
ーーられなかった。まるで時間が止まったかのようだった。
それは驚きからでもない、体感的なものでもない。現実に、時間が止まったかのように、羽川の身体が中空で留まっていたのだ。
蜘蛛の巣にかかった蝶のように。羽川は動かない。
その制服の表面に、黒くて細い幾条もの線が食い込むように張られていた。
「ーーごめん、阿良々木くん」
「っ、羽川ァッ!!」
触手が彼女を弾き飛ばす。羽川は何度も何度も地面を転がり、やがてその動きを止めた頃にはピクリともしなかった。
羽川の白磁のような肌に、一筋の血がスーッと真紅の線を描いてた。
「うそ、だろ……?羽川……っ……羽かーー!?」
言葉が出ない。代わりに焼くような痛みが喉から絶叫を吐き出させる。
どうやら、本格的に毒が全身に廻ってきたらしい。痛みが身体を裂いていく。千切っていく。蹂躙していく。あまりの痛みに僕は涙さえ流した。意識と身体とのリンクが絶たれていく。目の前さえロクに見えなくなった暗闇の中で、その声だけが頭の中に響いた。
【ーー本物が欲しい。本物が、欲しい。本物が、ホン物が、本モノが、ほンものが、ホンもノが、ほんモのが、ほんものが、ホンモノガ、ホンモノガホンモノガホンモノガホンモノガホンモノガホンモノガホンモノガホンモノガホンモノガホンモノガホンモノガホンモノガホンモノガホンモノガホンモノガホンモノガーー本物ガ欲シイ。ソレシカ要ラナカッタ。ソレ以外、要ラナカッタ。俺ハ、タダ本物ダケガ、欲シイ】
泣くような、怒るような、悲しいような、救いを求めるような、それは切実な願い。
比企谷は一体どんな想いの中で生きてきたのだろう。どんな想いの中で、どんな想いを捨てて生きてきたのだろう。他人から見たらちっぽけなことかもしれない。自分から見てもちっぽけなことかもしれない。だとしても……比企谷八幡という名の少年は、本当はその心の中でなにを願ったのだろう。
わからない。やはり何度考えても他人である、他人でしかない僕には比企谷の本心は解らなかった。それはきっと比企谷が比企谷である限り、僕には知ることもできないし、きっと分かり合うことも出来ない事なのだろう。比企谷が比企谷である限り、きっと彼は彼の抱える業からは逃れられないのだろう。だってそれは、何を隠そう比企谷自身が決めたことなのだ。
だから、それはいい。だから、そんなことはどうでもいい。
ただ僕は比企谷の声を聞きながら、ある事を思っていた。ある感情を抱いていた。
多分、僕は比企谷にーー
『ーーきっと、由比ヶ浜の知る比企谷八幡を取り戻してみせるから』
「……甘っ、たれてんじゃ、ねえぞ、比企谷八幡……!!」
ーー腹が立っていた。無性に腹が立っていた。内臓が煮えくりかえりそうになるくらい、脳みそが沸騰しそうになるくらい、僕はただ、比企谷八幡という男に怒りを覚えていた。
目を開く。瞼を動かすという行為にすら激痛が走る。それでも僕は湧き上がる情動に任せて無理やり立ち上がった。
血反吐と共に、言葉を吐き出す。
「言いたい事はそれだけかよ、比企谷。お前が自分を殺してまで言いたかったことはそれだけかよ、比企谷。だとしたら、僕が返す言葉はただの一つだけだ」
ーー甘ったれてんじゃねえぞ、この野郎。
痛みすら忘れて、僕は言う。
「断言するぞ。お前は、ただの馬鹿野郎だ。根暗で、捻くれてて、陰気で陰鬱で、幸せを幸せと見ずに自分をただの不幸者だって悲劇の主人公気取ってるだけの、ただの大馬鹿野郎だ。お前が今までどんな想いで暮らしてきたかなんてもう僕にはどうだっていい。そうだよ。先に言っておくぞ比企谷。僕はお前に対して同情も共感も一切しない」
怒りは留まることを知らず湧き出てくる。奥歯を噛み締めすぎてガリッと口の中で鈍い音がした。
「孤独だった?だからどうした。お前の寂しさなんて僕は知らない」
知っていた。
比企谷の感じた心の痛みを僕は夢の中で知っていた。
「声が届かなかった?だからどうした。お前の悲しみなんて僕は知らない」
知っていた。
存在を認めてもらえなかった比企谷の虚無感を僕は夢の中で知っていた。
「拒絶された?だからどうした。お前の絶望なんて僕は知らない」
知っていた。拒絶された絶望も、笑い者にされた失望も、壊れそうになる心の軋みも、僕は夢の中で知っていた。
だけど、
「だから、どうしたってんだよ比企谷。だから全部を諦めたってのか。だから全てに失望したってのか。はっ、ちゃんちゃらオカシイぜ。僕はお前のことなんか知らないけれど、だけどお前より遥かに不幸な女の子のことを知っている。僕はお前のことなんか知らないけれど、だけどお前より遥かに絶望を知っている女の子のことを知っている。僕はお前のことなんか知らないけれど、だけどお前より『お前を遥かに大切に思ってくれてる女の子達』のことを僕は知っている!お前を気にかけてくれている人を!お前を心配してくれている人を!僕はッ、お前以上にッ、よく知っているッ!」
気付けば頭の中で響いていた声は止んでいた。闇に染まった比企谷の瞳が僕を見ている。その周囲で、触手が不気味に蠢いていた。
「要するにさ、比企谷。比企谷八幡。お前はただ、見ていなかっただけなんだよ。見ようとしていなかっただけなんだよ。お前の周りには確かに居たはずなんだ。本物ではない、けれど限りなく本物に近い本物が。なのに、よりにもよってそれから目を逸らしたのは比企谷、お前自身だろ!だというのに、言うに事欠いて本物が欲しい?ーーふざけんな、甘ったれてんじゃねえよ。手に入らなかったわけじゃない。ただ、お前が手にしようとしなかっただけじゃないか!」
説教が出来る立場じゃないことはわかっている。人のことを言えない立場じゃないこともわかっている。実際の所、僕と比企谷の間に差異なんてそれほどありはしない。ただ『救われた』か『救われなかった』かの違いだ。僕は羽川翼という本物に救われて、比企谷は救われなかった。たったそれだけの違い。
でも、だからこそ、僕はーーッ
「っ、ぅ……!!」
力が抜ける。怒りを上回った痛みが、再び僕に牙を剥いた。
片膝をつく。それでも睨みつけるように比企谷へと向け続けた視界の隅で、シビレを切らしたかのように突如漆黒が動いた。
動かぬ身体へ一直線に向かう凶器。ここで倒れるわけにはいかないと分かっていながらも、身体は思うように動いてはくれない。
悔しかった。約束を守れないことが。なによりも比企谷に何も伝えてやれないことが死ぬほど悔しかった。
触手は迫る。そしてーー不意に光が差した。
「……?」
希望の光、なんて安っぽい表現をするつもりはない。ただ、どうしようもなくそれは光だった。まるで夜空に走る流れ星のように、それは僕の頭上に輝いていた。
なんとなく、今が危機的状況であることすら忘れて僕はソレを見上げる。そして気が付いた。
ソレはーーライトの点灯した携帯電話だった。
「あれは……羽、川の?」
携帯電話はクルクルと回りながら、無秩序に光を撒き散らす。回る、廻り、光はちょうど僕の真上で僕を照らす。まるで月の光のように、それは包むように淡く僕を照らし、影を作る。
長く、細長く、伸びていく。炎の揺らぎにも似たその黒影から生まれ出でたモノは、影も形も無い、ただ、耳の中に溶けていくような、愉快げな笑い声。
『ーーカカッ。情けないのぅ』
それは瞬間にして、閃く。どこまでも伸びた影から千切れ、宙を舞った断片が、一瞬にして触手を切断した。
ソレは頭上、頂点に達すると、その場で円を描くようにして重力に吸い込まれていく。やがて僕の眼前に落下したソレはいつか見た時と同じように、凄絶な切れ味を持って地面に突き刺さっていた。
刃の下にーー心あり。
キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの通り名の由来となる、最強最悪の妖刀『怪異殺し』。
銃刀の所持を大っぴらに制限する平和至上主義なこの現代において、それは冗談みたいな大振りの刃を閃かせながら、まるで自身を差し出すかのようにその柄を僕に向けていた。
呆然と、僕はその場に立ち尽くす。と、不意に視線を感じた。見れば、先ほど身じろぎもしていなかった羽川が顔を上げ、僕を見ている。
力なく笑うその小さな唇が、ゆっくりと、動いた。
『ま・か・せ・た・よ』
「……あはっ」
笑いたくなった。大声で笑って、それで泣きたくなった。
視線を落とす。もうこれが、人生で最大最後の感謝になってもいいと、心の中で思いながら、
「……ありがとう、忍」
腕は両方とも動かない。だから代わりに口で柄を咥えた。まさか三刀流使いでもなければ海賊狩りでもない僕がこんな行為を現実に行うなんて夢にも思っていなかったけれど。今は別にこれでいい。もう言葉は必要ない。男同士拳で、身体で、刃で、語り合おうじゃないか。
(なあーー比企谷)
走る。もしかしたら今後一生走れなくなるんじゃないかと思うぐらいの激痛をムチ代わりにして、僕は再び比企谷に突貫した。
充血して真っ赤に染まった視界の中で触手が走る。ボディーブローのように脇腹に先端がめり込んだ。けれど衝撃と同時に身体を捻り、回転。勢いは殺さず前進を続ける。攻勢はなおも止まらない。だけど僕だって止まる気は無かった。
足にかすり、腕を弾き、肩を突き、腹を貫こうが、僕は進める足を止めない。僕はお前に言わなければいけない事があるから。腕がもげようが足が千切れようが、絶対に僕は足を止めない、僕はお前に伝えなければならないことがあるから。
だから走る。走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る。
比企谷はもう目前だった。が、その視界を遮るように漆黒の悪意が顔面に迫る。
ーー邪魔を、するな。
正面から、頭ごと僕を潰そうとする触手に、僕はギリギリまで首を捻って、刃先を向けた。漆黒の塊が中央から引き裂かれていく。もう止まらない。止まるわけにはいかない。
だから僕は、比企谷に向けて、走りつづける。
「ゥウウヴヴヴヴヴウウゥゥゥッ!!!!」
比企谷は言った。偽物なんていらないと。
比企谷は言った。友達なんて居ないと。
比企谷は言った。一人が好きだと。
比企谷は言った。俺とお前は違うと。
比企谷は言った。お前の価値観を押し付けるなと。
比企谷は言った。比企谷は想いの中で言い続けた。届かない声を枯らしながら、孤独を嘆くケモノのように泣き続けた。
それでも届かなくて、やがては届かせるのさえお前が諦めてしまったというのならさーー比企谷、僕がお前の言葉を聞くよ。お前が孤独だと言うなら僕が一緒に居てやるし、お前が寂しいというなら僕が一緒に馬鹿騒ぎしてやる。何度、暗闇の中に閉じこもったとしても、僕が無理やり引きずり出してやる。
お前の絶望も失望も僕が一緒に背負って、そしてお前の希望や喜びを僕は一緒に祝おう。今の僕が皆にそうして支えられたように、今の僕が皆とそうして笑ってきたように。
僕がお前と一緒に全てを分かち合ってやるからさ。
「……だから」
比企谷の胸に顔を埋める。柄は根元まで突き刺さり、彼の背中からは一振りの刃が突き出ていた。
僕は倒れそうになる身体でかろうじて踏ん張って、比企谷の肩に頭を乗せる。いわゆる二番煎じではあるけれど、ようやく僕はその言葉を比企谷に伝えた。
ほんのちょっとだけ気恥ずかしい、けれど僕の本心からの気持ち。
「……だからさ……そんな寂しいこと……言うなよ。僕達もう……『友達』だろ?」
暗闇に亀裂が入る。天井にはまるで蜘蛛の巣のように何条もの光の筋が走り、やがてパキッという軽やかな音を立てて世界が割れた。
視界が赤くなる。それが窓から差しこむ夕焼けの光であると気付いたのは少し後のことで、前方で両手にあらん限りの文房具を装備する戦場ヶ原を発見した直後の事だった。
視線と視線が合う。一瞬、殺されるかもと本気で思った。その鬼気迫るといってもいい迫力と覚悟に満ちた表情にどうしようもなく死の気配を感じた。
息が詰まるような沈黙。次いで戦場ヶ原が駆け出した。殺られる、と思って咄嗟に目を閉ざした僕にガバリとなにかが首に巻きつく。もしやこのまま頚椎をへし折る気か!……とも思ったが、しかしいつまで経っても折られる気配は無い。
そっと目を開く。見れば僕は抱き寄せられるように戦場ヶ原の左腕の中に居た。その横では同じように羽川が右腕で抱き寄せられていた。
戦場ヶ原は……震えていた。けれどその顔だけは誰にも見せまいと更に強く僕達を抱き寄せ、ぽつりと。
「……おかえりなさい、阿良々木くん。羽川さん」
僕と羽川は顔を見合わす。
それから打ち合わせをするまでもなく、僕達は同時に答えたのだった。
「ただいま、戦場ヶ原さん」
「ただいま、戦場ヶ原」
次回エピローグになります。