トウカイテイオーの有馬記念を頑張って書いてみました。よければ読んでください。
1993年12月26日、男たちの熱気の中に中山競馬場はあった。
約二十万人をも収容できる大客席は、立ち見の観衆がいるほどに満員。彼らはみな一様に無言で、じっと熱い視線を馬場にそそいでいる。しかし、無言であるからこそ彼らの秘めた熱情があふれ出しているようにも見えた。
有馬記念。年の瀬にやってくる運命の日。
各世代、それぞれの世界、それぞれの時代を作り出した猛者だけが走るレース。
この年、どの馬がもっとも速く駆けることができるかを競うレース。
本来、このレースに出ることが出来ること自体が誇りであり、夢であり、証であるはずだった。しかし、出走を待つ馬男たちは決して妥協に己を沈めることを許さなかった。なぜならば、彼らの鍛えられた筋肉の一つ一つが、超えてきたレースの一つ一つが、彼らが敗北に甘んじることを許さなかったからだ。
彼らの足元には涙を流したライバルたちの影があり、彼らの背中にはここまで彼らを支えてきた仲間たちの翼があった。
その馬男たちの中に、ある男の姿があった。
少し茶色がかった髪は短く刈り上げられていて、背は二メートルを越している。
神が自らの手で作り給うたが如くその体は均整がとれていて、古の彫像のような機能美を感じられた。
しかし、彼の一番に目を引くところはその瞳だった。
端正な顔にひときわ輝く黒色の瞳。
一見よくある瞳だが、しかし彼の瞳にはどこか人を引き付けて離さない魅力があった。
それは、言葉で表すのならば「死を覚悟したものの瞳」であり、「決意した男の瞳」でもあった。
瞳は、決して周りの馬を姿を映さなかった。
ビワハヤヒデ、ライスシャワー、ウイニングチケットら並みいる強豪たちのどれをも映さなかったのだ。
彼の瞳にはただ、青々とした芝だけが広がっていた。
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決戦の日の早朝、男の姿はトレーナーが運転する車の中にあった。車内は沈黙に支配されている。
車内から見える街の様子は煌びやかで、あちこちに「有馬記念」を祝うのぼりが作られ、人々はみな楽し気に競馬場のある方向へと歩いていた。
トレーナーはハンドルを捌きながら、ふいに言葉を口に出した。
「なあ、今日は俺たちの決戦の日だぜ。なんでそんなに浮かない顔をしてるんだよ。」
男は拳を強く握りしめるだけで、なに一つ答えなかった。
「すまん。意地の悪い質問だったな。お前が浮かない理由をしている理由なんて俺が一番わかっている。」
「怪我が怖いか、相棒。」
男は一貫して答えなかった。しかし、その無言こそが肯定の証と言えた。
「あの日、一年前のあの日。確かに覚えているさ。有馬の後、相棒に怪我が発覚したんだ。」
「俺と相棒の二人でやっと怪我を乗り越えたけれど、俺たちはこの一年、一つだってレースには出ちゃいない。」
トレーナーは強くハンドルを握りしめた。
「俺のせいだよ、相棒を苦しめたのは俺の怠慢の結実だ。怪我を見逃したのも、お前に恐怖を抱かせてしまったのも全ては俺の怠慢だった。」
「俺なんかが相棒のトレーナーでなけりゃあ、お前はきっと世界最強だった。」
「いいや、違うね。違うんだよ、トレーナー。」
男は断固とした沈黙を破ってそう口に出した。
「俺は、けっして今のこの無様をトレーナーの怠慢が招いただなんて思わない。トレーナーはいつだって、俺のことを第一に考えてくれている。俺には、それが分かっている。トレーナーは毎日、可笑しいくらいに怪我防止に気を張ってたし、今年レースに出られなかったことだって、俺のためを思ってだって分かっているんだ。」
男はあまり、口で自らの気持ちを語るのは得意ではなかった。しかし、トレーナーの悔いるような顔を見るたびに、自らの相棒が己を罰するような顔をするたびに、心の中に怒りがわいてくるのだ。その怒りの矛先は、一年前から不細工な運命へと向いていた。
「なあ、トレーナー。俺は最近、やっと自分の心中が理解できて来たんだ。きっと俺は、怪我と同じくらいに、いやそれよりも、親父の影が恐ろしいんだ。怪我をして、やっとそれが自覚できただけのことだったんだよ。」
男の父は偉大だった。いかなるレースをも食い破り、七冠を成し遂げた偉業。圧倒的なその風格。男の脳裏には、いつもあの暴虐たる皇帝の姿があった。
「今だって、レースの前だってのに親父の姿がチラつくんだ。親父だったら、こんなことには成ってないのにだとか、そういう気持ちの悪い考えが頭を埋め尽くすんだよ。」
「だからさ、トレーナー。覚悟をくれよ。俺に覚悟をくれ。俺が親父の姿も、怪我のことだって忘れてしまえるくらいのそんな覚悟をくれよ。」
「覚悟?」
「ああ、そうだ。覚悟だ。お前がくれた覚悟なら、お前がくれた心なら、俺はきっと誰よりも速く走れる気がするんだよ。」
男の心に、トレーナーは自分の胸が熱くなってくるのを感じた。それと同時に男には、おためごかしや、口先だけの言葉ではなく、自らの思いそのものを伝えなければ男に対して失礼だと感じた。トレーナーは男と自らの三年間のすべてを噛みしめながら、その心を口に出した。
「相棒と初めて会ったとき、俺は恥ずかしくもこの馬は自分に似ているなと思った。なにか恐怖におびえながら、追われるように走る姿が自分と重なったんだ。」
「しかし、相棒と組んでみて、相棒が勝利を重ねるたびに、自分の限界を超えていくたびに、お前は俺のちっぽけな枠を超えて、その先に超えていくように感じた。」
「いつしかお前は、俺自身から俺の夢へと変わっていったんだ。だから、だから俺の夢を叶えてくれよ、相棒。俺の夢のその先へと、お前は駆け抜けていけ」
そして、男の瞳に炎が宿った。
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ファンファーレが、年の瀬の空を駆け抜けていった。運命の決戦を望む人々の大歓声がそれに続いて、場内いっぱいに響き渡る。
ゲートには続々と十四人の猛者たちが並んでいく。男の姿は内側四番の位置にあった。
風が、男たちを強く吹きつけていった。場内が一瞬静けさに包まれる。
ゲートが開く!!!
瞬間、歴戦の猛者たちはその意識のすべてを自らの足に傾けた。遅れるものは誰もいなかった。
始めに飛び出したのは、メジロパーマー。昨年の有馬を制した王者は、今回も風を切って先頭を進んでいく。
ビワハヤヒデ、ウイニングチケットの後ろを取って、男は全体の中間を確保していた。
馬男たちはその体に強烈な空気抵抗を受けながらも、恐ろしいほどに姿勢を崩さずただただ前を目指している。
男は、みずからのすぐ前を走っているビワハヤヒデを見つめた。白髪の偉丈夫はレース中でありながらも、しかし冷静に先頭を駆け抜けるメジロパーマーを見つめているように感じられた。
この馬は恐ろしいと男には感じられた。生きるか、死ぬかという舞台で、己のすべてを出し切ることが出来るものは少数といわれる。しかし、そういった舞台で自らも含めてどこか神のように戦いを眺められる者たちを、人々は天才と呼ぶのである。
男は内心、この馬こそが自分が最も越えなければいけない壁であると感じた。
馬群は今や、一週目を抜けて、第四コーナーから第一コーナーへと足を移していた。それぞれの馬は自らのペースを保っている。メジロパーマーに続いて、はじめと変わらない形で中山の二週目をかけていく。
男は自らの心臓が、異常に高ぶっていくのを感じられた。息が苦しい。男はこの一年、一つのレースにも出ていない。当然、大観衆の期待やライバルたちの並々ならぬ風格が彼を精神的に押し付けていた。しかし、男は不思議にその事を苦し感じなかった。その理由は明らかだった。男の体はいまや、男の心によって動いているわけではないのだ。あの、ぶっきらぼうで優しいトレーナーの心臓によって動いているのだ。
最終コーナーに近づいていくにつれて男たちは、みな同様に一つの考えを思い浮かべた。ここからの二百メートルで、運命が決まる。この二百メートルこそが決戦の地であり、馬男たちの夢であり、そして有馬記念そのものなのだ。
観衆は、中盤から少しずつ上がっていく白い影を発見した。それは、あの恐ろしきビワハヤヒデだった。白い影はもはやメジロパーマーのそのすぐ後ろにつけており、いつでも先頭を狙えるという状態だった。
最終コーナーをメジロパーマーが曲がっていく。後ろに続いて、十三人の疾風があった。
歓声が上がる。その歓声こそが、彼らの決戦を示す戦鼓そのものであった。
男たちは今、その力のすべてを解放した。
ビワハヤヒデがメジロパーマーをその横目に捉えて、すさまじい速さで抜き去っていく。
男もまた少しずつ、少しずつ順位を繰り上げながら、ただ目の前に全神経を集中させていった。
残り百メートルとなったとき、ついに男は二番手の位置につけていた。しかし、前を走るビワハヤヒデとは目算で行って五馬身もあけられているように感じられた。
男の心の中に恐怖が思い浮かんだ。もしかしたら、負けるかもしれないという恐怖。支えてくれた者たちの期待を裏切るかもしれない恐怖。そして、父に比べて明らかに劣っている自分という恐怖。その三つが醜悪に絡み合って男の足を石のように固めているようだった。
男は歯を食いしばって、自らを戒めた。
だから、なんだ。
だから、なんだというのだ。
怖いからなんだ。負けるかもしれないから、なんだ。
親父より、劣っているかもしれないからなんだ。
ここで、恐ろしい恐ろしいとあきらめて、相棒がくれた覚悟を無駄にして、それで俺はどうやってこれからを生きていくというのか!!!!!!!
俺は、こんな様で、どうやってあいつを相棒と呼べるというのか!!!!!!!!
走らなければいけない、この足が壊れようとも、もうこれ以上走れなくなったとしても!!!!!!
俺は、あいつの夢を乗せて走っているのだから!!!!!!!!!!!!
そして、茶色の馬男は翼を広げた。怪物となった。
見る見るうちに、白色の巨体に追い迫る。
歓声が、彼の背中を押すように、彼を励ますようにと、より力強くなった。
男はついに、ビワハヤヒデを抜き去った。
その姿は、真にこの場内全体が待ち望んでいたものだった。
その観衆の中の真っ赤な顔をして叫ぶトレーナーにとってもそうだった。
男は、今はもう何も考えず、ただ目前に迫った深紅のゴール板を目指した。
後ろのことはもう何も気にならなかった。
そして、そして、ついに決着の瞬間がきた。
男は、この時、伝説となった。
実況は、今世紀最大の奇跡を声をからしながらも、何度も何度も世界に発信した。
観衆は、目の前で起きた奇跡に対して、驚愕しながらも、大歓声で男の名を叫んだ。
男の名は、トウカイテイオーといった。
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