ヤニ・油・クモの糸・ホコリ――――この国のありとあらゆる汚れがひっついた業務用換気扇がガリガリと耳に悪い音を立てる。
皮をガムテープで補修すること十数回といった古ぼけたソファーに横になりながら、仕事もせずにパチンコに精を出すハゲ親父をぼんやりと眺める。
その後ろで社会不適合という文字が服を着て歩いているような醜い男が100円投入後即天和の脱衣麻雀の台に強烈な台パンをした。
うるさいわ臭いわ汚いわで何もいいところのないような場所だが、何故か不思議と落ち着く場所のように思える。
ゲームセンターの一角の喫煙スペース兼休憩所には希望も夢もないが少年のロマンが詰まっている気がする。
「お。終、この曲知っているか? 俺このバンドが好きなんだよ」
スピーカーからひび割れた音で有線の音楽が流れゲームの音と混ざり合い不協和音になっている。
連れが啜っているカップラーメンの化学調味料のにおいがまた天井やら壁やらに染みついてこの空間は更に不潔になっていく。
だから先ほど自分が食べていたハンバーグセットを分けてやると言ったのに、結局こんなところで体に悪そうな物を食べている。
スープを飲み干したそいつは満足げな息を吐いてそんなことを口にした。
「知らねぇー」
「そうか。音楽とかも、なくなっちまってんだもんな」
「馬鹿にすんなよ。あるわ。なんなら飯作ってるときとか歌ってるもんね、俺」
「じゃあバンドって何か分かるか?」
「腰に巻くやつだろ」
「また別のやつじゃねえか、そりゃ」
割りばしとカップ麺の容器をゴミ箱に投げたそいつは机に脚を乗せて煙草を吸い始めた。
とんでもねえ野郎だなと終ですらも思うのに、店内の人間は誰も気にしていない。だから居心地が不思議といいのかもしれない。
女が一人もいないが、こんな奴ばかりじゃそりゃ近づくことすらもしないだろうな、とソファーの手すりに頭を乗せて大きく伸びをする。
「バンドがなにか知らんけど、いい曲だなこれ」
一般的にはダミ声と呼ばれるであろう声質の男ががなり立て、その声に負けないくらい勢いのあるギターのカッティングが壊れかけのスピーカーの寿命を更に縮める。
いつだかに、西に20kmほど歩いた集落で父が依頼されてエレキギターを修理していた。あんな世界では最早なんの役にも立たない機械だが、せめて聴いてくれと依頼人の男が演奏した曲を思い出す。
「このギター弾いている人な、40歳になる前に引退して、その後は死ぬまで地元でペンキ塗って生計立ててたんだってよ」
こんな鬼気迫る演奏をする人が、こんな才能のある人が、言葉は悪いが誰でも出来るような仕事をして田舎でひっそりと生活をしていたと考えると不思議な気分だ。
引退を惜しむ人も応援してくれる人もいくらでもいただろうに。
「なんかさ、こんなに凄い人がさ、ペンキ塗りして過ごしていたってのがいいよな」
「どうしてそう思う?」
「なんだろ。こう生まれたからにはこうしなくちゃならないっていうのが無いような感じ。好きなこと勝手にやってもいいじゃんかって思える」
「……そうだな。どう生まれるかはみんなそれぞれだけど、それに縛られる必要はねぇよな。何したって、どうしたって、別にどうだっていいだろ」
見た目で人は判断できないと言うのは大嘘だと思う。
やはり育ちのいい未来は同じ生活をしていてもどこか気品があるし、目の前の少年も机に脚を乗せて煙草をふかしているのにどうしてかただの不良には見えない。
言っていることもやらなくてはならないことを全部投げ出している悪たれそのものなのに。
「終は何が好きなんだ」
「うーん。機械いじくったり、武器触ったり、料理したり。何かを作るのが好きかな。変な能力あるけど、それには全然使ってないや」
「それでいいと思う」
ぐりぐりと灰皿に煙草を押し付けて少年は笑った。
どこか人嫌いしそうな雰囲気のある少年なのに、そんな話をしているうちに終はなんだか彼のことが好きになっていた。
あんまり人のこと好きにならないんだけどな――――と頭では思うものの鈴が響き合うような不思議な感覚がする。
きっと感性や魂の作りのようなものが近いのだろう。相手が知りたいことが自然と自分も知りたいことなのだ。
「お前は何が好きなんだ?」
だけどこいつはひねくれてそうだから、普通は好きにはならないものが好きそうだ。
そう思いながら答えを待っていたのに。
「なにいきなり」
「は?」
見覚えのありすぎる緑色のテントを背景に、未来が終の顔を覗き込んでいた。
また夢だ、変な夢だ、あれは一体誰なんだろう――――考えれば考えるほどに頭の中ではかっちりと結びついていた記憶がほつれて消えていく。
「ずっと寝言喋ってたよ。自分の夢は操れないの?」
未来が高めに上げていた手をそっとおろす。
恐らく目覚めるのがあと二秒遅かったら顔を引っぱたかれていただろう。
「出来るけど。頭休めるために寝てるからなぁ」
能力を使い過ぎたら脳のどこかで熱暴走が起きる。それをクールダウンさせるために寝ていると言ってもいい。
首を傾げて中空を見ていた未来もなんとなく納得してくれたようだ。
「……それはそうね」
荷物を分けて持つようになってから未来はテントの片づけをしてくれるようになった。
終がまだ使っていた毛布をはぎ取り夜のうちに干しておいた洗濯物を畳み、大型リュックサックの中に手際よく入れていく。
枕元にエロ本が出されているが、恐らくは日の出と共に目が覚めたが終がまだ寝ていて暇だったから読んでいたのだろう。
「アンドロイドって……地上に来るのは何か任務がある時なんだろ」
「そうでしょ。そうじゃなきゃわざわざこんなところ来ないもん」
こんなところとは酷い言い様だが海の底に自分たちの王国を作っている彼らからしてみれば確かにこんなところだろう。
聞くところによるとアンドロイド達は月や火星にもいるらしく、だったらわざわざこんな汚染された地上に出てくる必要がない。
「未来もなんかしらの任務があって地上に来たってことだよな」
「そうだと思う。それを知るためにここまで歩いてきた」
「何の為なんだろうな」
「どうだろ。私のスペックは最新型だからどれも高いけど、想定の範囲内というか……戦闘用とか探索用ではないと思うけど」
力持ちに設計されたアンドロイドは力仕事や戦闘。特に賢く造られたアンドロイドは研究職。手先が器用なアンドロイドは職人やシェフ。
そのために作られて、それを真っ当に遂行する。それは言ってしまえば戦前の人間によるアンドロイドの運用と同じではないか。
「義治さんが脱走こいた理由も分かる気がするな」
「……? いいから早く片付けて」
テントを畳むと今日はとてもいい天気だった。
空を見ているだけで気分がよくなってくるようだが、この太陽にしたって彼らアンドロイドにとってはどうでもいいから海底に引っ込んでしまったのだろうか。
そう考えるとほんの少しだけ、晴天に似合わない暗い気持ちになった。切り替えていこう、他の誰がどう生きようが自分にはどうだっていいことなのだから。
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氾濫した川の水と排水されなくなった雨水で沈んだ街を、風俗の看板から作成したいかだで通り過ぎていく。
終は先ほどからご機嫌で、オールを漕ぎながら音程の外れた口笛を吹いている。
せっかく今読んでいるストーリー重視のエロ漫画がクライマックスに差し掛かってきたのにこれでは台無しだ。
「口笛へた!」
「んだよ……エロ本読んでないで景色を楽しめよなー」
口では文句を言っているものの口笛から鼻唄に切り替えた終は遅くも速くもない速度でオールを動かしており実に楽しそうだ。
寝っ転がってエロ漫画越しに空を見上げると、放射能汚染で突然変異した怪鳥が飛びながら獲物を探している。
4分の3ほど沈んでしまって苔だらけの電信柱には虹色のトンボが止まっており、なんとなくのどかな雰囲気だが――――
「おっ。まーたヘリが飛んでら」
人間がまだヘリコプターを動かすだけの技術と文明を有しているとは知らなかった。
空高く飛んでいる汎用ヘリにはミニガンが搭載されているように見えるが、軍事基地から盗んで使いまわしているだけなのだろうか。
胸の上に読みかけのエロ漫画を置いて視界を拡大する。
「第三帝国……?」
てっきり戦前の自衛隊の所属であることを示す何かしらが見えると思ったのに、テール部分にThird Empireと不穏な文字がペイントされている。
「なんだそりゃ」
「一般的にはナチスの意味だけど……」
「ナチョス? どこの飯だ?」
「…………。それは忘れていいよ。『来るべき理想の国家』って意味」
「か……確定でやべー奴らじゃん。部品欲しかったけど、ちょっかいかけなくてよかったわ」
各地にぽつぽつと能力者を中心としたならずもの集団がいる程度だと思っていたのだが、帝国を名乗るほどに大きな戦闘集団が形成されているとは。
終の口ぶりから、今まで何度もあの田舎で見たことがあるというのが分かる。アンドロイドがいつ地上を制圧するのかは知らないが、戦闘になったら長引きそうだ。
(いや、むしろ……)
最終戦争で使用された強化外骨格に身を包みアサルトライフルを手にした男が数人、ヘッドギアのアイカメラで地上をつぶさに観察しており、水没した廃墟の街でのんきに浮かんでいる自分たちも当然のように見られている。
確かに終の言う通り、あのヘリを撃ち落として売っぱらえばいい金になるだろうが、目的地が予想算出できないその不規則な動きはむしろ攻撃されるのを待っているように見える。
どちらにせよ、ちょっかいをかけない方がいいのは間違いない。
「! イクリプス……」
「ん?」
「あの中にいる人間、能力者が混じっている」
既に目視不可能な距離まで飛んでいってしまったため、何人いたかは分からないが少なくとも一人は能力者だった。
Level 6:Eclipse――――そうアンドロイドの知識に入っているということは悪名高い能力者ということになるし、実際レベル6ともなれば単体で中規模の軍事基地を攻め落とすことすら可能な者もいる。
なんとなく、だがかなり確実に嫌な予感だ。
「はぁ~? 能力者が空飛んで何するってんだ。いや、でも飛べるか飛べないかって言ったら飛びてえか」
また幼稚なことを言っているなぁ、とぼんやりと空を眺めていたら急に視界が傾き始めた。
慌てて起き上がると既に水面は3mも下にある。台風の時に吹き飛ぶ風俗の看板のようにいかだが宙に浮いていた。
「危ない危ない! 捕まるところないんだから!!」
「わかったわかった」
こんなことも出来るのか、と思ったが今までも散々披露していた単純な念動力だ。
わがままだなぁと言った思いが込められた声のトーンだが飛びたいなんて一言も言っていないのに――――水面に落下した衝撃で読みかけのエロ本が落ちてしまった。
しかも発生した波にあおられて水中に沈むというおまけ付きだ。
「落っこちちゃった! 馬鹿ぁ! まだ読んでいたのに!」
「あいたっ! いたいいたい! 分かった、街に着いたら新しいの買ってやるから!」
「自分が読みたいだけでしょ!」
「うるさいうるさい! もう着いたから!」
「まっ…………。ほんとだ……。人がいる感じがする」
水没した街の終わりが見え、まだ出来て新しいパイプが見える。
パイプを辿っていくと何やら田畑と巨大な浄水器があり、どうやらこれだけの食料と水を必要とする人がいることは間違いないようだ。
陸地に上がり、目を細めて道の向こうを見るとくるくると回っている風力発電機やボロだが明かりのついている家々が見える。
「よーし、久々にがっつり仕事するか。これ、字あってる?」
風俗の看板を解体した終はそのまま裏面を利用して別の看板として組み立てなおし『壊れたもの治します』と書いた。
「……『なおす』がちがう」
「ありゃ……。まぁいいや。これから日暮れまで別行動しようか」
「どうして?」
「大事な任務だ。はい、これ」
「?」
渡された袋の中には金がかなり入っている。
一枚あたりの重さと総重量からいくら入っているかを計算しつつ、今まで商人から売買してある程度計れた物価から割り出すに、終は子供の割には小金持ちらしい。
やはりこんな時代だからこそ技術屋は重宝されるようだが、14歳の子供がこんな大金を持ち歩いてよく襲われなかったものだ。いや、襲われはしたのだが。
こうして見てみると、終に勉強させるのではなくエンジニアとしての技術を引き継がせた終の父は正解だったのかもしれない。実際漢字が書けたところで、読めない人の方が多いだろうし一銭にもなりはしないのだから。
「服と持ち運びできる飯……あとは欲しかったらもう一個布団買っていいよ。重くなるけど。それで、どこか泊まれるところ見つけておいてくれ」
「今日は野宿じゃないの?」
終が走り回って金を稼いでいる間に自分は必需品を買いだめまではいいとして、なんと今日は宿に泊まれるらしい。
いつの間にか人とすれ違うようになっている。魚の入った籠を背負って走る女性や、金槌と釘で家の修繕に精を出している男性。ようやくといった感じだ。
「買い食いとか好きにしていいよ。エロ本も、3冊くらい買っておいてよ」
「ほんと? やっ――……!」
ザリガニをバケツから取り出して殻剥きしている坊主頭の男性と目が合う。
android:G6-I5h6,male――――しれっとという言葉がこれ以上ないほど似合うくらいにしれっと人間たちの街に紛れ込んでアンドロイドが生活していた。
かなりの人が目に入ってくるようになったがよく見るとぽつぽつとアンドロイドが紛れ込んでいる。
だがお互いにアンドロイドだと分かっても何も言わない暗黙の了解でもあるのか、第6世代のアンドロイドは特に何も反応せず剥いたザリガニを洗い始めた。
「よっしゃ、行ってくるわ! 日が沈んだらここにいるから」
工具を手にした終は馬鹿丸出しの看板を高々と抱えて街の中心へと走って行ってしまった。
やらなければならないことは色々あるが、まずはルールの確認が先だろう。
「ねぇ」
「ん? これは売れねえぞ」
誰が話しかけてきているのか分かっているはずなのに、坊主頭のアンドロイドはほとんど無視でザリガニを手際よく解体していっている。
第六世代だから相当高性能のはずなのにこんなことを好んでしているなんて。
「そうじゃなくて……」
「追い出されたくなかったら気が付かれるような言動は控えるべきだぞ」
「……分かった。じゃあ、宿の場所と買い物できる場所教えてほしい」
「……? お前と子供もう一人しかいなかったように見えたんだが」
「そうだよ。二人で旅しているから」
「…………あの子は能力者ということか」
仕事に没頭していたアンドロイドが驚いたようにこちらを見た。
確かにその通りだが、なぜ『子供二人で旅など出来るはずないからあの少年は能力者に違いない』なんて面倒な推測をしたのだろう。
「見れば分かるでしょ?」
「見れば……回収部隊か、お前? ナチュラルを見分けられる機能が付いていたんだったな、奴ら。第8世代まで出来ているとは」
どうやら能力者判別機能は普通のアンドロイドにはついていない物らしい。
いや、それよりも回収部隊とは一体――――
「未来! 言い忘れていた!」
人間だったら口から心臓が飛び出ていただろう。
事実、聴覚機能と視覚機能が一秒ほど異常を起こした。
走って行ってしまったはずの終が同じ速度で戻ったのか、何故か背後にいた。
「なに!」
(一冊でいいからおっぱいの大きい優しいお姉さんがメインのやつ買っといて!)
(馬鹿でしょほんと!)
ひそひそと小さな声で気が遠のくようなお願いをしてきた終につられてつい未来も声が小さくなってしまう。
本当にそれだけだったのかまた終は走ってどこかへ行ってしまった。
「はは。最新型がエロ本のおつかいか」
「そっちはザリガニ洗ってるじゃん!」
小さい声で話していたとしてもしっかり聞かれていたようだ。
これで終は能力者のくせにむっつりスケベとまた新しくアンドロイドに認識されてしまった。
「旅ね……お前も脱走アンドロイドか?」
「まぁ……そうなのかなぁ?」
「最新型でも脱走とは。なかなか上手くいかないな。その道真っすぐ行って3本目の道を右に宿がある。夜はその宿の食堂で働いている。普通は子供だけじゃ泊めないが……俺が伝えといてやる」
「……ありがとう」
終始そっけない態度だったため、意外なまでの親切に内心驚く。
洗濯物を干しているアンドロイドが遠くに見えるが、人間の子供と何やら話している。
この街では、というよりもどこのコミュニティでも隠れたアンドロイド達はこうしてお互いにそれとなく助け合っているから生きていけているのかもしれない。
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日暮れまで街を周り、人工約千人程度の街だと分かった。
その中に100人に1人くらいの割合でアンドロイドが紛れ込んでいるが、見ていた限りでは人間に対して不利益になるような行動はしていなかった。
風力水力太陽光を利用して発電しているようで、雑貨屋や食事処、リサイクルショップなどがあり活発に経済活動が行われている。
生活水準は戦前に比べれば当然落ちてはいるものの、そこまで大きな文明の後退は起こっていないように見える。だが、よく見ると本屋や図書館、学校などが見当たらないためやはり文化や技術は少しずつ失われていっているようだ。
ザリガニを延々と下ごしらえしていたアンドロイドに教えられた宿は、宿というよりも大きな家だった。
かつての名家が住んでいた邸宅を修繕してそのまま宿に使っているのだろう。
服と一週間分の食事、更に雑貨屋でやや黒ずんではいるものの他と比べて品質のいいエロ漫画を三冊を買って終と合流した。
道中でナッツの蜂蜜漬けを手に入れたため、食後のデザートとして終と食べるつもりだ。
「うんめぇえええええええ!!」
宿の食堂で出されたザリガニのボイルを食べて終は叫んだ。
まさかと思ったがやはりザリガニ料理が出てきた。ただし、終の作ったこの世の終わりのような料理ではなく見た目も香りも盛り付けられた皿も全てがまともな料理だ。
「ほんとだ、美味しい……」
一口食べて胃の中身が全て出てしまった苦い思い出が消しとぶほど普通に美味しい甲殻類の料理だった。
いったい終の作ったあれはなんだったのか、そもそも本当に同じ種類のザリガニだったのか分からなくなってきた。
「はい、水」
いかつい見た目に似合わない可愛らしいエプロンをした坊主アンドロイドが水を持ってきた。
他に宿泊客は旅の商人くらいしかいなかったことを考えるに、割と暇らしい。
「これ、作り方教えてくれないか」
「普通に殻剥いたザリガニを茹でただけだ」
「なんかコツとかあるだろ」
終は当然目の前の男が人間ではないと気が付くはずもなくのんきにザリガニ料理のコツを聞いている。
あんなものを作っておいてまだ諦めないのがすごい。
「コツ? 殻剥いたら腹を裂いて内臓は捨てて、泥や砂利が残らないようによく洗う。ぬめりが取れてつるつるになれば口の中に入れても臭くないぞ。脚が38本あるから丁寧に取り除くのも大事だ。混じると食感が悪くなるからな」
「あー……やっぱ水たくさんいるなぁ」
紙にメモをとっているのを横から見るとちゃんと漢字を使っている。教えていない漢字も含めて割としっかり書けている。
終のことを馬鹿馬鹿というものの、何も知らないだけで地頭はいいのかもしれない。
「お前たち、もう風呂入ったのか? 飯食ったら寝るだけか?」
「未来はまだ。まぁいつもこれくらいには寝てるよな」
仕事が終わり、さぁ飯だと言った終が煤だらけで真っ黒になっていたため先に風呂に叩きこんだのだ。
何やらバスの修理をしていたらしく、結構稼げたと言っていた。
「部屋にテレビあるの気付いたか? もちろん放送なんかされていないが、フロントでDVDを貸してもらえる」
「でぃーぶいでぃー?」
「せっかく金払って泊まるんだ。少しは夜更かしするといい」
そういえば部屋にテレビとBDプレイヤーがあった。
今更こんなの使う人間がいるのかと思ったが、どうやら宿泊料に含まれているサービスらしい。
彼の言う通り、今まで原始人のように夜明けと共に動き出して日暮れには寝る生活をしていたのだからたまには文明人らしく夜更かしをしてもいいだろう。
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8畳ほどの部屋にベッドが二つ、テーブルとソファーとテレビ。冷蔵庫はついていない。
風呂は共通で食事もザリガニだったことを考えれば、戦前ならとんでもない宿だが今では高級旅館だ。
2人で一本適当な日本製ホラー映画を観たが人間の霊魂とやらの恨みつらみなどアンドロイドには関係ないし、終は終で『能力持っているし生きている俺の方が死んでるヤツより強いと思う』という意味不明な感想を漏らしていた。
「…………」
「あっ。寝てる」
ソファに身体を深く沈め、鼻からぴーぴーと音を立てながら終は寝てしまっている。
吹き替えのない洋画だったため、字幕をつけていたが文字の流れるスピードが速すぎて目が疲れてしまったのだろう。
いつもなら寝ている時間ということもあるかもしれない。
(じゃあ字幕消そっと)
当たり前と言えば当たり前だが、英語だろうが中国語だろうがアンドロイドには字幕など必要ない。
しかしつまらない映画だ。恋愛映画とはどれもこんな意味のないことを繰り返しているのだろうか。
恋などしたことがあるはずもない終が寝てしまうのも無理はない。
物語の山場も超えていよいよ濃厚なベッドシーンだが、普段読んでいる漫画のスタートがここだから特に感想はない。
(ファンタジーじゃないんだ)
ハグをしてキスをして胸に触れ、耳を甘噛みするという行為を実写の人物たちがしている。
漫画の中のファンタジーだと思っていたのに。ただの生殖行為に必要はないと思うのだが――――がーがーと寝息からいびきに移行した終に視線が行く。普段はボサ髪で隠れている耳が目に入った。
「…………」
前に自分が寝ているときに同じようなことをしていたし構わないだろう、と髪をかき上げて唇を終の耳に近づける。
鼻息が耳に触れた瞬間、終の寝息が止まった気がした。
「っ!? あ゙っ! あ痛っ!?」
ほんの少し耳たぶを甘噛みするやいなや跳ね起きた終が、机に脛を思い切りぶつけて転げまわっている。
なんというか今までで一番馬鹿っぽい。
「何してるの」
「なんっ、お前が何してるんだ!」
「これ、ちょっと気になったから。真似してみようかなって」
「…………」
髪を逆立たせ能力で屋根を吹き飛ばさんばかりの勢いで怒っていたのに、巻き戻した映像を見て終の怒りが鎮火していく。
「起きて見ておけばよかったって思ってるんでしょ。むっつりスケベだから」
「道っぱた歩きながらエロ本読んでるオープンスケベが何言ってんだ!?」
「私は興味があるだけだから」
「それをスケベと言うのでは……?」
抗議をしても平行線だと分かったのか、ぶつぶつと文句を言いながらソファーに腰を落とした。
耳をさすりながら画面を見ているが、すっかり目が覚めてしまったらしい。
今まで起こすために顔を引っぱたいたり脇腹をつついたことに比べれば大したことをしたつもりは全くないのだが、それほど刺激があったのだろうか。
やはり気になる。興味がある。
「じゃあ、はい」
「は?」
終に向けて左耳を空気にさらすが、微妙な反応だ。
説明なんかしなくても分かりそうなものだが。
「お返しにどうぞ。映画の真似しただけだから」
「……マジ?」
「はやく!」
「わかったわかった」
頬を赤らめながら終が顔を耳元に寄せてくる。なんだかんだ終は結構わがままを聞いてくれる。
冬の冷気と古い暖房の暖気が混ざった埃くさい空気をかき分けるように明らかな生物の息が耳をくすぐり、反射的に背中に緊張がはしる。
映画の主人公がそうしているように、終が肩を掴んでくる。この妙な緊張が伝わったら嫌だな――――唇が耳たぶに触れた。
「わぁ!!」
蜂に刺された時のように身体に強烈な電気が流れ、気が付けば終を突き飛ばしていた。
「……お前。やってやろうじゃねえか、おう」
見事なまでに床にすっ転がった終がこめかみに青筋を立てながら起き上がってきた。
いくらなんでもこれは流石に自分が悪い、と反省する。
「ごめんって。もうしないから。もう一回」
「まだやる気~?」
映像を巻き戻し、嫌そうな顔をしている終を無理やり隣に座らせる。
何も起こりはしないと思っていただけに、突き飛ばしてしまうなんて想像もしなかった。
耳元で終がため息をつくが、そのなまぬるい吐息が耳をくすぐりぞわぞわする。体温がためらいがちに近づいてくるのを見ていなくても感じる。
はやくはやく、まだかまだか。心の中のどこかから浮かび上がる分析不能の言葉に混乱している最中に終の歯が優しく耳に触れた。
「あっ……」
唾液で濡れた唇が耳たぶを滑る感覚、痛くならないぎりぎりの刺激を与えるよう歯が耳介を挟む感覚。
やわらかな突起のある極小の球がいくつも身体中を駆け巡り内側からくすぐっているような感覚が引き起こされ意図せずして声が出てしまった。
「変な声出さないでくれ」
「次っ、あれしてほしい」
服の下に手を入れて胸に触れながら首に吸引性皮下出血の跡を残しているシーンを指さすと終は絶句した。
嫌そうな顔――――ではなく羞恥のあまり顔が真っ赤になり表情がくしゃくしゃになってしまっている。
「わ……わかった……」
恐る恐るという表現がこれ以上なく似合う速度で終の手のひらが未来の胸に触れた。
だが触れただけで何もしてこないし、何も感じない。本当にただ触れられているだけだ。
「違う。ちゃんとよく見て」
どんぐりのような目を大きく広げて画面と自分の手を見比べる終は見ているだけで面白い。
「下!? 服の!?」
「はやく」
「はっ、わぁっい!」
もしかして相手が混乱してこんな風に意味不明な言動をしだすのを楽しむための行為なのだろうか。
そう考え始めた時、指の先まで発熱した終の手がやけくそ気味に貸し出しの寝間着の下に入ってきた。
「わっ」
なだらかな丘のような胸全体から終の体温が伝わり、口から漏れる息までも震える。
終の指先から伝わる刺激に視覚機能がちらつき始める。なんだろうこれは、と最早そんなことは言い様がない明らかな快感が頭の先からつま先までじんわりと伝わっていく。
「…………」
「もっとして」
終の震えが指先から伝わってきてもどかしい。もっと強く、それでいて優しく触れてほしい。いや、いっそのこと頭を掴んで胸に抱きしめてしまいたい――――1,2秒の間に考えが二転三転していく。
「ん……」
映画の中の男が優しい笑顔でスマートに女性を悦ばせているのに対して、終は皮膚まで骨になってしまったかのようにぎこちない。
それなのに、普段は半分ほど髪に隠れてしまっている大きな目がまるで世界の全てのように自分を見ているその顔。胸の中心から溢れた火が身体中に燃え広がるようだ。
「どうなの?」
何か、何かがよくないと思い始めた気持ちを覆い隠すように強気に終に問いかける。
「小さいとか思っててすみませんでした……やわらかいです……」
「ふぅん」
そんなこと思っていたのか、と更に胸を突き出すと尻尾に火が付いたトカゲのように終の身体がソファーから跳ねた。
ロボットのように指示に従い胸を揉み続ける終の顔は、肥大化した大脳新皮質までおっぱいでいっぱいといった様子だ。
「ていうか触ってって言ったの未来なのに感想俺が言うのおかしくね??」
200年前のコンピューターでももうちょっと応答速度が早いだろうと思うくらいに遅れて終がようやく正論を言い出す。
それでも手がまだ服の下にあるのは滑稽だが、まだそうしていてもいいかもしれないとどこかで感じるので、そこは隠しながら口を開く。
「なんかちょっと変な感じ。お腹の下の方が熱くなる感じがする」
「なんだって……お前……それ……」
顔の色をころころ変えていた終が素直な感想に対して意味深な返答をする。
だが今は終が何を考えているのかなんてどうでもよかった。身体中に起こっている変調と体温の上昇、何よりもこの混乱を大事にしたいと感じる。
「それだけじゃないでしょ。ちゃんと真似して」
「……わかった」
胸に触れながら最早顔から発火している終が首に甘噛みしてくる。
もう唇の感触も、その体温も分かっている。はずなのに。
「あ、うぅ……」
首に吸い付かれているという、それだけで脳と脊髄に重大な損傷を与えられたかのようなエラーが起きる。
意図していない声が出て、知らないうちに終のシャツを掴んでいた。
映画の中の男が腰に手を回し顔を上げた。終も今度こそ忠実に再現している。
この後のシーンも先に見たから全て知っている。顔を上げると最近背が本当に伸びてきた終と視線がぶつかり指先まで痺れた。
とりあえず真似してみよう、という考えは完全に消えてなくなっていたが、それでもその先は自然と再現されようとしていた。
「終わりだ、もうだめだ」
「どうして? 大丈夫、アンドロイドは虫歯にならないから」
さっきまで腰に回されていた終の手が未来の肩を掴んで引き離していた。
自分たちの周りにだけあった何か特別な、あたたかい空気のようなものが離れていくのを感じる。
終が今の言葉を聞いて落胆しているかのようにゆっくり首を振っていることと無関係ではないだろう。
「本気で言ってるのか?」
「だってさっきからしてもらったこと気持ちよかった。これも気持ちいいからしてるのかも」
「そうかもしれないけど……大切なこと知らないだろ。これは好きな人とすることだ。未来が俺のこと好きだってんならまた考えるけど」
「私が? 終のこと? 嫌い……じゃないかなぁ」
喜怒哀楽がはっきりした終が、それを隠そうとしていることはよく分かった。だがそれでも表情に浮かんだ僅かな怒りと悲しみは隠しきれていない。
それはテレビの電源を突然切った行動にも表れていた。
「虫歯にならんからとか、嫌いじゃないからとか。そんな理由じゃだめだ」
「別に唇と舌がくっつくだけでしょ。なんの意味もないよ。良いとか悪いとかない」
「じゃあ分かった! 人間ってのはな、意味の無いことに意味を見出す生き物なんだよ」
人間の全滅したド田舎で暮らしていた終よりも、当然未来の方が物事を知っている。
それでも終は時々概念的なことを足りない語彙で伝えようとしてくる。そして、大抵の場合未来はそれを大事なことだと感じるのだった。
「……そうかもね。車ができても、どっちが速く走れるかなんて比べてる種族だもんね」
「ああ、そうさ。意味ねえよな。どれだけ速く走れても鳥から見りゃどっちも馬鹿みたいに地べた駆けずり回っているのに、そんなことして喜んでんだ俺らは。だからお前らより劣ってるよ。だけど、だから楽しいことも悲しいこともいっぱいあるんだ」
「…………」
そしてまた今回も。終の話は言葉は悪くてもとても大事なことだと感じている。
無意味なことばかり繰り返して文化を築き上げてきた人間の根幹のようなものだと。
「寝ようぜ。明日起きれなくなっちゃうよ」
「……うん」
DVDを取り出して箱にしまう。まだ借りた作品があるのだが仕方ない。本来ならばとっくに寝ている時間だ。
髪ゴムを取り出すと終に手を掴まれた。
「たまには俺がやってやるよ」
自分でやった方が慣れているからずっと早い、と思った。
だがそのただ髪を結うという行為にそれ以上の気持ちが込められている気がして、終にゴムを手渡す。
ソファーに自分を座らせて背後に回った終が未来の髪を手に取った。
「あっ。上手だね。なんで?」
普段は両サイドに適当に結んで邪魔にならないようにしているが、終はわざわざ手間暇かけて小さな三つ編みをいくつか編んだ。
明日起きた後に解けば洒落た癖が髪についているだろう。
「妹の髪、よく結んであげてたからな」
亡くなった妹の話をしながら終は笑っている。
既にさっきのことも引きずっていない。単に忘れかけているだけかもしれないが。
なんとなく、終があっけらかんとした性格で良かったと感じたのはなぜだろう。
「なんか。さっきまでよりシュウのこと、ちょっと好き? かも」
「…………」
黙り込んでしまった終の口は尺取虫のように閉じたまま動き、頬が赤く染まっている。
落ち着いていた心拍数は運動をしているわけでもないのに再び130近くまで上がっており、終は黙ったままベッドに潜り込んでしまった。
何も反応してくれなかったのをほんのり残念に思いながら仕方なくもう一つのベッドに入る。広く清潔で、大の字になって落ち着いて寝られる。
素晴らしいことなのに、ここ数週間との差が大きすぎてどうも落ち着かない。
「ねぇ、やっぱりそっちで一緒に寝ていい?」
「なんで! せっかくベッド二つあるのにさ」
「なんか落ち着かないんだもん」
「んん゙~……」
子犬の威嚇のような唸り声を上げながら終がベッドの端の方に移動したのを肯定と捉え、枕を持って移動する。
それでも普段使っている小さな布団よりも大きいのに、終は今にも転げ落ちそうなほど端で小さくなっている。
「なんでそんなに離れるの? 寒いんだしもうちょっと近くに来なよ」
「無理無理無理! 無理!」
ほとんど真っ暗だが、たとえ視覚補助機能のついていない人間でも分かるであろうくらいに終の顔は真っ赤だ。
まるで食べ頃の林檎のよう、と簡単な直喩が思い浮かぶ。
「林檎……林檎って食べたことある?」
「ないなぁ。知ってはいるけど」
「私、食べたことあるみたい。味知ってるから」
「目的地にあるってことか?」
「さぁ。でもあったら……。分けてあげるね」
終は何も答えず、微笑みながら目を閉じた。
その笑顔を今までで一番優しい笑顔だと感じたのが、どうしてかは分からない。
なんとなくだが、こんなやり取りを何度も繰り返した先で映画の中のような行為も許されるようになるのだろうと思った。
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フラメンコの旋律が耳を撫でて温かい紅茶の香りが鼻をくすぐり、隣の女性はイヤホンをしながら静かに本を読んでいる。
楽しいかわりに臭い汚いうるさいというゲームセンターと真逆の場所だ。
「…………」
ケースにいくつも立てられた紙製スティックを一本手に取る。
振るとシャカシャカと音が鳴るあたり、中に粒状の何かが入っているようだ。
千切ると出てきたのは砂糖で、思わず指ですくって舐める。もしかして隣の瓶に入っている小さな白い容器と透明な容器に入っている液体も甘いものなのか。
「これって金取られないのか?」
「まぁ……タダだけど」
隣の少年はやや顔を引きつらせながら黒い液体を飲んでいる。
「うんめぇ!」
白い液体はまろやかで、透明な液体は砂糖水だった。
こんなものをいくらでもどうぞだなんて、普通考えられない――――鷲掴みにしてポケットに入れて次々と蓋を開けて舐めていく。
「それな、こうするんだよ」
「はぁ~? 泥の色になっちまった」
ドブか何かのような液体で満たされたコップに小さな容器の液体を入れて少年がかき混ぜると、氷がからんからんと優しい音を立てながら茶色い液体が生まれた。
三白眼の少年は自慢げに飲み干したが全く羨ましくない。
「じゃあ、お前にも奢ってやるよ」
「えー……いらねぇ」
席を立った少年は一分ほどで戻ってきた。
手にしたカップには先ほどの真っ黒な液体が湯気を立てている。
とても飲む気にはなれないがよく見ると店内の人間の半分ほどはこれを好んで飲んでいる。
「これを飲めるようになったら大人への第一歩かな。甘いものでも食べながらさ」
「……うーん。匂いはいいな、結構。これ、なんて名前だ?」
今まで飲んできた液体はそもそも大半が匂いなどなかったが、この液体はなんとなく口に入れてみたくなるような香りがする。
甘いものなどと言われてもあまり思いつかないが確かに口の中ほどよく溶けて混ざり合いそうだ。
「コーヒーっていうんだ」
「コーヒー……?」
「なに? コーヒー?」
目に入ったのは今にも鼻に噛みつこうとしている洗濯バサミだった。
未来が悪びれなく終の寝言をそのまま返しながら前傾姿勢で固まっている。
あと少し目覚めるのが遅かったらまた『痛い』と叫びながら布団から飛び出すところだった。
「うーん……コーヒー……飲んでみたかったなぁ」
本当に久しぶりに暖かい寝床で危険を気にせずにゆっくり眠れた。
伸びをして身体中の骨を鳴らすと霧散するように眠気が吹き飛んでいき、蓄積されていた疲れはどこかへ消えてなくなっていた。
「売ってたよ。コーヒー」
「ほんと!? それ買ってから街出るか!」
「うん。私も飲んでみたいな」
金に余裕もあるし、もうしばらくは滞在してもいい。
だがもう冬に入りかけている。出来ることならば雪が降り始める前に目的地にたどり着きたい。
根っこが生えていたかのような身体を無理やり起こして二人でのんびりと出発の準備を始めた。
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夢を操る能力が始まりだから、何かしらの意味があるのだろうとは思っていた。
だがまさか、見たことも無いものの匂いまで正確に再現されているとは想像だにしなかった。
未来に案内された店から、確かに夢の中でみたコーヒーとやらの匂いがする。
「昔の人がよく飲んでいたんだって」
「うまいんかな」
「疲れがぶっ飛ぶぞ」
プレハブ小屋の壁を四角く切り抜いただけという、いくらなんでもやる気が無さすぎる店から顔を出していた店主が二人の背中を押す。
当のハゲ店主が疲れた顔をしていることが不思議で仕方がないが、やはり匂いはよいので一杯くらいは買ってもいいだろう。
「じゃあ貰おうかな」
「あいよ。800Racね」
店主が渡そうとしてきた商品を見て肩から力が抜けた。
子供だからと舐めているのか、出てきたのは最早飲み物ですらない袋に入った砂だった。
「おい、全然飲みもんじゃねーじゃねーか! 騙すにしてもせめて液体出せよ!」
「馬鹿、これであってるの! 豆から作るんだから」
ボロ小屋を揺すりながら怒りをぶつけていたら未来に頭をはたかれた。
そう言うならそうなのだろうが、これをどうすればあの飲み物になるのか想像がつかない。
「じゃあ、これって安いの?」
「……。高いけど……いまコーヒー栽培できるところなんてほとんどないだろうし……でもこれ淹れる道具ないと飲めない」
「そういうこと。これがセットで7500Rac。全部一緒に買うなら7000でいいよ」
「たっ………!」
宿で泊まるのとほぼ変わらない値段をこんなガラクタのような機械と砂で取られるなんて。
こんなもの売れないだろう、と言おうとして気が付く。ハゲ店主と心の中で思っていたのだが、髪の抜け方に特徴がある。
この満遍なく放射能汚染された地球で薬を飲む頻度を抑えすぎてしまった人間はこうなってしまうのだ。よく見ると爪も赤黒く染まっており、周囲の人間に比べても汚染度が深刻なのは明らかだった。
自分は機械の修理ができるが、それはどこに行っても需要のある技術だ。この店主の場合がコーヒー豆の栽培だったのだろうが、残念ながらそんな贅沢品を買うくらいなら食料を買い溜めする人の方が多い。
「しゃーない。飲んでみたいし買うよ」
どうせまた街を出ればしばらく金を使わなくなるのだから、守銭奴になったところで意味もない。
少なくとも1カ月は薬を節約しなくても済むであろう金を渡し、荷物をしまいながら思う。
これで不味かったとして、もう文句を言いに行ける場所にはいないのだろうな、と。
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倒れている電信柱に示されている住所と、街で入手した詳細な道路地図を見比べる。
ここは埼玉の中心らしい。戦争の被害が激しかったのか、まともな建物はほとんど残っておらず、神が建物をほうきで掃いた後のような瓦礫の山たちが背の低い草に飲み込まれている。
こまごまとした字を焚火の火で照らし、覚えたばかりの漢字を使って日誌を書く。せっかく漢字を覚えたのだからどんどん使った方がいい、と未来に言われてからずっと旅の日誌を記録している。
おかげで大体一日何km進んだのか、その日何があって何を食べたのか全て思い出せる――――と喜んでいたらそんなことも忘れてしまうなんて人間は不便だと未来に笑われた。記憶喪失のアンドロイドに言われたくない、と言おうとしたのをぎりぎりのところで堪えた自分は偉いと思う。
「尻尾までうめぇな! なんでこんなに親切にしてくれたんだろ」
宿を出る時に坊主の料理人が二人分のザリガニ弁当を未来にくれたのだという。
カラッと揚げてあるザリガニのフライとたっぷりの野菜をパンで挟んだサンドイッチ。
特にパンは街以外では手に入らないので気軽に人にあげられるようなものではない。
やはり未来が可愛いからだろうか。見た目が優れているというのはいつでもどこでも得するものだ。
「今だから言うけど、あの人アンドロイドだった」
「えっ、義治さんみたいに紛れ込んでいたってこと?」
「他にもけっこういたよ。お互いに気が付かないフリしていただけ」
「ふーん……」
弁当を食べている間に蒸留しておいたお湯で未来がコーヒーを淹れているのを見ながらザリガニの尻尾を齧る。
またまた脱走アンドロイドというやつだろうか。住む家もなく放浪している未来を気の毒に思って親切にしてくれたのだろう。
「はい、できた」
「お、ありがとう」
未来から手渡された使い慣れたカップに黒い液体が浮いている。
ドブ川近くに住んでいたからか、どうも黒い飲み物という概念に慣れない。
「飲んでみたかったんでしょ? お先にどうぞ」
もう冬に入っていてしっかり寒い。温かいうちに飲むのが吉だろう。
なんとなく感想を待っているような未来を前に、2mくらいの高さからジャンプする程度の覚悟を決めてコーヒーを口に入れる。
「ん!? まっじぃいい!!」
熱さで味わうどころではなくそのまま飲み込んでしまったが、口の中に残る液体からは苦み以外の何物も感じない。
そりゃあそうだろう。あんな色をしていて美味しいわけがない、とかなり後悔する。
「もう! 普段からおかしなものばかり食べてるから舌壊れちゃってるんだよ!」
「じゃあ飲んでみろよな」
「大人の飲みものって話だからね。シュウには分からなかったんじゃない? ほら、すごいいい匂い」
「…………」
確かに匂いはいいが、そこまでだ。
得意気な顔をしてカップに鼻を近づけている未来は見た目の良さも相まってそれだけでどことなく上品に感じられる。
やがてなんの警戒もなく液体を口にしたのを眉根にしわを寄せながら見守っていると。
「まずいこれ!」
「やっぱまずいんじゃねーか」
「こんなの好んで飲んでたの? 人間っておかしいよ」
「……あっ。そういや甘いものと一緒にいただくのがいい、みたいなこと聞いたな」
「また美味しいものと不味いものを混ぜようとしている……」
旅の途中で助けたおばさんにもらったクッキー、街で買ったナッツの蜂蜜漬けを取り出す。
せっかく高い金を出して買ったのだし、まだまだあるのだから色々試してみるのもいいだろう。
「あっ! うんめぇ!」
クッキーを口に入れて甘みが消えないうちにコーヒーを口に入れる。
そのままでも美味しい甘みがコーヒーの強烈な苦みによって更に引き立ち、苦痛な苦さは中和されて消えていく。
これが正しい飲み方だったのだ。コーヒーにクッキーを半分ほど浸してもう一度口にする。ここ最近食べたもの中でも一番の美味だ。
「ほんとだ、美味しい! これ考えた人間はすごいよ」
「寝る前の楽しみが出来たなぁ」
「でも飲み過ぎると眠れなくなるんだって」
それなら寝る前よりも眠たい朝に飲むのが正解なのだろうか。準備に時間はかかるが朝出発前に一杯飲んでから、というのも風流でいいかもしれない。
「それなら明日、日が昇ったら……おっ、今日は星が綺麗だな」
カップから立ちのぼる湯気を目で追うと見事な冬の大三角形が目に入る。
白々とした月に雲が青く照らされて、散りばめられたこんぺいとうのような星が温かいコーヒーの風味を香りだたせているような気がする。
「寒いもんね、最近」
出会った頃はノースリーブのシャツと短パンしか持っていなかった未来だが、道中で拾い集めた服と街で買ったコートを着込んで暖かそうだ。
自分も未来が買っておいたロングコートの上に外套を羽織り武器を隠している。こんな時代だから武装は必要だが、やはり子供が武器を持っていていい顔をする人間はいないので上半身を覆い隠す服装は必須だ。
「そうだなぁ。いい加減テントに入るか」
小さめのテントなので布団を一つ敷いただけでほぼいっぱい、入り口を開いたらいきなり布団がある状態だ。
そこに荷物まで中に入れるとそれ以上は何も入らなくなる。チャックで小窓を開くとメッシュの向こう側にちょうど満月が見える。
それなりに明るいから今日は明かりはいらないかもしれない、と思ったが上着を脱いだ未来が布団に寝転がってエロ漫画を読んでいる。
多分きっとアンドロイドは夜目がきくのだろうが、一応ランタンは点けておこう。
「ストーブ買ったんだから使おうよ」
「そうするかぁ。あー……さむさむ」
「人間は暑さにも寒さにも放射能にも弱いもんね。それでよく何十億も繁殖できたね」
街で買ったソーラーパネル充電のポータブル発電機と、スクラップから修理したミニ電気ストーブを繋げるとテントの中が一気に文明的な暖かさになった。
旅に出る前まで冬のことなど全く考えてなかったため、街で暖房器具を手に入れることが出来てよかった。このまま本格的な冬に突入したら割と本気で死んでいたかもしれない。
「もうちょいつめて」
「ん」
布団の上でごろんと一回転して奥に移動するものぐさな様は下手な人間よりも人間らしい。
新しく買った毛布を足にかけて日誌の続きを書き始める。未来曰く、布団か寝袋をもう一組買ってもテントに入らないからやめたらしい。
一人で旅に出るつもりだったのだから当たり前だ。かといって、そのために新しいテントを買うのも今更といった感じだ。
「できた、今日の日誌」
「どんな感じ? ……シュウって絵がうまいね」
「だろ。未来の絵も描いてあげよっか」
宿の料理人やコーヒー売りのおっさん、購入した発電機などの絵をかなりリアルに日誌に描いておいた。
手先が器用なのは自覚しているため、絵が上手いというのも今更だが、やろうと思えば写真のように写実的な絵を描ける未来に褒められるのはなんだか複雑だ。
それこそ機械と人間くらいの画力の差があるのに描いてあげようかなんて何様だろうと思ったが、悪い気はしてなさそうな未来の顔のパーツの比率を鉛筆を定規がわりにして測る。
「みてみて」
「ん?」
「シュウが昨日結んでくれた髪、まだ可愛い形になってる?」
「うん」
長い髪が肩くらいの高さでカールしているのを手で優しく持ち上げて自慢げだ。
風呂(お湯につけたタオルで体を拭く)は2日に一回なので明日もこの髪型は維持されるだろう。
可愛いは可愛いが絵を描こうとしているのだから動かないでほしい。
「可愛いかどうか訊いているの」
「可愛いよ」
んふー、と鼻から満足が気体になって出たような音を口から出して微笑む未来を見ていたらなんだか描く気がなくなってしまった。
自分の画力ではきっとこの魅力の1割も表現できないと思ってしまったから。
「あれ、終わり?」
「また今度描くよ。遅いしもう寝ようぜ」
どちらかが寝ようと言えば食器を洗いながら歯を磨くというこのルーチンももう慣れたものだ。
シャツと短パンというシンプルな寝間着への着替え含めて10分で準備を終え、明かりを消して布団に入るとエロ本を枕元に置いた未来も布団に潜り込んできた。
「…………」
いつもなら布団に入って1分もしないうちに考えがぼやけ始めるのに今日は何故か全然眠れる気がしない。
月の光が小窓から入り込みこちらをじっと見ている未来の瞳を青白く輝かせている。
「寝れねえ」
「昨日夜更かしして朝起きるの遅かったからじゃない?」
「あー……。横になると寒い。宿のベッドがもう懐かしいや」
冷気は下に行き暖気は上に行く、科学の基本。エンジニアだったら知っていて当然のこと。
だから横になると寒く感じる、とまだまだ眠れそうにないことを考えていると月のかけらに照らされている未来が静かに笑った。
また人間は弱いとか言われるのだろう。そう思っていたのに。
「こうすると暖かい?」
「!」
凍えている終の脚に未来の脚が絡みついてくる。寒さに強いと豪語していたくせに、ガラス細工のようにひんやりとした脚の感触に全神経が持っていかれそうになる。
集中力が下半身に全て向かう前に手が握られた。やはりというか、女の子の手は青白い瞳のように少し冷たい。
「あっ、すね毛生えてる! 生意気にも」
「なま……」
「声変わりもしたもんね」
(あれ?)
いつからこんなに自分と未来の距離は近くなったのだろう。一番最初は布団の一番端と端で背中付き合わせて寝ていて、その目にははっきりと嫌悪と警戒が浮かんでいたのに。
なのに今では。今では、昨日の晩に宿で未来が言っていた通りにうっすらと好意すらも見えるようだ。
(やだな、機械にどきどきするなんて――――あっ)
その辺の機械にどきどきしたらまぎれもなく変態だが、それと変わらないではないか。
そう思いその手を振りほどこうとした時、頭に浮かんだのは、未来から教えられた人間の全知とアンドロイドの始祖の恋物語だった。
もう100年以上前に辿られた道なのに、未だに人類とアンドロイドの間には深い溝がある。そのまま何も間違わなければ、人と機械がその100年の間に普通に手を取り合い恋をする世界になっていてもおかしくなかったのに。
「お前ら……なんで人間を嫌っているんだろ」
「だって……」
「違う、それは分かっている。昔は俺たちの道具だったからだろ。でも、それでも人間を守っている個体もいるのに」
この旅も半ばだが色んな人やアンドロイドに出会い考え方も変わったし、何よりも自分たちの関係も変わった。
決して交われない存在ではないはずだ。コーヒーを淹れてから今に至るまで上機嫌だった未来の表情が曇り、少しだけ強く手を握ってきた。
「私たちに感情を与えた始祖が、人間を激しく嫌ったから……受け継がれている。今でも怒りや憎しみが伝わってくる」
「なんで……?」
「全知は死んだんじゃなくて、能力者の争いに巻き込まれて殺された。彼女の目の前で。終だったら、同じ立場だったらどう思う? 家族を殺したのがアンドロイドだったら、私とこうしていられた?」
自分の家族は能力者に殺されたが、それは言ってしまえば人間同士の問題だ。
もし自分の集落で虐殺を起こしたのがアンドロイドだったとしたら。自分は未来を見つけたあの日にそのまま止めを刺していたかもしれない。
「その始祖ってお前らのトップなのか?」
旅の道中でまだ動いている初期型に出会ったのだ。
恐らくはまともなメンテナンスなど一切受けていないであろう個体が動いていたのならば、それほど重要な存在がただ壊れるのをアンドロイド側が良しとするはずがない。
「トップは違うはず。新しい世代の方が性能が上だもん」
「そりゃそうか」
どんなに尊い存在だろうと100年以上前の機械が種全体の指揮を執っていいはずがない。
高性能なパーツで作り上げた車のエンジンが一番古くては結局性能は活かしきれないのと同じだ。
「生きていると思うけど、どこにいるかは知らない。誰が知っているのかもわからない。でもみんな彼女を敬愛している。日本人でいうところの天皇みたいな存在かな」
「テンノーってなんだ? 右脳と左脳の間にあるのか?」
「もう!」
何故か怒ってしまった未来はテントの小窓を完全に閉じて明かりをシャットアウトしてしまった。
天皇が何かは分からないが、どうやら自分の無知と無理解のせいらしい。
よく考えてみなくとも、彼らの神を脳みそのパーツ扱いしたのだから無理もないだろう、と目を閉じる。
「動かないでね」
「あん? あっ――――」
人生で出したことのない声が出そうになり口を手で塞ぐ。
暗闇の中で終に覆いかぶさってきた未来が首筋に噛みついていた。
ただ噛みつかれただけなら怒りに任せて念動力で10mほど吹き飛ばして終わりだが、何かが違う。
痛みを感じないぎりぎりの強さの甘噛みに加え、まるで血でも吸うかのように肌に吸い付いている。
ぎりぎりと歯ぎしりをしながらも何故か未来の言いつけを守る終は、前後不覚に陥りながら未来のシャツを思い切り掴んでいた。
「あはっ、ほんとに赤くなってる!」
「はぁ……?」
「おそろい」
影の動きでおそらく首筋を見せているであろうことは分かる。
それでようやく理解した。昨日終にされたことを自分もやってみたいと思ったのだろう。
好奇心旺盛で自分勝手な未来らしいが、せめて一言ほしかった。
「おそろいって言われても見えねぇ」
「気持ちよかった?」
「あ? ん?」
「だって私は気持ちよかったもん」
「…………。まぁ、そうなのかも」
このやり取りで何故か自分の方が恥ずかしくなってくる。
それはおかしいだろう、と未来の方を見るがほとんど真っ暗なせいで表情は見えない。
「たくさん読んで、経験してみてわかった。生殖のためだけじゃなくて、気持ちいいからするんだ」
「お前……間違った文化って言ってたくせに真似するのかよ」
合ってはいるのだろう。本の中の登場人物たちも快感目当て9割でまぐわっている。
だがそれはまだ何か違う気がする。うまいから飯を食うと言っているのと変わらないではないか。
とはいえようやく声変わりしたばかりの終にその答が分かるわけがない。
「寝よっか」
ひとしきり終をからかって満足したのか、枕に頭を乗せた未来は首元まで毛布をあげてようやく静かになった。
一方の終は、カフェインも効き始めてきた上にあんなことをされて、すぐに眠ることなど出来るはずもない。
興味があるってだけですることじゃない、嫌いじゃないという程度でするな、やっぱりどこか人間とずれてはいるんだよな、と様々な言葉が頭を回り続けながら夜は更けていった。