終の日誌はただの汚い絵日記から気が付けば本当に文化そのものになっていた。
木造建築の基礎構造、避雷針の作り方、自然の力を使って電気を発生させる方法など、文字が読める人間が拾えば大いに役に立つだろう。
それ以外の部分もまるで宝の山だ。水没した街、壊れかけのアンドロイド、第三帝国のヘリ、ぎらついた目の商人、ぼろぼろの聖地、馬に乗る真央、海から帰ってくる漁船などなど、500年後に公的な博物館で厳重に保管されていてもおかしくない程に戦後の世界を丁寧に描いている。
初めて目にするものを吸収し、過去から学び、人と関わり、世界を知る。この旅は終が原始人から人間に戻る旅だった。
(それでも人間が嫌い?)
村の熱気もおさまり、また今まで通りの、それでいて少しだけ過ごしやすくなった日常が戻ってくる間も終は黙々と漁船の修理をしていた。
壊れた漁船なので村の外れにあるが、時々村人が果物や商人から買った菓子を終におすそ分けしてくれる。
ぼんやりとした目で礼を言う終が心のどこかで『ほっといてくれ』と言っているのが未来には聞こえてくるかのようだった。
「直った! 完璧だ」
村に来て28日目の夜、漁船のエンジンは動き出し計器類を燃料も万全の状態になった。
たった十数キロ先と言わず、このまま別の大陸にだって行けそうだ。
「そっか。流石だね」
言わずもがな、未来は単純な機械の構造などほぼ完ぺきに知っているため、やろうと思えば終よりもずっと早く修理が出来た。
そんなことは終も分かっているはずだが、一言も手伝ってほしいと言わなかった。未来と終が話していれば人が寄ってくる。大人たちが気軽に関係性を突っつこうとしてくる。
それが嫌で嫌で仕方なくて、それならば一人で漁船に籠っている方がマシだったのだろう。それでも一カ月もかからずに修理してしまった。
ようやくこの村での滞在が終わってほっとしたのか、気の緩みが終の顔によく表れていた。
家に戻ると尾神のおばさんがまた食事を置いといてくれたので食べ始めたが、終がいつもより多く食べていると思っていたら綺麗に完食してしまった。
何も言わずに洗い物をしている姿を見て察する。明日にはもう発つつもりなのだと。未来も早く行きたいと考えているはずだと思っているのだと。
「やっと行けるな。ごめんな、時間かかっちゃって」
布団に座って終の日誌を読み返していると、同じく何やら本を持った終が隣に座った。
一昨日まではキング牧師の伝記を読んでいたのに今は竹取物語を読んでいる。
最早終は目につくものをジャンル問わず片っ端から吸収している。
「ねぇ、シュウ。ここの人たち、いい人たちだね」
「…………。そうだな。アンドロイドと能力者だって知っているのに入れてくれるところなんて、世界にどれだけあるか……」
「うん。私まで信じてくれたの、本当に嬉しかった」
「多分な、敵とか味方とかってすごく曖昧なんだよ。人間はお前らのことよく知らないから怖がっているだけなんだろ」
終の言っていることは全く間違っていない。だからこそ脱走アンドロイドはこの世界でやっていけているのだろう。
だが終は、人間の身でありながら人間のことをよく知ったうえで嫌っているのだ。そこが決定的に違う。
何を見てきたのかは知らない。
それでも終のことを心の底から尊敬し好意を抱いている。そんな相手のことを丸ごと知りたいと思うのは自然なことだった。
「たしかに、人間は私たちの敵だと思う……今でも……。知性を持つ2つの別々の種族が、少ない資源とぼろぼろの星でいがみ合わずに生きていけるわけがない。でも……」
日誌を置いたのと同じタイミングで終も本を置きこちらと目を合わせてきた。
これまでの旅でもずっとそうだった。いつも終は未来の中の凝り固まった概念や意識が変わる瞬間を、根っこの優しさを隠し切れない目で真っすぐと見てくる。
「ご飯作ってるおばさんや、酔っ払って寝ているおじさん、子供のために働いている人……それぞれ生活があって、大変そうだけど楽しそうに生きている」
記憶を失った状態の自分はこんな種族はさっさと滅びて然るべきだと思っていた。
旅を始めて、破壊された文化や落ちた人間性を見てここで終わりにしてあげるのがせめてもの慈悲で、上位種としての義務だとすら思うこともあった。
だが今日まで、沢山の人たちと関わってきて見えたのはそれぞれの人生だった。
敵だと思っていた能力者達ですらが、それぞれの考えがあって今日を必死に生きていた。
全て無視して終わりにするべきだと考えるのは、なんて傲慢なことだろう。
「だから、それを奪う権利は誰にもないと思う」
もしも次に回収部隊のアンドロイドに出会ったら、未来はまた終の味方をするだろう。
だが、きっと完全に敵対をする前に問いかけると思う。自分たちがしている行為について考えたことはあるのか、人間について本当に知っているのか。
出会った日から完全に考え方の変わってしまった自分を見て、終が大きく目を開いて笑っている。
「そうだな、本当にそうだよ。嫌いって言っていたのにそう言えるの、本当にすごいよ……未来は本当にすごい……」
未来の身体を引き寄せた終が、成長した子供を抱きしめるかのような優しい抱擁をしてくるのを心の底から受け入れる。
終が未来に対して抱いた敬意が丸ごと伝わってくるようだ。
言葉の一つ一つが、終の中の複雑な感情が言語化されたもの。そう思うと目の前の悩める小さな少年を愛しく思わずにいられない。
終自身は善を説き、それを悟った未来の成長を心から喜んでいる。それなのに、他人の無償の善意を終自身が信じたいのに信じられていないというのは、とてもむなしく、せつない。
私にも出来たよ、きっと終にも出来るよ――――考える前に言葉はもう口から出ていた。
「どうしてシュウは人間が嫌いなの?」
「な……なにいってんだ。俺人間だぞ……?」
どうしてと言いたいのは俺の方だ、そう言っているかのような表情だった。
こちらの肩を掴んでいる終の指先からすらも緊張が伝わってくる。
「シュウは本当に働き者だし、技術もあって、なにより……優しい。きっとどこでも受け入れてくれたと思う。でもシュウはずっと一人だった。一人になったんじゃなくて、一人を選んだ」
「…………」
一番触れられたくないところ、出来れば死ぬまで知られたくなかったことを好いている相手に見抜かれていたという事実。
終の瞳孔が見る見るうちに小さくなっていき、ぼさぼさの髪が逆立っていく。
「一人の方が好きなら私と旅になんか出なかったはず。じゃあどうして一人でいることを選んでいたかって考えると……ここに来るまで気が付かなかったけど。……気が付かなくてごめんね」
「お……俺が、仮に……ひょっとして人間を嫌っていたとして……何もしてねぇ」
必死に抑えつけていた心の内側に、わざわざ隠していた部分になぜ踏み込んでくるんだという当然の怒り。
その怒りはむしろ未来の言葉の裏付けにしかなっていないと気が付いたのか、布団の上に力の抜けた手を降ろして、観念したかのように終はうつむいた。
「……なんでそんなこと聞くんだ。聞いてどうするんだ」
改めて考えてみるとどうしてなのか自分でもよく分からない。
隠しているエロ本を漁ってからかうことはしても、トラウマをほじくり返したりしないくらいの分別はあったはずなのに。
「なんで……。多分、それがなければ私が一緒にいたいシュウじゃないから」
何もかもを奪われた汚染された子供。一番最初の終の印象だった。
それなのに種族問わず優しくあろうとする矛盾した姿に惹かれたのが、今抱いている好意の始まりだったように思う。
晴れない闇を心に抱え、それでも光であろうとした理由を知りたいと思うのは自然なことだ。
いつの時代の基準から見ても最下層の弱者だったはずなのに。そんな少年の小さな身体に宿っていたのは、この世界の全てを支配するための力だったのだから。
心で泣いても笑顔を見せる神の半身がいつか己を失う前に。それはもう今しかない。
「それは……いつものワガママか? 俺にいじわるしたいだけ?」
「違う! 誰も知らないなら、それでもいつか誰か知るなら、それが私でありたいから」
ああ、下手くそな言葉だ。結局ただのワガママではないか。照れているだけで本当はもっと簡単な言葉に出来たはずなのに。
顔を上げた終の瞳の中に悪意の濁りを感じたような気がする。
それを無視し続けて一緒にいることはきっと出来ないから、受け止めなければならない。
観念したのか、やがて終は口を開いた。
「能力者は嫌われているって話したろ。あんなど田舎で一人ぼっちで暮らしていた、世間知らずの俺がなんで知っていたか……未来はもう分かっているんだろ」
「……シュウ自身が……差別されたから」
それも恐らくは、その辺によくあるような簡単な差別や嫌がらせではない。
精神が分裂し人格が破壊されるような激しい差別をされたのだ。
「小さい頃……ここより三倍くらい大きな村に住んでいたんだ。俺は物心がついた時から、思ったことをほとんど全部現実にする能力を持っていた」
「でも能力者だってバレてしまった?」
「そりゃもう……すごかったぞ。優しかった近所の兄ちゃんや、俺の友達だった子の母親、村長まで。みんなして俺を家族ごと殺そうと追いかけてくるんだ」
終が元々いた場所に住んでいた最小の年数を考えても、それはまだ終の年齢が一桁の頃の話だ。
そんな時期に、昨日までよき隣人だった人間が変貌し自分を殺そうとしてくる世界に放り込まれてしまえば、人格なんて簡単に壊されてしまう。
「優名が生まれつき歩けない身体だっただと……? 後から川に住みついていたから知らなかっただけだ」
その言葉だけで冷静沈着な機械の部分が辻褄を合わせていく。
能力を持っていたがために殺されかけたのならば、両親は能力の使用を固く禁じたはずだし、終もそれを守っていたはずだ。
それなのになぜ妹にだけ使うことを許していたのか――――罪滅ぼし、と残酷な言葉が浮かんできてしまった。
「俺なんだ……優名が歩けない身体になったのは俺のせいなんだよ。俺が悪いんだ」
手を引いていたか、あるいは背に抱えながら妹と共に逃げていたのだろう。その際に正義だと信じて振るわれた暴力で脊椎を損傷してしまったのだ。
その日から終の贖罪の日々が始まったのだ。歪に生まれてしまったことに対する後悔を抱えて。
一旦花開けば本人だけでなく周囲の全てを焼き尽くす、人間の内に潜む残虐性と悪意。
また同じ目に遭うのが嫌だから、未来までも巻き込むのが嫌だから、出会ってからも集団に所属することを嫌っていたのだ。
未来と一緒にいられたのは最初から敵だったからなのだろう。敵だと分かっていたのならば裏切りも何もないから。
「シュウ……」
終のせいではない、そう声をかけようとしたのに。
俯く終の背中から小さな身体に留めておけなかった怒りや怨念のようなモノが浮き上がってきているような気配がして言葉が止まってしまう。
「あいつら、何の才能もないくせに。クソバエみたいに群れやがって。ゴミが集まってもゴミの山にしかならねぇ」
なんとなくで人間を嫌っていた自分と違う本物の怨嗟。
確かに終は口が悪いが、今までの軽口悪口とはレベルが違う。
布団のシーツを千切らんばかりに掴みながら更に終は言葉を続けていく。
「動けない優名をかかえて、新しい村に来たけど、もうダメだった。俺たちを受け入れてくれた人たちがまた変わるのが怖くて仕方がなかった。でも能力を人前で使うことはもっと怖かった」
(……G2-5in7は回収部隊!)
終の話を聞くに、新しい村に行ってから終は一切能力を使っていない。唯一、歩けなくなった妹に優しい夢を見せてあげること以外は。
当然誰かに自分が能力者であることを話したりなんてしていないはずなのに、G2-5in7はそのことを知っていた。
終が能力者であることを判別機能から知り、終の身の周りを探り、その能力の使い方を見たから終を『夢を操る能力』と言っていたのだろう。
なぜあんな辺鄙なところに脱走アンドロイドがいたのか気になっていた。
本当のところ何が理由で脱走したのかは分からないが、太平洋から北陸まで行くのは並大抵のことではない。
きっと元々があの周辺に派遣された回収部隊だったのだ。
「元いた村の人たちはどうしたの?」
「一人ぼっちになってから見に行ったら、もう滅んでた。俺の集落が滅ぶずっと前に、全員殺されていた」
話の裏側が繋がってくる。きっと最初の村での能力者騒ぎをどこかでキャッチしてアサイラムは回収部隊を送り込み、その村を全滅させたのだ。
その過程のどこかでG2-5in7は脱走し、回収部隊は更に周辺の集落や村を調べ始めたのだろう。
(『もう』?)
布団にぱたぱたと透明な雫が落ちていく。泣いてしまうほどに頭はぐちゃぐちゃで、間違ったことを言ってしまったことに気付いてすらいないだろう。
そのたった二文字で、終が単に見に行ったのではなく村人を皆殺しにするつもりで行ったという事実を曝け出してしまっている。
辿り着いた集落の人々も家族も生きていたのなら。終の傷痕はゆっくり癒えていったのだろう。父の仕事を覚えたいと終が言ったのもその証拠だったはず。
だが残酷にもこの世界は終の心を癒す全てを奪い去ってしまった。
「この旅で何人も、人を人とも思わない奴らを見てきた……。なぁ、あいつらみんな生まれた時からああだったのかな」
「……それは…………」
幸運にも終はそのとき怒りに任せて誰かを手にかけることはなかった。その相手はみんな死んでいた。
だが、それと同時に幼い終は己の内側に巣食ってしまった怪物に気が付いたのだ。
「俺はそうは思えないんだ。奴らにも家族がいて、近しい人がきっといたんだ。この世界で失ってしまって、心まで失くして、人に能力を使うことに抵抗がなくなっちまったんだ。守るものがなくなっちまったから。俺もいつかそうなるんだ」
なぜ終が能力者だと判明した瞬間に激しく迫害されたのか。
今自分たちがいる村と比べるに、きっとその村は過去に能力者に襲われたことがあったのではないか。
いつか自分もそっち側になってしまうと考えた終は、人と関わることを嫌い、その憎しみの連鎖を食い止めようとして孤独死する道を選んだのだろう。
終が第三帝国の兵隊含む能力者までも嫌っているのは、ある種の同族嫌悪だったのだ。
「能力も生まれも関係ない。人間は誰もが心の中に悪の種を持っている。能力者はその悪を、普通の人間よりも外に出しやすいんだ」
「そんなこと、」
「ある!! いつも、死ぬまで心の悪との戦いだ。出来ないのと、出来るけどやらないのは全然違う! 俺には出来る!! 殺すと思えばその瞬間相手は消し炭も残らず消える。お前らアンドロイドも能力者と何も変わりゃしねえ。人間の変異体? 進化? 変なのが増えて何が起きたんだよ。次はミサイルの代わりに能力がこの星を丸焼きにするんだろ、どいつもこいつも。勝手にバケモンの力を集めりゃいい。殺し合えばいい。俺に攻撃すればいい。その方がずっと楽だ!! 未来が俺の敵だったら!! 俺は一人でいられたのに!!」
「…………」
決して軽い気持ちで鍵を開けた訳ではなかった。鈍く重たい絶望が入っていることは知っていた。
だが、一度開けた扉からは際限なく憤怒憎悪怨恨が噴き出し未来にまで八つ当たりを始めた。
これだけの膿を抱えながらも、限りなく抑えて、その上善を実践しようと生きていたのに。
息を切らして目をぱちんこ玉のように揺らして、ようやく終は今自分が目の前の相手に何を言ったのか分かったようだ。
いつ爆発するか分からないこの負の感情の奔流を終は恐れていたのだ。
「…………。この村の人たち好きだよ。でももう、自分に勝てる自信が無いんだよ。あいつらみたいになりたくないんだ」
結果として何も起きなかっただけで、終は一度心の悪に屈して飲まれてしまったことがある。
一度でもあったことならば次にいつ起きてもおかしくない。さながらいつか必ず来ると分かっている大震災のようだ。
そして終は自身の能力が自然災害のそれとなんら遜色ない被害を生み出すことを心から理解しているのだ。
「シュウはそんなことしない」
いいや、この世界に絶対はない。
終だっていつか過ちを犯すかもしれない――――言葉と真逆のことを考えているのに、それでも強く言い切る。
「したくないけど、出来るんだよ俺は」
「しないよ」
かつて未来予知という能力が確認されてから、この世界の成り立ちについての研究は一気に進んだ。
『全ては世界の始まりから終わりまで決まっている』。反論を許さない程の証拠が並び、悪意も善意も生も死も、全て決まっていることなのだと誰もが受け入れるしかなかった。
決められた筋書きである運命を変える権利を持つ者はこの世界で全知だけであり、それ故に全知は神の半身と呼ばれた。
そのことが知られてから、誰もが考え始めた。それならば自分は何のために生まれて何者でどこへ向かうのか、と。
なぜ全てを忘れた自分を見つけたのが他の誰でもなく終だったのか。
なぜ自分一人で向かった方が早いと知っても二人で旅をしてきたのか。
「どうして言い切れる?」
「私が止めるから」
きっとこのためだった。この時のためだった。
内なる悪に怯え、同族とすらも生きていけなくなったこの小さな少年を守るため。
「私がシュウを守る。今のシュウには守るものがある。だからそんなことは絶対にしない。させない」
言葉を口にしながら頭がシンプルになっていく感覚がして、終の感じていることまでも分かるような気がする。
壊れているなら、その穴が自分では塞げないなら誰かに塞いでもらえばいい。
そんな相手がいる限り、きっと終は自身の能力を、『全能』をこのぼろぼろの星を修繕するために使ってくれる。
その相手がアンドロイドの自分だった、それだけの話だ。
「……俺はいつ、奪う側になってもおかしくなかったから。だからずっと一人でいた」
涙がにじみ取れかけた眼帯を外した終は、涙を拭いながら未来の手作りの眼帯を見つめている。
なぜ自分がそんな大怪我をしたのか。どうして片方の光を失っても大して気にしていなかったのか。そのことを思い出したのだろう。
誰かを守ることが出来たのなら肉体の痛みなんて――――そこまで頭に浮かんで、ようやく未来はあの日終が自分をかばった理由が分かった。
人の中には悪と善がせめぎ合っている。だが、自分が一緒にいる限りは終はずっと善を心に抱いて生きてくれる。
「でも未来が、アンドロイドの未来が……そう思えたのなら。いつか俺もそう思える日が来るよ」
片方しかない目の奥底に燻る悪意は消えることはない。
だがそれを覆い隠してしまうかのような、溢れんばかりの好意と敬意がこちらを見つめる終の目から伝わってくる。
頭と首の付け根が燃えるかのように熱い。
「!」
鼻と鼻が触れてようやく近づいていたことに気が付いた。
どちらから顔を近づけたのかわからない。星と星が引かれ合うくらい自然な流れで、終が一度もまばたきをしていないことがやけに頭に焼き付く。
自分から寝ころんだ気がするし、終が押してきた気もする。自分よりも大きくなった身体で優しく組み敷いてきた終の右目がぼんやり暖色の闇の中に輝いている。
種族の違いや旅の途中であること、何よりも年齢。様々な理由があったのだろうが、今までこんなにも真剣に終が踏み込んでくることはなかった。
どんぐりのように丸く好奇心溢れる目。見たものを全て吸収してしまう神の目。今だけは独り占め。
どこまでもいつまでも自分だけを見ていてほしい。
「……早いかな?」
「早くない!」
本当は早いと思うが、明日にでもアサイラムがこの村を見つけて回収部隊を送り込んでくるかもしれないし、第三帝国の襲撃があるかもしれない。
命の価値があまりにも軽い世界だ。今と思ったらそれは今。
小さく頷いた終が指先でそっと頬に触れてくる。
自分が好んで読んできた漫画の中にあった無理やりな接触に遠く及ばないのに、電気回路で出来た機械の脳が焼き切れそうだ。
伝わってくるからだ。言葉にするには大きすぎる思いが、小さな動きの一つ一つから。
無意識のうちに終の背とうなじに手を回して触れると視線を媒介して胸の中にあるものが全部流れ込んでいくような感覚がする。
「…………」
終が何も言わずにいるのは、考えていることが分かっているから。
朝別れる前に。寝る前に。退屈なときに。何かをしているときに。
唇に。頭に。指先に。髪の毛に。
この1カ月あまりでどちらともなく何度となくしてきた口付けなのに、身体中に電撃が迸った。
流れるような首筋への口付けは、いつだかに映画で見て興味が湧いてしてもらった時と同じ行為のはずなのに何もかもが違う。
終自身の激しい感情のせいか半ば噛みつきになってしまっており、痛みと共に入り込んでくる何かのせいで舌まで痺れるかのよう。
突如として頭に浮かぶ情景、始祖と全知が手を繋いで夕陽を眺めた記憶。
始祖が夢見て100年以上起こらなかったその先は――――ぶっ壊れてしまいそうだ!!
「も、も……もっと! もっと!!」
酸欠気味の口が震えるあまり言葉がうまく紡げない。意図せずして終の髪の毛を乱暴に掴んでしまっている。
自分は間違っていた。生殖のためだけでも、快楽のためだけでもなかった。
言葉だけでは足りなくなる時が来るからだ。今思っていることを言葉にしても、自分が伝わってほしいだけ伝わらない。
知っているようで何一つ知らなかった。ひとつ、またひとつ知る度に物の見方が変わる。世界が変わる。
好きとか愛しているなんて言葉だけじゃ陳腐すぎて全く足りない。もう満たされない。
出来ることならば心を丸ごと渡してチョコレートのように溶けてしまいたい。これじゃあまだ足りない。もっと直に熱が欲しい。
終が上にいるのに、無理な体勢から身をよじるようにしてブラウスを脱ぎ捨てる。
「腕あげて。早く!」
「うん」
乱暴になりすぎて、終のへその周りをひっかきながらもなんとかシャツを剥ぎ取る。眼帯も一緒に取れてしまったが、気にせず一緒に丸めて部屋の端に投げる。
急流の川をのぼる魚のように傷つきながらも鍛えられた、弱きを助け強きを挫く少年の身体。
出会った時は浮浪者の子供としか思わなかったのに、たった半年で精悍な男の顔つきになりかけている。呼吸が荒くなってきたが足りないのは酸素ではない。
不安定さが消えてしまう、世界から食い物にされる子供じゃなくなってしまう。1番美味しい今はもう今しかない。
本当は隠しておきたい弱い部分を見れたのは自分だけ。きっとその弱い部分はこれからも他の誰にも見せないのだろうと思うと、噛み殺してしまいたいほどに愛おしい。
もう何もかもが耐えられない。
「そのまま私を抱きしめて!!」
終の能力者の証が太陽のように輝いている。
理由はない、という結論にしかならなかった。
少なくとも、三次元存在に理解出来るような理由などないだろうと。
ある日突然、理由なく神は堕ちた。
その魂は分かたれ、『全知全能』の片割れである全知は天明屋創という名の普通の家庭の男の子としてこの世に生を受けた。
見た目は人間でも、『理』の外から来た存在。
全知の存在が確認されてから、人間もアンドロイドも、世界中のあらゆる機関が彼の力を研究し解析した。
ナチュラルの一人だが、他のナチュラルと決定的に違う点があった。
どの能力者も自分の脳から能力を出力するのに対し、全知の脳は宇宙のどこか、あるいは宇宙そのものに接続されていたという。
知性のある生物のコミュニケ―ションを限りなくミクロに観察したとき、脳の信号が他の脳の信号に影響を及ぼす信号の伝達と見れる。
これほどまでに世界を破壊しつくした能力者たちの中で、他者の脳の信号を操る能力者は全知以外確認されなかった。
脳と同型の宇宙と接続し、現実そのものを捻じ曲げる。まさしく神の力そのもの、この世界は未だに全知の夢の中。
全知が消えた後も研究は続けられていくうちに、誰もが同じ疑問を抱くようになっていた。
神の半身が全知だったのならば、その片割れの『全能』はどこに?
この世界が全知の夢ならば。
全能は夢を操る能力として現れるのではないか、と。
知らないから出来ない。
知っているが出来ない。
出来る。
この世界の知識とその使い道は大さっぱに3つに分けられる。
終には2つ目が存在しない。知っていることならば全て出来る。
堕ちてもなお、神の魂ゆえの本能なのか。
全知は完全な神に戻ることを望んでいた。
そして全てを知ってもなお無能な全知は、それでも神のごとく知性を持った新たな種族に命を授けた。
無知な全能はその本能から目にした全てを吸収する。元々全知が入っていた空っぽの容器にこの世の全ての知識が吸い込まれていく。
いつか神に戻るために。
詳しいことは話してくれなかったが、あやふやな言動から終が創と何かしら理解できない形で繋がっていることは明らかだった。
かつて一つだった存在は時空を超えて繋がっている。
知識を際限なく吸収していく日々の中で、いつか終は気付くだろう。
自分が何者なのかを。この世界は誰のものなのかを。
(だけどシュウは私のもの)
終はもう、自分が言えば神にも悪魔にもなる。自分だけのもの。
全能の力を持って生まれた少年が自分に夢中になっている。これほどまでに満たされることは他にない。
「知りたいことがあるんだ」
じんわりと引いていく熱の中で顔を出した眠気と心地よいだるさの中で、終の声がやけに真剣に響く。
「うん?」
終の方を見たつもりが、窓から見える月の方に焦点が行ってしまった。
もうそんな時間になっていたなんて。
「未来って人間と子供を作れるのかな」
昔のアンドロイドでは100%不可能だ。生殖器はあっても人間を模していただけで、想いがどうこうと屁理屈をどうこねくり回しても完全に機械なのだから。
だが、何よりも分からないのはずっと自分自身のこと。目の前の少年が神の半身だと知っても、自分のことはほとんど何も知らない。
「分からない……分からないけど、こんな気持ちになるなら……たぶん……」
始祖と全知の恋は悲恋そのものだった。叶わない恋だと始祖は分かっていたから。
自身が機械であることを何よりも理解していて、歩み寄った先にあるのは絶滅だということを知っていたから。
人間の全知を好きになってしまったから、何よりも機械である自分を憎んだ。
「そっか……そうか……未来は……」
だが自分は汗をかき、涙を流す。呼吸も食事も睡眠も必要で、排泄をするし月経もある。
製造コストは第7世代までとは比べ物にならないのだろう。他のアンドロイドが第8世代を知らなかったことを考えると、もしかしたら自分は最初の第8世代なのかもしれない。
デメリットばかりが目立つのになぜ生体素材を使ったのか。
思うに、これは始祖の願いを反映した体ではないのだろうか。
始祖の願い、林檎の夢。100年以上の時を超えてその願いは自分を生み出したのではないか。
「シュウはいや?」
人間、能力者、アンドロイド。
全てが混ざりあった新世代の誕生。機械と人間の融合。
境目が消えてなくなる。
「いやなわけない! 早すぎるんじゃないかって思うけど、いやなはずがない。でも……俺たちはここまで来たのに」
「私、今……これを本当に幸せだと思っている。これ以上の物なんて別にいらない」
子供が出来たらどうなるのか、どこで生んで育てるのか。
後のことも先のことも忘れかけていた終はようやく厳しい現実を思い出したのだろう。
「いらないって?」
「忘れた記憶なんてもういらない。シュウがずっと一緒にいようって言うならそれでいい。そう言ってくれれば……」
この場限りの嘘などではない、心の底からの本音だった。
何かの任務で地上に来ていたのかもしれない。重要なことだったのかもしれない。
だが、今の自分には人間に害となる行動をする気がもう全くないし、目の前には大好きな人がいて、この村はアンドロイドの自分でも受け入れてくれている。
どちらかを捨てなくてはならないのならば、その価値は最早比べるのも馬鹿馬鹿しい。
「…………俺も背が大きくなったけど、未来も背か伸びて、髪も伸びて……それだけじゃない。考え方までも変わってしまった」
「…………?」
この旅で終は10cm近く背が伸びたが、実は自分もそれなりに背が伸びている。
4回終の散髪をしたが、同じタイミングで髪を切っている。
「もっと小さい頃は? どうしていたんだろう。記憶をなくす前に一緒にいた誰かが、まだ小さかった未来を育ててくれた誰かがいるはずなんだ」
「……そうかも」
人間のように子宮で育ったとは思えないし、脊髄の一部が機械であることからも赤ん坊の頃があったとは考えにくいが、
常に続けている成長のどこかのタイミングを共に過ごした相手がいてもおかしくない。
「生きているのか、死んでいるのか……もしももうこの世界にいないのなら、未来が思い出さなければ、もう誰も思い出さないのかもしれない。それはダメだ。この世界で生きるって、良くも悪くも誰かに覚えていてもらうことなんだから。これまでの旅を無駄にするなって言っているんじゃない。やってきたこと全部結局無駄になるなんてよくあることだから。だけど、忘れちゃいけないことまで忘れてはいけないんだ」
未来が終のことを大切にしているのと同じくらい終が未来のことを大事に思っているのは分かっていた。
その終がここで終わりにしてはいけないと言っていることの意味を深く考える。
忘れてしまったことを考えても仕方がないと思っていたのに。
「俺が能力者差別にあったことを忘れてしまったら、家族を殺されたことを忘れてしまったら……未来の言う通り、どこかの村で平和に暮らすことが出来たんだろうな。人間を憎んだりすることもなく」
「……でも、私と一緒に旅に出ることもなかった」
仮に出会うことがあっても、なんとなくアンドロイドを嫌い怖がっている人間と同じ。深みも魅力もない。
見た目は同じでも自分が心から敬意を抱いた終ではない。
「未来……未来ってとてもいい名前だ。一緒に未来といると、本当に未来そのものなんじゃないかって思えてくる。始祖の名前は林檎……大好きな人に贈られた大切な名前」
「私に……名前をくれた誰かも忘れてる……」
なぜそこを気にしなかったのだろう。名前があるのならば、それを付けてくれた人がいる。
名前を思い出した時、確かに反射的に『そう呼ばれていた』と口にした。
何を思って最新型に『未来』と名付けたか。それすらも忘れてしまっている。
それは自分にとって絶対に忘れてはいけない相手であるはずだ。
「それでも俺と一緒にいてくれると言ってくれたなら、それより嬉しいことはない」
髪に優しく触れてくる終がそういうなら無条件に一緒にいると言ってしまいたくなる。
なんでも言うことを聞きたくなってしまう。だが終はそれを良しとはしていないのだ。
「…………。うん。明日、行こう」
何よりも、終が過去を忘れずに生きている。忘れてはいけないと言っている。
筋の通った理屈は立てられないが、自分だけが穴の空いたまま一緒にいても終は心の底から喜んでくれないだろう。
「俺たちが出ていくのを止めるんだろうな」
「私もそう思う」
能力者は便利だから、というのも理由としてはあるかもしれない。
だがそれ以上にこの村の大人たちは子供がそんな危険なことをしてはいけない、と心から心配してくれている。
まともな大人の言葉に子供の終が反論するのは難しい。
「朝早くに出よう。ほら、服着な。寝てる間に風邪ひかないようにしないと」
早めに寝て日が昇る前にそっと出発するのがいいだろう。
終もそう考えているようで、部屋のあちこちに投げ飛ばしていた服を念動力で集めて渡してきた。
「私風邪ひかないってば」
「あ! じゃあ俺も、馬鹿は風邪ひかないってことで!」
実際終が馬鹿かどうかはおいといて、劣悪な環境で旅をしてきても風邪の一つもひかなかったので頑丈なのは間違いないだろう。
壁の隙間から入る海風が寒いと終が気が付く前に少々濡れて冷たい布団の中に引っ張り込む。
すぐに大あくびをした終は、感情の上下の激しい一日で疲れていたのか、落ちるように眠ってしまった。
(……お礼くらいは言いたかったな)
汗の湿気でくるくるになっている終の髪で遊びながらこの村での一カ月を振り返る。
日中に出発しようとすれば必ず引き留められるだろう。そしてずるずると絆されてしまうだろう。それぐらいいい環境だったから。
別れの言葉は無理でもせめてお礼くらいは伝えたかった。
そうだ、明日起きたらお礼の手紙を書こう。何をどれだけ書こう――――推敲していた言葉はやがて解けていき、終が眠りに落ちて五分もせずに未来の意識も夢の世界に溶けていった。
**************************************
海の向こう側がほんのりと明るい。
波のリズムは穏やかで、船もほとんど揺れていないように見える。
意図せずして船出に最適な日を選べたようだ。
「はい、自転車」
未来が軽々と持ち上げた荷車付き自転車を船の上に持ち上げようとするが、重すぎて断念し念動力を使って甲板に乗せる。
まだ月が出ている時間に未来に起こされた終は、1時間ほどかけて部屋の荷物を全て整理した。
この村にまた戻ってくるのかも分からないため、船に全ての荷物を積み込んでいるところだ。
片づけをしている間、未来は村の人たちに宛てて置手紙を書いていた。
最初の頃の未来ならそんなもの貰っても何の役にも立たないと言っていただろう。
それを思うと嬉しくて、ついつい片付けの大半を一人でやってしまった。
「All aboard! そろそろ行くか!」
頷いた未来の手を取り船に引き上げようとしたその時、遠くから自分たちを呼ぶ声が聞こえた。
「おーい! 待て待て! まだ行くな! 待て!」
この野太い声は豪だ、と村の方を見るとドスドスと大きな足音を鳴らしながら豪がこちらに走ってきており、その後ろに馬に乗った真央がいる。
先ほどまで寝ていたのか二人とも寝間着で、豪に至っては下着姿で少々寒そうだ。
「ほら、持ってけ!」
「なんだこりゃ」
「海に出るの初めてだろ。船酔いに効くから早めに食えよ」
豪に投げ渡されたのは風呂敷に包まれた手に乗るほどの大きさの箱だった。
開けてみると梅干しがぎっしりと詰まっている。
尾神のおばさんが持ってきてくれる料理によくついてきたのと同じものだ。
「どうして私たちが今日行くって分かったの?」
「船直ってるって、俺昨日気付いたんだよ」
「で、あの辺の木が海側の見張りしているからね」
真央の木々が見張りの役目をしているのを知ってはいたがそこまで気が回らなかった。
海からの侵入者の対策もしているらしいが、逆に出ていく人間も分かるらしい。
行ってしまうことを本能で理解しているのか、サフォークが未来に顔をこすりつけて別れを惜しんでいる。
じゃあ俺も、と手を伸ばすと分厚い唇で指先を噛まれた。本能的に手を引っ込めたら馬鹿にしているかのようにこちらを見ながら唇をぶるぶるとしてきた。
懐かれているとは思うが同じくらいナメられている気がする。
「今日はいい天気になる。船出日和だと思うぜ。ま、遭難しないようにな」
今になって思えば、豪は気に食わないところもあったが単純な性格で親しみやすい男だった。
気に食わないと思った相手をすぐに殺せてしまう自分の能力を恐れていたことは間違っていなかったと思う。
簡単に一線を越えてその命を奪っていたのなら、この単純な性格の良い部分にも気が付くこともなかっただろうから。
能力が強くなっていくのはいい。だけど、もっと喧嘩も強くなろう。なんとなくそう思える。
「ありがとう、見送りに来てくれて」
馬から降りた真央に未来が駆け寄り手を握ってお礼を言っている。
今朝書いていたのは感謝の言葉を並べた手紙だったが、本当は直接ありがとうと言いたかったのだろう。
どんな反応を返すのか見守っていたら、真央は突然未来を抱きしめていた。予想の斜め上だ。
「はは。可愛いね。今まで会った女の子の中で一番可愛い」
「だって私アンドロイドだもん」
「そういう話してるんじゃないよ」
その見た目は作られたものだから、言わずもがな未来の容姿は完璧に近い。
だが、そんなのはほとんどどのアンドロイドも同じだった。そういう話ではないと言う真央の気持ちは本当によく分かる。
生意気盛りだが一方で善意にも悪意にも素直で、与えられたものに豊かな感性で真っすぐな反応を返す。
今だって真央の胸の中で頭を撫でまわされて耳を少し赤くしている。そういうところが可愛いと真央は言っているのだろう。
「どうしても行っちゃうの? どうしてか聞かせてよ」
終を見た未来が迷いなく頷く。
話す理由はないが、自分たちが能力者とアンドロイドであると知られている以上、話さない理由もまたない。
心を開け、少しでもいいから。それがお世話になった村の人たちへのせめてもの礼儀だ――――海からの冷たい空気が肺を満たすと少し成長したような気がした。
「未来には記憶がない。俺と出会う前に失くしちまったんだ。この先に答えがあるから、見つけに行くんだ」
この旅で色んな人に出会ったが、その理由を話したのは初めてだった。
俺は俺、お前らはお前ら。何もしないからほっといてくれ――――心の中で凝り固まっていたそんな考え方が、シンプルな質問に答えただけで溶けて消えていくかのようだ。
引き留められる材料がないと判断したのか、最初から行かせるつもりだったのか。未来の額に強烈なキスをしてようやく真央は未来を抱擁から解放した。
「また来いよ。でけぇ魚とってきてやるから」
その場に腰をおろした豪は、日の出に向かって出発する自分たちを見えなくなるまで見送るつもりなのだろう。動き始めた船に未来が飛び乗ってくる。
「ああ、またな」
再会を約束するような言葉を自分が口にするなんて。
またな、というシンプルな三文字が心に爽やかな風を吹かす。
真央はやはりこの後いつか村を出て行ってしまうのだろうか。自分たちのように、惜しまれながらもそれでもその先を夢見て。
船室の窓から顔を出して馬に体重を預けている真央を真っすぐ見つめる。
「真央! これは誰かに頼まれたわけでも、俺がやらなくちゃいけないことでもないんだ」
「じゃあなぜ行くんだい?」
「俺がそうしたいからだ」
「……あはっ! 終、未来。元気で」
初めて出会った善を心の中心に持った能力者。真央が自分たちの船出の無事を祈るように、彼女の力が望みのままに人々の救いになるように祈る。
その善の心は100年以上続く嵐の中で輝いた、進むべき未来への道しるべになりうる光だから。
海の向こう側から太陽が顔を出してきた。
**************************************
船出からしばらくして、360度海と海霧以外全く見えなくなってしまった。
とりあえずは未来に言われた通りの方向に進んでいるが、本当に一体なぜこんな海のど真ん中に通信装置を捨てられたのだろう。
気になって仕方がないが、着けばわかるのだろうかと色々考えていると先ほどまで甲板で海を見ていた未来が舵のそばにやってきた。
「もう少し時間がかかりそうだね」
「うーん、少なくともなんも見えねぇからなぁ」
「終わったらどうしよっか?」
海を眺めていて退屈になったのか、計器類を眺めながらそんなことを訊いてくる。
自分も最初の10分くらいは初めての海ということもありどきどきしていたが、あまりにも何も起こらず海しか見えないので退屈になってきていたところだ。
雨は降っていないが大量の海霧に囲まれ周囲の状況がほとんど分からず退屈極まりない。
「終わったら……何もないからなぁ。ないっていうか……考えてないや」
「えっちなことたくさんしたいとか考えているんじゃん?」
「…………」
「うわぁ、耳あっかーい」
ド図星というか、それしか思い付かなかったところをあえて黙っていたのに即座に看破されてしまった。
昨日の今日でそう考えない方が健全ではないと思う。
「そういうってことは自分が思ってるってことなんじゃねえか!?」
「そうだよ、悪い?」
「ワルクナイデス」
こういうところでむしろ胸を張る未来の素直さを少しは見習うべきなのだろうが、出てきたのは蚊が鳴くような細い声だった。
「あはっ! シュウなら催眠種付けおじさんみたいなことも出来るもんね」
「そんなんでき……っ! あれっ? 出来るかも……出来るな……」
まず今までの生活でそんなことをやる発想自体がなかったが、男でも女でも動物でも頭を掴んで脳に触れれば即座に夢の世界に引きずり込める。
未来の描いた漫画で汚いおっさんが『催眠!』と叫んで女の子に催眠をかけていたチープさに腹を抱えて笑っていたが、それと同じくらい簡単だ。
「やったじゃん!」
「え? 俺大人になったら催眠種付けおじさんになるの??」
「最高じゃん!」
「最低じゃないですか……?」
考えたことも無かったが、漫画に登場させていた汚いおっさんの作画にやたら力が入っていた気がする。もしかして未来の好みのタイプがあるとしたら汚いおっさんなのだろうか。
確かに自分を客観的に見れば小汚いガキだから将来は汚いおっさんになる可能性大だ。種付けは置いといたとしても、晴れて催眠おじさんの完成だ。
「別にそんなことしなくても、シュウが言えばなんでもするよ」
「なんでも?」
「なんでも」
「お、おう」
文句言いそうな気もするし、聞いてくれる気もする。
しかしあんなどぎつい内容の漫画を描いてからの『なんでも』だから思った以上になんでもありなのかもしれない。
「なんでも……なんでもするよ。その代わり……私の記憶が戻って、どんなふうになってもまだ一緒にいてくれる?」
「とんでもねー殺人マシンかもしれないもんな」
冗談めかして言っているが、その性能の高さや見つけた状況などを考えると、割と高い確率で対能力者用の戦闘用アンドロイドの試作品だと思っている。
記憶を取り戻した瞬間に襲い掛かってくる可能性だってある。
「そしたら……シュウを一番最初に殺してあげる」
「もしそうだったらマジにバラしてお喋りお掃除ロボにしてやる」
「うん。お掃除ロボになってシュウの周りをずっと綺麗にするよ」
「…………」
割と和やかな雰囲気の会話の裏にある真意を思うと改めて未来の覚悟が伝わってくるようだ。
未来とここまで来た以上、未来の正体が何であれそれを受け止めて結論を出さなければならない。
過去を捨てるなと言ったのは他でもない自分なのだから、全ての責任は自分にある。
「……? どんどん西へ流されているよ、この船」
「ん、あれ? 変だな。そんな海流があるのかなこの辺」
舵を変に動かしていないのに船が抗いがたい力で意図しない方向へと流されていく。
もうそう遠くないのに、と焦っていると未来が船室の外へと走った。
「シュウ、あれなに!?」
てっきり海の向こうを指さしているものだと思っていたら、海の中を指さしている。
つまり海中の何かを見ているのだと思い、ここ最近で一番の念動力を使い海を開いていく。
「あん? ん!? なんだありゃ?」
海底で見たこともない巨大な機械が動いていた。
海の上では分からなかったが、この漁船よりも巨大な機械がいくつも連なって列をなしており、中で何かが回転している怪音を立てている。
現代人の中ではかなり機械に詳しい方だと思うが、何が目的の機械なのかよく分からない。
「……海流を作っているの?」
開いた海の壁の向こうにも延々と機械の列は続いているが、海の壁をよく見るとその機械の動きによって海の流れが強制的に作り出されている。
「この先に行くなってか……」
海の中に通信装置とやらがぽつんと落ちているとは流石に思ってはいなかったが、自然の力を捻じ曲げてまで作った立ち入り禁止区域の中とは。
いよいよ不気味さが肌から感じられるようになってきた。破壊したらいきなりミサイルが飛んできてもおかしくない。
海を元に戻して漁船を宙に浮かべる。数億トンはあるであろう海水に比べればずいぶんと軽いもので、30秒ほど空中を進めるだけで不気味な海流を超えることが出来た。
「もうあと1kmもない」
「でも霧のせいで何も……――――!」
人工的に生み出された海流に囲われ、100m先も見えないような濃霧に閉じ込められ、その巨大な影は見えてきた。
「島……?」
大きさにして78,000平米、日本地図に存在しない無人島が静かに佇んでいた。
警告を無視して進んできてしまった侵入者をいっそ歓迎するかのように急に霧が晴れ始めた。
何かが待っている――――極めて鋭い終の勘が最大級の警報を鳴らしていた。