さよなかの猫   作:織々々

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10 彼は誰の夢1

 錬金術士は施術、占星術、天文学の素養も必須であり、メルトがなんらかの術に精通していることは一目見て理解できる。そのメルトが師匠と呼ぶからには、それなりの人物なのだろうということも。

 突然の誘いではあったが、論理を詰めていく性分だからこそ不可思議な縁も切り捨てるものではないという段階まで到達しているふたりは、彼の案内に素直に従った。

 マクウェルが買い取った魂玉石(こんぎょくせき)を手に。

 案内されたのは、見た目には特に変哲のない、周りと同じような木造の民家。至るところに玉や薬草、紋様によって呪詛返しのまじないが施されていることを除けば、いたって普通の家だった。

 メルトに続いて室内へ入ると、青いローブを纏った老婆がロッキングチェアに腰掛け、分厚いメガネをかけて手元で作業をしていた。刺繍だと気付く頃には老婆はその手を休め、眉間のシワを更に深く刻むと、来客にジロリと視線をよこした。

 

「アンタがミスティ・リーアだね。ああ、本当にそっくりだよ、嫌になっちまうね……そっちは……誰だい?」

 

 少々しわがれながらも、衰えてはいないはっきりとした声が通る。声音は嫌みっぽく、人生の苦労を感じさせる。

 

「マクウェル・クラークス。あなたは?」

「クラークス! グラナのおぼっちゃまかい。ミスティってヤツは本当にうまくやるもんだね」

「……あなた、ミスティをご存知なの?」

「ああ、初代に会ったことがある。そのせいで面倒なことを頼まれちまったよ、まったく」

 

 老婆は大ぶりな杖をついて億劫そうに立ち上がり、二人の前までのっそりと歩む。その目はミスティが後生大事に持つ木の箱に迷いなく向けられた。

 

「その石の使い方。知ってんのかい?」

「……」

「錬金術士のことだ、どうせ人体錬成の素材にしようとでもしてんだろう」

 

 あまりにも直接的な言い方に、思わず耳がどこかにないか周りを探ってしまう。錬金術のれの字も知らぬ亜人ばかりと油断したことが破滅につながってしまえば洒落にならない。

 だがこの家は妙に静かで、外の音が聞こえない。そよぐ風に草木がこすれる音も、退廃の街が沈む水が流れる音も、なにも。こちらがわの音も、外には聞こえないようになっているのだろうか。

 

「娘に会いたいんだろう。アタシのやり方でよけりゃ、対価さえ払えば会わせてやるよ。少なくともお前さんのやり方よりは早くね」

「会う……、会え、るの……あの子に……」

 

 不安げに魂玉石(こんぎょくせき)の入った木箱を抱きしめるミスティを、老婆は遠慮なく睨みつける。

 

「此岸と彼岸を繋ぐは夢。夢のなかでならあんたと娘を会わせてやれる。その石がありゃあ、術の精度も上がる」

「貴女……、死霊術師(ネクロマンサー)なの?」

 

 老婆はだからなんだと言わんばかりにフン、と鼻を鳴らした。

死霊術師(ネクロマンサー)。類似する術を使う魔物もいることから忌み嫌われることもあるその特殊技能は、あまりにも狭い世界でしか身につけることができない。術として成立させられる実力を持つ者は、おそらく錬金術士よりも圧倒的に少ない。

 

「三つの月が同時に新月になるまで九日……まぁ、魂玉石(こんぎょくせき)があれば間に合うだろう。これを逃せば三ヶ月後だ。おまえさん、運が良いよ。条件が整ってる」

 

 この世の全てを知るさだめを選ぶ錬金術士たる者、死霊術(ネクロマンシー)の素養も求められる。しかしはるか昔ならいざ知らず、現在の錬金術界隈においては死霊術(ネクロマンシー)の技術的な習得は優先度が低く、机上の勉学に留めているものが多い。ミスティとマクウェルもそうだった。

 死者を操ることが果ての奥義ならば、夢を操り、死した魂との再会を果たすは中級程度の術とされる。とはいえ術として成立させるには、術をかけられる者の全面的な協力と忍耐が必要になる。

 

「アタシのやり方は別にその石を消耗しない。媒介にするだけだ。禁術使うよりも先に、アタシのやり方を試しても損はないだろう」

「……どうしてあったことのない私に、そこまでしてくれるんですか?」

「言っただろ、頼まれちまったって。それにタダでとは言ってないよ。対価さえ払えば、の話だ」

 

 ミスティはどこか夢見心地に、ぼんやりしたまま鞄の中から札束を取り出した。魂玉石(こんぎょくせき)の前金として使うはずだったそれをそのまま、はじめて会った老婆に託す。

 まるでなにかに導かれているように。

 

 

 

 

 

 

 黒い獅子に四肢を噛み砕かれ、腹を引き裂かれ、内臓をすすられる。

 痛い。けれど、本当にそうされたら狂うほどの痛みだろうに、ミスティはただただ痛いという概念だけを感じ取っていた。痛い。痛い、辛い、悲しい、痛い。

 肉と内臓を喰い尽くされて骨と皮膚、ざんばらの髪の毛だけになったミスティは、ゴミとして掃き捨てられた。不思議と意識は続いていて、このまま土に還るのを待つばかりかと微生物の分解を待つと、その身はいつしか小さな人形と化していた。

 銀色の髪、青緑の眼、度を越した知的好奇心。そのヒトカタは延々と降り積もる雪に埋もれていく。

 鉄の味がして、幼い声が聞こえる。

 

「エリーはどうして、生まれてきたの?」

 

 

 

「……ッ!!」

 

 目を覚まして目を見開いても、そこは暗闇。何も見えないその場所で、ミスティは乱れた呼吸を必死に整えた。

 喉がひりつく。嫌な汗を全身にかいている。水を飲まなければ。

 

「……ミスティさん、大丈夫ですか」

 

 ミスティの荒い息で起こしてしまったのだろう、目覚めたマクウェルがすぐに状況を把握し、ミスティを抱き寄せた。頭をゆっくりなでられ、ミスティは目を閉じた。ここでは目なんか閉じても開いても、たいして変わりはないけれど。

 

「……よくはないわね」

 

 素直に弱音をはくと頬と頬が合わせられ、額、鼻、そして唇。ふれるだけのキスをしてから、マクウェルは体を起こして水差しとグラスを手探りで手に取ると、水をグラスへそそぎ、ミスティの手を探りあててからその手に握らせた。

 太陽の光が届かない暗闇のなかで、三つの月が新月になるときを待つ。

 目に見えぬ世界の理を描いた魔法陣のうえで豆のスープだけを飲み、闇のなかで禊ぎをする。生と俗から遠ざかり、幽玄なる死に自らを近づける。

 そして夢のなかで冥府と繋がる。

 簡単に言えば、それが儀式の内容だった。

 

「本当に、あなたまですることはなかったのに」

 

 簡素な寝台に寝そべり、手と手をあわせ、にぎり、なで、互いの指をからませる。陰のわずかな光しか許されない闇のなか、月の光だけを集めたライトストーンがおぼろげに互いの姿を浮かび上がらせる。

 マクウェルはミスティの手を自分の口元に寄せ、手の甲にくちづける。それはまるで猫を愛でるような、ただいとしさで触れたいだけのしぐさのようで。ミスティはそのやわらかなぬくもりを、視界情報と引き換えに敏感になった触覚で感じとる。

 

「言ったでしょう。一蓮托生だと」

「……」

 

 このひと、もしかして人体錬成を諦めさせるためにこうまでしてくれているのではないか、とミスティは考えた。こんなに罪悪感をわかせる術、他に思いつかない。レシピのすべてを知るわけではないのに。彼ほど賢いひとなら、推察していてもおかしくはないけれど。

 

「それに、死霊術(ネクロマンシー)を体験するなんてめったにできることではないでしょう。興味がわくのも当然ではないですか?」

 

 渇きと潤いを繋ぐ回廊。灼熱のモーゼル砂丘と水没都市サーフェリオをつなぐ洞窟で、モグラを先祖に持つサンドモール族が住処として掘った地下室のひとつである。

 陰のわずかな光しかゆるされない状況で、月の光だけを記憶させたライトストーンの淡い灯りで持ち込んだ本を読むのは目が疲れる。普段であれば二人とも本も論文もいくらでも読めるのだが、目を守るためにも今は時間を決めて制限をかけることにした。

 朝から夜までライトストーンをつけておき、時間感覚だけは保つ。目を使う読書は二時間まで。あとの長い長い時間は、二人で話をしたり、ストレッチなど軽い体操をしたり、糸紡ぎなど視界が悪くてもできる内職をして過ごした。

 

 気が狂いそうになる、まるで永遠に続くような闇のなかで過ごすのに、互いのぬくもりで正気を保つ。空気は循環しているが、暗い空間は狭く感じ、長くいると息苦しさと圧迫感を覚える。

 最初の一日を終えただけで独特の疲労を感じ、眠りにつくと二人とも不吉な夢を見た。その疲労と夢のあやしさは日を重ねるほどに増し、お互いがいなければ耐えれたか分からない。

 悪夢を見るのはおそらく非日常の環境におけるストレスと、豆の興奮作用によるものだろうとふたりは知識を持ち寄った。

 錬金術士がふたりいれば話題には事欠かない。明暗順応のしくみ、種族によるストレス耐性の差異、洞窟の種類や生成過程動植物の生態、月にまつわる神話や伝承、各種動植物の経口摂取による効能、死霊術(ネクロマンシー)のレシピ。本を読みあうように語らい続け、闇のなかで衰える体をはげましあう。

 体に負荷をかけ、自らの精気を死の概念に近付け、夢を操り死者とリンクさせる。机上のレシピとして知ってはいたがこれほどまでに消耗するとは、実行しなければ分からなかったことだ。なによりも気力が衰え、お互いベッドに横になる時間が増えた。

 

 死霊術(ネクロマンシー)が忌み嫌われることもあるのは、死という負のイメージもあるが、術者に相当の教養と技量が求められることに加えて、術をかけられる者の全面的な協力と忍耐が必要になる故だ。

 今回は魂玉石(こんぎょくせき)があるから九日ですむが、本来闇の禊ぎは倍以上はしなければならない。それに耐えられる者は少なく、術として成立しない事例が増えるごとに死霊術(ネクロマンシー)そのものへの疑念がうまれ、広がり、詐欺師だ魔女だと蔑まれ、死霊術師(ネクロマンサー)は表に出てこなくなった。そしてごく狭い世界で細々と継承されていっている。

 錬金術も似たようなことはある。大掛かりな術になるほど超えるべきハードルが高くなり、レシピは正しくとも術として成立しない事例が出ることもある。錬金術ならば術師の未熟で片付くが、死霊術(ネクロマンシー)は術師だけでは成立しない術が多く、専門外の人間による風評被害が起こりやすい。

 

 死霊術師(ネクロマンサー)の老婆はルイドと名乗った。ミスティが初対面のルイドを信じたのは彼女の装いや言動、住まいの様子から正式な術師だと判断できたのと、調合師や天文学者としての彼女の論文を読んだ記憶があるからだ。彼女はペターニを拠点とするクリエイターギルドの知事を務めていたこともある。腕は確かだろう。

 ミスティが出した札束を前金にしては多すぎる、成功したら残りをよこせ、と口は悪いが妥当な対応をしたことからも信用できるだろう。更にマクウェルが魂玉石(こんぎょくせき)を購入した時のつりを渡して自分もやりたいと言い出したときは色々と嫌味を言われたが、絶対にセックスはするなと真剣に言い含められた時はさすがに驚いた。

 

「……すみません、これやめましょう」

 

 マクウェルがからめていた手を名残惜しそうにはなす。

 

「……我慢できなくなりそうだ」

 

 極限の状態になれば生存本能が呼び覚まされ欲求不満になるだろうが、性交も自慰もしてはならない。なぜならそれは、生に溢れた行為だから。死に自らを近づけるための闇の禊ぎが無為に帰すがゆえに。

 

「……マクウェルくん、私、眠い……」

「……」

 

 キスとハグはしても構わないとも言われた。体を寄せあい、ミスティは目を閉じてマクウェルの鼓動に耳をかたむけ、マクウェルはミスティの頭をゆったり撫でる。

 触覚の敏感な手と手で睦みあうのは欲情に直結するが、ぬくもりを分けあうように抱きしめてしまえば、おだやかないとしさが勝る。

 

「あと数時間で新月の夜ですね。ようやく娘さんに……」

 

 ほの暗い灯りでかろうじて読める懐中時計をマクウェルが確認すると、シャツをにぎりしめられたことに気付く。

 

「……マクウェルくん、わたしね」

 

 赦しをこう子どものように。神父へ懺悔をする信徒のように。

 

「あの子に会うのが、こわいの……」

 

 弱々しく、本音を吐露する。

 

「……ミスティさん」

 

 なによりも。その一言こそが彼女の心の底からの本音のように思えて。

 こんなにも娘を蘇らすために身も心も捧げて奔走しているのに、その娘に会うのが怖いなんていうことがあるのか。

 

「……私も一緒にいますから」

「……」

 

 返事はなく、抱きすがる力だけが強くなる。そのまま動きが途切れ、耳をすますと規則正しい息が聞こえる。どうやら眠りに落ちたようだ。

 マクウェルも口と目を閉じ、まぶたの裏の暗闇にとけこむように意識を手放した。

 

 

 

 

 闇のあわいにひとすじの糸。

 その糸を撚りあげるが死霊術師(ネクロマンサー)

 魂を繋ぐ理の糸。

 すべては、エリーの為に。

 

 

 

 

 シランド、マクウェル邸の工房。

 

「……、温度、」

 

 まどろみから覚めた途端視界に入ってきたのは、ホムンクルス作成のための炉。

 ホムンクルスを育むために温度を一定値に保たねばならないのに、意識を飛ばしていたなんて。状態を確認しようとフラスコを凝視するが、妙だった。

 コルクの蓋で栓をされたフラスコは、火にくべられてもいなければ、蒸留器に繋がれてもいない。それはたしかに、マクウェルの精液とミスティの血で生まれるホムンクルスがいるはずの、フラスコなのに。

 

(あ……、そうか、夢……)

 

 いるはずのホムンクルスの姿はなく、形をなす前の白い液体もなく、そこにはただ青白く輝く淡い光がある。そのフラスコをミスティは何故だか手に取り、抱きかかえた。

 

 

 シランド、マクウェル邸の書斎。

 

「……、何故これが、ここに」

 

 机の上に置いてあったのは、幼い頃繰り返し読んだ本。

 亡き母の蔵書でありグラナの実家にあるはずのそれが、何故シランドのここにあるのだろう。

 

「……夢だから、か」

 

 懐かしさとともに羊皮紙をめくると、幼いマクウェルの脳天を貫いた衝撃が蘇る。この世に蔓延る謎を解明する。その過程の一旦を、錬金の世界を垣間見せてくれた、マクウェルが錬金術士を志したきっかけになった一冊の本。俗世のわずらわしさを跳ね除けるほどに引き込まれた、人生を変えただろう一冊。

 当然のように懐にかかえると、マクウェルは書斎の扉を開いた。

 

 

「ミスティさん」

「マクウェルくん」

 

 扉の先は廊下ではなく工房で、ミスティがぼんやりとたたずんでいた。

 

「ここ、夢、よね」

「そうです、よね。なんだか不思議な感じですね……夢だとわかるのに、意識はこんなにはっきりしている」

「体験記によると、目的を達するか死霊術師(ネクロマンサー)が操らなければ覚めることはないそうね」

「ええ。娘さんを探しましょう──、あ、お前、なんでここに……、?」

 

 視界によぎったのはたしかに黒猫で、居場所を知らせるようにミャァと鳴くとするりと歩き出す。状況からしてマクウェルの飼い猫の一匹かと思われたが、シルエットがすこし違う気がした。

 

「……ついていきましょう」

 

 軽やかに歩く黒猫のあとをついてゆく。工房を出ると今度は廊下で、マクウェルの工房とつくりは似ていたが、一目見て先が見えないほど長い。壁に飾られている花や絵画は既視感のあるものばかりで、まるでふたりの記憶を覗いて写しとったようだった。

 黒猫の後を追いかけて永遠に続くような廊下を歩く。飾られている花は、シランドで秋に咲く色とりどりの花から、いつしかバールの厳しい地でも咲く香りの強いハーブや高山植物に変わってゆく。絵画は風景画もあれば人物画もあり、マクウェルはひときわ大きい額縁に飾られた、かつてディオンと共に学んだ施術学校での光景に目を奪われそうになったが、とどまっていてはいけない気がしてすぐにミスティに追いついた。

 

 進むにつれ、絵画に赤ん坊やゆりかご、幼児用のおもちゃがモチーフになっていく。あきらかにエリーを連想させるが、しかしどの絵も、エリーの顔は見当たらなかった。

 決定的だったのは、ひときわ大きい額縁で飾られた、宵闇のベールを纏う母と幼い娘の肖像。母はベールで顔が隠れ、娘は──そこに顔があるはずのところが、塗りつぶされているわけでもないのに、描かれていないわけでもないのに、なぜか。なぜか、顔が認識できない。

 その絵を見つけてしまったミスティは、足を止め、唇を噛み締める。マクウェルがその肩を抱くと、廊下の先で黒猫がミャォウと鳴いた。

 誘われるように黒猫のもとへゆくと、顎をしゃくられる。そこには唐突に扉が存在していた。

 

「やっぱり、うちのじゃないな。顔が全然違うし、なにより目の色が違う。綺麗な青だ」

 

 後ろ姿しか見せてこなかった黒猫の顔を確認したマクウェルがそう言うと、黒猫はすましたような得意げな顔をする。猫の世界でもとびきりの美猫としてもてはやされそうな、美しい猫だった。

 

「……この、扉」

 

 黒猫が示した扉を見たミスティは、もともと白い肌をさらに白くして、唇をかみしめた。

 開けたくない。けれど、他の誰でもない、この手で開けなければいけない。これはきっと、そういう扉だ。

 ドアノブに手を添え、呼吸を整えて力をいれる。ギイ、と蝶番が軋む音。あの家と、同じ音。

 

 

 

 アイレの丘の、のどかな街に並ぶ民家のひとつ。

 

「ただいま、ミリアム」

「おかえりなさい、あなた」

 

 かつてミスティが結婚生活を過ごした家で、ありし日のミスティが──ミリアムが、夫を迎える。しあわせだった日々の、過去の記憶。

 

「……あのひと、ミスティさん?」

 

 ベールを纏わず、シンプルなブラウスとスカートを着て長い銀髪をシニョンにしたミリアムは、雰囲気はまったく違うが顔立ちはミスティと同じだ。今のミスティは妖艶を体現しているが、ミリアムは清楚な印象を与える女性だった。

 

「元々の名前、ミリアムとおっしゃるのですね」

 

 ミスティが小さくうなずく。

 錬金術士ミスティ・リーアではなく。ひとりの女であり母であるミリアムとしてエリーと向き合え、と言われている気がした。

 

 

 アーリグリフのバール山脈にある集落で生まれ育ったミリアムは、アイレの丘にあるシーハーツ領の街に嫁いできた。結婚して五年経ってもいっこうに子どもができる気配はなかったが、夫婦の暮らしはおだやかで、ささやかにしあわせに暮らしていた。

 ミリアムは男系社会であるアーリグリフに生まれ、さらには村娘であるにも関わらず、代々続く一族のもたらす知の恩恵を余すことなく享受した。家事労働はすべて雇いの家政婦に任せ、親戚から字を習い史学数学自然哲学を学び、研究を手伝い、自らも実験を重ね、一分野の学者ではなく、総合学問の錬金術士として確立した。

 バール山脈はアーリグリフのなかでも険しい環境であり、文明的に生きてゆくためには知恵と工夫が欠かせなかった。先人たちの知恵と知識、叡智と経験の積み重ねを受け継ぎ、守ってきた一族は、優秀な錬金術士を多く輩出している。ミリアムもそのひとりに数えられ、結婚によってバールを離れても研鑽を止めることはなかった。

 

 ミリアムが嫁いだのは女系社会のシーハーツ領であったこともあり、夫は女性が働くことに理解のあるひとだった。実家と同じように家事労働は家政婦を雇って任せ、ミリアムは錬金術士としての研究を続けてゆく。

 一族の女は、アーリグリフ内で結婚がうまくいかないパターンが少なからずある。はじめは教養豊かな美しい女を気に入った男も、その知識教養が頭抜けているがゆえ必然的に実績を残そうとする女を、いずれ疎む。

 アーリグリフの上流階級の女たちはある程度の教養を求められはしても、男の領分を侵しかねないほどの実力は決して望まれない。そうなってしまえば目立ちたがり、わきまえていない、でしゃばり、しょせんただの無責任なお遊び、あらゆる非難に晒される。

 そうした社会の現実に嫌気がさし、離縁を選び出戻る女がどの世代でも必ずいた。バールの村はアーリグリフでほとんど唯一と言っていい、女が教養を持つことを許される安寧の地だ。

 

 そうした事情を鑑みると、シーハーツの男性と縁のあったミリアムはうまくいくだろうと言われた。実際に暮らしてみてもその通りで、シーハーツ領では女が働くことに偏見はなく、ミリアムは何不自由なく研究に打ち込むことができた。

 あとは子どもができたらというくらいで、幸せな日々を過ごしていた。

 

 その幸せを、戦争が壊していった。

 

 故郷アーリグリフがシーハーツへ宣戦布告。練度も士気も高いアーリグリフ軍は瞬く間に領土を広げてゆき、ミリアムの暮らす町もついに占領された。土地の名前はアイレの丘からカルサア丘陵へと変えられ、あらゆる地図や書籍に墨が入れられた。

 

「アーリグリフの狙いは食糧確保の為の領土拡張、で間違いなさそうだろうか」

 

 街がアーリグリフ領となり進駐軍が役所を占領したその日。夫は仕事から帰ってくるとミリアムと寝室で──家のなかで一番秘密の話がしやすい場所で、今後のことについて話し合った。

 

「ええ、おそらく……今の疾風団長がかなりの野心家らしくて、最終目標をどこに定めているかは分からないけれど……」

「……シランドまで攻め入って、シーハーツという国そのものを滅ぼすこともあり得るのか」

「……」

「……ただ、それなら。アーリグリフもシーハーツの民間人を虐殺しようってことにはならないはずだ。正直、僕に大きなことはできない。けれど君ひとりくらいは守るよ。慎ましく生きて、状況に適応しよう」

「ええ……ほんとうに、ごめんなさい……」

「なに言ってるんだ、君が悪いわけじゃないだろう」

 

 夫は平均値以上の教育を受けた、現実的で柔軟な人だった。国家間の戦争という大きな渦に、一庶民がなにをできるわけでもない。状況に適応し、仕事を続け、家族の生活を守る。いたずらに恐怖をあおるのでなく、悪態をつくのでもなく。目の前のことに柔軟に、適応していく。

 公にはアペリス教・シーハーツがアーリグリフ王の暗殺を目論んだことに対する報復戦争、という体ではあるが、ある程度状況を見通せる者たちにとっては真の狙いが耕作地の確保であることは読めることだった。数年前の冷夏にアーリグリフで大凶作が起きた時、ミリアムの故郷でも、グラナから仕入れている麦や芋が高騰のうえ量が全く手に入らず、家畜を例年より多く潰し、必要最低限の食事しかできない年があった。そうした事態を解消するために耕作地を求め、戦争の準備を進めていたのだろう。

 憎しみによる戦争ではなく、経済的背景による戦争であることが救いだった。必ず被害は出るが、虐殺が目的ではないのなら、非戦闘員の民衆はいわば人的資源であり、むやみに被害を出す対象ではない。逆らわなければ害を与えられることはない、だろう。

 

「ただ……気になるのは、君のことだな」

「私?」

「君はほんとうに美しいから、アーリグリフの軍人に目をつけられやしないか心配だ」

「ちょっと、真面目な話してたんじゃないの」

「大真面目だよ。ほんとうに。彼ら、ゾッとするほど規律正しいし、徴収はしても無作法な略奪はしてないみたいだし、女性に乱暴なこともしてないみたいだけど。それが逆に怖いんだ」

 

 総攻撃指揮官である漆黒団長アルベル・ノックスは妙に硬派なところがあるようで、指揮下の兵が占領地の非戦闘員に横暴な行動に出ると自ら罰を与えるらしい。それどころか、団長自ら最前線で刀を振るっているという信じられない噂も流れているが、さすがにそれは士気高揚のためのブラフだろう。指揮官が指揮も執らずに自らを危険に晒すなどありえない。

 それは別としても、士気高揚のためなのかアーリグリフ軍は軍人にすべからく騎士の称号を与え、騎士としてのふるまいを求めているという。実際に彼らは戦争法のルールを逸脱するような行動をとっていないらしい。

 戦争につきものの略奪と強姦が起きる様子はなく、徴収の形を崩すことなく資源を集め、娼館と契約を交わし平時以上の報酬を渡す。最下層から徴兵したのだろう荒れくれ者が粗相をしたら公然と罰を与え詫びをいれて事を収める。

 宣戦布告の大義の真偽は定かでなくとも、表向きは戦争法の解釈内のことしかしていないアーリグリフ軍は、シーハーツ側にとっては非常にやりにくい相手だろう。これでアーリグリフの統治に不満がなければ、住民に反旗の意思はなくなり協力を得にくくなる。庶民にとっては、上が変わるだけの話だけでしかなくなる。

 

「いくら規律正しくても、命懸けの極限状態で戦う軍人が、心の傷を負わないわけないだろう。何かあっても、おかしくはないと思うから……」

 

 占領軍が規律正しいのは非戦闘員にとっては良いことではあるが、戦時に略奪と強姦が起きるのはそれなりの経緯がある。戦場での過大なストレス。その発散のためのはけ口が用意されているとはいえ、その規律が何かの拍子で緩めばより一層悲惨なことになるのではないか、というおぞましさすら感じる。

 

「一人では出歩かないようにね。お店に品物を卸したり郵便局に行くときも、少なくともお手伝いさんと一緒に行くようにして欲しい」

「分かったわ」

 

 気丈に答えるミリアムを夫が不安げに抱き寄せる。

 

「ああ、ほんとうに心配だ……僕がつきっきりで一緒にいられればいいんだけど」

「その気持ちだけで十分よ。気をつけるわ」

 

 いとおしげに笑いあい、どちらからともなく唇をかさねる。そしてそのまま手をまさぐらせ、互いの服をほどいていく。不安をまぎらわすため、ぬくもりを求めあう。

 

 

「……娘さんに会えるとのことですが、何故一切娘さんが出てこない記憶が出てくるんでしょうか」

 

 過去のこととはいえ、目の前で好いた女が他の男と睦んでいる様子を見せつけられるのはいい気分ではない。朴念仁であるマクウェルの表情はあまり変わらないが、纏う空気に不機嫌さがにじみ出ているのをミスティは容易に察した。本当に、一見すましているように見えてこの上なくわかりやすい男だ。

 そこがかわいくて、……愛おしいのだけれど、

 今は、吐き気を抑えるのに精一杯で。ベールの内側で、痛いほどに自分を抱きしめる。

 

「……、あの子が……生まれる経緯から、なぞらないと……会うことが許されないのでしょうね」

 

 私の罪を、突きつけられなければ。

 

「ミスティさん、顔が真っ青ですが大丈夫ですか」

 

 ベールの下でもわかるくらいの顔色の悪さに、マクウェルがそっと肩に触れようとする。しかしミスティは一歩下がり、ぬくもりから逃れる。

 

「お願い、私に触らないで」

 

 声がふるえる。うまく息ができない。夢のなかなのに、ままならない。夢のなかだからこそなのかもしれない。こころがあらわになるから。

 

「あなたの優しさに、甘えたくない……甘えちゃいけない……」

 

 自分が罪深い人間なのだと、知っている。きっとそれをこれから、このひとにも知られてしまう。一番知られたくないひとに。

 これは罰なのだろうか。このやさしいひとを利用して、罪人には不相応なぬくもりを求めてしまったことへの。

 

「お願い、約束して。私がいいって言うまで、私にさわらないで……」

「それは、そうですけど……」

「……お願い」

「……わかりました」

 

 こんな女を抱いてしまったと、後悔されたら。……その痛みも抱えてゆかなければならない。

 

 

 

 

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