「この薬は、あなたが作っているのですか?」
アーリグリフ兵にそう尋ねられたのは、いつも商品を卸しにいっている店でのことだった。
「ええ、そうですけれど……」
「そうなんですね。いやぁ、あなたの薬、とても質が良いと評判でして。私も何度か助けられましたよ」
戦争が始まってからというものの、傷薬や強心剤、鎮痛剤や鎮静剤などの需要が増え、研究畑にいるミリアムにも製剤の依頼が増えた。
錬金術士たる者、調合は当然高いレベルで備えている技術である。ミリアムの作る薬は良質な精製品であり汎用品より価格も上がるが、命に関わるゆえか飛ぶように売れているとは聞いていた。実際、注文が途絶えない。
納品を終えて道路に出ると声をかけてきた兵がまだそこにいて、目が合う。自分のことを待っていたのだと察したミリアムは、夫の言葉を思い出して内心身構えた。
「すみません、待ち伏せみたいな真似をしてしまって。店のなかでは少々言いづらくて」
警戒されていることを察しているのか、兵はやや距離を取りながら話しかける。礼節のある人のようだったので、ミリアムはひとまず話を聞こうと足を止めた。
「差し支えなければなのですが、軍と直接取引はできませんか?」
「直接……」
「正直、仕入れ価格を抑えることができたらこちらも嬉しいですし、常にまとまった注文をできるのでそちらにも不利益はないかとは思います。ただ、店との兼ね合いなどもあると思いますので、できる範囲でお願いできれば助かるなという話でして」
兵の言う通り、店との兼ね合いというものがある。店にとっても売れ筋の商品は並べておきたいだろう。それをいきなり別口で美味しい受注が来た、手が回らないからと一気に引いてしまえば、信頼関係が崩れる。
だが、いずれ戦争はどのような結果になっても終わるはずで、これはいっときの特需だ。通年頼る収入ではない。そうした点からしてみれば、ある程度の調整は受け入れてくれるだろう。
この先この街でうまく立ち回るためにも、軍と商売をしてパイプを作っておくのも悪くはない。何かあったとき、こちらの意見を通すのならばパイプを培っておく必要がある。
後日、ミリアムは了承の返事を出した。
素材さえ仕入れてしまえば薬品の増産はそう手間はかからない。家政婦を伴い、軍が駐屯している屋敷へと赴くようになったミリアムは、夫が懸念した通り非常によく目立った。軍属の女給などはいるようだが、男ばかりの環境であるうえ、人並みはずれた美貌を持つミリアムは必然と視線を集める。
居心地は良くないが長居をするわけでもなかったし、噂通り兵たちは意外と礼儀正しく、妙に積極的に挨拶をしてくること以外は特に気になることもなかった。家政婦と女ふたり、いざという時はどうしようもないが、たしかにそういうことをするような人たちではなさそうだ。
そもそもミリアムはアーリグリフの出身であり、実家は軍との繋がりがある。実家を頼れなくなると軍は不要な労力をさくはめになるから、揉めたくはないはずだ。そうした背景もあり、夫も軍との商売を渋々承諾してくれた。
身の安全のために早い段階でそのことを話すと、その話はあっという間に広まった。最近出入りしている美しい女性はバールの、あの錬金術士一族の出身だったと。
特にアーリグリフ軍で実質的な最高権力を持つ疾風兵が一目置いた扱いをするため、粗野な一般兵にまでも「あの女錬金術士とは揉めるな」と噂が広まったらしく、不快な思いは今のところさせられていない。
「失礼。バール出身の錬金術士は、あなたのことですか」
そう声をかけられたのは、軍への納品も慣れてきた頃だった。マントや勲章からして上級士官である漆黒兵が、どこか切実な様子でミリアムを見据える。
「ええ、そう、ですけど……」
「やはりそうなんですね、ミリアム……私のことを覚えていますか」
兜をぬぐと、金色の髪と碧い瞳があらわになる。真剣なまなざしで見据えてくる彼の様子に、記憶をさぐる。彼の口ぶりからして、バールで会ったことがある可能性が高い。
「もしかして、焔の継承の時の? ……あっ、あなた……!」
ミリアムが思い出すと、男は安堵したように微笑んだ。
バール山脈にある村は、ミスティの系譜を継ぐ錬金術士の一族が治めている。バールやウルザへ焔の継承に挑むアーリグリフ兵たちは、その村へ泊まり準備を行う。村には宿が無いため、宿泊は一族の屋敷を使っている。
ミリアムも何度かもてなしたことがあるが少女の頃に、年の近い金髪碧眼の、士官候補生の新兵と交流した記憶がある。
「すごくたくましくなってたから、気付かなかったわ……そう、公爵閣下の護衛で来てたわよね」
「ええ。あなたは、私に屋敷や村を案内して、指輪をくれた」
経験を積ませるために護衛の一人として来たのだと言う彼に、ミリアムは水のホムンクルスを封じたアクアマリンの指輪を護符としてプレゼントした。いざとなったら、助けてもらえるようにと。
「ええ、その時は使わずに済んだって言ってたわよね」
「はい。だからずっと、つけてるんです」
「今も?」
男は微笑むと、手袋をはずしてミリアムへと見せる。かつては人差し指がちょうどよかったあの指輪は、今は小指に収まっている。軍人として鍛え上げてきたのだろう、改めて見ると、線の細い少年から体躯の立派な青年へとすっかり成長していた。大剣をふるう漆黒兵は軍のなかでも体躯がいい者が多い。
「……まだ使ってないのね」
「わかりますか」
「ええ。まだいるもの」
ミリアムが目をこらすと、ホムンクルスの加護はいまだに宿っていることがわかった。彼は施術の素養が低いらしく、どんなに目を凝らしてもよくわからない、と言っていた。
「あなた自身の力で、ずっとやってきたのね」
「いえ。このお守りのおかげです。どんなに辛くても苦しくても、心の支えにしてなんとか乗り越えてきました」
祖国が戦争を起こしたことに対しては複雑な気持ちだったが、あの日の少年が立派に成長したことは純粋に喜ばしい。だが、彼の言葉やまなざしに、察してしまった。
「ミリアム……待っていてはくれなかったのですね」
「……ごめんなさい」
この人は、私のことを今でも好きだったのだと。
「……あのあと、私は三軍に上がるための訓練に明け暮れた。立派な軍人になったら迎えに行こうと心に決めて。次にバールに行った時、あなたはもういなかった」
公爵が無事にエアードラゴンと契約し、護衛の兵たちが下山するとき。彼はミリアムに、いつか迎えに行くと言い残していった。それから数年後、ミリアムは夫と縁ができ、あっという間に婚約が決まった。
「私……もう、忘れられたのかなって思って……他にいいひとがいたのかなって……」
「……まめに手紙を送らなかった私が悪かったのですね。どうしてもあなたを忘れられなくて、いまだに独り身です」
なんと言ったらいいのかわからず、ミリアムは手を握りしめる。
バールにいた頃ミリアムは色恋に耽ることなく、ひたすら錬金術の研究に没頭していた。偶然夫と出逢い恋に落ち国を超えて嫁いだが、夫との出逢いさえなければそのままバールで暮らし、そして彼の求婚を受けていただろう。
もしかしたら。人生がまったく違っていたかもしれない。
「……あなたは今、幸せですか」
悲しげに微笑む彼の問いに、ためらいながらもうなずく。夫との暮らしに何も不満はない。愛した人と一緒にいられて、私は。
「……ならよかった」
「……ごめんなさい」
この人の想いを不意にしてしまった罪悪感を、かかえて生きてゆくしかない。
「ご主人様、あの人、昔の恋人とか……ですか?」
家まで戻る途中、目を輝かせた家政婦の娘にたずねられ、ミリアムは複雑な顔をした。この娘の年の頃、彼と過ごしたわずかなひとときを思い出す。
「そう言っていいのかわからないけど……、……ファーストキスの相手ではあるわね」
「わぁ~!」
彼に自分が勉強していることを説明すれば興味深そうに聴いてくれた。ミリアムは彼から村の外の話をたくさん聴いた。外の人は新鮮で、彼が礼儀正しく、思春期だったことも相まって、とてもかっこよく見えた。今でもそうだとは思うけれど。
無事にドラゴンの巣窟から戻ってきたとき、ふたりだけの時間を過ごした。手をつないで、抱きしめられ、はじめてのキスをした。たったそれだけだったけれど、たしかにあのとき恋をした。
「夫には黙っておいてちょうだい。変な誤解があっても困るわ」
「かしこまりました!」
このことは夫には黙っておくことにして、その場にいた家政婦にも口止めをしておいた。余計なさざなみをたてる必要はないのだから。
彼には悪いことをしたが、運が悪かったとしか言いようがない。アーリグリフの三軍、かつ上級士官であれば縁談など山のように入ってくるだろう。それも、生まれに頼らず実力で登り詰めた人材だ。いつかミリアムを忘れるくらいいい人と、きっと出逢える。
「どうしたの?」
眠る前、夫婦並んでベッドの上で本を読むのが日課だった。しかし今日は本にまったく集中できず、夫の顔をじっと見つめた。黒い髪、茶色いひとみ。おだやかで優しい、愛しいひと。
「……あなたと逢えてよかったな、って思って」
「ふふ、僕の方こそ。あの時カルサアに行って、君と出逢えて、本当に……運が良かった」
ミスティ・リーアが学会に出席するためカルサアに出向いた時、ミリアムは後学のために付き添い、街の図書館で読書と資料収集に耽る日々を送った。その時に仕事の関係でカルサアに滞在していた夫と出逢い、意気投合し、その後とんとん拍子に婚約が決まった。
その時、金髪碧眼の彼のことを思い出さなかったわけではない。ただ、ずっと手紙が途絶えていたから、自分のことなど忘れて、都会で垢抜けた女性を見染めたのだろうかと考えることもあった。平民出である彼が士官となるには過酷な訓練を課されるため、手紙など書いている暇も無かったのだろうと今ならわかる。
だが、かつて会ったきり音信の途絶えた彼と、結婚適齢期に差し掛かったときに運命的な出逢いをした夫。あの時の選択はそれしかなかったし、今でも後悔はない。
もし彼との文通が続いていたら、何か違っていただろうか。夫と出逢っても、心を動かされなかっただろうか。愛を育むことが、できたのだろうか。
「……」
目の前で呼び覚まされ再生される光景に、マクウェルは嫌な予感がした。
何故、娘に会うための夢で、こんな場面が出てくるのか。
何故、このひとは愛し合っていた夫と離婚したのか。
何故、戦争を起こした祖国に対して、時折背筋が凍るように冷たい、批判的な空気を出すことがあったのか。
何故、触らないでと約束させたのか。
過去をなぞるミスティの表情は、ベールに隠れて見えなかった。
アーリグリフ軍はカルサアを主要な駐屯地としているが、前線を押し上げていくために占領した町にも駐在し、攻撃の拠点とする。軍が再度大きな侵攻を仕掛けるとき、ミリアムの暮らす街は後方基地としての役割をもたらされた。
物々しい空気に、従来の住人たちの間には陰鬱な雰囲気が広がる。戦争特需にあやかることができる業種の住民はともかくとして、敬虔なアペリス教徒にとっては改宗を余儀なくされ、信仰の自由を奪われているのだ。そして拠点とされた街は経済的資源として、結果的にアペリス教をおびやかすことに間接的に加担している。どうしても現状に耐えられない者は、未だ無事なアリアスへと亡命を図る者もいる。だが大半の住民は、生まれ育った街から出ようとはしない。
ミリアムが予想していた通り、いくらアーリグリフ軍が羽振りが良くとも、住民にとって看過できない、都合のつかないことも増えてきた。個人レベルである程度融通の聞きそうなことなら、ミリアムは住人の意見を吸い上げ、納品の際に顔見知りとなった兵や軍属に意見を伝えるようになった。そのすべてが叶えられるわけではなかったが、妥協点を探る努力はしてもらえているようで、正式な御触書として布告される頃には調整されている様子も見受けられた。
そうしていくことで、住人たちとの関係も良好に保つことができた。敬虔なアペリス教徒からは占領軍と商売をするなんて、と信じられないものを見る目で見られることもあったが、現実的に彼らと渡りあって妥協点を探らなければ、一方的に軍の言い分を押し付けられるだけになる。
神秘的な印象を抱かれやすい錬金術士は、空想や妄想のなかに生きているわけではない。理想を夢見て現実を直視せず、恐怖に怯え目を曇らせては真理を手に入れることはできない。
ただそこにある現実を知るだけで、どうすればいいのか見えてくる。それだけのことだ。
錬金術士である以上、頭脳労働では一線を画している自負がある。これは自分の役目だと、ミリアムは考えていた。
そうしてなんとかやって行けそうだ、と思っていた頃だった。あの漆黒の上級士官が、部下をかばって戦線離脱するほどの怪我をしたと聞いたのは。
「あなた、大怪我をしたって聞いたけど……命に別状はないみたいね。よかったわ」
いつも通り納品をしたあと、普段入らない居住エリアの部屋をたずねると、彼がベッドのなかで事務仕事をしていた。以前会ったときより短く刈られた金いろの髪が窓からはいる日差しに照らされ、あわく輝く。だが顔色はあまりよくない。疲れた様子で、男は無理やり笑顔を作ったように見えた。
「仕事して大丈夫なの?」
「止められてはいるんですが、何かしていないと落ち着かなくて……」
お見舞いの果物をサイドテーブルに置くと窓際の椅子をすすめられ、ベッドをまわりこんで腰かける。さわやかなそよ風と日差しが心地よい、良い席だった。
納品にもずいぶん慣れてきて顔見知りも増えたので、家政婦には家事仕事に専念してもらうようになり、ミリアムはひとりで赴くことが増えていた。元とはいえシーハーツ領では、女性が一人で街を出歩くことは珍しいことではない。軍に占領されてもなお自由に歩き回れるこの街を、ミリアムは気に入っていた。
「怪我、大丈夫なの?」
「ええ。施術使いにやられてしばらく体を満足に動かせなかったんですが……正直、もうほとんど回復してるので、早く復帰したいですね」
「……風雷の術かしら」
「よくわかりますね」
「髪の毛、短くなってるから。それに痕が特徴的だし」
小手を通して雷撃をくらったのだろう、直撃した腕のあたりに枝葉が広がるような痕が残っている。髪の毛は焦げて切るしかなくなったのだろう、ずいぶんと短く刈られ、さっぱりしている。
療養衣からじかにのぞく腕も首も、鍛えあげられた筋肉がたくましくふくらんでいる。至るところに細かい傷あとが残っており、手は剣だこだらけ。軍人として叩き上げられてきた証が刻まれた体は、かつてバールで出逢った頃とはすっかり変わっていた。
特に鍛えてはいない夫とはまったく違う体だ、と思った。
「……あら、指輪。使ったの?」
「ほんとうに、よくわかる……」
あいかわらず小指にはめられたアクアマリンの指輪。雷撃の影響なのかひび割れが入っているが、それ以上にホムンクルスの気配がなくなっており、目を凝らすと施力がだいぶ薄くなっていた。あらゆる物質が生来持つ微少な施力は、それこそシーハーツの王族クラスにならないとはっきり見えないと言われるが、その程度に落ちている。
「部下をかばったって聞いたけど」
「ええ……手が届いたので。思わず……あなたの力に頼りました。こちらが施術を使ったことに向こうはかなり驚いてましたが」
施術を使えるということはシーハーツの持つ絶対的なアドバンテージであり、そのおかげで圧倒的な制空権を持つ疾風を有するアーリグリフ軍に対抗できている。それがアーリグリフ軍に施術使いがいるとなると、シーハーツにとっては青天の霹靂だっただろう。
そのせいで彼が執拗に狙われたのも大怪我をした理由だったのだが、男はそんなことを伝えるようなことはしなかった。使うと決めたのは自分自身なのだから。
そんなことよりも。怪我をしたことよりも、何よりも。指輪の力を使ってしまったことが。
「……もう、私とあなたをつなぐものは無くなってしまったと……思うと、私は……」
表情が陰る。ミリアムは、新しく作ろうかと言いかけて口をつぐんだ。自分は彼を選べない。すでに結婚して、夫と共に生きていくと決めた。それなのに、いまだに心を寄せてくれるこの人に、思わせぶりなことをしてはいけない。
指輪が力を失った、このことをきっかけに気持ちに区切りをつけてくれたらいい。そうして諦められれば、他にも素敵な女性がいると気付けるだろうから。
──そんな呑気なことを、よくも考えていたものだ。
「え、」
手をとられたと思ったら信じられないほど強い力であっというまに引き寄せられ、いつの間にか腕のなかに。熱い。体温が、鼓動が、息遣いが、つたわるほどに。近く。
「すみません。すみません……」
痛いほどに抱きしめられ、突然のことに声が出ない。この時はじめて、ミリアムが考えていたより彼が精神的にダメージを負っていたことに気付いた。
──いくら規律正しくても、命懸けの極限状態で戦う軍人が、心の傷を負わないわけないだろう。何かあっても、おかしくはないと思うから……──
夫の言うとおりだ。傍目から見たら健康そうに見えても。心の傷は。外から見えるわけが、ないのに。
ここで拒絶したら更に傷つくだろうと、そうしたらこの人が近いうちに死んでしまうような気がして。彼を追い詰めてしまった理由が自分にもあるという罪悪感もあって。何も言えないままミリアムは彼の抱擁をただただ黙って受け入れた。腕を背に回すことはできないけれど。気持ちに区切りをつけることができるなら、これくらいは。
その考えが甘すぎることに気付かなかったのは、頭が回ってなかっただからだと。すべてが終わってから、理解した。
「んっ、……」
抱きしめる力がゆるんだかと思うと、唇をふさがれ。これ以上はダメだと顔を固定する手をはがそうとしても、岩のように動かない。息が止まりそうで我慢しきれず口をひらくと、厚い舌が口腔をなぶる。まるで出逢ってからの数年分を取り戻すように、長く、深く。
「ッ、め、て、やめて、これ以上は、だめ、」
夫を裏切ることになる。そんなこと、できるわけがない。それなのに、男はミリアムの拒絶に耳を貸さず手と腰を掴み、首筋に舌を這わせる。
かろうじて自由な方の手で離れようと体を押すと、腰を引かれてベッドのなかに引きずりこまれ、上にのしかかられる。逃げようとしても、太ももの上に体重をかけられて動けない。正直言って、何が起こったのか、現実感がなかった。だってまさか、礼儀正しいひとで、今幸せなら良かったと、言ってくれた、のに。
動揺する間にも彼の動きは止まらず、ブラウスのボタンに手をかけられる。肌が晒される感覚に我に帰り腕を掴んだが、鍛え抜いた腕はまったく意に介さない。信じられない、この人、最後まで。するつもりで。
「やめて、こんな、ダメ、いや、やめて!」
はっきりと拒絶を言葉にしても、手が止まることはなかった。あらわになった肌をもみしだかれ、口を吸われる。
言葉にしても伝わらない。腕力では決して叶わない。鍛え上げた彼の体は、ミリアムが暴れてもびくともしない。
「お願い、やめて、こんなことしたって私、あなたを選べない」
「……ずっとずっと、あなたを迎えに行くことを目標にして、血反吐を吐くような訓練に耐えてきたんです。戦場に出るようになってからは紙一重で死を回避したことも、何度もある。死ぬなら死ぬで、それが自分の運命なのだと思っていました。ただ、あなたのことだけは、諦められそうに、ない」
指を絡められ、男の指が指輪をたしかめるようになぞる。夫とのペアリングと、シェルサファイアの指輪。
「……あなたになら殺されても、私は……」
この宝石にもホムンクルスが宿っているのだろうと察した男が、背筋が凍るほど穏やかに笑う。
ミリアムの人差し指にはめられたシェルサファイアの指輪は、先々代のミスティに『犯されるくらいなら殺せ』と真剣に言い含められ授けられた、人間一人殺せるくらいの術が込められた魔石だ。かつてミリアムがこの男にプレゼントしたアクアマリンの指輪とは桁外れの力を宿している。
願い念じれば、この男は骨の髄まで凍りつき、命を落とす。殺して逃れることはできる。できるのに、
「……やめて」
ミリアムは、彼を殺す覚悟を決められなかった。
「……本当に嫌なら、殺してください。もう、自分じゃ止められそうにない」
「いや、やめて、やめて!!」
鳥や兎を絞めたこともある。家畜やドラゴンのみならず、人間の死体解剖に参加したこともある。それなのに、いざ人を殺すか否か選択を迫られて。
どうしても、指がふるえて、声が絞り出せない。
殺す覚悟を決められなかった私が悪いのだろうか。
「やめて、いや、いれないで、お願い、やめ、ッい、たい、やめて、」
腰を掴む手をはがそうとしても、びくともしない。爪をたててもむなしく、傷跡ひとつ残せない。そこでミリアムは体がふるえてうまく力が入らないことにようやく気付いた。
怖い。決して腕力では敵わない男に、自分の気持ちも立場も人生も無視されて、好きなように体を使われるのが。
こんなにも怖いことだと、はじめて知った。
「本当に嫌なら、殺してください」
野獣のような眼差しに貫かれ、体が芯からすくむ。
天敵に捕食される生き物は、きっとこんなふうに。恐怖に呑まれ、命を諦めてしまうのだろうか。
人を殺す訓練を受けている者とそうでない者の、断絶。軍人である男はその気になれば人を殺せるが、ミリアムは。人権を蹂躪されてなお、殺す覚悟を、
「……ッ!」
恐怖で濡れるはずのないそこに無理矢理ねじ込まれ、痛みがはしる。
怖い。痛い。妊娠したら。でも、妊娠しにくい体質のはずだだってずっと夫との子どもができる気配もなかったのだから早期流産すらなかったのだから。この一回で。せめて、後からでも洗ってかきだせば。確率を下げれるかもしれない。今までずっとずっとできなかったのだから。でも、もしもこの一回で。痛い。辛い。怖い。痛い。嫌だ。
怖くて怖くて、気が途切れる。体がふるえて、力が入らない。涙だけがあふれて止まらない。迫り来る肉の圧力に耐えながら泣くことしか、できない。
「こんなに愛しているのに、どうして……あなたは、」
俺の女にならないんだ。
軍人である男の体力は底知れず、延々と嬲られたミリアムはいずれ気を失い、それでも猛りはおさまらなかった。
力尽きた体に何度も白濁の液を吐き出され、生理的にあふれた体液が足の間を濡らす。
そのあと、どうやって家に戻ったのか記憶はない。夫が泣きながら抱きしめてくれたことだけは、ぼんやり覚えている。
心が憎悪に燃え上がったのか、絶望に凍りついたのか、わからない。
あの男は戦場で血に酔い、悪魔に魅入られたのだろう。
気付いたら、ふるえてすすり泣くミスティが腕のなかにおり。マクウェルはつい先ほど交わした約束を早々に反故にした言い訳を必死に考えた。けれどそんな、そんな理屈、必要ない。
「ミスティさん、すみません、約束破って、でも無理だ……、こんなの……、ひどすぎる、」
鼓動が早くなり、はらわたが煮えくりかえる。暴れ狂う熱に灼かれるようなのに、同時に背筋が凍るようでもある。
このひとに、あんなひどいことを。どれだけ辛かっただろうかと考えるだけで、涙がこぼれる。
声を殺して泣いていたミスティが、マクウェルの言葉に堰を切ったようにしゃくりあげる。
──……男の人とするの、離婚して以来で、すごく久しぶりで……、やさしく、して……ほしくて……──
──……ゆっくり……いたくしないでほしいの──
子どもまで産んだ経験のあるひとが、まるで生娘のようなことを言うものだと。呑気に考えていた過去の自分を殴りたい。
強姦された経験と記憶が払拭できていないからこそ、このひとはそう言ったのだ。そう伝えることすら勇気が必要だったろうに。
「こ、こんなに……はっきり、過去がそのまま蘇るなんて、ふふ、ルイドさん、本当、すごい術……ッ、」
トラウマを抉り出され錯乱するミスティを、抱きしめてしまって良かったのだろうかとふと我に返る。そもそも、このひとと体を重ねても良かったのだろうか。このひとを傷つけてはいなかっただろうか。
「……こんなことをされたのに、……私は、貴女を抱いてよかったんですか?」
「あなたは、やさしいひとだって、知ってたから……だから、抱いてほし、かった……」
そう言うと、ミスティの方から縋るように抱きしめ返してくる。このひとの苦しみも悲しみも、知らずにいたことがもどかしい。この夢を見なければ、一生知らなかったかもしれないと思うとぞっとする。
「あんなの、貴女はなにも悪くないじゃないですか! あのことで自分を責める必要は、毛ほどもない!」
「……、ちがう、ちがうの、私、ひどい、ことを……して……、」
嗚咽をもらすミスティの声を遮るように、黒猫がミャァと鳴いた。