あの日以来、軍との取引は打ち切った。もう、あそこには行けない。行くつもりもない。軍と街の調整役も、放棄するしかなかった。
外部には病気だと伝え、家に引きこもって過ごした。元々研究畑の錬金術士だったため、積極的に外に出なくてもさほど不都合はなかった。
しかし、その後の処置もむなしく。あの日以来月のものが来ることはなく、一月ほど経つとつわりがはじまり、妊娠が確定した。
厄介なのはタイミングが最悪で、父親がどちらなのか現時点ではまったくわからないということだった。
結婚して数年待ち望んでいた子どもなのに、夫も義両親も、誰ひとり喜ぶことができず、家のなかの空気がいつもどこか、重い。
「……ミリアム。その子は、産んだら養子に出そう」
そんなことを言われたのは、つわりが続いた先のことで。身も心も弱っているなかでかけられた夫の言葉に、深く胸をえぐられる。
「……、でも、……」
「その子は、僕の子じゃない。タイミング的にもそうだし、……分かってしまったよ。ずっと子供ができなかったのは、僕のせいだったんだね」
「そんなの、分からないじゃない……! あなたの子どもかもしれないじゃない!」
父親がどちらかなど、不毛な議論だった。今の時点では分かりようがないし、たとえ生まれたとしても判断できるかわからない。明らかな優性遺伝の特徴を誰も持っていない、あるいは確認できなかったから、どんな特徴が表れても隔世遺伝に該当すれば判断しきれるかわからない。
「……ごめん、本当にごめん、ミリアム……僕は、きっとその子を愛せない……そのお腹を見るたびに……その子を見るたびに、あいつの顔が……」
「そんなの、私も……、私、こそ、~~ッ、」
妊娠しないだけなら、手はあった。娼婦が使うような強い避妊薬や堕胎薬を使えば、たとえ妊娠していたとしてもすぐに流すことはできた。けれど、ミリアムの体に後遺症が残るかもしれないから、その手段は使わないでおこう。そう話し合って、夫婦ふたりで決めたことだった。それでも妊娠してしまったのなら、二人の子だと思うと。
そう言ってくれたのは、夫だったのに。
身も心も、誰よりも傷を負っているのはミリアムで、そのミリアムが産むしかないと覚悟を決めているのに。いや、決めざるをえなかったのに。命がけで育てて、産むのに。夫は、自分の子どもではないかもしれないからとこのお腹の中にある命を遠ざけようとする。
「……どうして、僕に教えてくれなかったんだ。昔の恋人と再会したって」
「あなたを不安にさせたくなかったからに決まってるじゃない……」
「……いざとなったら、その指輪で身を守れるって言っていたよね。どうして、使わなかったんだい?」
「……どういう意味」
「あ、……ごめん、そんなつもりじゃ……」
「いきなり襲われて、その知り合いを今すぐ殺せって、できると思う!? 私、怖かったのよ、すごく、怖くて……ッ」
「ごめん、ごめん、ミリアム……」
はじめて。はじめて、夫から大切にされていないと、尊重されていないと、感じた。
あの日からずっと、痛みもあり夫でさえも肌を重ねる気分にはなれず。つわりがはじまってからはそれどころではなく。結局。結局、体を繋げていないと、心は離れていくのだろうか? 他の男に抱かれた自分は、もう愛してくれないのだろうか。あの時、油断していなければ。隙を見せていなければ。彼を傷つけてでも、見捨ててでも、もっと早く突っぱねていれば。
それでもこの子が産まれてきてくれたら、父性も芽生えるだろうかと期待していたミリアムが夫と離縁することを決めたのは、その三月ほど後。夫が家政婦の娘を抱いているのを目撃してしまった時だった。
「おかえり、ミリアム」
実家は驚きつつもあたたかく迎えてくれた。アーリグリフの社会になじめず出戻る女が多いから、身重のミリアムが戻ってきても一族にとってはさしたることではなかった。
むしろ遠い血の子どもを宿してきてくれて、家族が増えると喜んでくれた。
「よく頑張ってきたね、ミリアム」
「父親が誰であれ、あなたが産むのならその子は私たちの大事な家族よ」
「今はもう何も考えなくていい。ただ健康に過ごして、産みましょう」
両親と当代のミスティ・リーアである従姉が、ミリアムをまっすぐ見据える。ミリアムは両親に抱きしめられながら涙が涸れ果てるのではないかというほど泣き続け、ミスティに経口補給液を飲ませてもらってからまた泣いた。
ぜんぶ、ぜんぶ。夫に言って欲しかった言葉だ。
街を出るときに知ったことだが、ミリアムと漆黒の士官は昔馴染みであることが知られており、不義をはたらいたのはミリアムの方だと噂になっているらしい。
おそらく様々な思惑があっての事なのだろうが、否定する気力もなかったミリアムは、おもしろおかしい伝聞ではなく現実をよく見ろ、とだけ言い残して去った。
本当にミリアムが自分の意志で不倫して夫と別れたなら、あの士官と結婚するはずだ。
噂が広まった以上、少し考えればわかる事実ですら知ろうとしない者はいつまでも知ることはない。考える頭のある者は少し考えればすぐわかる。
今まで街のために尽力してきたこともすべて無駄になった気がして、なんのために嫁いできたのだろうかと、バールまでの旅程をむなしく過ごした。
これからもあの街で暮らす夫の方に──いや、元夫に有利な噂が流れ、そして義両親や家政婦といった近しい者たちが否定しなかったのは、保身のためだろう。あの街を出て暮らしてはいけないのなら、その選択肢を選ぶのも理解はできるが、それはミリアムの心を犠牲にすることと同義だ。
こんなにも心は痛み、傷ついているのに、お腹のなかで子どもは元気に育っている。泣ききったら食欲も出てきて、ちょうど安定期に入ってからは故郷の料理を吸うように食べ続けた。領地を広げた祖国は食糧供給に余裕ができており、好きなだけ食べろと誰からも言われた。
心身ともに体調が安定してきてからは、ミスティの研究を手伝った。論文を通して狂ったようにホムンクルスを作っていたのは知っていたが、男尊女卑野郎の鼻を明かしてやったと武勇伝を聞かされた時はミリアムも痛快で、久しぶりに大笑いした。
「バールを離れている間もだいぶ研鑽を積んだみたいね。これなら……」
埃除けの意味も大きいが、なにより顔の可視性を下げ個人の印象を薄れさせるため、ミスティ・リーアは必ずベールを纏う。だがその下は、どの代のミスティも艶めいた衣装を選ぶ。ブランディングの一環だろうかが、ミリアムは改めて考えて不思議に思った。
「ねぇ、ミスティ。……そういう格好をして、男の人に……嫌な思いさせられたこと、ないの?」
デコルテは豊かなバストを強調しており、大きくスリットの入ったスカートは動くたびに太ももがのぞく。口紅はワインのように深い紅。経産婦とは思えない美貌を保つのにどれだけの努力が必要か。
ミスティはどの代も、美しくも攻撃的な色香を纏ってきた。それは初代ミスティに寄せるためでもあるそうで、初代は45歳で子を産み同時に死んだそうだが、命ついえるまで年齢不詳の美貌を誇っていたと言われている。
だが、そんな風に女性性を強調していたら。それこそ、ミリアムのような目に遭いはしないのだろうか。
「逆よ。させられるからこういう格好になったのよ」
そんな疑念を見抜いたのか、ミスティはミリアムに向き合い、真剣な口調で言い切った。
「そういうことしてくる男はね、強そうに見える女にはそういうことしないの。したとしても、ちょっと強く言えば引き下がる。あなたみたいに清楚そうにしてた方が、そういう男はつけあがって甘えてくんのよ」
「甘え……」
「ええ、甘えよ。自分の人生に満足してないから、自分より弱い立場だと思ってる女やヒエラルキーの低い男を見下して上から目線な態度とるの。それって甘ったれ以外のなにものでもないわ」
本当に嫌なら殺してくれと。ミリアムを動揺させたあの言葉も、今思えば甘えだったのだろうか。
罪悪感を植えつけ責任を押しつけてくる、呪詛。
──からだが汚く感じて、腕や胸をかきむしる。剣だこがあちこちにできた手でふれられたところを、厚い舌で吸われたところを。生涯を約束したひとではない男に、いいようにされたところを。
あのあと、肌が赤くなるほど洗ったのに。別の記憶でかき消したくても、夫との幸せだったひとときを思い出すことができない。記憶としては思い出せても、感触が。尊厳を踏みにじられたことしか。夫が自分ではなく、家政婦の娘を抱いているところしか。思い出せない。
跡が残りそうなほどかきむしるミリアムの手を、ミスティがそっとつかむ。過呼吸気味だったことに気付き、呼吸を整えた。
「ねぇ、ミリアム。今はもう、気持ち悪くて男に少しも触られたくないかもしれない、見られるのも嫌かもしれないけど」
ミスティがまるで我が子のように、ミリアムを抱きしめる。心臓の音を聴かせるように、ふくよかな胸に顔をうずめさせる。
「この先、この人にだったらっていう人が現れたら、たとえどんな人だろうと抱いてもらいなさい。たとえその先がなかったとしても。一回きりになっても。添い遂げられない人でも。自分の意思で好きな人に抱かれる嬉しさで、経験を上書きしてあげなさい」
頬をつつんで上を向かせ、目を合わせる。あおいひとみ、同じ色。ミスティ・リーアの色。
「あなたは、きれいよ」
子どもを無事に産んだあと。ミスティはミリアムを次代のミスティ・リーアに指名した。
「……上書き、できましたか?」
腕のなかのミスティに問うと、ベールの下でうなずいたのが感触でわかった。
あの時ミスティが誘ってきたのは人体錬成のためなのだろうが、少なくとも。少しはその気があったのではないかと期待せざるをえなかったが、確信は持てなかった。正直、今でも。あなただから抱いて欲しかった、とは言ってくれたが、このひとは好きだとも愛しているとも、口にしたことがない。
だが、過去を見て。二度と男に触られたくないと思ってもおかしくないのに、体を許してくれたのは。
「あなたに抱かれた時、気持ちよくて、安心した……」
思っていたよりも重い意味があったのだと知ってしまった以上。すこしは、うぬぼれてもいいだろうか。
「もう二度と、幸せな夜は来ないかもしれないって思ってたけど……あなたと過ごした夜は、本当にしあわせだった」
「……この先、いくらでも。私は……」
「……」
本音を言えば、産むのがこわかった。
元夫には何故私が産むのにこの子を愛してくれないのかと憤ったが、自分こそ、いざ産んだときに愛せなかったらどうしようと不安だった。
だが、無垢な我が子はとても可愛く。育児は乳母に任せきりにせず、お腹をすかせていたらできる限り乳を与え、おしめが汚れたら自ら取り替えるようにした。
この子に罪はない。愛情こめて育てれば、きっとすこやかに成長してくれる。
大半の家事も育児も家政婦や乳母がやってくれるが、それでも産後の体で、小さな娘を見守りながら歴代ミスティの実績をなぞっていく日々は忙しく、またたく間に過ぎていった。
ミスティは、産後は内臓が重傷を負っているのだから数ヶ月は回復に専念すればいいと言ってくれたが、何かしていないと落ち着かなかったし、論文やレシピを読み解いていくのは純粋に楽しかった。
「初代、何者なのかしら」
「歴代のミスティ全員そう言うのよね」
ミスティの看板を背負うだけあり、どのミスティも素晴らしい実績を残している。あるいは過去のレシピを完璧に再現し、そして洗練させてきた。
だが、初代は別格だ。ミスティの名を継ぐ者にだけ明かされる数々のレシピは、人智を超えているように見える。
今の錬金術は前提知識を備えた者なら誰でも読めるような、理知的で無駄が少なく、再現性を最重要視した論文としてまとめられる。
しかし初代の時代はそうではない。あらゆるレシピは同業者や師弟の間だけで通じるような、比喩や暗示を多用した、寓意に満ちた難解な文芸のように書き記されてきた。霊を一角獣に、時には鳥に例え、物質の結合を婚姻に、龍の翼の有無を揮発性に例え、時には記号と図によって実験の工程を表現する。
それらを読み解くための鍵。暗号の法則をミスティ達は受け継いできた。そうしてはじめて解読できるようになる初代のレシピは、人の意識を操る術、人の行動を操る術、死者を蘇らせる術、死者の力を借りる術、ホムンクルスに一定の指向性を持たせる術、霊視の術、別の世界と繋がるための術、人ならざるものを見破る術、魔のモノを使役する術、人間にドラゴンの魂を憑依させる術、などなど……。ホムンクルスを作ったり、鉱物に性質を付与したり変質させたり、薬剤の効能を操ったりといった主流な錬金術とは一線を画している。
「施術の素養が強かったのかしら……」
「ええ。姉さんや叔母さんたちの話からして、初代は先祖返りしていたみたい」
「シーハーツのアンサラー老のように?」
「おそらく。でなければ、このレシピは施術や錬金術と言い切るには特殊だし、これだけのレシピをこんなにも編み出せないでしょうね」
施力の流れを見極める瞳。古代シーフォート王国の王族に連なる血統に宿る力。施力を視認できるということは、世の物質がどのような法則で存在しているのか感覚的に把握できるということであり、本人の素養次第では、本質を見極める力となることがある。
初代ミスティは、我らよりもはっきりとこの世の流れが視えていたのだろう。
「……でも、それってずるいわ。
「今はもしかしたらそうなのかもしれないわね。アンサラー老も、先祖返りしているからこそあれだけの実績を残したと仰っているし」
世に名の知れた高名な錬金術士、アンサラー。物質や世界の本質を見抜き、黄金の錬成に成功したとも言われる伝説的な存在。先祖返りの証である尖った長い耳を持ち、施紋を刻まずとも高度な施術を苦もなく操る実力、そして王族並のアペリスに祝福された瞳を持つという。彼は王族とは縁のない庶民の家に産まれたそうだが、先祖返りの体質故に王宮に召し上げられ、実績を積むことができた。
結局、アペリスに祝福されていなければ、
「けど、そうした不思議を地道に解き明かしていくのが、錬金術士でしょう。私たちが生きているうちに叶うかはわからないけれど……だからこそ、継いでいかなければ。女に生まれただけで不利になる社会を変えるためだけじゃない。きっとミスティ・リーアは、人の寿命を超えて受け継がれていって、いつか初代を超えるのよ。私たちミスティは、その道を切り開いていくの」
ミリアムだけでなく、歴代のミスティ全員が初代の実力に圧倒され、その名を継ぐことの重さに耐えてきた。そして同じ結論にたどり着く。地道な研鑽しか、
「もしかしたら、エリーが未来のミスティになるかもしれないしね」
ゆりかごのなかで眠る赤児に笑いかける。ふくふくとしたほっぺをあかくして、大きなあおい瞳はいまは閉じてすやすやと眠っている。生えてきた髪の毛は、銀色。
青緑の瞳、銀色の髪、白い肌。エリーは完全にミリアムの色素を継いでいた。
どうせなら、父親に似てくれればよかった。そうすれば父親がどちらなのか、分かるから。
そんな母の複雑な思いとはうらはらに、エリーは顔立ちまでミリアムに瓜二つだった。親族も全員が全員、幼い頃のミリアムにそっくりだと口々に言う。
「ま、ま」
「……エリー、もう一回言ってみて?」
「あー? まあ、ま、まま」
「もう一回」
「まま」
「エリー、」
たぶん。はじめてママと呼んでくれたとき、我が子が愛おしくて涙を流した。
そして同時に、パパと呼べる人がいない──いたはずなのに繋ぎとめておくことができなかった不甲斐なさを、呪った。
あのとき、どうすれば夫の心が離れることなく、夫婦を続けていけたのだろうか。心も体も無理をしてでも、体を重ねていればよかったのだろうか。口では養子に出すことを賛同していればよかったのだろうか。
過去のことを悔いても仕方がない。エリーを養子に出すなどできるはずもなかったし、故郷に帰ってきたからこそミスティを継ぐことになり、継がなければ知らなかった錬金術の深淵に触れられた。
これでよかった。これで、よかったのだ。
ミスティを継いだミリアムは、魔石の研究を進めることにした。宝石や鉱物にホムンクルスや呪紋を封じる術の法則を解き明かし、より強力な威力を込めたり、放出する量を自在に操れるようにしたり、利便性と汎用性をあげることが目標だ。
その先の目的はあらゆる生活の場面への活用もあるが、非力な女子供が状況に合わせて身を守れるようにするということも含まれている。自分のような目に遭うひとを少しでも減らせたら。
だが、その不幸がなければエリーはここにはいなかったかもしれない。そう思うと、胸の奥が重くなる。
「ママ! ママ、みて~」
「あら、きれいなお花ねぇ」
「これ、なぁに?」
「ゼラニウム。お花としても綺麗だし、リラックス効果や抗炎症作用があるのよ」
「リラ……こうん……?」
「リラックス。抗炎症作用」
「りらっくす、こうえんしょうさよう」
「リラックスは、そうね……ゆったりした気持ちになることよ。お風呂に入ってるときとか、美味しいご飯食べてるときとかに、ほっとするでしょう。そういう事をリラックスっていうのよ。抗炎症作用っていうのはね、まず炎症っていうのが……」
エリーは一族の血なのか、かしこい娘だった。
言葉を話すようになるのがはやく、覚えもよく、好奇心旺盛で。二歳にはとうてい理解しきれないことでも、話を聴くのは好きなようで、エリーが傾聴の姿勢をとったときは対等に説明するようにしている。
そんなところまで母にそっくりだとみんなが暖かく笑う。ミリアムは二歳の時の記憶なんて途切れ途切れだが、だがたしかに、幼少期に学んだことが大人になってから急に繋がることは良くあるし、思い出しきれなくてもそうなのだろうという感覚はいたるところで感じている。子供だからと侮らずに教えることは、後に繋がるだろう。
その時、ミリアムとエリーは村から外れたところにある別荘に身を寄せていた。
アーリグリフの将官候補一行が、焔の継承をするために村に滞在しているからだ。焔の継承時、家長とミスティ・リーアが代表して客をもてなす主役となるのだが、アーリグリフの軍人と顔を合わせたくないミリアムを気遣い、先代がもてなしを代わることを買って出てくれたのだ。
せっかくだからエリーと母娘水入らずゆっくりすればいい、と付いて来てくれた家政婦が言ってくれたので、ミリアムは本を読み聞かせたり、一緒にお菓子を作ったり散歩したり、穏やかな余暇を過ごしていた。
気付けば、本当に久しぶりに。一息つける休暇を過ごしている。
岩の多い山岳地帯。力強く根をはる木々が風に葉を揺らす音、空気が揺れるとただよう強いハーブの香り。変わらぬ故郷の光景に、帰郷して三年ほど経つのに、今更懐かしい気持ちになる。
アイレの街にいたのが、はるか遠い昔のことのように感じられる。このバールで生まれ、育ち、離れ、そして戻ってきた。故郷の空気も水も、暮らしのすべてが肌に馴染む。けれど、同じ景色を眺めていても、心は娘の時とは決定的に違い。錬金術士として、母として充実した日々を過ごしているはずなのに、虚ろな穴がぽかりと空いている。
離婚、帰郷、妊娠、出産、産褥、授乳。この胎に孕んだ命を無事に産み育てなければならないと、その一心でがむしゃらに過ごしてきた。何よりもそれが最優先事項だった。この子に罪はないのだから。
けれど。忙しさゆえに自分の心をおそろかにしていたと、今、ようやく気付いた。
悲しい。
夫が私を最後まで愛してくれなかったことが、悲しい。
カルサアで出逢った時、このひとと結婚する、と一目見て理解した。穏やかで優しくて、一緒にいて心地よいひと。
本当に、好きだった。愛していた。愛してくれた。それなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
夫が家政婦と不倫さえしなければ。今でも夫婦でいられただろうか。
夫がエリーを自分達の子だと信じようとしてくれれば。今でも夫婦でいられただろうか。
夫に求められた時、あふれる涙とふるえる体を無理矢理にでも抑えることができたなら。今でも夫婦でいられただろうか。
あの男のお見舞いにさえいかなければ。今でも夫婦でいられただろうか。
せめて、あの時妊娠しなければ。
「──ッ、」
なんて、おそろしいことを。私は、考えて。
過去はもう、変えようがないのに。初代のレシピのなかにすら、そんな術はなかった。時を巻きもどす術などありはしないのに。けど、もしも、もしあの時。お見舞いに行こうとする自分に今声をかけれるのならば、阻止しただろうか。エリーが生まれることもミスティを継ぐことも諦めて、夫との暮らしを続けるようにするだろうか。
そんな思考実験、無駄なのに。実現しようのない夢想に耽ってなんの意味があるのだろう。
けれど。けど、本当に。
夫が、好きだった。愛していた。愛してくれたことが、嬉しくて、幸せだった。
その気持ちを、捨てきれない。
『……ミリアム。その子は、産んだら養子に出そう』
なぜ。なぜ、二人の子だと思おうと言ってくれた彼が突然あんなことを言ったのか。今更、点と点が線で繋がった。
夫は、私を愛してくれていたから、信じてくれていたから、二人の子だと思おうと言ってくれたのだし、その言葉に嘘はなかっただろう。けれどその後、どうしてこんなことが起こったのか、ひとりで調べたのだろう。そういう人だから。優しい人だから。その中で漆黒の士官のことを後から知って、ぬぐいきれない不信感を抱いてしまったのだろう。
『……どうして、僕に教えてくれなかったんだ。昔の恋人と再会したって』
夫の視点から考えれば、妻が夫である自分に黙って、過去の恋人と逢瀬していたと考えられても仕方がない。私が、言わなかったから。わざわざ家政婦の娘に口止めまでして。
ああ。離婚に至ったのは。夫の心を、優しさを、離してしまったのは。私だったのだ。
『きれいだね、ミリアム』
結婚の際、彼が実家に挨拶にきた時。迎えにきてくれた時。一緒にこの場所で、バールの景色を眺めた。
岩の多い山岳地帯。力強く根をはる木々が風に葉を揺らす音、空気が揺れるとただよう強いハーブの香り。アイレに比べれば緑が少ない土地。それでも彼はこの景色を、ミリアムが生まれ育った故郷を、きれいだと言ってくれた。
でも。もう、彼がきれいだと言ってくれたミリアムはいない。彼以外の男に犯され、婚姻の契りを破棄し、父親がどちらかわからない子を産んだ。ミスティの名を継ぎ装いを変え、素朴な服やメイクをしていた頃とは雰囲気を意図的に改めた。
きれいでしあわせだったミリアムは、もういない。
「ママ、きれいなおはな!」
エリーが木陰に咲く花を指差す。言いつけを守って無闇につむようなことはせず、眺めて愛でるにとどめている。かしこくて、かわいい子。何の罪もない子。だけど。だけど、せめて、
「どうして、あの時に生まれてきたの……」
せめて、せめて。月のものが来てから、確実に夫の子だと判断できるタイミングで産まれてくれれば。よかったのに。
そうだったら。そうだったら、ミリアムはいまでも、きれいでしあわせだったかもしれないのに。
「どうして……?」
エリーがミリアムの言葉をなぞってはじめて。ミリアムは、口に出してしまっていたと気付いた。
「どうしてエリーは、うまれてきたの?」
「っ、あ、あぁ、」
夫に裏切られたと思っていたのに、裏切っていたのは私の方だった。そればかりでなく、なんの罪もない我が子に、言ってはいけない事を口に出してしまった。その罪深さにミリアムが崩れ落ちる。心臓が早鐘を打ち、血が巡る音が耳に響く。呼吸がうまくできず、息苦しい。脂汗がにじむ。
だめだ、エリーに、謝らなければ。どうして生まれてきたのじゃなくて、私があなたを産んだのは。
鼻孔をさすようなハーブの香りに我に帰り、呼吸を無理やり整えて顔をあげる。眼前に広がるのは、岩の多い山岳地帯。力強く根を張る木々、咲き乱れるハーブや野草。
エリーの姿は、どこにもなかった。