武装したエアードラゴンが、バール山脈上空を旋回する。
野生のエアードラゴンの群れの合間をぬいながら、疾風兵五騎は高度を下げていく。
シーハーツのスパイが焔の継承に臨む一行の暗殺をもくろんでいるという情報が入ったため、一行の護衛と驚異の排除を目的として派遣された兵である。今回焔の継承に臨む兵はこの先必ず戦力になる将来有望な将官候補であり、守るべき順位が高い。
低高度で哨戒と探索を続けるうちに、妙な感覚と衝撃が広がる。すると近い場所を飛んでいた野生のエアードラゴンが数匹、バランスを崩して墜落する。巣立ったばかりの小さい個体もいたことに、眼の良い疾風兵が歯を食いしばった。
「シーハーツ……!」
「全騎戦闘態勢!」
龍語魔法弱体化の術。戦場で疾風を弱体化させるために使われることがあるシーハーツの施術、それがこの地一帯にかけられたということは間もなく仕掛けてくるということだ。隊長騎の号令とともに全員警戒態勢から戦闘態勢に移行し、騎乗からでも届く大槍を構え、二騎が火焔ブレスの溜めに入る。
岩陰から氷の刃が放たれる。それも一箇所ではなく、疾風兵を囲むように四方から。全騎回避と同時に、二匹のエアードラゴンが発射点に向かって火焔を吐き出し、兵を炙り出す。
それも織り込み済みだったのだろう、再度場所を変えて氷の刃が空を裂く。一騎に当たり、エアードラゴンの装備と表皮が凍りつき、バランスを崩したそのペアは瞬く間に高度を下げる。だが筋肉まで凍り付いていないエアードラゴンは主人と息を合わせ、滑走するようにシーハーツ兵に向かい、その頭を首ごと噛み砕こうと大口を開ける。
地面に滑り込むようにしてかろうじて回避したシーハーツ兵は、鉤爪がかすり腕を裂かれる。畳みかけるように他の疾風兵が突進するが、狙いすましたように氷の刃が三方から飛んできて、疾風兵は急上昇により回避する。
隊長騎はシーハーツ兵の動きを訝しむ。怪我を負った兵は短刀を構えて走り回るが、まるで囮のような動き。そしてその腰に紫水晶の護符がくくりつけられているのを見た隊長騎は、意図を察した。
「全騎散開!」
「ディープフリーズ!」
最初から潜み隠れていた施術士が大規模な術を発動するのと疾風兵が散開するのは同時だった。広範囲がまたたくまに冷気に包まれる。氷点下10、20、30、40、50、60、70、80、90、
空気が凍り結晶が生まれる。極寒の冷気が一帯の熱を奪い続け、活動を停止させる。疾風兵二騎が冷気の障りを受け、外皮と装備の表層が凍る。施力で指向性がもたらされた冷気は癒着し、範囲を広げてゆき、熱を奪い続けてゆく。このままでは絶対零度の力場に墜落するだけでなく、患部に熱を与えなければ後遺症が残るほどの凍傷になる。回避したエアードラゴンが火焔を放とうとした、その刹那。
「──ママ、」
幼い声を、その場にいる誰もが聞いてしまった。
岩陰に隠れていた幼い子どもが、術の領域に触れてしまっている。足がもう凍って動かない。冷気がたちまち体を侵食してゆく。子供は突如目の辺りにした超常現象に驚き、呆然としている。
「子、ども、なんで、」
施術士が目を見ひらき、集中が途切れ術が止まる。だが既に生まれた極寒の冷気は周りの熱を奪い続ける。熱伝導は止まらない。
「火……、いや、護符を、同時に、」
「もう助からない! 術を止めるな疾風を狙え!」
シーハーツの指揮官が残酷な現実を大声で怒鳴る。施術士は兵として命令を遵守するか人として目の前の子どもを助けるか迷い、動揺して思考も行動も止まる。
「貴様ら幼子を見殺しにするつもりか!?」
そのセリフは動揺を誘うためのものだったのか、純粋な本心だったのか。術の発動から最も早く離れていた疾風兵が旋回して戻り、炎の息吹を冷気の場へかけて融かしてゆく。だが子供の体を蝕む冷気は、胴を覆い、首まで進み、
「エリー!!!」
エリーを探して山中走り回っていたミリアムが、娘の姿を遠目にうつすとスカートをたくしあげ、足が草で切れるのもかまわず全力疾走する。あまりの早さにベールをとどめている頭の帯がほどける。長い銀髪を振り乱しながら、体の限界まで速度を出して状況を確認する。何故ここが戦場に、水の施術が、初歩の術じゃない、骨の髄まで凍てつかせる上級の、必殺の術が、我が子に。
一刻も早く、火の術をかけて水の術を相殺しなければ。火傷が残ったとしても、凍傷の後遺症が残ったとしても、構わない、なんとかする、生きていてさえくれれば。
生きていてさえ、くれれば。
「マ、、」
エリーがミリアムに手を伸ばそうとすると、肩から腕がガラスが割れるような音をたてて、折れる。見開かれた青い瞳が冷気に侵食され、白く塗りつぶされてゆく。頭の先まで。体の奥まで。脳が、凍る。首が、折れて、地面に、転がる。
かつてミリアムが発することのできなかった凍結の呪紋。
類似する施術によって、エリーの体はつま先から頭の先まで、芯まで凍りついた。
ミリアムは声にならない叫びをあげて、凍りついたエリーをかき抱く。凍結がミリアムの体をも侵食する。腕が、胸が、少しずつ凍っているのに、何も冷たくない痛くない。
だってもう、エリーは助からない。なら、このまま共に凍りついて、いっしょに。いっしょに、いてあげたい。
それなのに、エアードラゴンが発する炎の息吹が、水の施術を相殺してゆく。ミリアムとエリーの世界を、隔ててゆく。
小さな体から血が、あふれて。命が、尽きる。
どうして生まれてきたの。
エリーが最期にかけられた母からの言葉は、どうしようもない過去を恨む呪詛の呟きだった。
それがミスティの──ミリアムの、消えることのない罪。
覆すことのできない、罪となった。
「う、あ、ああああああああっ……、エリー、……ッぜ、ったい、ぜったいに……」
ミスティはとうとう泣き崩れ、地面に伏す。我が子を亡くしたその時をふたたび目の当たりにして、絶望に深く深く深く沈んだ心を映すかのように、辺り一面が漆黒の闇に包まれる。小夜中に、放り出される。
「私、自分のことしか考えてなくて、あの子にひどいことを、言って、あの子はそのまま、そのまま、」
凍りつき、魂は砕けてしまった。
「ミスティさん、あれは……事故、じゃないですか……四六時中聖母でいることなんて、無理です、あんなことがあったんですから余計に……貴女はなにも、悪くない……」
なんの罪もない幼子が命を落とす様を見て、マクウェルも胸が痛い。だが、ミスティは比べ物にならないほど傷つき、絶望と慟哭の闇に沈んで、その悲しみを抱えたまま。シランドまでアンサラーを頼ってやってきたのだ。
「でも絶対、絶対言っちゃいけないことを、私、あの子に、言ってしまって、産むって決めたのは私なのに、私、たとえ夫が望まなくても、私が望んであなたは産まれてきたのよって、夫が愛さなくても私が愛しているって、言いきらなきゃいけなかったのに!」
よりにもよって、呪詛の言葉を与えたまま死なせてしまった。あんなことを言わなければ、エリーはあんな場所にいかなかったかもしれない。一緒にいて、そばにいて、守ってあげられたかもしれないのに。
時を巻き戻す術など、初代のレシピにすら無かった。けれど。死者を蘇らせる禁断の祭儀は、幾重もの暗号に守られ、たしかに在った。
理不尽に奪ってしまった未来を、あの子に返そう。禁忌に触れるなどどうでもよかった。あの子に罪はないのだから。罪は償わなければいけないのだから。あの子が生きてさえいてくれれば。
生きてさえ、いてくれれば。
「だからあの子に償わなくちゃ、いけないから、私は……ッ」
漆黒の闇に溶け込む黒猫がミャァと鳴き、ミスティのベールを引っ張る。
ミスティが視線を向けようとすると、手のなかにフラスコがある。夢に入ってからずっと“持っていた”はずの青白く輝くそれは、マクウェルとミスティが作り上げたホムンクルスの姿が。いや、違う。
「エリー?」
鉢の祭壇のなかで、魂がくるりとまわる。概念がゆらぎ、命をかたどる。
「ママ!」
銀色の髪、あおい瞳、白い肌。
腕のなかに、いとおしい我が子が。ぬくもりが。
あんなひどいことを言った愚かな母に、花が咲くような満面の笑顔を向けて、ママと。呼んで、くれる。
「エリー、エリー! ああ、ごめんなさい、ごめんね、エリー、会いたかった……!」
「エリーも、ママにね、会いたかったー」
痛くないように気をつけても、どうしても。強く強く、抱きしめてしまう。ずっと会いたかった。会いたくなかった。会いたかった。いとおしい、私の子。
そして、“
「……パパ?」
こてん、と首をかしげるエリーが、ミスティに寄り添うマクウェルを期待のこもった目で見つめる。純真無垢なそのまなざしに、胸が痛む。どうしてエリーにはパパがいないの、なんてこの子は一度も言ったことがなかった、けれど本当は。心のなかではきっと、きっと。
「……エリー、この人は」
「ええそうです、パパです」
「マクウェルくんあなた、」
シレっと嘘をついたマクウェルを、否定することができなかった。エリーを悲しませたくないから。
「パパ! そっか、よかったぁ」
ふくふくとしたほっぺをあかくして、エリーが笑う。
「ママ、パパがいなくてさみしそうだったから。パパがいて、よかったぁ」
「エリー……」
この子は。自分のことではなく。母のことを。思いやって。よく見ていたのだ。まだ二歳なのに。たったの二歳で、世界の何事も、わずらう必要はなかったのに。親がなにもかもから守るべきだったのに、まだたった二歳だったのに。こんなにも小さくて、幼い子だったのに。
「エリー、ごめんなさい、私、あなたに悲しい思いを……させて……痛かった? 冷たくなかった? ごめんね、ごめんね」
「えっとねぇ、うーんとね、いたくなかったよ、あたまがまっしろになって……ママがきて、それで、いたくなかった」
にこにこと笑ってくれるエリーに笑い返したいのに、涙があふれてこぼれて止まらない。止められない。頬や頭をなでると、うれしそうにすりつけてくれる。顔を見ていたいけれど、エリーのぬくもりを感じていたくて頬をすりよせる。なによりも、いとおしい子。この子を守るためなら、自分の命なんて惜しくない。
「ママ、あのね、たくさん考えたの。エリーがどうして生まれたのか」
「……ッごめんなさい、そんな……そんなこと、」
「けどね、わかんなかった。でもね、たぶんね。エリーはママに会うために生まれてきたんだと思うの」
エリーの言葉が、あまりにまっすぐで。ミスティは涙をぬぐって、エリーを見据えた。
「そう……そっか、ママと会うために……」
「だってね、ママがわらってくれるの、エリー、好き。いっしょにごはんたべたり、遊んだり、好き。おこられるの、かなしい……」
「うん、そうだね、ごめんね……ごめんね、ひどいこと言って」
「でもね、ママ、すき」
「私も、私もよ……ママは、エリーが大好きよ……私は、あなたに会う為にあなたを産んだの。ママが望んで……エリーに生まれてきてほしかったし、生きていてほしかった……」
エリーが笑う。無垢なだけでない、悲しみを内包した、大人びた笑みだと。察してしまった。それでも、この子は。笑ってくれた。
ようやく、言えた。ずっと後悔していたことを、本当に伝えたかったことを。
すでに死んでしまったこの子に、言うことが出来た。
これでもう、未練はない。
「ねぇ、エリー。また、戻ってきたい? バールのお家に……」
「あ、それねぇ、ママに似てるお姉さんたちに教えてもらったんだけどね、そうするとママと会えないんでしょ?」
からっとエリーが述べた内容に、ミスティの思考が止まり。直感だけが、真実にたどり着く。
──ミスティ、ああ、余計な、ことを!
「ママに会えないなら、べつにいい」
言葉をなくしたミスティは、なんと言ったらいいのか分からず、エリーを抱いたままかたまる。
ミスティ。歴代のミスティ達。なんて、余計なことを、してくれたんだ。事前に知らせたら、心優しいこの子がなんと言うか、知らぬわけではあるまいに。どうして。どうして教えてしまったんだ。どうして、この子に、そんなことを。
「──ミスティさん、一体どういうことですか」
察したマクウェルが、唸るような口調でミスティに問いかける。
「人一人蘇らす対価が、人一人分の命なんですか」
ミスティはずっと。マクウェルから種をもらい、エリーを生み直して、そして死ぬつもりだった。心を寄せてくれるマクウェルを、自分の研究を遅らせてまでミスティに付き合ってくれるマクウェルを、9000万フォルを肩代わりしてくれたマクウェルを、裏切って。自分の死に至る術の準備を、彼に手伝わせていたのだ。
「得るものの方が失うものより大きいのなら、錬成する意義は十分あるでしょう」
「……ッ、そんなの、私は……!」
「私かエリーか、選ぶのならばエリーのはずよ」
無表情が崩れ、眉根を寄せ、泣きそうな顔でやりきれない思いを向けてくる彼に、ほだされないように。淡々と告げる。
この誠実で真摯なひとを、裏切り傷つけている。それでも、それでも。
「生きているべきは私じゃない……」
生かすべきは、未来ある子供だ。若者だ。出産と同時に死ぬなど、珍しいことではない。ただそれが確定しているだけだ。
「だってわたしたちは、人類は、そういうものでしょう、」
施術、医術、錬金術。
ひとが操る術は、繰り出す技は、膨大な経験則と探求により長い年月を経て生み出され、効果を実証したものが濾過され、洗練されて来た。
数えきれない犠牲の上に、より良い生をおくるために。
痛みや傷や死を乗り越えるために、危険をおかして未来を切り開こうとする。それは知恵と認識を得た人類という種の極めてまっとうな、在り方だ。
「わたし一人の命なんて、全から見れば、人類の前進を思えば軽いもので……、」
俯瞰して見るのならば、錬金術士一人が命を賭して人を蘇らせるのは、人類の進歩のほんの一部でしかない。
遥か未来、人類は死を克服するかもしれない。その礎となるのなら、意味も意義も十分にある。たとえそれが間違った道だとしても、間違っていたという判断をできるサンプルを残せる。
「わたしという個にとっては、エリーがいないことが、一分の一、堪え難い苦痛なのよ……」
だから、わかってほしい。そう思いを込めて、エリーを抱きしめる。
「……わかりました。ミスティさん、そのレシピ、私に教えてください」
紅い瞳が、まっすぐに青緑の瞳を見据える。貫くように、鋭く。
「対価は私が払います」
「そんなことさせられるわけないじゃない!」
「私もまったく同じ気持ちです。けど、貴女の気が済まないんでしょう」
視線はどこまでも鋭いのに。心はどこまでも優しい、こんな人を。死なせるわけにはいかないのに、マクウェルはどこまでもまっすぐで、折れそうにない。
「貴女が教えてくれずに自分の命と引き換えにしたとしたら、次代のミスティからどんな手を使ってでもレシピを聞き出します。そして貴女を蘇らせる。そうしないと、私の気が済みません」
「そんなの、同意してくれる女が……」
いる。ミスティの一族はどいつもこいつも度を越した知的好奇心の塊だ。自分のリスクを低く抑えて禁術を成せるのなら、メリットはある。彼に口説かれたら喜んで協力する可能性は、高い。
「私も錬金術士です。この世の理を解き明かして秘密を暴き、この手で操作できるのなら、それで死んでも本望です。貴女はまた娘と生きられる。それで丸く収まりますよね」
「そんなこと、私は望まない……それにあなたは! 未来があるじゃない、あなたの頭脳がどれだけ世界に貢献するか……、人類が
「その言葉、そっくり、そのまま、お返しします」
「私は、私は次代のミスティに全部託せばそれで終わっても、」
「私が、貴女に……ミスティ・リーアではなく、ミリアムに……幸せでいてほしいんです」
どこまでもまっすぐな言葉、込められた純粋な願いに。愛情に。ミスティの──ミリアムの心が、戸惑い、迷い、彷徨う。
「だめ、だめよ、エリーを救う手段があるのに、行動しないことを選ぶなんて私にはできない……」
エリーとマクウェル、ふたりを生かす方法はないのだろうか。私はただ、愛しているひとに、幸せに生きてほしいだけなのに。
「ママとパパ、あえなくなるの? せっかくあえたのに……」
「エリー……」
エリーの大きな瞳に涙がにじむ。大の大人が目の前で言い合うのがこわいのもあったのだろうが、たった二歳のはずなのにその内容をよく理解しているようで、ミスティはなんと言ったらいいのか、今度こそわからなくなってしまった。
この子を悲しませるために、
青い目だけが浮かび上がる黒猫がミャァと鳴き、マクウェルのスカートを引っ張る。
するとマクウェルが“ずっと持っていた”はずの本が。運命を導いたミスティ・リーアの著書が、その手にある。
本は勝手にひらき、パラパラとページがめくられる。文字や図説がびっしりと綴られているはずの紙はまっしろで、マクウェルは訝しんだ。“この本”は、確実に“あの本”なのに。
《そうよ、せっかくいい男つかまえたっていうのに》
いきなり文字が浮かび上がり、マクウェルは驚きと同時に理解した。ミスティ・リーアの著書。彼女が魂を込めて書いた、本。その本に浮かぶこのインクは、文字は、言葉は。
《ね~! もったいない!》
《イケメン! 領主の息子! 錬金術士! なによりまともに話せる男!》
《せめて普通に人生謳歌してからでもいいんじゃないの? 人体錬成》
《そうしたらミリアムが自分で産めなくなるじゃない》
《確かに》
《気持ちはわかるけど》
《あとそれ私の仮説が正しかったらちょっと意味ないんだわ》
《え、どういうことですか?》
覗き込んだミスティが、目を丸くして文字をなぞる。まるでお茶会のような気楽なやり取りに、張り詰めた空気がいやでもやわらぐ。
「おねえさんたち?」
エリーが本をのぞきこむと、インクがパッと浮かび上がる。まるで孫を可愛がる祖母の浮かれた気持ちを表すように。
《そうよ~》
《ちゃんとママに会えてよかったねぇ》
「うん!」
「もしや、貴女がたは歴代のミスティ・リーア……?」
マクウェルが本に向かってたずねると、今度は公文書を書くときのように、スラスラと文字が浮かんでくる。礼を尽くしているような気配が、滲み出ていた。
《その通りです、クラークス殿》
《ご愛読ありがとうございます。これ私が書いたのよ、熟読してもらえたみたいで嬉しいわぁ》
「こちらこそ、貴女がたのおかげで錬金術の世界に身を投じることができました。この場を借りて感謝申し上げます」
頭を下げると、なんて礼儀正しい、いい男、ミリアムやるわね、なんて再びお茶会でのおしゃべりのようなたわむれが、さすがに気を遣ったのか本の端っこで小さく繰り広げられる。
《ひさしぶりね、ミリアム。初代の残した手記のとおりだったわ。魂の記憶はすべてアーカイブされているみたい。私たちが生きてきた人生もすべて……》
「ミスティ……、どうして、どうしてこの子に教えたの……! ひどいわ、どうして、」
《フェアじゃないからよ》
感情をあらわに抗議するミリアムに、ミスティがすっぱりと簡潔に言い切る。
「老いや死の克服は、錬金術士としても悲願じゃないの……、挑戦してなにがいけないの……、」
ミリアムはすこし意地悪なことを言いたくなって、その通り口にした。あなたたちだって、興味はあったでしょうと。私たちはミスティの系譜を継ぐ、どうしようもない知的好奇心に人生を捧げるしかない女なのだから。
《それは私もそう思うけど》
《私も》
《わかるめっちゃ挑戦したい》
《エリーの同意があればアリだと思うけど、この子優しいから……ほんといい子ねぇ》
「……初代は? 初代はそこにいらっしゃらないの?」
《あの人、自分の意志で違うところにいるみたい……なんていうかもう、別格よね……》
《だから、残念ながら実行した人のご意見は伺えないのよね》
最後の最後に、こんな邪魔が入るなんて。……そんな風に思うのは良くないことも、わかっているけれど。
そう、フェアじゃない。その一言に尽きる。同意の取りようがないエリーを蘇えらそうとしたのも、
自分を労ってくれる人も心配してくれる人も愛してくれる人も公平に判断してくれる人も、すべての意見を退けて、自分の願いを叶えようとしているだけだ。
《失ったものを追いかけて目の前にあるものをおざなりにすれば、同じことを繰り返すだけになるわ》
《貴女自身が等価交換だと思っていても、割りに合わないと思ってる人はたくさんいるってことよ。自罰的に衝動的に決めるより、一度冷静になってから判断したらどうかしら。なにより、せっかくエリーと会うことができたのに、あなた、本当にこの子にちゃんと向き合ってる? 自己満足になってない?》
その言葉に、腕のなかの我が子を見やる。ミリアムに抱きつくエリーは、困ったようなまなざしで見上げて、告げた。
「ママに会うために生まれてきたのに、ママに会えないのにおうちに戻るの、いやだよ」
母の命を奪ってまで、生まれたくはないと。
《それと、一つ言っておくわ。“
「──事故でも、病気でもなく?」
《ええ。体が弱いとか、持病を持っているとか、そういうこともなかった。あまりにも突然だったから検死もしたけど目立った異常は見られなかった。まるでひとめぐりして人生を終えたように、唐突に息を息とったの。12歳の誕生日に》
ミスティから告げられた事実に、前提がゆらぐ。せっかく蘇らせてもたいした年数を生きられないのなら、蘇った側のメリットがどれくらいあるというのか。
禁術ゆえに、蘇った子供のその後は詳細な記録は残っていなかった。存命の先代や先々代ミスティにたずねて年若くして亡くなったことは知っていたが、病気や事故で年若くして死ぬことなど珍しいことではないから、そういうことなのだろうと思っていた。
《あの人のレシピが完全ではなかったのか、単にそれが寿命だったのか、わからない。個人的な推察として、あの人の残りの寿命がちょうど12年くらいじゃなかったのかしらね。残りの寿命を譲ると考えた方が色々辻褄があう。あなたの寿命、あとどれくらいかしらね。人生50年として、あと20年? 20年前後だと推定される人生を、エリーに贈りたい? その頃、あなたはどうだった? 錬金術の深淵を理解するのに、時間も知識も何もかも足りないって、あと30年の人生じゃ全然足りないって、思わなかった? そんな時に終わるだろう人生を、自分の命と引き換えにこの子に贈る?》
事故や病気、そして戦争。天寿をまっとうできない人なんて、たくさんいる。たくさんいるけれど、誰も若くして死ぬことを最初から受け入れていたわけではない。
生まれてきてくれたのなら、天寿をまっとうしてほしい。自分の意思で人生を選びとってほしい。少しでも幸せだったと思って、生き抜いて欲しい。
「あのねママ。こっちもね、いろいろたのしいんだよ」
考え込むミリアムをさとすように、エリーが静かに話しかける。言葉をひとつひとつ選んでいるのだとわかるその様子に、子どもに気を遣わせてしまっているという事実に、不甲斐なく感じる。
「お姉さんやお兄さんたちにいろいろ教えてもらえるんだよ。好きなだけ勉強していいんだって。そっちじゃ会えない人にも会えるし、行けないところにも行けるんだ。いつでもどこでもなんでも教えてくれるんだよ。すごく楽しいよ」
「そう……そうよね……、私の子だものね……お勉強、好きよね……」
「うん! おもしろいし、ママが教えてくれたこと、わかるようになったよ」
「そう……」
錬金術士の思想において、魂の救済は、知恵と認識によってなされる。
この子は死してなお、好奇心と知識欲を純粋に、あるがままに、発揮することができているのだ。
私が救おうとなんてしなくても、この子の魂は。
「エリーは、ママ、待てるよ。ずっとずっと。だってこっちはね、長い時間も短い時間もなくて、だから、ママがこっちに来るまで、長くないよ。待てるんだよ」
度を越した知的好奇心。一族の血を継いだエリーの魂は、物質の制約がない世界で、知恵と認識によって自らを救っている。
「もしかしたらそっちでまた会えるかもしれないけど、その時肉体は思い出せないかもしれないけど、魂はぜったい忘れてないんだよ。ママのこと」
「あら、ママがエリーに教えてもらちゃったわね……ううん、教えてもらうことばかりだったわ……」
研究を続ければ続けるほど、己が何も知らないことを思い知らされる。そして無垢で無知なはずの子どもが、何も教えずとも多くを察していること、本質を理解していることを知ることがある。そして子に何かを教えるには、表層だけでなく本質を理解して言語化できないとできないことなのだと、思い知ることになる。
子によって親が学ぶことはとても多いのだと、ほんの二年と数ヶ月、エリーにたくさん教えられた。
「……ミリアムさん。せっかく会えたんですから、もっと……教えてもらいませんか。エリーさんから」
マクウェルの提案に、ミリアムがうなずく。この子とたくさん、話したい。後悔のないように。
「なに、エリーさんって。パパ、ヘン」
「へ、変……」
エリーがためらいなく言い放った言葉に、マクウェルがショックを受けて口ごもる。
「エリー、じゃないの?」
だってパパなんだから。と顔に書いてある。ミリアムがマクウェルへほほえむと、気恥ずかしそうに喉に手をあて、軽く咳払いするとエリーをまっすぐ見据えた。
「……エリー。教えてもらえませんか。あなたが今いる、そちらの世界のこと。あなたがどう過ごしているのか」
エリーの話は、錬金術士としてもとても貴重なものだった。
人間が死後どこにいくのか、どのようになるのか。エリーが認識している範囲で、ありとあらゆることを教えてもらった。
ミリアムがうずくまった時、具合が悪くなったのだと思い誰か大人を呼んでこようと走っていったら、すぐそばで兵士たちが戦い始め。岩陰に隠れていたら、気付いたら体が動かなくなったこと。
身体がすべて凍りついたとき、亡骸を抱いてくずおれるミリアムにいくら話しかけても気付いてもらえなかったこと。
どうしようもなくてあたりを見渡したら若いエアードラゴンの魂がさまよっていて、その背に乗せてもらってアーリグリフ中をめぐったこと。
いつのまにか人も動物もまったくいないことに気付いたとき、枯れきったような老人がふたりの目の前にあらわれ、こんな元気な子は久しぶりだ、さすがあの魔女の因子を持つものだと言われたこと。
エリーとエアードラゴンのわずかな生涯の追憶に耽ったこと。
未練はないが、母が悲しんでいることだけが気がかりだと伝えたら、老人が歴代のミスティと会わせてくれたこと。
歴代のミスティにいろんなことを教えてもらったこと。
そして母が嘆くあまり、自らの命と引き換えにエリーを現世に呼び戻そうとしていると知ったこと。
「エリーはね、自分が死んだことよりも、ママが泣いてるのがイヤ。だって、どうせいつか会えるんだし。エリーは待ってるのに」
「そう……そっか……」
「あの、エリーさん」
「パパ、変」
「……エリー。そちらの世界では、思った瞬間にその人と会えるんですよね。そうなると、会いたくない人と会ってしまうことはあるんですか?」
「会いたくない人? たとえば?」
「うーん……そうですね、たとえば嫌い、って言ってくるような人、とか……?」
「嫌いって言ってくるような人……?」
《いやねマクウェルさん、エリーのこと嫌いなんて人が現世に存在するわけないじゃない》
《そうよそうよ、こんなに可愛くて賢くてとってもいい子を!》
「あ、はい、ええと、すみません、そうなんですけど」
《こっちの世界は一切嘘がつけないから、必然と似た者同士が集まるわ。一方的に執着されたりしてた場合って他者を求めてるんじゃなくて自分が可愛いだけだから、そういう奴は自分の魂と向き合うだけ。そういうのと嫌でも会うケースって珍しいわ》
「ほう……そうなんですね。どのような理で成り立っているのでしょう」
《面白いのはね、魂の状態ってなかなか成長できないみたいなの。のぞめばすべてが実現する状態なのにね。良くも悪くも、自我が持つコンフォートゾーンから下がることもなければ上がることも難しい》
《だからこそ不自由な物質界に生まれるっていう説がある。制約が多い分、成長が見込めるから》
《でもねぇ、成長できずにむしろ減退して還ってくる魂もあるとか》
《だからエリーはすごいのよ! 勉強したい、教えて、っていろんな人に教えをこう。答えを持つ人とちゃんと会える。表層じゃなくて、本質を理解しようとする。成長してるのよ》
《知恵と認識によって救われるってこのことなのかって、こっちが勉強させられるわ》
死者との対話はとても貴重なものだ。だが、再現性が最重要視される学術の世界において、現世で検証できない話を公開しても正当な学問としては認められない。だからこそ、術をかけられる対象者に過酷な協力が求められる
こんなに。こんなにも、救いのある、術なのに。
「エリーはすごいのね……私だったらきっと、未練と後悔ばかりでしょうに」
「そうだよ、ママ。ママが未練と後悔もったままだと、こっちにきてもエリーと会えないんだよ」
「そう……そうなのね……」
「だから、ママ、パパとゆ~っくり来てね。エリーは待ってるからね」
それは、お別れの言葉だ。そして、再会への祈りだ。
ずっとずっと、呪詛を吐いて深く傷つけてしまっただろうこの子を、蘇らせて救わなければならないと信じて。禁術を行う覚悟を決めて、国境も越えた。そして
すでに自らを知恵と認識で救っている賢いこの子を、自分のエゴで物質界に呼び戻すよりも。この命を生き抜いて天寿をまっとうした方が、この子のためになるだろうか。
自分を罰するためではなく、この愛しい子といずれふたたび、胸を張って会うために。
「うん。ママ、ちゃんと生きるから……待っててね、エリー」
「うん!」
花が咲くような満面の笑みに、悲しみと絶望の夜が照らされる。
大の大人が自分一人救うことができなかったのに、こんなに小さな子は、自らも、不甲斐ない親も、救ってみせる。
この子の母であれたことは、この人生における最も大きな喜びだ。この子を喪ってしまったことは、この人生における最も大きな悲しみだ。
だが、ふたたび巡り会うことができるのなら。天命に身をゆだねよう。
「パパ」
両手を広げて抱っこして、の合図を出したエリーを、マクウェルは少し迷って抱き上げた。思ったより重いような軽いような、小さな体をひざの上に座らせると、エリーはミリアムと同じ青緑のひとみで、まっすぐに紅いひとみを見つめた。
「エリーがいない分まで、ママと仲良くしてね。さみしくしないでね」
「……はい、もちろん」
「やくそくだからね」
ぎゅう、と抱きつくエリーをマクウェルはたどたどしく抱き返す。壊れ物を扱うような不器用さに、ミリアムはいとおしげに笑った。
パパと約束したエリーは満足げに立ち上がると、ママに抱きつく。ミリアムの胸に顔をぐりぐりこすりつけると、ポツリと呟いた。
「エリー、待てるけど。……やっぱり、ちょっとさみしい。ママ、パパ、……元気でね」
ミリアムが力強く抱きしめ、マクウェルが更にふたりを抱きしめる。いつかふたたび巡りあうために、今は。世界を隔てて別れなければならない。
それはどうしようもなくさみしくてさびしくて、悲しいことだ。
悲しみを否定するためではなく立ち向かうため。ぬくもりを分け合うように、穏やかな光のなかで抱きしめあった。
《どうか幸せに》
長い夜が明け、光が広がる。夜闇にとけた黒猫は、ミャァと鳴き声だけを残していった。
暗闇のなかで目を覚ましたふたりは、ライトストーンの月の光で扉を探りあて、いとも容易く衰えた足で階段をのぼっていった。体力はだいぶ衰えているが、心は憑き物が落ちたようにすっきりしている。
洞窟の地続きの階層にたどり着くと、メルトの案内でサーフェリオ側へと案内される。九日か、十日ぶりの日差しがひどく眩しい。だがそれ以上に、信じられないくらい心地よい。
ふたりが日向に用意されたデッキチェアに腰掛けると、青いローブを纏ったルイドが大杖をついて億劫そうに歩いて来た。
「娘には会えたようだね」
「ルイドさん。本当に……ありがとうございます」
「フン、いい金づるだったってだけだよ。術は成功したんだ、好きなだけ日光浴してから残りの金よこすんだね」
ミスティは椅子から立ち上がり、ぶっきらぼうに言い放ったルイドの手を両手でにぎる。
「本当に」
「なんだい、やめとくれ気色悪い!」
「錬金術士をあなどらないでくださいな」
手をぞんざいにふり払われるのもまったく気にせず、ミスティは微笑む。
「だって……
椅子に寝そべり、気持ちよさそうに日差しを堪能するマクウェルも深く納得してうなずく。朴念仁がめずらしく、口角をほんのすこしだけ上げていた。
教養あるものなら、この術を行使できるひとがどれだけ心優しいのか。理解できないはずがないのだ。
「……これだから錬金術士は! 上から目線で好き勝手言ってくる!」
サーフェリオにふりそそぐ日差しはおだやかで、五臓六腑に染み渡る。さわやかな風は木々をやさしくゆらし、かつて神器からあふれた水でできた川のせせらぎが聞こえてくる。
ミスティは久方ぶりの日差しをたっぷり浴びるため、頭に巻いた帯をほどき、胸前の留め具をはずし、ベールを脱ぎさった。
うら若き乙女。と言うにふさわしい姿に戻っていることに、ルイドは嬉しさよりもげんなりとした。シワひとつないみずみずしい肌、艶々と豊かなおさげ。魔道の深淵に足を踏み入れたばかりの、何も知らないくせにプライドだけは高かった、青くさいあの時の姿だ。
ちょうど、あのひとに出逢った時の姿だ。
憎らしいほど美しい黒猫が優雅に歩いてくる。またたきの刹那、その概念はゆらぎ妖艶な女性がそこにある。
白い肌、豊かな銀髪、艶めいたボルドーワインの唇、豊満な肉体を飾る露出の高いドレス。先祖返りの証である長い尖った耳。そして宵闇を溶かしたような、あおい瞳。
「本当に貴女は、昔と何一つ変わらない」
ええ、プネウマは物質の制約は受けないもの
ご苦労だったわねルイド。感謝するわ
「私も報酬は十分にもらいましたからね。弟子に見せる機会も必要でしたし……」
良い弟子ができたようでよかったわね。成長が楽しみだわ
「……貴女はいつごろ、此岸に戻るつもりなのですか」
さぁね。まだもうしばらく
「いったい、いつまで人格を保つつもりなんですか」
を識るまで、かしらね
我ら錬金術士の悲願は人類の進歩そのものであり、もがき足掻くその過程こそが美しい。
すべては、万物の始源アルケーを問うために。