さよなかの猫   作:織々々

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04 秘匿されし祭儀2

「おはようございますミスティさん!」

「おはよう、エリザちゃん」

 

 ホテルのラウンジで、太陽のような笑顔をふりまくエリザと朝の挨拶を交わす。今日のモーニングは貝のリゾットだ。

 

「なんだか最近、楽しそうですね」

「あら、そうかしら」

「こちらにいらした時より、明るくなったような……あっすみません、余計なことを」

「いえ、そんなことないわ。その通りだと思うもの」

 

 あの日からずっと、一寸先も見えぬ真っ暗な夜を、息も絶え絶えに這っていた。己の罪を悔いるしかなく、贖うためにここに来た。

 それでも、マクウェルが解き明かした世界の秘密を教えてもらった時。まるで光に包まれるような心地がした。骨の髄から体が生きる悦びに満たされた。決して忘れえぬ、世界を震撼させるような感動。

 本音をいえば、救われた。けれど、決して逃れられない己の罪を見て見ぬふりをすることなど、できるはずもない。この天才錬金術士の未来を見守ることはないのだと思うと、余計に悲しくもある。

 ここしばらく、ホムンクルスを作るためにマクウェルの工房に毎日通い、作業の合間に彼の蔵書を見せてもらっている。限られたひとときとはいえ、彼と過ごす日々は、沈んだ心の陰りをおだやかに照らしてくれている。罪にまみれた夜から抜け出すことはできなくても、星明かりが足元を照らしてくれる。立って歩くことが、できる。

 

「せっかくシランドにいらっしゃったんですから、楽しんでいただければ私も嬉しいです。あと、その、もしよければなんですけど」

 

 エリザは懐から何かを取り出すと、ミスティに差し出した。その手に乗っていたのは、小ぶりな石。一見何の変哲もないように見えるが、ミスティの目には違和感が映った。

 この石、なにかある。

 

「私が以前、学校の設備で作ってみた石なんですけど。これを使うと、なんか薬剤の反応がいいんですよ。良すぎてちょっと失敗したりしちゃったんですけど……今の私には使い道がないので、もし使えるとしたら使っていただきたいなあ、って思いまして」

「反応が良い? 何の薬剤の?」

「ええと、特定のものじゃなくて。全体的に」

「全体的に? ……どうやって作ったの? レシピは?」

「大聖堂からいただいた聖なる水の力を、石に封じることができないな~って思いながら作って……すみません、レシピは残ってないです……」

 

 分離、結合、蒸留、分留、煆焼、凝固。あらゆる自然の操作のためにはいかなる過程もおろそかにしてはならない。詳細なレシピを書き留めずに錬成を行うなど信じられなかったが、それ以上に信じられないのは。エリザのいうことが本当であれば、この石はあらゆる物質の変質へ作用するかもしれない、ということだ。そんな効果を持つ石、聞いたことがない。

 もしもそれが本当であれば。

 

「“秘められた石”……?」

「?」

「……ありがとう。ありがたくいただくわね」

 

 試してみる価値はある。ミスティはハンカチでその石を包んで懐にいれると、いつものようにチップを渡した。

 

 

 

「……たしかに、」

 

 ホムンクルスを育てている炉の傍らで、単純な薬剤を蒸留するだけの簡単な実験を行う。エリザから譲ってもらった石を媒介にすると、反応がとても良い。正しく測り、定められたレシピ通りに手順を進めているのに、得られる効果が妙に多い。

 

「……すべての物質の変質を誘発することができる石……世界の理を司ることができる石……」

 

 それは。それは、すべての錬金術士の悲願である。哲学者の、

 

「ミスティさん、昼食の時間ですがいかがですか」

「──ええ。片付けたら行くわ」

 

 蒸留に使っていた器具を手早く片付け、薬剤は机の上へ、洗った器具は水切り台に伏せ、石を懐にしまう。

 形を成してきたホムンクリの白い塊が、脈打つようにうごめいた気がした。

 

 

 

 ホムンクルスを作る材料は、精液と薬草と夜露、そして血。血以外の材料を撹拌して蒸留器に入れ、呪文を描いた羊皮紙の上に置く。

 

「レシピでは一月となっているけれど、状態を見て次の段階に進めそうなら進むわ」

「必ずしも数値にこだわるなと」

「ええ。命だもの」

 

 おおよそ月の巡りが一周するころ、透明な物質があらわれる。

 

「……妙に反応がいいわね」

 

 だが今回は、ひと月もしない間にその透き通った命のかけらがあらわれた。

 それに人間の血液を与え、ルムの胎内と同じ温度に保ち、フラスコを温め続ける。

 

「温度が一定に保たれればいいのだから、私たちは石を使うわ」

「火でなくても良いのですね。その石、とても便利ですね」

「私たち、この石を作ってから火打石を使ったことがないわ」

 

 炎の術が封じられた石を炉に配し、温度を一定に保つ。

 そうしてまた月が一周巡るころ。

 

「成功ね」

 

 フラスコのなかに、小さな小さな命が生まれた。

 精液と薬草の質で属性が変わるが、様子からして星の恵みを宿すホムンクルスのようである。ふわふわと宙に浮き、星のきらめきを発しながら、まどろむようにガラスの中を泳ぐ。

 この小さい人工生命体は、フラスコの中でしか生きられない。

 

「とても聡明そうな子だわ。材料が良かったのかしら」

「……」

 

 材料の生産地はあいかわらずの無表情だが、何か言いたそうにしつつ何も言い出せない彼の心うちが手に取るようにわかるミスティはベールのしたで声を出さずに笑った。

──本当に。彼と一緒にいるあいだは、気がまぎれる。決してあけない夜のなかで、それでも心は軽くなる。

 

「見事なものですね。ホムンクルスをこんなに安定して生み出せる錬金術士、アンサラー老以外に知りません」

 

 製作中、とても細やかに、熱心にメモを取っていたマクウェルは、結果を前に感嘆の息をはいた。ホムンクルスを作れる錬金術士はそれだけで相当な実力を持っており、作り出した実績のある錬金術士でも、成功率は50%と言われる。マクウェルも何度も挑戦しているが、実際に成功率はそれくらいである。

 それを予備のフラスコも用意せずに、一回きりでこのひとは成功させた。

 

「十月十日お腹の中で育てるより、気が楽なものよ」

「……、お子さんがいらっしゃったのですか」

 

 結婚して離婚していたどころか、子どももいたという新たな事実にマクウェルは戸惑う。

 あでやかな美貌とすらりとした体型、まったく崩れていない豊かなバストは、とうてい経産婦には見えない。意外に感じるのは、子どもができる前に離婚していたのかと勝手に早とちりしていたからだとたった今思い知らされた。

 

(このひとを手放してしまうような男がいるなんて、信じられない)

 

 ずっと憧れていた女傑は、あずかり知らぬところで、マクウェルがまったく知らぬ男と生涯を共にすると覚悟を決めて、結婚して、子どもも産んで。そして別れを選んだのだ。その事実に、妙に複雑な気分になる。

 

「ええ。もう、命を落としてしまったけれど」

 

 ミスティの温度のない言葉に、一気に空気が冷える。

 このご時世、めずらしいことではないにせよ。喪失の辛苦ははかりしれない。それも、自ら腹を痛めて産んだ我が子を。このひとは喪っていたのだ。

 

「水銀と硫黄と硫酸の翼を持つ者でも、幼子の命ひとつ守れないなんて、無力なものね」

 

 真理を求め、世界の謎を解き明かし、万物の始源(アルケー)を問う者たち。

 

「それどころか、あの子の魂は……」

 

 神秘に想いをはせるだけではなく、自らの手で操作することを望む業を背負った者たち。

 

「鉢の祭壇ではこうして命を作ることを赦されているのに、どうして人間は……自然のままにしか産むことを許されていないのかしら」

 

 人々が無意識のうちに受け入れている世界を一度すべて疑い、法則を見出そうとする。その始まりであり果てである、渇望のひとつは。

 

──魂についての文献が読みたいのだけれど、あるかしら──

──錬金術の理論によれば、魂を除いたありとあらゆる存在を人の手で生み出すことは確かに可能よ──

──ねえマクウェルくん。魂玉石(こんぎょくせき)ってご存知?──

 

 彼女は、この工房で何の文献を探していた? 何を目的に、シランドまで来た? これほどの錬金術士が戦時中にわざわざ国境をこえてシランドまで来た理由、──魂玉石(こんぎょくせき)を作りうる唯一の錬金術士。

 

「まさか貴女、人体錬成の禁忌を……」

 

 氷のような静かな、薄く砥ぎぬかれたほほえみに。暗く沈んだ青い瞳に。マクウェルは察してしまった。

 この錬金術士は、死を克服しようとしている。

 

 

 ミスティはその名を継ぐとき、その由来を知る。

 秘匿されし神秘錬金術(ミスティカ)。魂を蒸留し肉体の楔を外し、肉体という基体から魂という精気を分離させ、望む魂を宿らせる。

 幾重もの暗号に守られた秘められし術を、ミスティ・リーアは受け継ぐ。ミスティが編み出してきた技はすべて、余すことなく受け継ぐがゆえに。

 その禁術の実行に到達したミスティは、過去にたったひとりだけ。その術を編み出した本人、初代ミスティだけだという。

 

 

 何を言っていいのか、わからない。

 マクウェルもディオンを失った時、誰の言葉も響かなかった、届かなかった。どうしようもない現実を、ただただ受け入れるしか。受け止めるしか、なくて。いまだに心の整理などついていないのに。

 ずっと憧れていたこのひとと逢い、共に過ごすうちに、悲哀の痛みが薄れてきた。口にはせずとも、救われていたのだ。

 だが、このひとは。よりいっそう深い絶望のなかで、今まさに真っ暗な夜のなかをさまよっている。

 そしてこのひとは、骨の髄まで錬金術士だ。マクウェルが思いもしなかった、おとぎ話だとして無意識に選択肢から外していた、死者蘇生、人体錬成を。このひとは。このひとは、死を克服しようとしている。錬金術士として。

 だがそれは、禁忌だ。

 同じ錬金術士だ、その心意気を知れば、挑戦したい気持ちはわかる。共感してしまう、理解してしまう。だが、それは、あらゆる学会で禁忌とされている。

 それを成そうとすることすら明るみになってしまえば、あらゆる学会から追い出され、二度と門戸は開かない。

 “ミスティ・リーア”は二度と表舞台に出てこれなくなる。

 そうなれば、先人達の闘争の歴史は終わって──いや、おそらく彼女は。その前に次代のミスティにすべてを託して、ひとりの一錬金術士として禁忌を。

 だが、それは。本当に彼女のためになるのだろうか。迷いなく背中を押せない自分は、錬金術士として至らないだろうか。

 なによりも、このひとは。想像を絶するほどに、傷つき悲しんでいたのだ。ずっとそばにいたのに、自分はそれに気付きもせずに。

 

「……、こ……」

 

 このひとのために、何か。何かできることは、ないだろうか。このひとの心をわずかでもなぐさめることができるような。何か、何か。

 

「猫は、お好きですか」

「猫?」

 

 唐突な提案に、ミスティが首をかしげる。マクウェルもなかば苦し紛れだったが、選択肢としては間違っていなかったと、思う。

 

「ええ、まぁ、好き……だけど」

「我が家にたくさんいるのですが、遊びにいらっしゃいませんか」

 

 居住棟の屋敷で完全室内飼いにしている数匹の猫たちは、危険な薬剤や薬草がある工房には一切寄せ付けていない。マクウェルの衣服は常にメイド達が手入れをしているため外出時に毛がついているようなこともなく、ミスティが知る機会はなかっただろう。

 猫は良い。ただそこにいるだけで愛おしく、そばにいれば更に愛おしく、じかに触れればよりいっそう愛おしい。わずかでもなぐさめにはなるだろう。

 

「……ふふ、ありがとう。お邪魔させてもらおうかしら」

 

 あでやかに微笑む彼女の陰りは、悲しみによるものだったのかと。今更知ったことが悔しく、何ができるわけでもないことがやるせなく、もどかしい。

 

 

 

「お帰りなさいませ、若様。本日はお客様もご一緒で。ようこそお越しくださいました」

「ああ。頼むよ」

「かしこまりました」

 

 居住棟の屋敷に向かうと、玄関先で従者が待機しており、流れるように扉を開けた。詰め所から主人が帰ってくるのが見えたのだろう。

 

「すみませんミスティさん。私、湯浴みをしてきますのでくつろいでいてください。よろしければ、ミスティさんも入られますか?」

「あら、大胆なのね」

 

 おそらく違う意味だろうがミスティがそう言ってみると、マクウェルは表情の薄いままに耳まで顔を真っ赤にした。

 

「っ、ち、がいます、女性用の湯殿が、ありますのでっ」

 

 表情にあまりでなくとも、口調や声音、雰囲気で機嫌や機微が丸わかりなことに自覚はあるのだろうか。ほんとうにからかいがいのある男の子だ、とミスティはクスクス笑った。従者も笑いをこらえているように見えるのは気のせいではないだろう。

 

「もしかして、猫ちゃんのため?」

「ええ、香水を落としたくて」

「そういうことなら私も入らせてもらおうかしら」

 

 香水に使われる精油は猫には毒だ。 万が一つけたところをなめてしまえば、最悪の場合命に関わる。

 体を洗い終えるとカジュアルラインのシンプルなドレスをすすめられ、袖を通した。着ていた衣服はクリーニングしてもらうことになり、早くとも翌日の仕上がりになるという。

 ベールがないと少し落ち着かない。顔をさらけ出してこの街にいるのは。

 ドレスにあわせて髪の毛をまとめられ客間に通されると、ソファに腰掛けたマクウェルが膝の上でくつろぐ二匹の猫をなで、ソファの背に立って体をすりよせている猫に顔を寄せていた。

 扉のひらく音に顔だけ向けると、普段と違う格好をしたミスティを照合するようにじっと見つめる。

 

「……、お似合いですね」

「ありがとう」

 

 身分からして社交場にも参加しているのだろうから、女性相手にはお世辞の一つでも言えるのだろう。と軽く流したミスティは、この男がどんな状況であれ世辞をまったく言えぬことを知らなかった。

 ミスティが考えるよりマクウェルは不器用で独善的で、社交性が低い。錬金術士同士であり話が通じるからこそ二人の間でコミュニケーションが円滑に成立していることに、お互い気付いていなかった。

 

「座ったままですみません。どうぞおかけください」

 

 猫のために体を動かせないのだろう。ミスティが向かい側のソファに腰掛けると、元気の有り余ったような猫が、人見知りせずに足元にすりよってきた。

 

「まぁ」

「一番人懐っこいヤツなんです。よければ抱っこしてあげてください」

 

 ニャァンと甘えるように鳴く猫は、マクウェルの言うとおり手を差し出しても逃げない。

 

「あら、まぁ、うふふ」

 

 やわらかな体をそっともちあげて抱きかかえると、喉をゴロゴロ鳴らして体をくねらせ、自らちょうど良い位置におさまる。

 

「かわいい……」

 

 喉元をくすぐると、気持ちよさそうに目を細め、体の力を更に抜く。なんともかわいらしい姿とぬくもりが、いとおしい。

 

「ふふ、うふふ」

 

 ──あの子が生まれたときも。とても小さかった。

 悲しい気持ちが蘇り、胸の奥からはり裂けてゆくような痛みが広がる。ぬくもりを感じていたくて、腕のなかの猫を抱きすくめる。じゃれていると思ったのか、猫は逃げずに体をすりよせてくれる。

 あの愛しいぬくもりが、恋しい。

 

「……もし差し支えなければ、シランドにいらっしゃる間、こちらに滞在するのはいかがですか?」

 

 マクウェルが静かに提案する。若い独身の男が主人の屋敷に若い女性を長期滞在させるのは、互いに体裁があまり良くないと考え控えていたが、すこしでも。すこしでもこのひとをなぐさめたい、寄り添いたい。ひとりで悲しみに沈むくらいなら、受け止めたい。

 

「……、それはとてもありがたい申し出なんだけれど……あなた、結婚してないとは聞いていたけど、恋人や婚約者はいらっしゃらないの?」

 

 ミスティが懸念する通り、独身の方が厄介である。結婚していれば、家族全員で公然と客をむかえればいいだけの話になる。ミスティ・リーアという実績が多くある錬金術士を客として迎えることはなんら不自然ではない。だが恋人や婚約者がいるのなら、下手をすれば修羅場になる。

 

「今はいませんのでご安心ください。たとえいたとしても、賓客を迎えることが後ろめたいことだとは思いませんが」

「ふふ、……そうね」

 

 口では賛同したが、こいつ絶対女心分からないせいで恋人と別れたことあるな、とミスティは確信した。

 

「……、あ、いや、その、別に口説いてるわけでもない、ので。ご安心ください」

 

 男系社会の上流階級に生まれながら、女性への偏見や先入観が少なく。それでいて人並みに女性を意識する面もあり。典型的な女心の分からなさも備えている。けれど頭の回転が早いからか配慮はできる。いい意味でも悪い意味でも常識にとらわれず、実直だけれど不器用で、だからと言って模範生というわけではない。

 

「あら、違ったの? 残念」

「……からかわないでください」

「ふふっ」

 

 かわいらしくて、ついついからかいたくなってしまう。このひとと一緒にいると、気がまぎれて心が軽くなる。暗澹たる闇夜に、星あかりが灯るように。

 

「サーヴァントルームのある部屋を用意しますので、お伴の方もご一緒に……」

「その必要はないわ。私、ひとりで来たから」

「!? あ、アーリグリフから、お一人でここまで!?」

 

 今までにないくらい大声をあげたマクウェルに驚いた猫達が一目散に逃げていく。当の本人はまるで最初にレストランで会ったときのように、驚愕に目を見開いていた。

 

「そ、そんなに驚くことかしら……」

「女性ひとりで長旅など危険でしょう! たしかに姿が見えないとは思っていたのですが……、道中何事もなかったのですか!?」

「ええ、別にそんな……特筆するようなことはなかったわ」

「本当ですか……? いえ、何事もなかったのならそれでよいのですが……」

「……ふふっ、ふふふふッ」

 

 どこまでも真剣な様子のマクウェルには悪いが、どうしても。どうしても、笑いを抑えられない。

 

「あはは、ふふっ、もう、あなた、そんな……」

「いや、笑い事ではないですからね。お帰りの際はうちの者を誰かしらお伴させますので」

「ふふふ、ありがとう…」

 

 どこまでも真摯で、誠実で。賢く、聡く、やさしい人。

 このひとなら。このひとなら、わたしは。

 

 

 

 

 ソロンの導き亭に置いておいた荷物をバッグとケースに詰めると、マクウェルの従者が軽々と持ちあげて馬車まで運んでゆく。途中で部屋の移動はあったが、それなりの期間を過ごした場所を離れるのに、ささやかなさみしさも感じる。忘れ物がないよう見渡すと、貴重品をいれたポシェットを手にベルカウンターまで向かう。

 

「あ、ミスティさん! もうこちら出て行っちゃうって聞きました。さみしいですが、どうかお元気で!」

 

 カウンターにいたのは、豊かな金髪を高い位置で二つ結びにした、晴れた空のような明るい青の瞳と、陽気な笑顔が印象的な少女。この宿に泊まっている間、よくお世話になったエリザだ。

 

「ありがとう。エリザちゃんも、お仕事がんばってね」

「はい! あ、お支払いはクラークス家の方が済まされましたので結構です」

「あら、そうなの……」

 

 荷物の移動を手伝うと申し出てくれた時点で正直そんな予感はしていたが、まさか本当に全額支払っていくとは。クラークスにとってはささいな額なのかもしれないが、もらいっぱなしでは収まりが悪い。滞在中に何かしら礼をしなければ。やることがひとつ増えた。

 

「ねぇ、エリザちゃん。前、石をいただいたわよね。実験に何度か使ってみたんだけれど、素晴らしい出来だったわ。だから、譲ってもらうんじゃやっぱり私の気が済まないの。支払いが遅くなっちゃったけど、お代、受け取ってくれないかしら」

「ほえ!? え、そ、そんな大した……ものなんでしょうか……」

「ええ、とても。相応の対価ではないかもしれないけれど、どうか受け取って」

 

 ポシェットから、事前に用意していた封筒を取り出す。そしてそれとは別に、エメラルドをあしらったピンキーリングを渡す。

 

「これはお守り。ここにはね、風の呪文と、風のホムンクルスが宿っているの。もしも身に危険が迫ったら、この中で眠っている風の力に助けてってお願いして。ただ、力に限りはあるから、よく“見て”ね」

 

 ミスティが“見た”ところ、施術士の娘であるエリザにも施術の素養はある。無自覚なようだが、意識してよくみれば施力の流れを感じ取ることくらいはできるだろう。

 

「おお……! いいんですか、こんな高価そうなものいただいてしまって……!」

「ええ、どうか受け取って。これから先、あなたが本当にやりたいことをやれるよう。もしそうでなくとも自分の意思で自分の人生を選びとれるよう。祈ってるわ」

 

 清らかで聖なるアペリス神ではなく、炎と鍛治を司る、わが故郷のいにしえの神へと。

 どうか、理不尽な現実にその笑顔が曇ることがないように。不屈の精神でもって、人生を切り開けますように。

 

 

 

「は~……ほんとうに、きれいなひとだったなぁ……」

 

 マクウェルの従者にいざなわれ馬車に乗り込み、ソロンの導き亭を後にしたミスティを、見えなくなるまで見送る。憧れの錬金術士であり、長期滞在していたこともあり、他の旅客よりも親しくなった美しいひと。

 右手の小指にはめた指輪をよく見ると、何かが揺らめいているような気がした。

 そしてふと、学生時代に偶然できたあの石に、あのひとは一体いくらの価格を付けたのだろうかと気になり、詰め所に戻ってから妙に分厚い封筒を開いた。

 

「!!?」

 

 そこには最高額の紙幣がびっしり詰まっており、驚きのままに数える。ミスティ・リーアはエリザが作った石に、施術学校の入学金および一年間の学費相当の価格を付けていた。

 

 

 

 

「この石があれば……あとは……」

 

 器を、用意しなければ。

 これから向かう屋敷の主人の姿を思い浮かべる。

 どこまでも真摯で、誠実で。賢く、聡く。……やさしいひと。あのひとなら。あのひとだから。

 

「……エリー、あなたの魂を……ママが必ず、」

 

 

 

 

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