シランドの屋敷にいる日は毎晩、居間のソファで猫と本、そして酒と共に過ごすのがマクウェルの日課だ。湯浴みも食事も終え、あとは眠るだけのひとときに、猫と戯れ、趣味の本を読み、酒を嗜む。この孤独で自由な時間があるからこそ、心を定め、日中研究に没頭することができる。
日中は工房にいるのでもない限り、常に従者が付き従う。正真正銘ひとりでくつろげる時間がほしくて学生時代からはじめた習慣は、時がうつろった今でも続いている。もちろん、ベルを鳴らせば気付くぐらいの場所で待機はしているのだが。
ソファに体をあずけ、窓越しの夜空に輝く三つの月を眺め、祖国からとりよせたウイスキーをなめるように少しづつ味わう。
このときに読む本は錬金術関連のものではなく、詩集や文学、図鑑など、純粋に趣味のものが多い。だが今はどれも読む気にはなれず、ページをひらいても目が滑り、活字を追えない。あきらめて本は閉じ、猫たちをなでながら思考にふける。
どうすれば、あのひとは人体錬成をあきらめるだろうか。
禁忌をおかしても構わないほどの悲哀に苦しんでいるがゆえであれば、その悲しみをなぐさめればよい。だが、かけがえのない存在を喪った苦痛は、やすやすと癒えるはずもない。
しかし。人体錬成、死者蘇生、すなわち死の克服は、世界の謎を解き明かし、自然の理を探り操ることと同義ではないだろうか。その挑戦は、錬金術士としてはまっとうなものではないだろうか? 善悪も倫理も、しょせんはその時代時代の人間社会の秩序のためのものだ。古代なら、遙か未来なら、ミスティの秘めたる挑戦は禁忌とされるのだろうか?
だが現実に、あらゆる学会は人生錬成を禁忌と定めている。明るみになれば、もう二度と表舞台に立つことはできない。とは言え、彼女にとってはそれはさしたることではない。ミスティ・リーアの立場を利用して知識と材料を集めた後に、次代のミスティにすべて託し、あとはひとりの錬金術士として。バールの山奥でひっそりとこっそりと、錬成してしまえばいいだけのことだ。
その先に、何が待っているのだろう。成功か、失敗か。錬成というものは、何かを生み出すということは、物質を変質させて何かを失うということ。特定の人間の命を錬成するにあたり、対価は一体なんだというのか。
そもそも、なぜ人体錬成は禁忌とされている? 詳細な規定を調べなければ。もしかしたら抜け道もあるかもしれない。仮に倫理観の問題というわけではければ、悲惨な先例があるということだろうか? だが、ミスティは。あの暗い瞳は。リスクを承知でいるようにしか見えない。説得材料になるかは不明だが、それでも情報は必要だ。
アンサラー老ならば知っているだろうか。そう、アンサラー老。おそらくミスティは、アンサラー老に
そしてアンサラー老は断り、ミスティは自分で錬成するために文献を探っているのだろう。アーリグリフでは手に入りにくい、施術やそれに基づく知識を集めるために。
彼女を突き動かす喪失の痛み、情動。優秀な錬金術士であるがゆえに目の前にある選択肢。
自分は、唯一無二のライバルであり友人を喪っても、その選択肢をあげることすらしなかった。ただただ喪失を嘆き、現実に憤った。それは錬金術士としての未熟ゆえか、学者としての怠慢ゆえか。
「お前ならどうする? ディオン……」
猫以外誰もいない空間に、酒を片手にひとり呟く。堂々巡りだ。
思えば、この猫たちはディオンが連れてきた。五匹いる猫のうち二匹は、学生時代にシランド城の敷地で保護した猫だ。住み着いていた野良の母猫が出産と同時に亡くなり、生まれたばかりの子猫たちが鳥に狙われているところをディオンが見つけた。
寮暮らしであったため動物を飼えないディオンは、私有地の屋敷に住んでいる上常に使用人がいるという、動物にとって完璧な環境を持つマクウェルに助けを求めてきた。穏やかな風貌と優しげな性格をしておいて、抜け目のないところがある男だった。
使用人一同大慌てで、獣医を呼んで指示を仰ぎながら全員で生まれたての子猫を必死に育て、六匹の猫を一匹も死なすことなく離乳まで持っていった。
そして顔の広いディオンが呼びかけても全匹里親は見つからず、結局最後に残った二匹をマクウェルがそのままひきとった。その二匹がつがいとなって子を産み、譲り、そして三匹残り、五匹の猫たちはマクウェル邸での暮らしを謳歌している。
受け身な出逢いではあったが、今ではどの猫もかけがえのない存在である。要所要所に猫用の小さく軽い扉をつくり、猫にとって危険なものが表に出たり放置されないよう、使用人一同徹底している。餌係は立候補者があまりに多かったため、主人も含めて全員で当番制になった。
最初の一件でディオンは使用人全員に顔と名前を覚えられ、気軽に訪ねてくるようになった。
ディオンは、自分の先を軽々と行っていた。勉学の面でも、人付き合いや社交も、何もかも。いつの間にか懐に入ってきて、気付いたら共に歩んでいた。
死んでいい男では、なかった。
「実は、ずっと会いたかった幼馴染に会えたんだ」
ディオンがアリアスに発つ前の日のこと。彼を招いて共に食事をとったときのことを思い出す。慈しむような、不安なような、使命に臨むような、様々な感情がないまぜになった表情で、ディオンは感慨深くそう言った。
「それはよかったな。彼女の方がこっちに来たのか?」
「ああ。病気を患っているのに無理をして……」
「医者が必要か」
「いや、ツテで施術部隊の医者に見てもらえてる。……ありがとう」
ディオンは生まれ育ったペターニで、幼馴染のアミーナと仲睦まじくしていた。だがディオンがシランドの施術学校へ入り、アミーナがアーリグリフに引っ越し、手紙のやり取りだけがふたりをつないだ。
その文通すら戦争によって途切れてしまい、お互いがどこで何をしているのかすらわからなくなってしまった。
そのアミーナが病に侵された体で、噂を頼りに無理を押してシランドまでやって来たという。ディオンに会いたい一心で。
「彼女のためにも、シーハーツの勝利でこの戦争を終わらせないと……って、お前に言っていいことじゃないけど」
「構わん。実のところ、増えた人口を養える耕作地さえ確保できれば十分なのだから、そろそろ講和に持ち込むだろうと見込んでいたんだが。アリアスなど必要ない、喉元に刃をたてるようなところに国境を定めれば不要な緊張を生む」
「言うなぁ~!」
「あくまで俺個人の意見だがな。首脳部はどう考えてるか知らん」
「まぁなぁ。正直、アーリグリフ領の方がいいっていう村は無理に奪い返す必要ないとは僕も思うし……」
「お前こそ、今の発言密告されたら売国奴扱いだぞ」
城の片隅で、お互いの部屋で、マクウェル邸で。決して公にできない内輪話を何度したことだろう。戦争がはじまり属する国が敵対しても、ディオンは変わらずに接してくれた。とはいえ、周囲の人間はマクウェルに同情的な人が多く、それまでの実績もあり、さして迫害を受けたわけではないが。
いつか。いつか、戦争が終わり、情勢が落ち着いたその先に。シーハーツはディオンが、アーリグリフはマクウェルが率先して、武力や兵器による国力と国土の削りあいではなく、知力と発明による経済の発展と競争により、互いの国が繁栄することを。マクウェルはずっと、そんな夢を心に秘めていた。
祖国アーリグリフはシーハーツに比べて土地が痩せており規模が小さく、現王の改革前までカルサアの鉱山にすべてを頼りきった小国に過ぎなかった。それ故に、アーリグリフ領の方が都合の良い立地にある村々ですらシーハーツ領のままであったのだ。
カルサア寄りの村は、東側まで行商に行くコストを考えれば、カルサアに農作物を卸した方が楽だ。だが関税で稼ぎを制限される。アイレの丘の村民もカルサアの住民たちも、共に関税さえなければ、と何十年も言っていた。この戦争でアーリグリフ領になり関税が撤廃されたことで喜んでいる元シーハーツ領の村は、実際に多数ある。
数年前まで現地人の現実に即した領土主張すらできなかったのは、ひとえに力が足りなかったからだ。現王はその力を武力に求めたが、マクウェルはその更に先は、知力によらなければならないと幼い頃からずっと考えていた。それはミスティ・リーアに影響されてのことでもある。
錬金術を志したのはミスティ・リーアの本に感動したことがきっかけだが、人生を錬金術に捧げようと覚悟を決めたのは、そうすることで、いつか尽きる鉱山という資源に頼らずとも、国を再興できると信じたからだ。
自然哲学、数学、施術、神学、天文学、占星術。すべての分野に造詣が深くなければならない錬金術をおさめることができれば、アーリグリフに帰った時、次世代を高いレベルで教育することができる。
武力による外交は直接的な痛みを伴うが、経済戦争は軌道に乗れば人の死より生が勝る。すくなくとも国家間の感情はマシになる。
アーリグリフはマクウェルが。シーハーツはディオンが。次世代を育み、民衆の教養レベルを底上げし、創意工夫による経済活動を活性化させる。
そうすれば、両国は良好な関係を築き、切磋琢磨してゆくことができるのではないだろうか。
そんな夢を、見ていたのだ。
それはもう、打ち砕かれてしまったけれど。
「お前たちを助けた男は、もういない。お前たちより長生きするのが道理なのにな……」
古株の二匹をなでながら呟く。よくこの屋敷をたずねてきていたディオンを、猫たちは覚えている。だが、彼はもう二度とここに来ることはないのだと、理解できるだろうか。
猫たちには知る由もないことだが、主人の気分を察してくれているのは事実だろう。気まぐれで気高く、ふとした折に甘える猫たちが、星の船の犠牲になった人々の合同葬儀に出席して帰って来たとき。五匹が五匹、マクウェルにまとわりついて離れなかった。
喪失の痛みは決して埋まることはないが、寄り添ってくれる存在がいることに、過言なく救われた。
あのひとには、救いはわずかでもあったのだろうか。
コンコン、と控えめに扉を叩く音に我に帰る。
「何かあったか?」
従者だろうかと思い声をかけると、扉が遠慮がちに開く。こんな開き方、使用人はしない。用があれば迷いなく開ける。
「、どうしたんですか、」
姿を見せたのはミスティで、すでに室内用のドレスから就寝用のナイトウェアに着替えている。妙齢の女性がそんな姿でわざわざ男の前に来たことに、マクウェルは少なからず動揺した。
「この子、廊下で遊んでたんだけど。なんだか、マクウェルくんに抱っこしてほしいみたいだなって思って」
ね? と腕のなかの猫に笑いかけるミスティは、まるで慈母のように優しい顔をしていた。
「……おいで」
変なことを考えかけた自分を恥じ、手をのばす。ミスティが歩くたびに、薄布越しに脚のかたちがうっすらわかってしまう。猫を受け取ろうとした手に、前屈みになったミスティの髪の毛がサラリとかかる。見えてしまう谷間を見ないよう目を逸らすと、やわらかいものが手にふれる。同じ手なのに、別物かと思うくらいすべらかでやわらかい。良い香りがふわりとただよう。
──感情と思考を切り離す。理性で己のすべてをコントロールするのは、人間としての嗜みであり品位だ。
猫を無事に受け取ると、胸の前で抱きかかえる。小さな口をめいいっぱい開けてあくびをする様子をいとおしんでいると、ふいにすぐ隣に、やわらかくてあたたかいものが、おりてきて、
「このウイスキー、アーリグリフの? いただいてもいいかしら」
なんと答えたらいいか、わからなかった。
夜更けにふたりきりの部屋で、無防備な格好で、こんな。体温を感じるほどに近く。
せめて新しいグラスを持って来させる、と口に出そうか迷っている刹那、ミスティがそのままグラスを手に取る。
「おいしい」
グラスに残っていたぶんを飲み干したミスティが、急に口をきかなくなった男を楽しげにのぞきこむ。男は、月明かりに照らされたかんばせのうつくしさを楽しめばいいのか、薄地のナイトウェアに包まれた肢体を遠ざければいいのか、判断できずに固まっていた。
女はほほえむと、そっと距離をつめ、隙間のないくらいに体を寄せた。甘えるように、肩に頭をもたれかける。
もう、なにも言い訳できない。
「……、……、……、……貴女が猫になってどうするんですか」
まったく回らない頭で、やっとの思いでひねり出した言葉がそれだった。肌のやわらかさが、ほてった体温が、つたわってくる。
足の周りに猫。腕の中にも猫。すぐ隣にミスティ。微動だにできず硬直した体は感覚が鋭くなり、三者三様のやわらかさが襲いかかる。体が、熱い。感情と、思考を、わけられない。熱が、まわる。
「ダメだった?」
「……、……、……」
猫とはまったく違うやわらかさ。女性のやわらかさ。ひさしぶりの感触に、想定外の状況に、常にめまぐるしく回転している頭が、思考が、完全に止まる。
錬金術士として尊重するために、そういう視線を意図的になくし、思考を逸らしていたのに。誘うかたちにならないよう、あらゆる場面で注意を払ってきたのに。
まさか、ミスティの方から、こんな。
「……ごめんなさい、あなたやさしいから、甘えちゃう」
「やさ……初めて言われましたよ」
「うそ」
「神経質だの几帳面すぎるだの無愛想だの、そんなことくらいしか」
「ふふ、その通りね」
「……」
「けど、ほんとうに……やさしいひと……」
「……」
やさしい、など。愛想がなく世辞を言えず歯に衣着せない、そんなマクウェルと良好な関係を続けられる人間など限られており、そのなかで更にやさしい、などという評価をされるなど。
物心着く頃から憧れていた錬金術士に。その知恵を受け継いだ、このひとに。そう、言ってもらえるなんて。これは何かの夢だろうか。
「……あったかい……」
まさか、何か恩を感じて、礼として“そう”しようとしているのだろうか──と勘ぐってしまうが、甘えるように体をすり寄せてくる彼女が、そんな。ことを。考えているようには。思えない、単に欲求不満で手頃な男がいただけなのか、それとも本当に憎からず思ってくれているのか。
だめだ、思考に熱がはいって正常に動作していない。仮説の信憑性がまったくわからない。
「……、あ、の、そんな、くっつかれると……、期待して、しまいます」
「期待って?」
意を決して言葉を絞り出すと、艶やかな声が耳から脳を揺さぶる。ぞくりと肌が泡立ち、思わず視線を斜め下へ向けると、深い青緑の瞳がマクウェルをとらえた。
「やっとこっち向いてくれた」
ほんのり熱を帯びた声も、わずかに潤む瞳も、甘えるように寄り添ってくるやわらかな身体も。すべてが妖しく艶やかで、男の欲を刺激する。
「……いじわるなひとですね」
「あら、いまさら分かったの?」
「いまさらもなにも、こんな……想定外で……」
「こんなこと、誰にでもするわけじゃないのよ」
「それは、……、分かってます、」
どんなに妖艶な格好をしていても。貴女が誰とでも寝るような女ではないことくらい。そう考えると、どうしても。どうしても、期待してしまう。だが、想定外の状況に思考が追いつかない。無防備なところに不意打ちをくらい、なにも取り繕うことができずに反射的に言葉を返す。
この上なく緊張しているマクウェルの紅い瞳を、ミスティはまっすぐ見つめ続ける。おそらく、心を見定めるために。マクウェルは真剣なその目から視線を逸らすこともできず、内心混乱しながら表情は相変わらず変わらないまま、呼吸をひそかに整える。体が、熱い。
「あなたがほんとうに迷惑ならやめるわ。無かったことにしてちょうだい。どうせ私、長くはいれないのだもの……でも、すこしでも……いいなら……このままでいさせて……」
「……、迷惑だなんてことは、ないのですが、貴女は……ずっと憧れていた錬金術士で……」
「失望した?」
「いえ……、手の届かないひとだと……思っていたので……」
「あら、私、あなたの手から逃げないわよ」
視線が絡みあい、体の内から熱を孕む。ミスティの視線も仕草も、ほんのわずかな動きが、マクウェルの感覚を刺激する。
「どこでも、届くのよ」
大胆なことをしているのに、まったく下品に感じないのは。
「……本当にいいんですか。私が、貴女に触れて」
自分の気持ちに蓋をしていただけで、心の奥底では望んでいたからだろう。こうなることを。
理解してしまった。彼女の手がふれたとき。彼女のやわらかさが薄布越しに伝わってきたとき。静かに抱いていた感情に、名前がついてしまった。いまではもう鮮明に、燃えあがるように理解してしまった。うすくらがりのベールが、ひきずり落とされる。
このひとが、いとしい。
賢く、美しく、妖艶で、神秘的で。とらえどころがなく、あやうい、このひとを。
はじめて会ったとき、若く美しい女性だからと簡単にそういう対象として見ることが失礼だと頭で考えた。共に過ごすとき、意図的に女性としてより、尊敬する錬金術士として見るようにしていた。
そして、このひとが禁忌をおかそうとしていると察したとき、それほどの深い暗闇に沈んでいると知ったとき。このひとのために何かできることはないかと、後先考えずに必死に動いた。
いつからかはわからない。わからないが、もう。とっくに好きだったのだろう。もしかしてこの人は、それをわかった上で、こんな。
「……あの子がいなくなってから、かなしくて、さみしくて、つらくて、もう、限界」
その言葉に胸が奥まですっと冷え、痛む。
このひとは、まっくらな夜をずっとひとりでさまよって、そして今、禁忌の境界を越えようかというところまで思い詰めて。
「あなただから……、ほんとうに誠実で、やさしいひとだから……」
ぬくもりを欲しがるのは、当然のことだ。
「……他の誰でもない、あなたに、抱いてほしいの」
艶やかなくちびるがそうはっきり告げた途端、わずかな罪悪感を覚えながら腕のなかの猫をソファにおろす。連鎖するように、目を覚ました膝の上の猫がのそのそと去った。
その猫がやや離れたところで体を伸ばす頃には、ふたりの影は折り重なっていた。