深く、深く呼吸をする。
己の感覚を押し込めるように、目を閉じて息を整える。
ゲート内、最後方に立ち、全身の力を抜く。
今、使う機能は聴力だけでいい。
セラフィナイトは、意識を集中させた。
そして、耳に届くのはスターティングゲートの起動音。
ランプが付き、ゲート開閉の為の金具が動く。
その音を聞き逃さない。
フライングにならない、絶妙なタイミングで身体を前へ倒していく。
ガコン、という衝突音が鳴ると、セラフィナイトは既にトップスピードを発揮していた。
「な、ななななんデスか、あれ! トレーナーさん! 解説! 求む! デス!!」
エルコンドルパサーが、レースとトレーナーを見比べながら必死で懇願する。
あまりにも期待通りの反応が見られて、解説者は鼻高々に顔を紅潮させながら答えた。
「セラの耳の良さは、みんなもご存じでしょう。
合宿の間に、徹底的に鍛えてね。あの子、今はゲートの起動音も聞こえるんだよ」
「ケ!? つ、つまり…………どういうことデス?」
飲み込みの悪い友人に困った笑顔を向けて、グラスワンダーが継ぐ。
「ゲートが開くのと同時に、駆け出すことが可能になった というわけですね。
訓練した私たちでも、開扉を察知は出来ません。せいぜい、コンマ一秒でも早く動けるよう反射神経を鍛えるぐらいでしょうか」
「でも、それにしてたって先頭に立つのが早すぎたような……?」
「スペちゃんとの特訓中は、まだ習得してなかったものがあるからね。
あれこそが、我々チームアルタイルの代名詞……になる予定の『最速スタートダッシュ』を可能にさせる技術、縮地!」
「しゅくち……?」
「……日本古武道における特殊な足運びですね。なるほど……それをウマ娘の走りに応用した、と……」
日本文化に造詣の深いグラスワンダーは、心当たりがあった。
しかし、実際に競争の場に用いるということは考えもつかない。
フォームに組み込むのも難解であるし、そもそも一朝一夕では身に着けられる技術でもない。
相当な経験者でなければ、実現しない動きなのだ。
グラスワンダーが真似ようとしても、時間を必要とするだろう。
合宿期に、隠れて練習した甲斐もあったというもの。
「そう。セラは、超聴力とその縮地を交えて、唯一無二のスタートダッシュを可能にしたのだよ。……その名も!」
人差し指を空に向け、トレーナーはキメ顔をする。
セラフィナイトの美しい金色の髪。
残像を帯びるように芝へ一直線に伸びていくその様は、空に舞い上がる花火のよう。
その情景を見て、トレーナーは瞬間的に思いついた名前を、今再び口にした。
「天華一閃!」
「てんか……」
「いっせん……?」
(スタート方法に技名つけてるんデス!? ず、ずるい……!! エルも欲しいデース!)
(いわゆる必殺技……みたいなものなんでしょうか。まるでゲームですね~)
(前から思ってたけど、やっぱちょっと変わってるよね。トレーナーさん)
ヒソヒソ話も耳に届かないぐらい、高らかな顔で胸を張るトレーナー。
同チームのキングヘイローとセイウンスカイは、他人のような顔でレース状況をじっと見つめていた。
(よし。まずは良い感じ。後は、どれだけ距離を保ち続けられるか、だね)
後続との差を、徐々に広げながらセラフィナイトは、上り坂を終えた。
前方集団の先頭とは6バ身差、最後方のカルミアボタンとは12バ身ほど差がある。
今日の逃げウマ娘は、セラフィナイト一人。
彼女がレースを作っていく展開になる。
中山レース場の芝2200mは、上り坂を終えてからは緩いカーブと下り坂。
最後の直線以外は、大きく動きがない。
故に、早めにスパートを仕掛けてくるウマ娘も多く存在する。
その間、如何に息をついて力を溜めておけるか。それがセラフィナイトに必要な戦術だ。
(セラフィナイト、本当に走り方が元に戻ってる……。ということは、スタミナ切れは考えにくいかしらね)
先頭から離れた集団の後方の位置。
坂を上り終えてたオルニットは、ハナを進むウマ娘の走りを見て、やや焦りを感じていた。
以前にも述べたが。
セラフィナイトは、ステイヤー向きの体質ではない。
無尽蔵のスタミナを生み出す心臓も、強力な肺機能も別に備えてはいない。
彼女の呼吸を整えさせているのは、その走り方にある。
歩幅を小さく、小刻みに足を動かして瞬間的な力を多く生み出すピッチ走法。
大きな歩幅で、長いレースに耐えうる余力を残せるストライド走法。
セラフィナイトは、ストライド走法で基本的に走る。
縮地の場合のみ、ピッチ走法に近い足運びだが、スタート以外は長い歩幅だ。
一般的なウマ娘が使う走法と、セラフィナイトの大きな違い。
それは、一完歩の長さにある。
しなる鞭のように蹴りだす一歩から着地まで、異様に長い時間を持っているのだ。
筋肉と柔軟性を100%活かしたその動きは、見る者によっては本当に飛んでいるように映る。
ストライド走法ならず、フライト走法と揶揄する者が居るほど特異な走りなのだ。
着地までの時間が掛かるのであれば、身体に余分な力をため込む時間も短くなる。
セラフィナイトは走りながら、その一歩を踏み出すごとに短くとも息をつけるのだ。
肺が強くなくとも、心臓が巨大でなくとも。
常に呼吸を整えられる彼女は、長い距離の、特に後半の混濁した展開にも無類の強さを発揮できるわけである。
全てを取り戻し、新たな力を備えた彼女は今。
先行有利な中山レース場芝2200mレースを、中盤になってもなお後方との差を広げている。
(飛ばしすぎじゃない……? 本当にこれでいいの?)
(絶対後半で息切れするに決まってる! ここは足を溜めて待たないと!)
先行集団の戸惑いが、耳に届く。
仕掛けるべきか、まだ踏みとどまるか。焦りが足音から伝わってくる。
それを聞いたセラフィナイトは変わらず、マイペースでただただ走っていくことにした。
【1000mを通過。ここから下り坂が続きます。先頭は依然、セラフィナイト。
後続との差を引き離しながらも進んでいきます】
【彼女の脚質には合っていますが、ちょっと掛かり気味かもしれませんね】
「どこをどう見たら、そう言えるのかしら。解説の方、本当にわかってるの?」
聞こえてくる言葉があまりに的外れで、ついキングヘイローが苦言を呈する。
「まぁまぁ。私らも、ラフィのこと知らないなら、そう思ってもしょうがないでしょ」
憤るキングヘイローと対照的に、セイウンスカイは穏やかにレースを見る。
ここまでの展開は、慧眼な彼女にとっては予想通り。
後ろとの差を離しつつ、自分は息を入れ、スパートで完全にぶっちぎる。
セラフィナイトの必勝パターンである。
逃げつつも差せる、圧倒的能力を持つ者のみが可能とする究極の走法だ。
(最近の模擬レースでも、あれぐらいの走りは見せてた。
普段との違い……ラフィの、本当の底力が見れるとするなら……)
緩い雰囲気で見つめていた、セイウンスカイの目が鋭くなる。
レースも後半に差し掛かる1500m。
遂に後方集団が動いた。
(前はまだ詰まってるけど! 今ここで離されたら捲る時間も無くなる!)
仕掛けるなら、ここしかない!)
セラフィナイトと初めて走る先行策のウマ娘は、前に出るタイミングを決めあぐねていた。
これ以上付き合うと、取り返しがつかなくなる。
集団の後方に控えていたオルニットは、普段よりやや早めのスパートを仕掛けようと、深く足を踏み込んだ。
(…………来た!)
セラフィナイトも、スパートを掛けることを決意した。
より強化された聴力は、歓声や実況がひしめく中であろうと完全に、後ろの情報が聞き取れている。
彼女が、今ここで勝負の仕掛け時と思ったのは、差しウマ娘のオルニットの足音に変化があったから。
「!?」
と、言うわけではない。
本当に警戒していたのは、驚いているオルニットの更に後ろ。
赤髪金眼のウマ娘……1番人気、カルミアボタンが驚異的な加速力で迫ってきていたからだった。