脚を怪我する前、最後のレース。
最終直線、スペシャルウィークとキングヘイローが末脚を発揮して迫ってきた。
あの時と比較しても、もっともっと恐ろしい。
背後からの強烈なプレッシャー。
大きな足音が、刻一刻と押し寄せてくる。
他の追随を許さない、破壊的な加速。
(ああ、凄い。凄い、凄い! ボタンちゃん、いつの間にこんなに……!!)
既に距離は半バ身差。
ほぼ真横まで存在が近づいている。
レースは残り数百m。
中山レース場特有の、短くも、上り坂のある正念場。
より足を残せたウマ娘が勝つ、最後の勝負所。
(捉えた……!!)
遂にカルミアボタンは横に並び立つ。
下り坂で、充分に作った加速力。
スタミナも万全、1ハロン強なんて訳もない距離。
勝利を確信した赤髪の追跡者は、抜き去り際に敬愛する人の横顔を見た。
(……え……?)
想像もしていない表情が、そこにはあった。
「私さー、ラフィに対して思ってたことがあるんだよね」
「え、何よ」
ターフビジョンで繰り広げられるデッドヒートを見ながら、セイウンスカイがため息交じりに言った。
息を飲んで見つめる場面なのに、突如話しかけられたキングヘイローが戸惑いながら聞く。
「あの子さ、辛い時も苦しい時もいつも同じ顔するじゃん? 特に、こういう切迫したレースだと目立つっていうかさ~」
「だから、何なのよ」
「……ズルいよねぇ」
困ったように手のひらを空に向けるスカイ。
言いたいことはよくわからないが、何となく気持ちは伝わったキングヘイローは目線を戻した。
(やっぱ、ちょっと緊張してたかな。思ったより体が動いてくれないや)
懸命に走っているが、それでもカルミアボタンは接近し続けている。
手を振り、足を動かし、浅く強く息をして。
とにかく前へ進む。
(しんどいし、苦しいし……やっぱレースって、キツイ……)
ネガティブな感情が浮かんでくる。
横からの圧力と存在感が、心に闇を落としにかかる。
(でも……!)
だからこそ……!
(私は……!!!)
――――ウマ娘には。
レース中にある特定の場面に陥ると、不思議な心象風景が浮かぶ者が居る。
辛く苦しい時、余裕を持って走れている時など条件は様々。
星のように流れて駆け出す意欲を沸かせたり。嗜んでいる精神的支柱の習い事を思い浮かべて、気力をあげたりする。
誰も居ない景色を一人走っていくイメージや、中には宇宙を飛んでいく風景を連想するウマ娘も居るそうだ。
決して同じものはなく、それぞれのウマ娘が心に強く願い、糧にしている情景が映るらしい。
そして、それが見えたウマ娘はいずれも、普段持っている力以上のパフォーマンスを発揮できるという。
セラフィナイトが、カルミアボタンに抜かされそうになった時に浮かんだ、その光景は。
闇の中を背後から迫ってくる、まばゆい光。
懸命に懸命に彼女は走り、避わして走っていく。
無我夢中で進んだ先、開けた真っ青な空が目に飛び込んでくると。
輝かしい光が、セラフィナイトの背に翼を与え、強く芝を駆ける力と化す。
その心情風景が見えた時、セラフィナイトに気力が十二分に満たされ。
彼女は驚異の末脚を持って他の追随を許さず、全てを置き去っていくのだ。
(セラ……)
一番前の席に移っていたトレーナーは堪えきれない涙を零す。
窮地に陥った時、もう駄目になりそうな時。
セラフィナイトは決まって……笑うのだ。
無垢な子供のように。
走る喜びと競い合う辛さを、全て嬉しさに変えてしまう。
この状態こそが、セラフィナイトのベストコンディション。
かつて、グラスワンダーと走った時には見せられなかった彼女の本気。
"最強世代"最速のウマ娘は、いつだってこうして
レースで最も辛い瞬間を、楽しそうにただ一人先頭で駆けていくのである。
セラの顔を見て、トレーナーはもう何も心配はいらないと安心し。
ずっとずっと、言いたかった言葉を声にした。
「……おかえり」
最強のウマ娘が、再びトゥインクル・シリーズに戻ってきた。
【並び立たれたセラフィナイトが残り100mで一気に加速!
後続のカルミアボタンを突き放し、今一着でゴーーールイン!!】
【苦しい場面でしたが、最後溢れんばかりの笑顔でゴール板を突き抜けました!】
【……おっと、更に! レコードが出ました! 中山レース場2200mのコースレコードです!】
「はっ……はっ……はあ~~~ぁ! あはは! やったあ!」
膝をついて、大きく息を吸って、吐く。汗が頬と顎を伝って、とめどなく地面に流れていく。
重く熱い身体を、懸命に整えようとするが。
そんなことよりも、先に笑いが出てしまった。
空を見上げると同時に、側面からとてつもない勢いで飛んでくる音圧があった。
「うおぉおおーーー! セラフィナイト―ーーー!!」
「ずっと待ってたよーー!! おかえりーー!!」
「最高のレースだったぞーーー!!」
「レコードおめでとーーーー!!!」
思わず耳を塞いでしまいそうなほど、弾けるような大歓声。
レース後の昂る気持ちを落ち着かせる暇もなく。
凄まじい声援を浴びるセラフィナイトは、手を大きく振ってそれらに応えた。
「……セラフィナイト先輩」
肩を弾ませ、あの距離からの着差2バ身という、信じがたい結果を突き付けられた
カルミアボタンが声をかけた。
「ボタンちゃん!」
「…………私。……私、悔しいです」
口をきゅっと噤み、視線を落として拳を握る。
憧れの背中に、ようやく追いつけたと思ったのに。
結局、届かなかった。
まだまだ、自分に足りないものがある。
それをまざまざと教えられたようで、眼鏡越しの目には薄く涙が浮かんでいた。
後輩の、そんな姿が愛しくて。セラフィナイトは優しく微笑んで応える。
「……ありがとう、ボタンちゃん。きっと、今日のレースはボタンちゃんが居なかったら、こんなに速く走れなかった」
「え?」
「私ね、昔からそうなんだ。レースを有利に運んでる時より、最後に追い詰められた方が実は結構、全力が出せるみたいで」
「……そう、なんですね」
「でも、楽に勝てそうな相手だったら、きっと全身全霊を振り絞れなかったと思うんだ」
セラフィナイトは、もうすぐそこまで来ているカルミアボタンの能力に、やや恐怖を覚えた。
嬉しくもあり、寂しくもある後輩の成長。
先輩らしく、そんな感情を消化してから言った。
「負けそうだったから。でも、絶対負けたくなかったから。だから、私は今日勝てたんだと思う」
ゆっくり、近づいて。頬を伝っている涙を拭ってあげる。
「ボタンちゃん。また走ろうね」
「……はい! 次は負けませんから」
改めて互いの健闘をたたえ合い、二人のウマ娘は硬く握手を交わした。
(せっかく声を掛けようと思ったのに……なんだか割って入れる雰囲気じゃないわね)
そして、それをやや離れた場所から見つめる3着のウマ娘、オルニットが拍手で讃えていたのだった。