彼女は名の通り、飛ぶような足取りでコースを駆け抜けていった。
中山芝2500mで、最も勾配のある第一コーナーから第二コーナー。
遠ざかっていく、金色の髪。
足だけ汚れた、綺麗な白い勝負服。
ジャパンカップを共に走ったあの日、アタシは負けを認めてしまっていた。
今までたくさんのレースを走って、負けることを考えたことはなかった。
もちろん、勝てないこともあったけど。
あと少しで勝てた。ここが足りないから負けた。
ちゃんと見つめられる点があったから、前へ進めた。
だけど、セラちゃんの走りはある意味絶望的だった。
どこをどうすれば勝てるのか、見当もつかなかったから。
フォームを崩して、辛そうに走る背中を追いこすのは……嬉しくなかった。
(世界一を目指すアタシの夢。実現のためには超えなくちゃならない壁。
それがアナタなんだよ、セラちゃん!!)
国内で一番にすらなれないのに、世界なんて狙えるはずがない。
ジャパンカップで走った時から、ずっと思っていたこと。
本当は、今日この日に戦えるのかどうかも不安だった。
他の同期5人が弱いとは決して思っていない。
でも、セラフィナイトだけは特別なんだ。
誰もが追いかけてきた背中なんだから。
誰も追いつけなかったウマ娘なんだから。
(
序盤で燃え尽きそうなスパートをかけていた、スペシャルウィークを外から躱し
第一コーナーへと入っていく。
抜き去り際、エルコンドルパサーは一言だけ声をかけた。
「グラシアス、スペちゃん」
(え?)
何に礼を言われたのかわからず、険しかった顔が緩む。
(アタシ、本当に弱い子だ。臆病者だ)
同期達が、待ちに待った有馬記念での決戦。
自分だけ、禁を犯すようにジャパンカップで対峙した。
その結果がアレだ。
笑っちゃう。
どこまで、傲慢で情けないんだ。
本当なら、一番最初にそのケリをつけるべきだった。
セイちゃんの天華一閃にはついていけなかったけど
スペちゃんより、先に出ていくことは出来たはずだ。
だけど、しなかった。
アタシはあろうことか、『勝負』に勝とうとしていたんだ。
誰も咎めはしないだろう。
真剣に一着を取ろうとする姿勢の、何が悪いのか。
中山レース場の起伏を考えるなら、仕掛けるのは最終コーナーからでいい。
誰だってそうする。
だけど。スペちゃんは、しなかったんだ。
破天荒なことをするのは、セイちゃんだけじゃない。
クラシックレースより、もっと高い目標を見据えているアタシが、そんな置きに行く勝負をしていいわけがない。
誰もしない、誰もやらない。そんな領域で勝負して、勝ちをもぎ取るのがエルコンドルパサーなんだ。
だったら、今! ここで!
「さあ……セラちゃん! 行っきますよぉおおお!!!」
決意を固めさせてくれた友人への感謝を伝え、満足したエルコンドルパサーは叫ぶ。
飛ぶような足取りと、極端な前傾姿勢。
力を全て土にぶつけ、はじき返す勢いを推進力に変える彼女の全力。
(エルちゃん……凄い!)
回転力に似合わない、軽々した足音がどんどん迫ってくる。
高低差の激しい坂を、恐れることなく突き進んできている!
(そんなことないよね)
足音の中にある、わずかな躊躇。
見ている分にはわかるはずもない、エルコンドルパサーの気持ち。
目の前に広がるコースが、それを生み出しているのだ。
下り坂。
コーナー。
トップスピード。
あらゆる要素が、命の危険すら思わせる。
怖い。
恐ろしい。
速度を緩めたい。
激しい走りの中に、聞こえてくる。
(大丈夫だよ、エルちゃん)
「!!」
セラフィナイトは、構わず進んだ。
浮くようなステップではなく、本当に浮いてしまっている。
だけどそれでも、先頭を譲らないスピードのまま駆け下りていく。
懸命に足を踏ん張り、どんどん前へ。
その背を見て、何を思うのか。
エルコンドルパサーは、くっと口を紡いでから。
にやりと笑った。
見えないけど。セラフィナイトも、そうしてるに違いない。
だったら、することは一つ。
「はぁああああ!!!」
恐れず、進むことのみ!
一歩踏み込むごとに、普段より大きな力が返ってくる。
次の一歩を踏み出すごとに、浮遊感が襲いバランス矯正を要してくる。
(こわ……くない! 大丈夫! だって、エルは最強なんだから!!)
零れかけた本音を飲み込み、エルコンドルパサーが坂を駆け下りる。
恐怖と快楽、双方が全身を支配する。
競り合うために走るのが楽しい。
真剣に勝負が出来るのが嬉しい。
怪我をしてしまいそうな、急こう配のコースが怖い。
このまま追いつけなかったら、嫌だ。
二つの気持ちを、一つにして怪鳥はひたすらにコーナーを走っていく。
気が付けば、なだらかな平地に風景は戻っていた。
瞬間的に身体が錯覚するが、数歩も動けば元に戻る。
後続とは、いつの間にか一気に距離を突き放してしまっていた。
(ね。大丈夫って言ったでしょ。エルちゃんには、翼があるんだもん)
大空駆けるコンドルが、何を及び腰になりかけているのか。
セラフィナイトは、予想通りの展開に笑みを浮かべる。
ジャパンカップ前にも言った。
エルコンドルパサーの真の強さは、その不安定さ。
強くありたい自分と、弱いままの自分。
相反する思いを、走りに変えることで爆発力を生み出す。
セラフィナイトは、よく知っていた。
だから、挑発するようにあえて全速のまま駆け下りたのだ。
更に上の段階へ、エルコンドルパサーを引き上げるために。
(本気の本気で来てくれないと、私が置いてっちゃうよ。エルちゃん)
(くぅう~~! そういうことかぁ!! セラちゃんのクセにぃいい!!)
真意に気付いた途端、緊張がほぐれた。
嬉しさからくる笑みではなく、冗談を言われた時のようなリラックスした笑いが零れる。
今までさんざん、自分たちに追いつこうとしていたセラフィナイトが。
まるで、教鞭をふるうかのように走りで魅せている。
そんな立場でもないはずなのに、とエルコンドルパサーは
(でも、それでこそセラちゃんらしいよ!)
(だって、それでこそエルちゃんだもん!)
3バ身ほど空間を維持したまま、二人は
疲労が少しずつ溜まってきている。
レースも折り返しを過ぎた、向こう正面まで入ってきた。
それでも、楽しくて仕方ない。
あの時付けられなかった決着が、今度こそつけられる。
喜びと感謝を交えて、エルコンドルパサーが走る。
(でも、やっぱ悔しい。
こんな大舞台でも、そんなこと出来るセラちゃんに、敵いっこないや……)
(なぁんて、諦めたりしないでしょ?)
(……ふふ。ブエノ! とーぜんデスよ!!)
同時に、大きく強く踏み込んだ。
誘うような足取りで、ゆらりと内側にセラフィナイトが進んでいく。
良い位置取りを取られたことに、やや焦りながらもエルコンドルパサーはそのまま行く。
スリップストリームを使えば、次のコーナーに入る際に抜け出せるはず。
……いや、そんな消極的な戦法じゃダメだ。
(スペちゃんは、真っ向から勝負を挑んでた。だったら、アタシも!)
表情を強張らせ、ステップを踏む。
徐々に体を横にスライドさせ、コーナーに入る前から抜き去る方法へシフトする。
出来るだろうか。
坂を下る際に、結構な力を使ってしまった。
まだラストスパートの足も残さないといけない。
(出来る、出来ないじゃない。やるんだ!)
湧きおこる想いで、ネガティブな気持ちを押さえつける。
迷うな。
逃げるな。
アタシは、セラフィナイトに勝つんだ。
眼に力がこもっていく。
セラフィナイトとの距離が、わずかながら縮まっていく。
先の二人が絶対になしえなかった行為。
確実に力量差が埋まっていく快感。
(今こそ……アタシが!)
(……ちぇっ。今良いところだったんだけどなぁ……)
セラフィナイトの表情が少しだけ曇る。
エルコンドルパサーへの不満ではない。
セラフィナイトは、向こう正面に入るまで。
ずっと、異音を捉えていた。
それは、チームアルタイル秘伝の技『縮地』
独特の走り方になるゆえに、聞き取るのは容易い。
今、セラフィナイトの耳に入っていた異音は『三つ』あった。
先頭集団のやや前に一つ、後方集団の前方に一つ。後方集団の、更に後方に一つ。
これは、本来ありえないこと。
今回のレース、チームアルタイルの出走者は四名。
セラフィナイト、セイウンスカイ、キングヘイロー、カルミアボタン。
その中で、走行中の縮地を会得しているのはセイウンスカイとキングヘイローのみ。
カルミアボタンは、フォームの都合上どうしても実践できない。
ならば。
この『三つ目の縮地』は誰なのか。
(弱くなったライバルに勝ったところで……何も嬉しくない)
異音が一つ、消える。
スパートを仕掛けてきたからだ。
(だけど、今のあなたに勝てば……きっと極上の喜びが待っていることでしょう)
たなびく栗毛。
青いセーラー服のような勝負服。
(ねえ、セラちゃん?)
足を溜めに溜めてきたグラスワンダーが、猛追するようにエルコンドルパサーの横に並び立った。