「はぁ……はぁ……。ふぅ。今日は、ここまでかしらね」
日の陰り始めたトレセン学園ターフコースの上。息を弾ませて、トレーニングメニュー最後のダッシュを終えたウマ娘が汗を拭う。
彼女はメジロアルダン。名家メジロのウマ娘の一人にして、トリプルティアラを手にした姉メジロラモーヌという、大きな光の下に時同じくして生まれた悲運なアスリート。だが、姉の威光が不運なのではなく、彼女の身体的な理由が意味を持たせている。
本格化を終えたウマ娘は、トゥインクル・シリーズで活躍できるほど身体能力が大きく向上していく。だが、それは無限ではなく有限。ある一定の期間を過ぎると、緩やかに能力は落ちていき勝てなくなってくる。そうなれば、ウマ娘は引退の道を選び新しい人生を歩んでいくのだが。
メジロアルダンは、生まれながらにして身体が弱かった。気管支系に問題はないものの、その脚に欠陥を抱えていた。脚力も体力も十分にあるのに、耐久力が余りにも脆い。負荷をかけ、それに反発して強くするための大事な能力が欠けているのだ。
意志もある。願いもある。誰にも負けたくない、ウマ娘としてレースに勝ちたい。
穏やかで淑やかな彼女の、瞳の奥にはいつだって
理想と現実の乖離。ガラスの脚と揶揄される彼女は、常にその歯がゆさと危険と隣り合わせで勝負の舞台に臨んでいるのだ。
チームメイト達が、まだ辛そうにターフを駆けている。日が落ちてからも、まだ走る者だっているだろう。
トレーナーに粛々と挨拶をすると、メジロアルダンは荷物を抱えて部室へと戻っていった。
(先週より、今日は一本だけど多く走れた。でも、それだけじゃ……きっと)
制服に着替えたアルダンは、夕暮れの河川敷を歩いていた。
寮に戻る気にもなれず、かといって学園内に居れば嫌でもトレーニングするウマ娘が目に付く。そのたびに、羨望の眼差しを向けていてたらキリがない。
少しでも気を紛らわせようと、当てもなく肌寒い冬の空の下を徘徊することにしたのだ。
一陣の風が舞い、アルダンの頬をなぞる様に流れていく。首に巻いた上質なマフラーがはためき、視線が遠くに逸らされる。
元気に走る子供たち、ロードワークをする生徒たち。他にもたくさんのヒトが居るのに、目につくのはやはり『走っている』者ばかり。
せっかく気分転換にと外へ出たのに、どうしても気持ちは原始的欲求を優先してしまう。
皐月賞を獲ったヤエノムテキ。同学年のダービーウマ娘、親友のサクラチヨノオー。本来叶わなかった菊花賞への出場を、幸運にも手にした上に勝利したスーパークリーク。地方から来た葦毛の怪物オグリキャップ。
少し横を見るだけでも、とてつもない戦績と能力を備えたウマ娘が多く居る。
それなのに。
(私はほんの少しのトレーニングを増やすだけで精一杯だなんて……)
陰る気持ちに比例するよう、メジロアルダンの視線は地に伏せていく。頑張らないといけない、もっと走らないと追いつけない。相反する気持ちは、焦燥感や不安を生み出していく。
「アルダン先輩!」
鈴の鳴るような声が、アルダンの耳に届いた。振り向くと、そこには夕日を背にする一人のウマ娘が
手を大きくスライドさせると、推進力を持った車輪が彼女の身体を運ぶ。手元のブレーキを、アルダンの目下で引くと肩まで伸びた金髪と、銀の耳飾りに付いた緑色の石が揺れた。
「あら、セラフィナイトさん。ごきげんよう」
「ごきげんよう、先輩。トレーニング上がりですか?」
「ええ。ですが、少し歩きたい気分だったので、ここへ」
「私もなんです。ご一緒していいですか?」
「ええ、もちろん」
返事を聞くと、無垢な笑顔で喜ぶ後輩のウマ娘――セラフィナイトは車椅子をアルダンの横に付けた。
「押しましょうか?」
「いえ。このままが良いんです」
「……わかりました」
手押しハンドルを見ながら投げかけた善意を、セラフィナイトは優しく断る。
気遣いなのか、単なる好意なのかはわからないけれど。アルダンはその意思を尊重し、普段より少しゆっくりと道を歩いていった。
「あ、日経新春杯お疲れ様でした。とっても凄いレースでしたね!」
「ありがとうございます」
結果は1番人気なのに4着。その事実を、軽々しくは受け止められない。皆の期待を裏切るような形で終えたレースを、素直には喜べないから。
対して、隣に並ぶセラフィナイトと言えば。昨年、有馬記念を並みいるライバル達を置き去りにするコースレコードで勝利したばかり。直後、右足の重大な故障が見つかり歩行もままならない状態になってしまったのだが……。
「足の具合はいかかですか?」
「あはは。ぜーんぜんダメです。痛みはすっかりなくなったんですけど、ピクリともしないんですよ」
「そうですか……」
アルダンは不思議だった。
彼女も、自分と同じように身体の機能に不備がある運命。絶対的能力を持ちながらも、故障の多さで大レースを逃すことも少なくなかった。
それなのに、セラフィナイトは……笑っている。
今も、医師には二度と歩くことは出来ないかも、とまで言われた酷い損傷を負っているというのに。
「セラフィナイトさんは、お強いのですね」
「え? どうしたんですか、突然?」
思わず漏れた言葉を、メジロアルダンは口に手を当てて塞ぐ。だが、耳の良いセラフィナイトはその吐息のような声をしっかり拾ってしまい、首を傾げるのだった。
聞かれてしまったのなら、下手に訂正するのも失礼だ。アルダンは手を下ろし、視線をセラフィナイトに向けながら言う。
「何度もケガをしているのに……。今も、こうしていつ治るかわからない重傷を抱えているのに。それでも笑う、貴方が……少々眩しくて」
「な、なに言ってるんですか先輩!? 私、そんな凄いウマ娘なんかじゃないですよ!?」
思いがけず掛けられた言葉に、照れと謙遜が入り混じりハンドリムから手を離して否定する。
「……私も壊れやすい身体だから、わかります。だからこそ、そう思えるのですよ」
「先輩……」
言葉を聞いたセラフィナイトは、恥ずかしそうに頬を掻く。
「ホントに、私なんて全然凄くないんですよ。凄いのは、私の友達とトレーナーなんです」
セラフィナイトは語る。何度も何度も挫けて、泣いてきたこと。その度に、誰かが手を差し伸べてくれて。引っ張ってくれて。諦めずに、背中を押してくれた。だからこそ、今があるのだと。
「正直に言えば、治るかどうかわからないのは不安です。けど、私……悔いだけはないんです。大事な親友たちと……ライバル達と、最高のレースが出来たから」
「……それは……」
アルダンは続きを口にしそうになり、今度こそは注意を払って止めた。
まるで、もうレースに出ることは一生できなくても良いような。燃え尽きたウマ娘が時折口にする言葉だから。
だが、それに対してセラフィナイトは、あえて言う。
「でも、欲はあるんですよ! だって、私まだまだ走りたいんですもん。みんなとまた、凄いレースをしたい。心が燃えるような、身体が熱くなって景色が震えるような。そんなレースを、またやりたい」
拳を握りしめ、セラフィナイトはまっすぐ前を見ながら欲求を口に出す。
後輩が灯す不屈の意志に、やはりメジロアルダンは眩しさを覚えて目をそらしてしまう。自分にだって滾る気持ちはあるが。故障を抱えたまま、同じことを言えるのかどうか自信がなくて。
「先輩も、そうなんでしょう?」
「え?」
だからこそ驚く。
無邪気な質問に、緑色の瞳がかっちり繋がった。
「チヨノオーさんとか、ヤエノ先輩とかオグリさんとか。たっくさんライバル居ますもんね。でも、そんな中でもアルダン先輩、ずっと挫けずに頑張ってるから。私、そんな先輩をとっても尊敬してるんです」
能力的にも人気的にも、戦績も鑑みるならはっきり言えば、セラフィナイトの方が上だ。
だが、そんな後輩が自分に敬意を向けてくれていたことにアルダンは驚く。
「私を……?」
「その……勝手になんですけど。先輩も先ほど言ってたように、故障しやすい体質じゃないですか? だから、同じようにめげずに努力してるから……なんというか、仲間意識というか……。えへへ、すみません。失礼ですよね」
「そんなことは!」
大きな声を上げてしまったことを、すぐさま訂正してアルダンは言葉を紡ぐ。
「私の方こそ、貴方を尊敬しているんです。壊れても挫けても、走り続ける貴方が……」
羨ましい、とまでは言えなかった。
それでもセラフィナイトは意志をくみ取り、優しく微笑んでから言う。
「先輩には、そんな人たちが居ないんですか?」
そんなわけがない。
言われてすぐ、脳裏に浮かぶのは先往くライバル達。劣っているかもしれない、負けているかもしれない。それでも、勝ちたい。背中を見せつけたい。勝って、笑って、負けて、泣きたい。そう思える、最高の
「いえ……。います。それも、たくさん。……貴方と、同じぐらい。たくさん!」
「だったら、私たちは似たもの同士ですね! どっちが上とか、そんなの関係ありません!」
言葉の端から受け取れる、わずかな劣等感を感じていたセラフィナイトは明るく言う。かつて、友に投げかけた励ましと同じ意味をこめた言葉で、落とした肩をしっかり抱いた。
それから、セラフィナイトは車輪を止めると。ゆっくりと身体を持ちあげて立ち上がった。
「セラフィナイトさん!?」
「大丈夫です、片足なら立てますから」
無理をする行動を慌てて諫めようとするが、セラフィナイトは制してしっかりと向き合う。
「先輩、いつか私とレースしましょう」
「え……?」
「いつになるかはわかりませんけど……。でも、絶対いつか、必ず。だって、先輩は私にとってもライバルの一人なんですから!」
セラフィナイトは、やや汗ばんだまま不敵に笑う。そして、すっと小指を差し出した。
「……ダメですか?」
「……」
メジロアルダンは、その真っすぐな姿勢を見て一度目を閉じた。
共に走るライバルだけじゃない。後ろを追ってくる影さえも、こうして自分を見てくれている。
己の運命を呪うこともあった。立ち直れないかもしれないと、諦めそうになることもあった。
だけど、この目の前の少女は。同じような悩みと苦行に立たされてもなお、進み続けた。
その上で言ってくれるのだ。自分と走りたいと。
「いいえ。わかりました。必ず、一緒に。」
「はい! 約束ですからね!」
小指と小指を重ねて、お互いに契りを交わす。
「はー! なんか元気出てきた! そうだ先輩、夜ご飯一緒に食べませんか? 行きたい所あるんですよ!」
「ええ、是非」
元気をもらったのは自分の方だ。
天使のような笑顔を向ける後輩を、愛しむようにメジロアルダンは見つめる。
二人の耳に付いた緑色の飾りは、強く紅く。夕日を反射させていた。