「すー……はぁー……」
「そうそう。もっとお腹の下に力を込めて……はい、吸ってぇ……吐くぅ~」
緑色のドレスのような勝負服。
幾度も泥にまみれた、彼女だけの衣装。
未だにGⅠタイトルのセンターで、踊ったことのない悲しさと寂しさと悔しさの象徴。
それを、今日ここで終わらせる。
地下バ場で、トレーナーと最後の打ち合わせをしながら
キングヘイローは、昂る気持ちを押さえていた。
「珍しく緊張してるね、キング」
クラシックに挑んでいた頃は、よく見られたが
最近は、レース前に精神的なほころびを見せることは無かった。
それだけ、彼女にとって今日このレースは特別なのだろう。
時は三月末。場所は中京レース場。
これから始まるGⅠタイトルの名は、高松宮記念。
たったの6ハロンで終わる、一分強の閃光のようなレース。
短距離の重賞レース自体は初めてではない。
場の空気で緊張する気質でもない。
ならば、何故か。
「……当然でしょう。いつものレースとは、違うんだもの」
入れ込む理由はわかっている。
事情は、セラフィナイトとキングヘイロー双方からそれぞれ聞いた。
その為に、たくさんトレーニングをした。
作戦や、それに込めた思いも載せて走りこんできた。
中京レース場では、差しウマ娘が綺麗に勝つことも少なくない。
実際、セラフィナイトの考えは一つの攻略法として正しいものであった。
「私、誰かの為に走るのって初めてだわ。
勝ちたいのは自分の為、お母さまを見返すため。そんなことばっかりだったもの」
「確かにね。……でも、わたしの知ってるウマ娘は
そんな重荷も力に変える、強くて速い子だよ」
ウインクをして鼓舞するトレーナーを、呆れ顔で見る。
「……ホント、あなたってノせるのだけは上手よね」
「ええ~? もっとあるでしょー?
ほら、優しいところとか。面倒見がいい所とかぁ」
「…………そうね。感謝してるわ」
胸に手を当て目を閉じ、キングヘイローは思いを込める。
「私はここで勝って、今日こそGⅠウマ娘の名を手に入れる。
そして、ウイナーズサークルで高らかに言うのよ」
大きな歓声と、晴れやかな舞台での勝利の余韻。
ただ一人しか立てないその場所を想像するだけで、胸が高鳴る。
「この勝利は、私だけの勝利じゃない。
私と、私の大切な友人が考えた作戦と。
辛抱強く、私に付き合ってくれたトレーナーのおかげだ、って」
再び開いた瞼の中は、強い輝きで満ちていた。
「……ふふ。キングはそうでなきゃね。
さ、行っておいで。夢を現実にしてこよう」
「ええ、このキングに任せなさい!」
精神的動揺を置き去りに。
光の溢れる本バ場へと、堂々たる足取りで
「……」
ターフの上の景色は、いつも以上だった。
ピリピリとした空気が漂っている。
生み出しているのは、勝負服を纏ったウマ娘達。
ストレッチしたり、精神を鎮めたり、高鳴る気持ちを隠さず体を動かしたり。
それぞれが自分の好きな方法で、心を
(……わかっていたことだけど、楽なレースじゃないわね)
周りは中長距離では見なかった顔ぶればかり。
何より、中にはマイルCSやスプリンターズSで1着を取ったウマ娘も居る。
言うなれば、中距離でスペシャルウィークやグラスワンダー達と相対するようなもの。
勝てるかどうか、正直わからない。
でも。
「ここに居たのね、セラフィナイトさん」
「うん。みんなも、中継で見てるって」
観客席最前列。
歩み寄った先には金髪のウマ娘が、そこに居た。
やりとりをしているスマホの中では、同期のグループ会話が繰り広げられている。
「……キングちゃん、緊張してるね」
「トレーナーにも言われたわ! そんなにわかりやすいかしら、私」
「だって、いつもと全然違うもん」
「……そうね。セラフィナイトさん、約束は忘れてないわね?」
「うん」
「なら、良いわ」
頬を伝う冷や汗を無視し、一度大きく息を吐く。
頭の中にある、さまざまな思いを全部ふりきり、彼女は手を顔の前に水平に持って、言った。
「さあ、ご来場の皆さまに歴史的な瞬間をお見せするわ!
今日こそは、このキングがセンターでウイニングライブをお披露目するわよ!
期待して待っていなさいな! おーっほっほっほ!」
初期の頃、才能を期待されて推された数々の一番人気。
いつしか当たり前でなくなり、今日も四番目。
観客の誰もが、どこか諦めムードの中。
虚勢でも何でも、いつだってキングはこうして宣言していた。
今日は勝つ、と。
「頑張ってね」
「ええ、瞬き禁止よ!」
やや斜めに突き出した腰に手を当て、手のひらを水平に向けつつ指をさす。
お決まりのポーズをして、ゲートへキングが走っていく。
「…………がんばれ、キングちゃん」
胸の鼓動は、きっと。彼女も、キングも同じぐらいの速度で高鳴っていただろう。
GⅠを象徴するファンファーレが、レース場に鳴り響く。
観客たちが一斉に合いの手を叩き、場内の興奮度が更に増した。
ウマ娘たちが順調にゲートインを果たし、決戦の時が迫ることを実感する。
(曇りなのが残念だわ)
薄い雲のかかる空を見上げて、キングヘイローはちらりと横を見る。
七枠での出走となった彼女は、ゴール板を見ていた。
普段なら一度は前を駆けていく位置。
今日はたったの半周で終わってしまう、刹那の如き電撃レース。
短い距離へ転向を決めてから、初めて挑むGⅠ。
先行、逃げ。どれもクラシックでは勝利を得られなかった。
今日、実行するのは全く違う作戦。
『差し』
同期のスペシャルウィークやグラスワンダーが、ここぞという時に決めてくる。
驚異の末脚で、一気にゴールまで駆け抜ける戦法だ。
自分に出来るだろうか。
このたった1200mの芝の上で。
「……すぅー……ふぅ……」
トレーナーに教わった呼吸法で、深く細く息を吐きだす。
イメージだけでも負けるな。
勝つことだけを考えろ。
その為に、トレーニングしてきたのだから。
発走の構えを取りながら自分に言い聞かせる。
最後のウマ娘がゲートに入ったのを確認。
瞬時に、ターフが視界に広がった。