室内に会話をする者は誰も居なかった。
まだ冷えのある春先。
暖房の音だけが空間を泳いでいく。
チーム・アルタイルのトレーナーは、脱退届に本人の意志を確認した上で押印した。
「…………セラ。」
「……」
「セラフィナイト。」
「……」
「手、どけてくれるかな」
呼ばれたウマ娘は、そのまま動かなかった。
手汗で濡れた自筆のサイン入り用紙。
押印箇所の上に、行為を阻害すべく細く白い手が伸びている。
それが、何を意味するのか。
聞くのではなく、自ら開口するのをじっとトレーナーは待った。
……静寂に嗚咽が混じっていく。
しゃっくりと共に、大粒の涙が用紙を更に
少し離れて見ていたキングヘイローが、心配して声をかけようとしたが
セイウンスカイが、また制止した。
本人にとっては長い時間、実際はとても短い時間。
泣き声が響いた室内が、再び静かになる。
ようやく喋れるぐらいに落ち着いたセラフィナイトは、掠れた声で言った。
「トレーナー……」
「うん」
「私……。……私……っ!」
「うん」
「……ホントはまだ……走りたいです」
「……どうして?」
「私……何も、残せてない。
皆との思い出が、何もないんです」
セラフィナイトの言う思い出、とは。
楽しかった日々でも、辛い練習のことでもなく。
「一緒に、レースを走れてない。
それが…………。悔しい……っ!」
揃ってデビューしたわけでもない。
クラシックに向けて調整はしていたが、"最強世代"の誰かと同じレースを走ったのは……
彼女が、足を故障したあの日だけ。
そんな悲しい出来事をターフに残したまま、去るのは耐えられない。
「……気持ちはわかったよ。
でも、それじゃあどうしてセラは、これを提出したの?」
本当にまだ未練があるなら、自ら去ろうとはしないはず。
わざわざ動いたのには理由があるはずだ。
「…………それも、本心だからです」
誰かの支えになりたい。
一生懸命な皆を見るのが好き。
たゆまぬ努力をして、遠かった一等賞を手にしたキングヘイロー。
自らの才能の限界を感じながら、それでも持てる力を駆使して二冠を手にしたセイウンスカイ。
彼女たちを、全力でサポートしたい。
もっともっと、速く強くなるみんなを見ていたい。
嘘ではないから。
「……あはは。だめですね、私。
…………本当に……弱いなあ……」
自分でもわかってる。
矛盾した行為だ。
走るのを辞めたくない癖に、真逆の事をしている。
生み出したのは、心の弱さ。
頑張ってる人が好きなのは
自分に持っていないものを、みんなが持っているから。
努力して、挫けずに、前を向いて進んでいく。
自分は、そこまで頑張れない。
羨ましくて、仕方ない。
友達のGⅠ制覇に、嫉妬もした。
ただ、何よりも。
「……走るのが、怖いんです」
未だに違和感が拭えない足。
走って走ったその先。
栄光はあるのか。
望む未来が掴めるのか。
勝てないかもしれない。
みじめに負けるかもしれない。
…………不安と、恐怖。
いつの間にか、脱退届の用紙から手は離れており。
セラフィナイトは、再び涙と嗚咽で固まってしまった。
「!」
視線を外し、セラフィナイトの言葉を聞いていたキングヘイロー。
ふいにトレーナーと目が合う。
そのまま顎をくいっと振る動作をされた。
今度は横のセイウンスカイも、頷いている。
大きくため息をついたキングは、彼女なりに思ったことを話した。
「セラフィナイトさん」
「……ぐすっ……」
「あなた。臆病者の前に、とんでもない おばかさんね」
言葉を選ぼうと思った。
精一杯の慰めや、励ましをしようと思った。
でも、それは……もう、やった。
あと出来ることは……
「私のレースを見て、何を思ったのかしら?
出来ないことを、無理なことに挑んで。失敗して、敗北してばかり。
不安と恐怖の中で、もがいて掴んだ あの勝利に。何も感じなかったの?」
「……それ、は……」
「怖いのはわかるわ。思い通りに行かないのは苦しいわよ。
それに、怪我が再発して走れなくなるかもしれないなら、私だってどうするか……」
歯を食いしばり、言い放つ。
「それでも! 私たちはウマ娘よ!
走りたい気持ちがあるなら、従わない理由なんて、無いじゃないの!
めそめそするのもいい加減にして! 私も、そんなに気長じゃないわよ!」
肩をポンポンと叩かれる。
「ちょっと言い過ぎじゃない?」
「……!」
熱くなって、ついつい語気が荒くなったことを反省して恥じる。
やや青ざめるキングへ選手交代を命じたセイウンスカイが、前に出た。
「前から思ってたんだよね~。ラフィって、中々本音を言わないなぁって」
手を後ろに組み、楽な姿勢で続ける。
「何か聞いても、大変そうな時も、いっつも笑って『大丈夫』で済ますタイプだもん。
見てるこっちが大丈夫じゃなくなっちゃうよ」
目を糸にして、肩をすくませる。
その後、すぐに真剣な……寂しそうな表情で言った。
「心配させないようにするのも良いけどさ。
たまには、心配させて欲しいな」
「スカイちゃん……」
「辛くて怖いのはみんな一緒だよ。
次に走って、もしかしたら故障する可能性があるのは私も同じ。
ラフィは経験があるから、他のヒトよりちょ~っと怖いかもしれないけど。
それでも信じてくれてるトレーナーや、私たちの為に頑張ってみてもいいんじゃない?」
いつもは言葉足らずで、何かと誤解を受けがちな発言も多いセイウンスカイが
矢継早にまくしたてるのは、彼女なりに言葉を選ぼうとしてる現れだろう。
「まー私は誰かの為に走るってことこそ、怖くてできたもんじゃないですけどね~」
「な!?」
こんな余計なことを言うのも、そのせいだ。
流れ弾に当たるキングヘイローはさておき。
頷きながら聞いていたトレーナーが、立ち上がってセラフィナイトの元へ歩いていく。
「悔しい思いも、怖い思いも。これからどう向き合うのか。
選ぶのはセラだよ。
どんな決定でも、わたしはあなたの意見を尊重したいし
決めた以上は、全力で応援します。……でも」
少しだけわざとらしく咳ばらいをして。
「……今から言うのは、単に一人の人間としての意見なので
聞き入れる必要はありません。いいですね?」
トレーナーは笑いながら言った。
「わたしは、セラの楽しそうに走る姿が、今でも大好きだよ」
「…………あ。」
その顔を見て思い起こされるのは、デビューする前の記憶だった。