彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第1章 夢の終わり、新たな始まり
第1話 ソノ音色は誰が為に


 それは遥かな昔日の記憶。黄昏時に残る蒼、或いは人の消えたホールに滲む残響の如き、移り行く時の中に残された過去の残り香であった。

 

 ──既に放課を迎えているがために人の気配が薄らいだ学舎。窓の外から差し込む斜陽により遍くが朱に沈んでいるかのような錯覚さえ抱く廊下を、菜々は歩いていた。窓から外を覗いてみれば、何処かに遊びに行くのであろうか、じゃれ合うように走っていく数人の生徒が見えた。そんな光景を後目に、菜々は教室へと歩いていく。

 

 他の生徒が帰宅の途に就く中、彼女だけが残っていたのは、何という事はない、ただ担任に日誌を届けていただけの事。特に何ということもない、小学生としては極々ありふれた理由だ。もしもそれだけであったのなら、その日は何の変哲もない一日として日常の中に埋没していくのみであっただろう。だが、その日は何かが違った。

 

 何処からか入り込んできた一陣の風。それに運ばれてくるかのようにして不意に聞こえてきた音に、菜々が足を止める。人の声ではない。音源はそれなりに離れた場所にあると見えて、しかしよく耳を澄ませてみれば、それはピアノの音色であるようだった。あまりにも微かにしか聞こえてこないため弾いている曲までは分からないが、聴こえてくる方向の先、廊下の突き当りに音楽室がある事からも、それは間違いあるまい。

 

 しかし、奇妙である。この学校に吹奏楽部はないし──そもそも吹奏楽でピアノは使わないが──、放課後に教師が特定の個人にピアノを教えるといった事をしているとは聞いたこともなかった。一応使用許可を貰えば使えはするが、特に何ら学校行事もないような時期、それも放課後に使用許可を出すとは思えない。であるならば、考えられる可能性はふたつ。教員が授業準備の関係で使用しているか、或いは誰か生徒が他人の目を盗んで使用しているか。そのどちらかだ。

 

 その事に思い至ったからか、或いは全く別の、彼女自身ですら判然としない理由のためか、自然、菜々の足は音楽室の方へと向いていた。ピアノと彼女以外一切の音源がないせいだろうか、彼女の足音が嫌に反響して、けれどそれは少女の意識の端にも引っ掛からない。

 

 ひとつ歩を進める度に、ピアノの音はより大きく、かつ明瞭に聴こえるようになってくる。それ故に当然半ばまで差し掛かった頃にはその音階が描く奇跡も知覚できるようになってきて、菜々はその曲が最近放送が始まった特撮番組の主題歌だと気づいた。

 

 だがその事以上に菜々の心を揺さぶったのは音色が内包する()とでも形容するべき気配であった。それはあたかも奏者の抱く歓喜や興奮、高揚といった情動、明白な形を持たぬそれらをそのまま音に変換しているかのようで、だからだろうか、聴き手である菜々の心さえその音色は情動を喚起するようである。

 

 故に、菜々は悟る。その音色はきっと、奏者の抱く〝大好きな気持ち〟そのもの、声でなく旋律で叫ばれた大好きなのだと。でなければこれほど聴き手に高揚を与える筈がない。これほど楽し気に聴こえる筈がない。

 

 そのせいだろうか、いつの間にか彼女の内心は怪訝から快然へと変遷していて、それを自覚する頃には既に音楽室の前へと辿り着いていた。防音に優れた金属製のドアは、しかし完全な密閉ではなく微かな隙間風がすり抜けている。音色もそこから洩れてきているのだろう。嵌め込まれた窓ガラスからは内部の様子を窺い知る事ができるものの菜々はそれを認めるより早くにノブを握り、ゆっくりと、まるで旋律にノイズが混じるのを厭うかのようにして足を踏み入れる。

 

 そして、一拍。菜々がピアノの方に視線を遣り、奏者の姿を認める。果たして、そこにいたのはひとりの少年であった。彼女の入室に気付いていないのだろうか、夕陽を浴びて煌めく亜麻色の髪の下で爛々と輝く瞳は鍵盤に向けられていて、十指は担い手の意志のまま、彼らに与えられた鍵盤という名の舞台でダンスを踊っている。その様はさながら、一枚の絵画のようですらある。

 

 菜々は奏者たるその少年の名を知っていた。〝真野(まの)彩歌(さいか)〟。未だ幼年である事を差し引いても線の細い顔立ちも相まって女性めいた印象を受けるが、れっきとした男性である。彼女とは同じクラスに所属する所謂クラスメイトという関係で、それ以上でもそれ以下でもない。会話を交わした事こそあるものの、それだけであった。それは菜々の大好きを受け止めてくれる相手が、今までいなかった事も原因としてあろう。彩歌がピアノを弾けるというのも、コンクールで賞を取ったのだと全校集会で表彰されていた所を見た事があるため知ってはいたが、今まで、実際に聴いた事はなかった。

 

 だがこの曲を演奏しているという事は、彩歌も観ているのだろうか、自分が観ているそれと同じものを。菜々がそんな事を考えているうちに演奏は終わって、一拍を置いて半ば無意識に拍手を贈っていた。その時点になってようやく彩歌は菜々の存在に気付いたと見えて、目を丸くしている。

 

「中川さん!? いつからそこに!?」

「ついさっきです。でも、音色は入る前から聴こえていましたよ。素晴らしい演奏でした。……けど、音楽室の使用許可は取ったんですか?」

「うっ……取ってないです……」

 

 菜々から贈られた賛辞に気恥ずかしそうにはにかんだかと思えば、一転して痛い所を突かれたとばかりに肩を落とす彩歌。その遣り取りはこの先の未来で起きる菜々と彼女に転機を齎す事になる少女のそれにも似ていて、しかし彼らがそれを知る筈もない。

 

 彩歌の表情はまるで悪戯に失敗した子供のようでもあり、菜々にはそれが意外にも思えた。真野彩歌という少年はクラスの中では真面目で通っていて、あまり表情の変化のない、悪い言い方をするのならば面白味のない人物という評が一部の生徒からは為されていた。友達こそ十分にいるものの、あまり目立たないポジションにいるのだと言えよう。

 

 それはある意味で、菜々自身にも似ている。人前で己の大好きを押し殺し、真面目な己として生きている彼女もまた、人前で笑顔を見せることは少ない。菜々には彩歌が人前での笑顔が少ない理由は知れず、それ故に彼女と同じであるのかさえ判然としないけれど、親近感を覚えるのにそれ以上の理由は要らなかった。

 

 無許可で音楽室の設備を利用していた彩歌の行動は、叱責されるべきものであるのかも知れない。見つけた者によっては教員に報告してその後の対応を委ねようともするだろう。だが菜々はそのどちらもする気はなかった。叱責というのは聊か過剰であろうと、そう思ったのだ。或いは誰かが叫ぶ大好きを邪魔してしまう事を、無意識に厭うたのかも知れない。

 

「それで、どうしてわざわざ無許可でピアノを弾いていたんですか? 見つけたのが先生だったら、叱られていましたよ?」

「うーん、どうしてかぁ……弾きたかったから、かな」

 

 頤に指を立てながら、おどけるような調子で彩歌はそう言う。それはまるでからかうような気配を帯びていて、けれど菜々は彩歌の言葉が嘘ではないと直感的に理解した。ただ弾きたいという気持ちと見つかるリスクを天秤に掛けて前者を選ぶというのは少々不可解にも思えるが、その不可解こそが彩歌が虚言を吐いていないという証明でもある。

 

 彩歌の細い指が鍵盤をひとつ押し込み、ぽん、と音が鳴る。ただ何ということもない、それだけの所作。だがその瞳はいっそ慈愛とでも言うべき感情を湛えていて、それだけでも彩歌はピアノが大好きなのだと察するには十分に過ぎる。先の演奏を聴いていたのなら猶更だ。

 

 菜々には与り知らぬ事ではあるが、彩歌の家にもピアノがある。故にわざわざリスクを冒してまで学校で弾く必要性は皆無に等しいのだが、むしろその事実が先に述べた理由の真実性を高めているとも捉えられよう。

 

 それから、どれほどの間そうしていたか。不意に、彩歌の視線が菜々に向けられる。それに込められているのは不安、或いは気後れであろうか。その意図を察し、菜々が苦笑する。

 

「バレて不安になるなら、初めからやらなければよかったのに」

「返す言葉もございません……」

 

 菜々の尤もな指摘に、がっくりと肩を落とす彩歌。その様子が何故だからおかしくて、菜々が笑声を漏らす。露見すれば怒られると分かっているのに、他人の目を盗んででも行いたくなる、というのは彼女にも気持ちが理解できた。事実、彼女も親に見つからないように彼らから禁止されている筈の諸々を観ているのだから。

 

 彼女自身、もしも彼女が俗に言うサブカルチャーを親から禁止されている事を知っている人がいて、その相手にアニメや特撮番組、スクールアイドルの映像を観ている所を目撃されれば、似たような反応をしていた事だろう。

 

「仕方がありませんね。安心してください。先生に報告したりはしませんよ」

「本当かい? 何だか、ごめんね。……じゃあ、コレは俺と中川さんだけのヒミツってコトで」

「……何だか、それってズルいです」

 

 呆れ半分、からかい半分といった菜々の言葉に、そうかな? と彩歌。それから幾許か経って、不意にふたり共が噴き出す。何がおかしかったのか、彼らでさえ明確に言語化する事はできまい。ただ何故だかおかしくて、彼らは笑い合う。

 

 しかしその中で彩歌は時計に目を遣って、そろそろ帰らなければならない時間だとようやく気付いたらしく、壁に立てかけてあったランドセルを回収し、ピアノ周りの片付けを手早く済ませてしまう。

 

 菜々の荷物は教室に置きっぱなしであるから、ふたりはここでお別れだ。また明日ね、とこれまでふたりの間では交わされた事があるかどうかすら定かではない挨拶を交わし、しかし直後、菜々は己の意図から肉体が外れたかの如き錯覚と共に彩歌を呼び止めた。

 

 どうしたの? と彩歌。廊下の先、ガラス張りの大きな窓から流れ込む朱の鯨波を受けて佇むその姿は何処か浮世離れしているかのようであり、しかしそれに反して内面はひどく俗っぽいのだと彼女は知っている。だからだろうか、もしかするとこの少年ならばと彼女は思って、何度か息を詰まらせた後にひとつ、問いを発した。

 

「彩歌くん、貴方は──」

 


 

 動画がアップロードされました。もう何度目にしたかも分からないその表示を前にして、彩歌は半ば無意識に脱力して背もたれに身体を預けた。椅子の骨組みが軋み、耳障りな不協和音が西日の射し込む部屋に響く。或いは余人がその様子を見たのなら、聊か気が早いと言う事であろう。動画投稿。その本番は投稿そのものではなく、むしろその後、如何に多くのユーザーの目に触れるかなのだから。だがそれについて彩歌自身にできる事は少なく、そんな事を気に病んでも仕方がないと彼は思うのだ。

 

 けれど、少ないとはいえまだできる事は残っている。大きく息を吐くと共に姿勢を正してPCに向き直り、共有欄をクリック。すると自動的に彼のもつ動画投稿・配信者としてのSNSアカウントにて投稿画面が表示されて、適当な文言を書き足してから投稿ボタンを押した。タイムラインの先頭に彩歌、もとい動画配信者〝さっちゃん〟の投稿が表示され、幾許かの間を置いて反応が返ってくる。これで正真正銘、彩歌にできる事は終わり。後は半ば放置に近い。

 

 その配信者としての姿勢を、怠慢だと詰る者もいるだろう。或いは、視聴者に対して誠実ではないと。無論、彩歌とて、視聴者に感謝していない訳ではない。ただ彼は自分の手を離れた後について、他人よりも冷淡であるだけなのだ。

 

「ハァ……」

 

 再び、大きな溜め息。あまりにも不景気な有様も、咎める者はここにはいない。天を仰ぐ程に深く腰掛け両手で眼窩を覆えば、視界に広がるのは暗闇だ。その所作は奇妙なまでに憂いを纏っているようで、いっそ天に座す何者かに祈りを捧げているかのようですらある。

 

 だがいつまでもそうしている訳にもいかず、憂いを解いた彩歌はシャットダウンさせたPCを机上からどかして代わりにノートや教科書を鞄から取り出した。配信者である以前に、彩歌はひとりの高校生だ。その為すべきは学業を置いて他にない。特待生として学費の免除を受けている彼にとって、その事実は誰よりも思いとも言えよう。

 

 ノートと参考書を開き、一息。シャーペンを執っていざ問題演習に臨まんとし、しかしそれを妨げるように唐突に傍らに投げ出されていたスマートフォンがその存在を主張する。電話の着信音。画面を見ずとも彩歌はその主に察しが付いたようで、微笑を漏らした。そうしてスマホを手に取り、通話ボタンをタップする。

 

「もしもし?」

『もしもし、彩歌くんですか? 観ましたよ、今日の動画!』

「ふふ、ありがとう。今日も早いね、中川さん」

 

 彩歌に電話を掛けてきた相手は誰あろう、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。同校の大半の生徒にとって真面目を絵に描いたかのような印象を抱かれている少女は、しかし彩歌にとっては中川菜々として彼女の言う〝大好き〟の使途であった。同時に、配信者さっちゃんの正体を知る者のひとりでもある。

 

 菜々の言う今日の動画とは他でもない、彩歌がつい先程投稿した動画、既存の楽曲を自らが歌いそれを収録した、所謂〝歌ってみた〟と呼称されるそれである。カバーだけではなく時には自らが作詞作曲した自作の楽曲を投稿することもあるものの、〝歌ってみた〟と〝弾いてみた〟が彩歌のチャンネルのメインコンテンツであった。

 

 電話を介した会話であるがために、彩歌からは菜々の表情は見えない。だが彼女の楽し気な声音はその満面の笑みを幻視させるには十分で、そのヴィジョンが現実のそれとは似て非なるとは気付かない。無知な少年はそれを自認せぬまま、笑声を漏らす。

 

『? どうしたんですか?』

「いや、何でもないんだ。ただ、それだけ楽しんでくれたなら俺も嬉しいなって、そう思っただけだよ」

 

 それは極めて陳腐かつ月並みで、であるからこそ確かに彩歌の心底から零れた思いであった。いくら彩歌が動画投稿を本懐とせずにいるとはいえ、楽しんでもらえたという事実に対して心が動かない冷血漢では決してない。

 

『楽しいに決まってます! だって、彩歌くんの動画……貴方の歌や演奏には、大好きが詰まってますから!』

「あぁ……そうだね」

 

 半ば不自然にも思える、彩歌の言葉に挟まれた間隙。だがそこには何ら意味が含まれている訳ではなく、故に菜々も特にそれを気に留めることはない。彩歌自身そこに何か込めたつもりはなく、であればそれは、全く無意味な空白であった。

 

 しかし無意味であればこそそれは異質で、あまりにも希薄なために日常に希釈されて消えていき違和すらも残す事はない。電話口で柔和な笑みを見せる彩歌。続けての声音は、あくまでも上機嫌だ。

 

「明日、午後1時くらいから配信をするつもりだから、良かったら観てくれると嬉しいな」

『本当ですか!? 是非!』

「うん。楽しみにしてて。……それじゃあ、また。月曜日に」

 

 最後にそれだけ言葉を交わしてふたりの通話は終わり、通話画面からホーム画面へと戻ったスマホをスリープ状態に戻して彩歌はそれを半ば放り投げるようにして机上に戻した。椅子に背中を預け、金属同士が擦れる不快な音が耳朶を叩く。

 

 視線を窓に遣れば空は既に朱色に染まり果て、強い西日に思わず彩歌が目を細める。しかし地平線は見えない。文明が屹立する無機質な都会のコンクリート・ジャングルは黄昏の水底に影を落とし、それなのに西日ばかりが入り込んでくる。

 

 妙な立地だ、と彩歌は苦笑する。しかし彼は、そんな光景が嫌いではなかった。まるで刺すような日差しは目を瞑っても彩歌を無明に放置することはなく、それ故、意識の奥に張り付いた雨音を遠ざけてくれるのだ。瞑目。そして、嘆息。目蓋を上げて、彩歌は呟いた。

 

「音楽は音を楽しむもの、でしょ? ……分かってるさ」

 

 その呟きは、果たして誰に向けてのものだったのか。それを知る者はこの世界にただ独り、彩歌だけであった。


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