【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第9話 ソレは、責任だけでなく

 人間は忘れる生き物である、とはよく言ったもので、その言葉の通り人間は自身の経験全てを永続的に記憶しておくというのはまず不可能なようにできている。ごく稀に完全記憶能力と俗称される特異性をもつ者も存在するが、それがひとつの疾患と見做されてしまうのがその証明であるとも言えよう。

 

 だが忘却というのは何も過去から順繰りに起きるような機械的なものではない。無論、過去の事象であればあるほど忘却されやすいのは当然であろうが、たとえ直近の事であっても至極どうでも良い事はすぐに忘れてしまうだろうし、逆に遠い過去の事であっても命の危機などの重要性の高い出来事、或いは只管に衝撃的な体験であればいつまでも鮮明に脳裏に残り続ける。であれば、()()彩歌(さいか)にとってそれだけの意味をもつ記憶であったのだろう。

 

 ──それはさながら脳天から股下までを一直線に稲妻に射抜かれたかの如き衝撃であった。勿論、それは錯覚でしかない。彩歌は今屋内にいるのだし、空は雲ひとつない晴れ空で、そんな天候も相まって少年の体験は青天の霹靂と形容するのが正しかろう。

 

 瞬き、それどころか正常な呼吸さえ忘れてしまったかのようにカーペットに座り込み少年が食い入るような視線を向ける先は、完全移行に数年先立って買い替えたばかりのデジタルテレビ。だが彼が目を奪われているのはアナログテレビから様変わりしたフォルムや画質などではなく、テレビで再生されている映像の中身である。

 

 果たしてそれに映っているものとは、巨大かつ美麗なステージにて歌い踊る、華美な衣装を纏った数人の青年であった。テレビは最新の機種でも撮影機材が10年以上も前のものだからかかなり粗が目立つが、それでも彼らが笑顔であるのは見て取れる。言葉にすればそれだけだが歌いながら踊る彼らの運動量は相当なもので、それでも笑顔を崩さないのはある種のプロ意識のためか、或いは純粋に自身が偶像──〝アイドル〟である事を楽しんでいるからか。時折、観客らの黄色い声援が歌声に混じる。

 

 無邪気な幼子が、夢中になって過去のアイドルのライブ映像を観ている。その光景を説明するのならばそれだけで十分であるが、彩歌にとってその映像はただの過去のアイドルと、そう一蹴できる程度のものではなかった。何故なら半ば忘我の中にある彼が一際目で追っているそのグループの花形(センター)とは、若かりし頃の彼の父、真野(まの)陽彩(ひいろ)であるのだから。

 

 自らの父が元アイドルであると、彩歌は5歳にもなったこの時分まで知らなかった訳ではない。今ではプロデューサーとしてプロデュース業に勤める陽彩が元々はプロデュースされる側だったというのは何度か聞かされたことがあって、しかし陽彩は所詮は過去の栄光だとして彩歌に積極的に映像を見せるような真似はしなかったのだから、父の経歴というのは彩歌にとって現実感のない御伽噺のようなものであったのだ。或いはそれは、母である愛歌も陽彩の意志を汲んで多くを語らなかった事も要因としてあろう。

 

 故に最早ライフワークとも言えるピアノの練習もできずに暇を持て余して偶然目に留まった映像ソフトの山をひっくり返しこの映像を見つけるまで、彩歌はその話について半信半疑な所があって、しかし実際にこうして目にした以上、それでも信じられないと言う程、彩歌は斜に構えた子供ではなかった。それどころか、一瞬で虜になってしまった程である。

 

 凄い。衝撃と感激に打ち震えて凡そその機能を喪失したかのような状態にありながら、その一言だけが彩歌の口から洩れる。彩歌は歌うのが好きだ。ともすれば、物心ついた頃から母に習い続けているピアノと同程度には。だが、これは。歌でこれ程までに多くの人を笑顔にできるなどとは、想像した事すらなかった。

 

 衝撃。感激。歓喜。憧憬。羨望。そしてエトセトラ。幼い彩歌には名も知れぬ感情が彼の胸中で渦を巻いて、心地よい激情の鯨波と化してその小さな身体を縛り付けている。だが、それも永続ではない。アイドル達が一曲歌い終わり観客たちが一際大きな歓声をあげると同時、一時停止を押すのも忘れて我知らず彩歌は駆け出していた。踵を踏み潰すのも構わずに乱雑に靴を履き、突進するかのような勢いでドアを押し開けて庭に出る。その先にいるのは鼻歌など歌いながら趣味であるガーデニングをしている陽彩だ。

 

「お父さん! お父さん!!」

「彩歌。どうした?」

 

 興奮した様子で尊敬する父の許へと駆けよっていく彩歌と、ガーデニングに手を止めて息子に視線を移す陽彩。彩歌は陽彩の前で足を止めようとするも幼子故の不安定な重心のために止まり切れずつんのめり、陽彩に受け止められる形になる。陽彩はそれに驚きつつもしっかりと受け止めて、ごく自然に抱き上げようとするが、軍手に土が付着している事に気が付いて思い直した。すぐに軍手を外して、彩歌を立たせる。家の中からは、生徒に教えていると思しき愛歌の演奏が聞こえてきていた。

 

「おっと。怪我はないか、彩歌?」

「う、うん。ありがとう、お父さん」

「どういたしまして。慌てて走るのは危ないから、今後は気を付けるように。

 ……で、どうしたんだ? 何か楽しい事でも見つけたとか?」

 

 高校生になった時分になると常に落ち着いた雰囲気を纏うようになった彩歌であるが、それとは対照的に幼い頃の彼は人一倍好奇心に満ち溢れたあまり落ち着きのない子供であった。この時の彩歌の様子はその好奇心を刺激された時のそれに近くて、そのための問いであった。

 

 その問いを受けて事の経緯を語り出した彩歌の様子は、まさしくマシンガントークと言えるそれである。幼童らしく総身を満たす感情のまま、半ば要領を得ず何処か脈絡のない、そんな語勢。余人にはまるで言いたいことが伝わらなそうなそれも、しかし父であるがために彩歌の気質を知り尽くしている陽彩には十分であった。

 

 自身がまだ現役であった頃の様子を、息子に見られた。そう理解した陽彩の様子は何処か恥ずかしくくすぐったそうな、或いは望郷のようでもある。彩歌には自ら見せていなかったとはいえ彼はそこまで隠匿に固執している訳ではなくて、それでも自分の若い頃を知らぬ間に見られているというのは恥ずかしいものがあった。尤も、それで息子が喜んでくれているのだから、悪い気はしないけれど。

 

 だが唐突に、それまでまるで鉄砲水の如くだった彩歌の語勢が弱まる。完全に止まったのではない。えっとえっと、と繰り返すその様は先程までと違い自身の裡を言語化するのに困窮しているようで、それでも、彼なりにどうにか言葉を絞り出した。

 

「おれも……」

「ん?」

「おれもいつか、お父さんみたいにおれの音楽でみんなを笑顔にできるかなっ?!」

 

 或いはそれは、おおよその子供が抱くであろう親に対する憧れの発露、つまりはこの世界にありふれた特筆すべき事は何もない出来事であるのかも知れないけれど、陽彩にとっては大きな意味を持っていた。一瞬目を見開き、息を呑んだのはそのためだ。

 

 いつか、自分も父のようになれるか。それはまるで彩歌がアイドルになりたがっているようにも聞こえるけれど、きっとそうではない。もしもそうであるのなら、彼は〝音楽〟ではなく〝歌〟と言っていた筈である。ともすれば見落としてしまいそうな、些細な差異だ。しかし決定的な違いでもある。

 

 彩歌にあるのは、何も歌だけではない。父からは歌。母からはピアノ。彼にはそのどちらもあって、勢いのままにどちらかを擦れられる程賢しくも軟弱でもないから、どちらも取ろうとしている。その源泉は憧憬──否、それよりももっと根強く、かつ根源的(プリミティブ)単純(シンプル)な欲求。即ち、夢だ。(陽彩)息子(彩歌)に夢の種子を与えたのだ。

 

 それがひどく嬉しくて、むず痒くて、照れ隠しの代わりに陽彩が彩歌の頭を乱暴に、それでいて優しく撫でる。母譲りの亜麻色の髪が乱れて、彩歌があげたのはくすぐったそうな声。やめてよぉ、と、そんな言葉とは裏腹にその声色には喜色が滲んでいる。そうして、暫く。陽彩は息子の髪を撫でる手を止めると、微笑みを湛えたままその瞳を真っ直ぐに見据えた。かち合う漆黒と孔雀青。さながらそれは言語ならざる意思の交感のようであるけれど、あえて陽彩は答えを口にする。

 

「できるさ、必ず。なんてったって、おまえは俺と愛歌の自慢の息子だからな!」

「──! うんっ!!」

 

 華のような笑顔。交わされる笑みと笑み。それは極々なんでもない、微笑ましい父子の一幕で──宝物のような、只管に幸福な記憶(いたみ)だった。

 


 

「ん……」

 

 緩慢とした目覚めであった。機能を喪失していた五感に少しずつ火が灯ってきて、視覚に割り込んできた朱の海と空、聴覚に滑り込んでくる潮騒が微睡の残香を引き剥がしていく。そうして、欠伸と背伸びをそれぞれひとつ。視界のもやが晴れて、飛び込んできたのは黄昏の海原だ。欠伸のせいだろうか、目尻に浮かんでいた涙を指で拭う。

 

 自分がいつ眠ったのか、彩歌はよく覚えていない。だが眠る前の事はよく覚えていて、たった一日の体験入部という事で彼は侑やかすみに同行させてもらっていたのだ。そうして一旦休憩という事になりこの海辺のベンチに座っていたのだが、その最中に眠ってしまっていたという事らしかった。不用心だが、実害はないようだ。公共の場で眠るという行為自体もこれが初めてではなくて、どうやら真野彩歌とは眠気には勝てない性質らしかった。

 

 バッグのドリンクホルダーから引き抜いたミネラルウォーターのボトルを一口呷り、大きく息を吐く。何か、懐かしいユメを見ていた気がする。夢幻から醒め、その熱が虚空に散逸してしまった今となっては正体を掴むのは不可能に近いがとても幸福なユメだったのは間違いない。胸の奥に燻る幻痛がその証明だ。或いはそんなユメを見てしまったのは、侑とかすみ、ふたりと過ごしたこのごく短い時間を充実していたと感じていたからなのだろう。

 

 充実。不意に脳裏を過ったその言葉を再認し、彩歌が自嘲の如く嗤う。かすみが満足いくまで彼女の自己紹介動画の撮り直しに付き合い、時には自らも撮影の真似事をしたこの時間を、自分は充実していたと、楽しいと感じていたのか、と。そんな感情は、いつかの昔に置き去りにしてきた筈なのに。

 

「……やっぱり、()()()()()()()、俺」

 

 呟く。その声音は自身の至らなさへの嘆きのようであり、同時に何処か泣いてしまいそうな気配すらあった。それは自らの無力のためか、或いは先刻見たユメの残滓が未だ無意識に張り付いているからか。恐らくは、そのどちらもなのだろう。

 

 他者とは自己を映す鏡であると言う。であるならば他者との活動を通して見えた自己の輪郭とは、きっと真実だ。だがそうしてより詳細に見えてきた自らの瑕疵のお陰で掴めそうなものも確かにあって。その正体を探ろうと彩歌が思索の航海に漕ぎ出そうになった時、唐突に耳朶を打った声が彼の意識を引き留めた。

 

「あ、いたいた! おーい、彩歌くーん!」

「こんな所にいたんですか。もう休憩は終わりですよ、彩歌先輩?」

 

 名を呼ばれて弾かれるように顔を上げてみれば、そこにいたのは先程まで彩歌が反芻していた人物、他ならぬ侑とかすみであった。慌てて腕時計を見てみればかすみの言う通りとうに休憩時間は過ぎている。不用意にも眠ってしまっていたため仕方なかろうが、そもそも眠らなければ良かった話ではある。故に彩歌が深々と頭を下げたのは決してパフォーマンスなどではなく、心底からの謝罪であった。

 

「どうやら眠ってしまっていたみたいで……申し訳ない」

「あわわ、そんな本気で謝らなくてもいいですよぉ! 彩歌先輩、結構目立つから苦労もしませんでしたし。……でもこんな所で寝ちゃうなんて、まるで彼方先輩みたいですね」

「彼方先輩……? あぁ、あの3年の」

 

 彩歌と、かすみの言う〝彼方〟という生徒に、直接の面識はない。だが旧同好会の自己紹介動画──先日再度検索した際には既に削除済みであった──を見ていた彩歌はその容姿について既知としているのだ。ウェーブのかかった茶髪と眠たげな眼が印象的な、ライフデザイン学科の3年に所属する女子生徒である。

 

 無論動画を見ただけであるから、彩歌はその人となりまでを知っている訳ではない。だがかすみがそう言うのだからきっとその彼方という少女もまたどこでも寝てしまえる性質で、その原因のひとつには寝不足があるのだろう。()()()()()()()()()()()()()()()

 

 尤も、面識も交流もない人物の人柄を人伝の情報で推測するなど不当であり失礼だ。非礼な思索を切り上げ、頭の片隅に追いやり霧散させて、彩歌は意識のチャンネルを再度目前の現実に合わせる。

 

「それで、これからどうするんだい?」

「うーん……実は、決まってなくて。歩夢先輩もまだ来てませんし……」

 

 自身の頤に細く長い指を添え、唇を尖らせながら彩歌の問いにそう答えるかすみ。彼女の自己紹介動画はすでに撮り終わっていて、しかし歩夢はまだ来る気配を見せない。侑が言う事には歩夢は彼女の自己紹介の練習をしているという事であるから、それだけ熱が入っているのだろう。

 

 だがそれ故に、今日のこれからの活動は決定していない。旧同好会はともかくかすみや侑、歩夢が再始動させた現同好会はまだ文字通り走り出したばかりで、その方針もまた未確定なのだから無理もない。

 

 空白。或いは間隙。侑とかすみ、彩歌は今、3人で集まっていながら半ば集合している意味を喪失しているようなものだ。歩夢を待っているのは当然だけれど、それまでの手持ち無沙汰。ならば活動の邪魔にはなるまいと、彩歌は口を開いた。

 

「中須さん。ひとつ、訊いてもいいかな?」

「……? 何ですか?」

 

 彩歌の声音が常の軽薄さすら感じさせないほど真剣だったからか、かすみの声には疑問の色がある。そんな後輩の様子にもあくまでも真面目な面持ちで、彩歌は言葉を続ける。

 

「中須さんは……どうして、スクールアイドル活動をしようと思ったんだい?」

「どうして……ですか?」

「うん。教えてよ」

 

 もしかしたらそれは、あえて訊くような事ではないのかも知れない。尋ねる相手によっては愚弄と捉えられてしまうか、尋ねた側が活動を通してもなおそれが分からない蒙昧と思われる事もあろう。

 

 だが幸いにして、かすみの目には彩歌はその手の暗愚としては映らなかったようである。それは出会ってから数時間という短い時の中ででも互いに相手の人柄をある程度把握していたという事でもあろうし、何処か面接官ででもあるかのような彩歌の言葉がその実、希うような気配に満ちていたからでもあろう。

 

 であるが故に、それはかすみの善性に甘えた問でもある。言われなければ分からないのかと、一蹴されてしまっても文句は言えまい。しかしかすみは一瞬口許に手を遣ると、浪々と、しかし朗々と語り出す。

 

「かすみんには、絶対に譲れない……一番大切にしたい事があって。だから、スクールアイドルがやりたくて……」

「それは〝可愛い〟って事?」

 

 あまりにも明白な彩歌の問いに、かすみは無言で首肯する。

 

「だよね。だって、こんな時でも中須さん、可愛いから」

「うんうん。悩んでる時でもかすみちゃんはすっごく可愛い」

「っ……! もうっ、先輩、こんな時にからかわないでくださいよぉ!」

 

 完全に虚を衝かれた形であったのだろうか、頬を朱に染めて抗議するかすみに、からかってないよ、とふたり。半ば話の腰を折るかのような物言いであったが、それは確かに紛れもなく彼らの総意であった。

 

 彼らが思うに中須かすみという少女は間違いなく可愛い。それは何も容姿に対してのみ向けられた印象などではなく、ふたりの目に映るかすみの在り方への心証である。可愛いと信条とし、そう在るよう己を律する彼女が、可愛くない訳はないのだ。世辞や忖度などではない。ふたりは噓偽りない本心から、そう思っている。

 

 そして可愛い己であるためにスクールアイドルでありたいと願うのは、何も論理の飛躍などではない。詰まる所、かすみはスクールアイドルが好きで、大好きで、故にこそ〝世界一可愛いスクールアイドル〟たらんとしている。それは自己顕示などではない。もしもそうであったのなら、かすみはこうもファンの事を思ったりはしないだろう。

 

 自分が好きで。ファンが大切で。スクールアイドルが大好きで。〝可愛い〟は絶対に譲れなくて。だから、そういうスクールアイドルでいたい。そうでありたい。かすみの答えとは、つまりそういう事なのだと、彩歌は思う。

 

「……でも、絶対に譲れないものがあるのはきっと皆も同じなんです。それでもやりたい事はやりたくて、皆、それを押し付けるのは嫌なのに、かすみん、歩夢先輩に……」

 

 かすみが歩夢に何をしたのか、彩歌は人伝でしか知らない。けれど口ぶりから凡そ分からない程彩歌は鈍くもなく、恐らくかすみは自分の思う在り方を歩夢に押し付けるような真似をしてしまったのだろう。

 

 それと似た話を何処かで聞いた気がして、彩歌は呟く。

 

「優木さんと、同じ……」

「はい……あれっ? 彩歌先輩、知ってたんですか?」

「まぁね。俺は……優木さんの、友達だから」

「えっ……えぇーっ!? せつ菜先輩の友達ーっ!?」

 

 直前までの沈鬱な空気を吹き飛ばしてしまうかのようなかすみの絶叫が、一帯に響く。聊か大袈裟にも思える反応であるが、無理もあるまい。今まで先輩であるらしいという事以外何も分からない、実在している筈なのに実在性に乏しいという矛盾めいた存在であったのに、友人というごくありふれたものを自称する存在が現れたのだから。

 

 対する彩歌はかすみの反応から、旧同好会のメンバーもせつ菜の正体を知らないらしいと察する。だが、きっともそれも時間の問題だろうという予感が彩歌にはある。根拠はないが、何しろ既に気づいている者がいるのだから、他に正体に辿り着く者が出てこない筈もないのだ。

 

 こほん、とかすみの咳払い。自ら明後日の方向に飛ばしてしまった空気を取り戻し、けれどその重みまでもをかすみは呼び戻した訳ではなかった。先の驚愕の影響だろうか、かすみはいつもの調子を取り戻しているように見える。

 

「うーん、皆それぞれやりたい事が違ってるって事なんだね。それで喧嘩しちゃうのは、仕方ないんじゃない?」

「それは、そうですけど……でも、このままじゃまた同好会がうまくいかなくなっちゃいますよぉ……」

 

 協調と譲歩。妥協と折衷。それらは互いに似て非なるものである。そもそもとしてそれぞれに譲れないものがあるというのにそれを曲げてまで他人と手を取り合うというのは、最早協力などではなく屈服だ。それではいけない。

 

 だがそうであるとしても互いに望む在り方が致命的なまでに食い違っているのであれば、それを解消しない事には相互理解も図らないうちに手を取り合うなど、夢物語だ。

 

 やらなければならない事ではなく、やりたい事。ある種の自己実現。その議論を前にして、彩歌はあまりにも無力であった。責任、或いはやらなければならない事。真野彩歌という人間にとってはそれこそが至上の命題で、自身のやりたい事というのは半ば眼中になかったのだから。その戸惑いが顔に出ていたのだろうか、侑が彩歌に快活な笑みを向ける。

 

「彩歌くんも、せつ菜ちゃんのために何かしたいって思ったから、あんなに悩んでたんじゃない?」

「俺が……?」

「そうだよ。それがきっと、今の彩歌くんのやりたい事なんだと思う。夢に向かっている人を応援したいって、そういう所は私達、似てるのかもね。ふふっ」

 

 せつ菜のために、何かしたい。それが今の彩歌の希望なのだと、侑のその言葉は彩歌にとって全くの慮外であったのにも関わらず不思議と彼の胸に深く落ちていく。──目が、覚めたような心地であった。

 

 優木せつ菜を終わらせないと、それが彼女のライブを見届け、そのノートを受け取った自分の責任だとして今まで彩歌は行動してきた。だが、彼女を終わらせない事がその責任の取り方であると判じたのは何故か? そうであって欲しいと、そう彩歌自身が望んだからではないのか?

 

 排除した筈の感傷だ。決別した筈の不定だ。もう己にそんな権利はないと、諦めと共に悟った筈だった。けれどそうであるというのに、不思議と今は不快ではない。虫の良い話であるとは理解しているけれど、自分に足りないものがそのある種の自覚であると解った以上、受け入れる他あるまい。

 

 しかしそうであるとするなら、彩歌はかすみと同じ問題に行き着いてしまったという事になる。即ち自身のそれは、他者への押し付けなのではないかと。示し合わせたかのようにふたりは顔を見合わせて、そんな折、彼らの耳朶を震わせる足音があった。いち早くそれに気づいた侑がそちらを見遣る。

 

「あっ、歩夢!」

「遅れてごめんなさい! あの……かすみちゃん、自己紹介、今撮ってもらってもいい?」

「えっ? はい……」

 

 歩夢からの頼みにかすみの反応が一拍遅れてしまったのは、丁度今、彼女自身が昨日歩夢にしてしまった事を自省していたからなのだろう。或いは自分は、歩夢がやりたい事を圧し潰してしまったのではないかという憂慮がかすみの反応を遅らせて、しかし忘我は一時のみでかすみはすぐに己のスマホを歩夢に向ける。そして、一拍。

 

「……虹ヶ咲学園普通科2年、上原歩夢です」

 

 そんな名乗りから始まった自己紹介に、無理の色合いはない。むしろカメラを通して見える歩夢の姿は彼女らしい飾らない可憐さに満ちていて、かすみは思わず息を呑んだ。

 

 昨日のかすみと歩夢の間になにがあって、その時の歩夢の様子がどうであったか、あくまでも部外者でしかない彩歌には詳しく分かる所ではない。だがかすみの様子からして今のそれとは大きく異なる事は、彼にでも分かる。

 

 同好会の活動に合流するまでの間に歩夢に何があったのかは、彼女と行動を共にしていなかった3人の知る所ではない。だがその短い間にでも彼女は彼女なりの答えを見出したのだ。最後にうさぎの真似をしてみせたのは、彼女なりにかすみの流儀を取り入れた結果だろうか。

 

 そうして、かすみがカメラを停止させる。同時に、ときめいちゃった! と侑は歩夢に抱き着いて、それから幾許かして快活と希望の光に満ちたその緑色の瞳をかすみ、そして彩歌へと向けた。

 

「皆それぞれのやりたい事、自分の一番……全部叶える方法は、きっとあるよ!」

「そう、でしょうか……」

「たとえ今すぐにはできなくても、きっと不可能じゃない。だからさ、探してみようよ、一緒に!」

 

 そう言い、笑顔と共に侑はかすみへと手を差し伸べる。その所作に歩夢はほんの一瞬のみ複雑そうな表情を浮かべたものの、おおよそ侑と同じ気持ちであったのだろう、すぐに微笑みを浮かべる。それを受けて、かすみは。

 

「……! はい! ──先輩、見ていて下さい!」

 

 輝くような笑顔でそう言うや否や、何を思ったかかすみは軽やかな動作で近くにあった、周囲から一団高くなっている場所によじ登った。海原から吹き付けてくる優しい風が、かすみの髪を撫でる。

 

 侑の言うような、皆にとっての一番がそれぞれに実現できる場所。それが本当にあるのかは、まだかすみには分からない。何しろそれができなかったからこそ旧同好会は破綻し、空中分解してしまったのだから。

 

 だが一度できなかったのだとしても、それは絶対に不可能という事にはならない。それに、根拠はないけれど侑達と共にならばそういう場所が作れるという確信がかすみにはあって、それでもその場所で、否、遍く全てにおいて一番〝可愛い〟のは己なのだと宣告するかのように、少女は息を吸い込んで──

 

「──────!」

 

 ──歌う。謳う。唄う。これこそが中須かすみ、これこそが己の理想なのだと、万象に訴えかけるかの如く、高らかに。そのせいだろうか、かすみは確かに侑らと同じ場所にいる筈なのに、まるできらびやかなステージの上で舞い踊っているかのように、少年少女らには見えた。

 

 この感覚に、彩歌には確かに覚えがあった。それはせつ菜のステージを見た時のそれであり、古くは己が父のライブ映像を観た時のそれ。だが全てが同じである筈もない。何故ならこれは〝中須かすみのステージ〟なのだから。

 

 胸元を強く握り締める。全身全霊で、存在が釘付けになる。かすみのステージを目の前にして彩歌の裡に湧き上がってきた、彼自身ですら制御しきれない強い情動。以前は訳も分からず拒絶してしまったそれを、今度は受け入れた。たとえ、その行為が罪なのだとしても──その責任は、後から取れば良い。

 

 彩歌の中で錆びついた何かが、今度こそ廻り始めた音がする。ただこの一時だけ、いつかは再び止まってしまうのだとしても、構うものかと声がする。それはさながら外から聴こえてきた喧騒を前に、岩戸を開けてしまったかの如く。いつの間にかかすみのステージは終わっていて、激情の濁流に立ち尽くす彩歌。だがそこから復帰すると、彼は少女らに視線を投げた。それに気づいた侑が、口を開く。

 

「ふふ、イイ表情(カオ)してるよ、彩歌くん」

「そう? ……あぁ、でも、そうかも知れない。今日はありがとう」

「どういたしまして。……それじゃあ、またね」

「あぁ、また!」

 

 それだけの短い遣り取りの後、彩歌は踵を返して駆け出していく。その表情は晴れやかであり、先刻までの彼にあったような憂いはない。それは今だけの極めて限定的なものではあるけれど、彼の親友が望んだ笑顔にも()()していよう。

 

 正確な所を言えば、彼は未だ自分なりの解を見出せた訳ではない。本当にこれで良いのかと、その悩みは未だ残留している。それでもその成否は、後に捨て置こう。今はただこの道を走り抜けると、彼はそう決意した。

 

 その道行に、白き羽が舞い落ちることはない。それどころか彼が為そうとする事の結果が立ち現れてきた後、きっと彩歌はその責任を取らなければならなくなるのだろう。他の誰がどう言おうとも、それ以外の後始末を外ならぬ彼自身が許さない。彼のやりたい事というのもその結果が出てくるまではただの自己満足の独善で、或いは結果はより酷い事になってしまう可能性もある。だが、それは今考えるべき事ではない。今はただ、多くの人に示してもらったこの道を往く。改めてその決意と共に、彩歌は家路を急ぐのであった。

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