青く、蒼く、合わせ鏡のような穹と海。天蓋より降り注ぐ陽光はまるで天からの祝福ででもあるかのようで、音楽室の窓から見える世界はどこまでも穏やかだ。その中に在っては無機質な都会の灰色の林でさえ暖かであり、少なくとも彩歌の視界の内に降雨の気配はない。それどころか空の蒼のどこにも白は滲んでおらず、ひどく綺麗な空は見ているだけでどうしてか彼は泣きそうにもなってしまう。
訳の分からないそんな感傷を大きな溜め息と共に吐き出し、音楽室の使用許可証を適当な磁石で黒板に留める。再び窓際に視線を移せばそこに鎮座していたのは1台の巨大なグランドピアノであり、その椅子を引く手付きは極めて単純な動作でありながら許可証の雑な扱いとは比べるまでもなく厳かだ。
そうして椅子に腰を下ろし、適切な位置になるよう微調整。自宅のそれとは異なり音楽室のそれを利用してきたのは1年と少しであるが、何度も利用してきたそれの扱いは彩歌にとっては既に手慣れたものだ。僅かな間に位置と座面高の調節を終わらせると、大きく伸びをした。
身体中の関節から鳴る、泡の弾けるような音。骨を伝わってきているのだろうか、内側から聴こえてくるそれは潜在の不協和音だ。それを聞き流し、許可証と共にクリアファイルに挟んでいた楽譜を譜面台に立て掛け、一拍。だらしなく欠伸を漏らす。昨晩から今朝にかけての彩歌は人生初の徹夜を敢行して、そのせいで今日の彼は全くの寝不足だ。
だが寝不足による眠気を外界に放り出しそのまま封じてしまうかのように、両手で耳を塞ぐ。平素なら耳を隠してしまう程長い髪は、今は後頭部で結ばれている。環境音は遠ざかり、代わりにその空白を塗り潰していくのは漣めいた微音。血液が血管を巡る音か、或いは掌と耳の間の僅かな隙間で環境音が反響しているのか、どちらにせよそれは耳を塞ぎ世界から隔絶された時のみ聴こえる〝
それだけの行程を熟して、彩歌の前準備は完了する。詰まる所先の奇特な一連の所作は彼がピアノを弾く際のルーティンであり、神聖な行為に臨む前に捧げる一種の儀式でもあった。
儀式。そう、儀式である。細やかな動作に対して向けるにしては聊か重すぎる表現であるかも知れないが、彩歌にとってはそれだけの意味を内包しているのだ。だが自身のそんな在り様に、気持ち悪い、と彩歌は自嘲的に独語する。
けれどそんな彩歌自身の心情とは裏腹に、ルーティンを経た彼の身体と精神はピアノを演奏するに最適なそれへと変革する。定型化された動作を
変質。変生。今はもう耳を塞いでいないにも関わらず相も変わらず世界は遠く、彩歌の意識は半ば客体としてピアノと相対する己の視界を認識している。常世から断絶されながらも現実という名の海を滞留する、ある種の浮遊感。明晰夢にも似たその感覚の中にあっても、彼の身体は一切の淀みなく動く。短く息を吐き、鍵盤に手を。
刹那──音が、爆ぜた。
白と黒。只管なまでにモノトーンの舞台で踊る少年の両腕はそれぞれが独立した1個の生命を思わせる躍動でありながら、その先に接続された十指は精密機械の如く精妙である。そしてそれらの合一により奏でられる音色は燦爛にして正確無比だ。
だが、足りない。演奏に最適化された躯体の稼働と紡がれる音色を何処か客観で捉えながら、彩歌は己が奏でている旋律をそう断じる。技術的な面を言っているのではない。むしろその点だけを言うのであれば、彼の自己認識どうであれ完璧に近い。彼自身は際立った天才性を持たず、この曲──〝CHASE!〟の演奏は今回を含めて片手で数えられる程度であるのにそんな完成度であるのは、彼が今まで努力により獲得し熟練してきた基礎技能の顕れであろう。
故に、彩歌が不足を感じたのは己の技術に関する事ではない。より厳密に言えば彼は常に自らの力不足を実感していて、けれど今回の音色が内包するそれは特筆する程甚だしくはないのだ。だからだろうか、その不足の正体が彼はすぐには分からなくて、思わず演奏の手を止めた。瞬間、予想していなかった拍手の音。弾かれるように顔を上げて、彩歌はようやく観客の存在に気付いた。トキメキに輝く緑色の大きな瞳と、身体の動きに合わせて跳ねるツインテール。果たして彼の視線の先にいた観客とは、高咲侑であった。
どうしてここに、だとか。最近よく合うな、だとか。そんな些末な感想を、上から激烈な既視感が塗り潰していく。音楽室でひとりピアノを弾いていた少年と、そこに入ってきた観客の少女。それと似た状況を、彩歌は一度経験している。違うのは観客の正体と場所、そして許可証の存在。奇妙な符合と相違はそれぞれが何かの予感のようだ。曖昧模糊とした感傷に彩歌の反応は数瞬遅れ、その間にも侑は音楽室と廊下の境界を超えていた。気づけば彩歌の目の前に、煌々と輝く緑翠玉。
「凄い凄い! 話には聞いてたけど、彩歌くん、ピアノも上手なんだね!」
「そうかい? フフ、ありがとう、高咲さん」
半ば興奮した様子で投げかけられた賛辞に対し、口許に手を遣り柔和な笑みを浮かべながら彩歌は礼を返す。初めて侑と出会った際はその接近に驚きはしたが、二度も戸惑う程彩歌は愚かではない。その笑みに、接近に対する驚愕の気配は一片とて滲んでいなかった。
それから彩歌は浅く息を吐き、自らの後頭部に手を遣るとそこで髪を結わえていたヘアゴムを解いた。柔らかな亜麻色の髪が重力に従って流れ、シャンプーのものと思しき芳香が鼻腔を突く。掌には、使い古されくたびれ果てた、花の装飾が施された浅葱色のヘアゴム。かちり、という幻聴と共に意識が客体から完全に主体に立ち戻り、彩歌は侑の視線が一瞬彼のヘアゴムに移った事に気付いた。次いで予想される行動に被せるように、彼は口を開く。
「──そうだ。高咲さん、昨日はありがとう。本当に助かった」
「えへへ、どういたしまして。でも、お礼なんていいのに。困った時はお互い様、でしょ?」
「それでもだよ。……というか、キミが困った時に俺が手を差し伸べる隙があるのかい?」
嘆息し、自嘲的に、かつ冗談めかして少年は
そしてそういう善性の人というのは、他者に差し伸べた手の数だけ善意が返ってくる可能性を持つ。所謂返報性の原理という心理効果に依るものだ。故に、彩歌が彼女らに貰った善意を返せる好機というのはきっと少ない。返ってくるであろう善意の母数がまず多いのだから。
だがだからとて彩歌は貰ったものに甘え、満足し寄りかかるような非礼を自身に許さないし、与えられた善意に心底からの感謝も抱かない傲慢ではない。たとえ真意の全てを他者に晒さないのだとしても、感謝までもを覆い隠してしまえば、出来上がるのは只の下衆だ。ひどく自己中心的な考えではあるが、せめてそこまで堕ちたくはないと彩歌は思うのである。
だが彩歌のそんな内心は侑にとっては全く関係のない事であろうし、彼自身が口にしていない以上は余程親密な仲でない限りは察する事もできまい。案の定侑はきょとんという擬態語が見えてしまいそうな仕草で小首を傾げていて、彩歌が安心した様子で微笑む。
「何でもない、ただの冗談さ。忘れて。ところで……ここに来たって事は、高咲さんはピアノを弾きに来たんだよね? それにしては、許可証を持ってなさそうだけど」
「ぎくっ。あはは……実はそうなんだよね……」
痛い所を突かれたとでも言うかのように侑はばつが悪そうな表情を見せながら後ろ髪を掻き、そんな少女の様子を目の当たりにした彩歌は苦笑を漏らす。尤も侑が律儀に許可証を貰いに行っていたのなら先客がいると追い返されていた筈で、この偶発的な邂逅は侑の気まぐれに依るものであるとも言えるのかも知れない。
そもそも彩歌が態々許可証を貰ったのも規則を遵守しての事というよりは今の彼の信条に従ったが故の行動で、であれば規則に従わない者を責める権利は彼にはないし、またそのつもりもありはしなかった。規則が第一でないという根本的な一点において、両者は同一だ。
同一というならば、ふたりがこの場に来た経緯もそうだ。何気なく彩歌が問い、それに答える侑曰く、彼女が音楽室に来たのは単なる気まぐれ。歩夢が所属するクラスの授業終了が遅れ、それを待っている間にピアノを弾きたくなったという、それだけだ。というのもダイバーシティ東京においてせつ菜のライブを見たせいか、CHASE! をピアノで弾きたくなったのだと、侑は言う。先客がいると分かっていて音楽室に入ってきたのも音色に誘われただけではなく、その曲がCHASE! だったからというのもあるのだろう。
「彩歌くんの演奏、凄かった! 音圧……っていうのは違うかもだけど、とにかく胸に響いてくるっていうのかな?! 私、ときめいちゃった!」
「お褒めに預かり恐悦至極。楽しんでくれたのなら、それに優る歓びはないね」
似つかわしくない所作と、幾らか弾んだ声音。或いはいっそ気障ったらしいと受け取られかねない仕草も、そのちぐはぐさも含めてどうしてか真野彩歌という在り方に違和感なく収まっている。詰まる所彼はともすれば良からぬ勘違いをしてしまいそうな侑の物言いを前にしても全く誤解を差し挟む余地もない程に
両手の指を絡め、伸びをする。再び身体中から小さな破裂音。それから短く息を吐いて椅子から立ち上がると、彩歌は何気ない動作で制服の乱れを治してから椅子の足に立てかけてあった荷物を手に取った。同時に、侑からの疑問の視線に気づく。
「ピアノ、使うんじゃないのかい?」
「確かにそのつもりで来たけど……悪いよ」
「良いのさ。俺だってここに来たのは気まぐれで必要性なんてなかったんだから、惜しくはない。それに、そう、キミには何度か世話になってるし、賛辞も貰ったから、そのお礼っていうのもある。……今ならこの、優木さんに無断で再現した楽譜も付けちゃうよ」
譜面立てに安置してあった手書きの楽譜を手に取りながら、まるでテレビショッピングの販売員を真似るかのように彩歌は言う。即席の、全く不慣れな真似事であったためか侑の目にはそれが奇異にも映ったが、しかしその違和は一から十まで自然体であり過ぎた態度に空いた、
彩歌の行動は親切などではなく、単なる自己満足だ。彼の中に偏在する、冷静にして冷酷な部分がそう結論付ける。今の所高咲侑という少女の生に対し、真野彩歌なる男はお荷物か邪魔者としてしか立ち現れてきていない。他者との深い
だが自分自身の内省による印象と、客観の印象はまるで異なるという事もままある。故に彩歌には、侑から彼がどう映っているのかを子細に知るのは不可能だ。侑は困ったように笑いながら、彩歌が差し出した楽譜を受け取った。瞑目し、彩歌が口を開く。
「……ありがとう」
「何で彩歌くんがお礼を言うのさ。譲ってもらったのは、私の方なのに」
「さぁ、何でかな。そういう気分だったのかも」
侑の問いに対しそう答える彩歌の声音はまるで自らの意図を隠しはぐらかすような響きに満ちていたものの、彼自身にそういう意思はなかった。或いはその不明を明言しなかったが故の響きであるのかも知れない。
彩歌自身、発した瞬間は全く無意識の礼であった。だが軽い驚愕を圧殺し、彩歌は自覚する。先の例はさして深く考えてのものではなかったのだろうが、だからこそ限りなく心底から零れた本音であるのだろう。自儘な男の自己満足を親切という体で受け取ってくれた少女に対する、それは少年が少女に初めて見せた脚色のない言葉であった。
だがそこまで口にしてしまうのは野暮というものだ。自身の卑しさ、侑の優しさを詳らかにしてしまえば、先の遣り取りを陳腐に堕としてしまいかねない。溜め息のような吐息の後、彩歌は黒板に留めてあった許可証を外した。彼の名前で取っていたそれは、侑の空間の内にあっては無意味で無価値だ。端役か、それどころか小道具ですらない。
回収した許可証と、それからこの場においては使われる事のなかったもう1枚の楽譜。たったそれだけの荷物で、彩歌の痕跡はこの音楽室から消える。そうしてその場から立ち去ろうとした刹那、侑が彼の背後から声を投げた。
「ありがとう、彩歌くん。──またね!」
「! ……あぁ、また」
礼の応酬。別離の挨拶。昨日とよく似た侑の言葉に彩歌は一時のみ振り返り、彼もまた手をひらと振りながら侑と同じように記憶にある通りの
成る程侑が初めてと言っていたのは確かなようで、彩歌からすればその音色はひどく拙い。その評価に驕りや優越感はなく、いっそ過剰すぎる程に冷ややかだ。だがその冷徹の裡から緩やかに、けれど確かな熱が昇ってくるのを彼は自覚する。
この感覚に、彼は覚えがあった。忘れる筈もない。いつかのダイバーシティ、或いは昨日の海浜公園。それらで目にしたスクールアイドルと同質の輝きが、彼の胸をざわつかせる。そのせいだろうか、知らず、彼は鼻歌など歌い始めていた。
その感覚は酔いにも似ている。彩歌は未成年であるし親族も比較的真面目であるから、彼は生まれてこの方、一度も飲酒はした事がない。けれどもしも酒を飲んだのならこんな感覚なのだろうかと、少年は内心だけで戯言を吐く。今や彼は、幻想に揺蕩う漂流者。だからだろうか、曲がり角から現れた生徒の存在に、彼は衝突寸前まで気づけなかった。
「──彩歌くん?」
「うわぁ!? ……なんだ、中川さんか……」
唐突に耳朶を叩いた声に、彩歌の意識が夢中より醒める。眼前には、彼の物言いに対し拗ねたように、腰に手を当てて立つ菜々の姿。
「なんだ、ではありません。失礼ですね」
「ごめんごめん。……こんにちは、中川さん」
「はい。こんにちは、彩歌くん」
己が礼を失した事を認め彩歌は居住まいを正し、それが何故だかおかしくて菜々が破顔する。それは〝中川菜々〟としての彼女はあまり人前では見せない、けれど彩歌にとっては見慣れた微笑であった。
彩歌が許可証を貰いに行った先は生徒会室ではなく──一度訪れたが、それぞれの業務のためか留守であった──管理担当の教員であったから、今日、彼らが出会ったのはこれが一度目。全く偶然であるから、特別話す事もない。それに彼らは互いに連絡先を知っているのだから、態々ここで話す必要性もない。
故にふたりは言葉でなくある種の暗黙の了解としてそのまま互いに擦れ違おうとして、しかしその一瞬、彩歌は再び振り返って少女の小さな背中に向けて声を投げていた。
「……今日の放課後、生徒会の活動が終わったら中庭に来てくれない?」
「? えぇ。それは構いませんが……」
何故、と。菜々の目には疑問の気配があって、それに気付かない彩歌ではない。だが気づいていながら、彩歌はその疑問に言葉ではなく含みのある一笑で答えた。来れば分かると、それは何処か悲壮の色すら漂わせている。菜々にとって、それはおおよそ覚えのない友の姿であった。しかし戸惑いながらも、彼女は改めて了解の返事をして去っていく。
離れていく背中。歩いて行く友人の姿に未練はないとばかりに踵を返し、彩歌は黙考する。菜々が歩いていく先には、音楽室がある。であれば自然な成り行きとして彼女は侑と出会うのだろう。出会い、何を話すかまでは彼の知る所ではないし、関係もない事だ。
だが、その状況は。無許可でピアノを弾く侵入者と真面目な少女が出会い、言葉を交わす光景に、彼は覚えがあった。先刻彼が抱いた違和感は、これの予兆であったのだろうか。最早そんな事は、彼自身にとってすらどうでも良い事だ。
この予感は当たるという、根拠のない自信がある。そしてそうであるならば、放課後に彼がしようとしている事は全くの蛇足だ。だが、彼には責任がある。願われた通りに終わりを見届け、その残滓を受け取った責任が。ならばそれを果たさなくては、後悔が残ってしまうだろう。たとえそれが全く無意味であるとしても。
彩歌の口の端に笑みが滲む。その様子は余人が見ればひどく奇異に映ってしまうだろう。だが仕方がない。何故なら願いが叶いそうなのだ。彼が小学生の時分、特にその卒業式の頃からずっと抱き続けてきた願いが。だというのに、どうしてだろうか。雨音はまだ、彼の耳朶の裡で残響していた。