【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第11話 アナタの瞳は海のようで

 生徒会の仕事を終えた菜々が中庭に来た時には既に、彼女を呼び出した相手である彩歌はその場にいた。偶然か、或いはそこが彼にとっての定位置であるのかは菜々には分からないが奇しくも彼が座っていたのは以前に眠っていた彼を菜々が見かけた際のベンチと同じであり、しかし今回ばかりは、彼は眠ってはいなかった。

 

 ベンチに深く腰掛け、太すぎず細すぎず、程よく筋肉質な長い脚を組んだ体勢で視線を手元の文庫本に落としている。彼の柔らかな亜麻色の髪を揺らすのは東京湾の方角から吹き込む潮風であり、その下で輝く孔雀青の瞳は涼やかだ。それが菜々の視線の先で佇む少年の姿であり、もしも一枚の絵としてその光景を切り出せたのならばそれなりのものとなろうという益体の無い感慨が彼女の胸中で顔を覗かせる。

 

 手にしている文庫本は古びた布製のブックカバー──小学生の頃も同じものを使っていたと菜々は記憶している──で保護されていてタイトルはおろか表紙すら見えないが、何を読んでいるのだろうか。純文学、評論、戯曲、ジュブナイル小説、或いはライトノベル。菜々の知る限りにおいて、真野彩歌という少年はおおよそどんな作品でも選り好みをしない人物であった。出会った頃、菜々が好きな作品について話が合ったのは、彼のそういう性質(たち)によるものでもあるのだろう。

 

 だからだろうか、菜々は未だ彼女の来訪に気付いた様子の無い彼へと昔のように言葉を投げ掛けようとして、けれどその言葉は音としての形を得るより早くに呑み下されて虚無の裡に霧散してしまう。嘗ては抱く事さえもなかった無言の葛藤。対して彼女の目に映る彩歌の姿はあまりにも彼女の知る〝真野彩歌〟として自然体でありすぎて、それを認めるや彼女の胸中に落胆のような、或いは安堵のような相反する感情が綯い交ぜになった混沌が駆け抜けていく。こちらは少なからず覚悟していたのに、と、そう全く無意識に考えて、はたと気づいた。

 

 覚悟。覚悟とはいったい、何の事か。そしてその覚悟とやらから転化された混沌も、菜々からすれば自分自身の事であるにも関わらず不明かつ理不尽だ。だがその正体を探る隙も、この場においては存在し得ない。半ば機械的に菜々がもう1歩踏み出し、その足音と気配でようやく彼女の来訪に気付いた彩歌が本を閉じ、視線を菜々へと向けた。

 

「やあ、中川さん。わざわざご足労かけて悪いね」

「いえ、大丈夫ですよ。知っての通り、門限にはまだ余裕がありますから」

「フフ、あぁ、そうだね。よく知ってる」

 

 その遣り取りは、ある意味ではひとつの確認作業である。両親が厳しくしているためか現代には珍しく菜々には門限が言い含められていて、それは昔から変わらなかった。故に以前から付き合いのある彩歌も、その事について既知であるのだ。

 

 それだけの会話が何故だかおかしくて、ふたりは短い笑声を漏らす。余人から見れば何処に和やかになる要素があるのか感じ取る事もできないような応酬は、或いは周囲と地続きでありながら絶対的な隔絶のようでもあった。

 

 しかしふたりだけの世界と形容するのは、その領域はあまりにも未完成であり過ぎる。周囲に他の生徒がいないのはそもそも中庭が広いうえにこの時間帯に利用している生徒が少ないためで、仮にいたとしてもふたりの会話をどう認識するのかは全くの未知数であった。尤も中川菜々としての彼女が余人には想像もし得ない程に柔らかい雰囲気を纏っている事は共通して驚愕に値するだろうけれど。

 

 『優木せつ菜』はもういないと、菜々は規定している。にも関わらず彩歌の前においては彼女が常の鉄面皮を崩してしまうのは、彼だけはせつ菜という()を与えられる前の、あくまでも菜々以上でも以下でもなかった一面を知っているが故だろうか。詰まる所それは過去からの反復のために封印の中に空いた、確かな空隙の証明であった。そしてそれは半ば慣習じみているがために彼女自身殆ど無意識の変容でもある。

 

 だが、果たしてそれは彩歌の目にはどう映っているのか。彼は彼女の名誉のため、かつ何よりも自身の意図のためにあえてそれを口にすることはなく、けれど細められた目には慈しみめいた色がある。続いて、咳払い。菜々が本題に入るべく問いを投げた。

 

「それで……いったいどんなご用なんです、わざわざ呼び出したりなんかして?」

「うん、それなんだけどね……」

 

 そこで一旦言葉を区切り、泰然とした動作で彩歌は菜々に背を向ける。一見してその不可解な所作のために菜々は首を傾げるが、やはり彼女から彩歌の表情は見えずその真意は全く不明なままだ。諦めてひとつ息を吐き、言葉の続きを待つ。

 

 緩やかな潮風が中庭を吹き抜け、揺れる亜麻色が彼の肩口を撫でる。その刹那、菜々は自身が見上げる形となったがために今更になって自分と目前の友人の間に大きな体格差が生まれている事に気付いた。小学校卒業後出会う事が無かった彼らは高等部進学時に外部生として彩歌が入ってきた際に再会して、しかし互いに忙しいためにこうして落ち着いて会話をする機会もそうなかったがために自身の見ている現実と認識の間には奇妙な齟齬が横たわっていたのだと、彼女は理解する。

 

 明確な時間の流れと、それによる変質、変容。可視たる現実がそうであるならば、不可視な繋がりさえも彼女の知らぬ間に変わっている事もあるのかも知れない。その発想に至ると同時、彼女の脳裏に抑圧した筈の感傷が再来する。

 

 或いはそれは、自身の大好きを侵害されて泣く後輩の姿。或いはそれは、偶像の正体を知り愕然とする幼馴染の姿。逃れ得ぬ過去の因果に絡め取られ菜々の意識は忘我に埋没していき、しかし頭上から降り注いだ声により現実へと引き戻された。

 

「中川さん」

「はい!?」

「なんで驚いてるのさ。……まぁいいや」

 

 呆れたように、安心したように、彩歌は微笑する。そうして、数拍。左手を自身の鳩尾に当て、右手を相手へと差し出すといういっそ過度なまでに気障な姿勢で、彼は口を開いた。

 

 

「中川さん。今から俺とお出かけ(デート)、しませんか?」

 

 

「は────ええぇぇぇぇっ!?」

 

 

 最早校地中に響き渡らんばかりの、少女の喫驚。その眼前でその原因となった少年は不敵に、されど何処か悲しげに笑むのであった。

 


 

 結論から言えば。

 

 虹ヶ咲学園の敷地を出てダイバーシティ東京に到着するまでの間に、ついぞ菜々は彩歌の真意を察する事ができなかった。デートをしようという或いは突飛とさえ形容できるような誘い文句で菜々を連れ立った彩歌だが、彼は何の意味もなくそんな軽薄な物言いをする男ではない事を菜々は知っている。故に彼のこの行動には何等かの意図がある筈で、しかし未だに彼女にはそれが見えない。けれどそれは何も菜々の察しが悪いだとか、そういう事ではない。

 

 中川菜々は聡明な少女である。だが同時に、真野彩歌は生来他者よりも外面に感情が顕れにくい性質の持ち主で、更には菜々も聡明でこそあれ何らかの感情の為に視野が狭くなってしまう部分があるというのは、かすみの大好きを侵害してしまっていた事実が証明していよう。

 

 物憂げな面持ちで見上げた先には一角獣を模した頭部を持つ巨大な白亜のヒトガタ。可能性を体現するそれは、しかし今は赤い燐光を発さずに純白のまま屹立している。

 

「申し訳ないって、そう思ってる?」

「えっ?」

「みんな頑張ってるのに自分だけこうしているのが申し訳ない……そう考えてない?」

 

 近くの自動販売機で買ってきたのだろう微糖の缶コーヒーを菜々に差し出し微笑を浮かべながら、彩歌は言う。それを受けた菜々は答えを返さないが、その沈黙は肯定も同義であった。虚を衝かれたような表情もその一因であろう。

 

 だが彼の言う〝みんな〟とはいったい誰の事を言っているのか。生徒会の面々か、或いは同好会までもを含めているのだろうか。菜々は彩歌が同好会のメンバーと知り合いであるとは知らないが。その可能性に彼女は違和感を抱かなかった。

 

 代金に関する極めて短い問答の後に驕りと押し切られた菜々は彩歌に礼を言いつつ缶コーヒーを受け取り、プルタブを開栓する。充填されていたガスが逃げていく、間抜けな音。自らもまた缶を開けてブラックコーヒーを一口呷ってから、彩歌が口を開いた。

 

「なら……それは俺の責任(せい)かな」

「彩歌くんの……?」

「うん。だって、キミを外出に誘ったのは俺だ。だから俺の責任(せい)なのは当然だし、そうするのも道理だろう? 全部。そう、全部ね」

 

 そう言う彩歌の声音はあくまでも平静で、そこに奇妙な自罰の気配はない。彼が繰り返し言う『全部』というのは会話の流れからすれば彼女が遊びに出ている現状のみを指している筈で、それなのに菜々にはどうしてかその言葉の重みがそれ以上のものであるようにも感じられた。

 

 その彩歌の言葉は受け取り方によっては生真面目な菜々に対する愚弄のようでもある。けれど、彼女は彼がそういう気性ではない事を知っていた。であればそこに皮肉めいた意図はなく、あくまでも文字通りの意味でしかないのだろう。ただ、訳もなくその『全部』とやらを彼に背負わせてはいけない気がして、菜々は首を横に振る。

 

「いえ、そういうワケにはいきません。確かに誘ったのは貴方ですが、承諾したのは私です。その時点で、責任を全て貴方に求めるのは違うでしょう」

「そう? ……そういうものかな」

 

 呟く声音は穏やかで、けれど注意深く聞かなければ分からない程の悲哀もまたそこには同居していた。まるで菜々が彼の責任としない事を惜しむかのように。それは半ば異質とも形容できるような心理ではあるけれど菜々には彩歌なりの優しさにも思えて、口許を緩ませた。

 

 そもそも菜々の知る限りにおいて、彼は全くの彼自身の欲望のために彼女を付き合わせた事はなかった。であれば今回も彼なりに菜々の事を考えての行動──デートなどと呼称しているのは別だが──であろうと考え、その厚意を無下にする判断を彼女はしない。

 

 絶える会話。缶をひっくり返すような勢いでブラックコーヒーを喉に流し込むと、突き抜けるような苦味が彩歌の意識の裡を駆け抜けていった。そうして一息吐くと同時、菜々が忍び笑いめいた笑声を漏らしている事に気付いて首を傾げる。

 

「……貴方でも、そんな表情をするんですね」

「えっ、俺、そんなに変な表情してた?」

「いえ、変ではありませんでしたよ? 拗ねているみたいで、何だか可愛いです」

 

 くすくす、と。先程までの会話の中で彩歌の方が拗ねているというのは聊か奇妙ではあるが、そんな事は些末とばかりに菜々は笑っている。今ばかりは自身の表情について全くの無自覚であった彩歌は暫く両手で自身の頬をむにむにと揉んでいて、その仕草がおかしくて菜々は笑顔を浮かべている。その笑みは他でもない、幼馴染とも言える少年の新たな一面を知れた歓喜から来るものであった。

 

 大切な人が、笑っている。恐らくは〝中川菜々〟たる彼女の姿としては、彼以外は知らない表情で。その光景を前に彩歌は思う所がない訳ではなかったが、その感傷は彼の中に常に存在していたような気もする。故に押し殺すには容易く、代わりに彼は薄い、軽薄にも見える笑みを浮かべる。せめて彼女の前では彼女の知るままの〝真野彩歌〟でいようという、それはある種自己の封殺であった。けれどその封殺を、今度こそ自身の精神を掌握した彼は他者から悟らせない。

 

「可愛い、ね。それは俺には過ぎた評価だよ、きっと」

「そんな事はありません。彩歌くんは自分を低く見積もり過ぎですよ」

「どうかな。それに……」

 

 不自然に言葉を区切る彩歌。その言葉尻が漂わせる悪戯な気配に菜々は思わず彼の方を向いて、瞬間、反射的に息を呑んだ。心臓が強く跳ねて、顔から火が出るようだ。気づけば、互いの息がかかってしまいそうな程に、ふたりの距離は至近にまで迫っていた。

 

 そして全くの不意打ちでそんな状況に置かれた菜々の視界に初めに飛び込んできたのは、溟海のような青。即ちそれは彩歌の瞳であり、両者の距離のために菜々の顔に熱が凝集していく寸前に、彼女の胸中に不可思議な感覚が去来する。

 

 それはまるで、花緑青に揺らめく大海に抱かれているかのような。深く、深く、眼下には光が届かないがために底知れぬ洞が広がっていて、しかし水面から差し込む陽光ばかりが菜々の裡に飛び込んでは像を結ぶ。一方的に内側を見透かされているようでありながら、逆に一方的に見透かしているようでもある。絡め取っているようでありながら、絡め取られているようでもある。理解と無理解の間に揺蕩う、そんな感覚であった。

 

 だがそれはあまりに曖昧模糊としているがために、ほんの僅かに遅れてやってきた羞恥と動揺によって押し流されて、高く跳ねた心拍によって意識の外へと弾き出されてしまう。その頃にはもう彩歌の目から先の色合いは消えていて、代わりに彼らしい飄然とした表情があった。

 

「フフ、赤くなってる。可愛い」

「なあっ……!? かっ、揶揄わないでくださいっ!」

「アハハ、ごめんよ」

 

 耳まで紅潮させて抗議する菜々と、そんな抗議を受けてもどこ吹く風の彩歌。けれどそれは何も彩歌が菜々を侮っている訳ではなく、菜々もまた、抗議は一種の照れ隠しめいてもいた。或いはそれは両者の間にある互いの性質についての了解によるものであるのかも知れない。

 

 だがその抗議は決して全く本気ではないという訳ではなく、そしてそれが分からない彩歌ではない。故に彼は影の色を感じさせない笑顔のまま再び菜々から距離を取って、その瞬間、彼は夏服である紺色のズボン、その左ポケットの中で何かが震えたのを感じ取った。完全に不意を突かれる形となったそれが表情に出ていたのだろう、菜々もまた彩歌の様子からそれを察したようであった。

 

 どうぞ、と視線だけで返信するよう促す菜々。それに従うようにして彩歌はポケットからスマホを取り出すと、戸惑いが更に大きくなったかのように目を僅かに見開いた。だがすぐに平静に復帰すると、悟りのような、或いは憧憬のような笑みを口の端に覗かせた。それから手短に返信を入力し、スマホをポケットに戻してしまう。まるで彼の返信に対する更なる返信には興味がないか、そもそもその必要性を感じていないかのように。

 

「良いんですか?」

 

 何が、と彩歌は問い返さなかった。菜々の問いには圧倒的に情報が不足していたが、それを察せない彼ではない。

 

「良いのさ。呼び出しみたいなものだったけど、その現場に俺は不要だろうからね。もしかしたら、行ったら質問攻めに遭ってたかも」

 

 そんな縁起でもない事を宣いながら、彩歌は口許に手を遣ってくつくつと笑う。そんな気障か軽薄な印象を受ける所作が昔からの彼の癖である事を、菜々は知っていた。同時に、時にはそれが彼にとっての虚勢としても表出し得る事も。

 

 だが彼の言葉は不要だとか質問攻めだとか、彼自身にとってマイナスにも思える要素を孕んでいるにも関わらず笑声は本当に喜ばしいものを前にしている時のそれであった。まるで送り主にとって彼が不要であろうと断じられる事を歓んでいるかのように。

 

 不可解だった。疑懼だった。だが菜々がその違和感を探るより早く、彩歌は彼女の手から半ばひったくるようにして空になったスチール缶を抜き取り自身のそれと共に自販機横のゴミ箱に放り込んでしまう。そうして振り返った彼の顔に浮かんでいるのは、やはり仄暗さなど感じさせない清爽たる喜色だった。

 

「さ、行こうか。折角のデートなんだ、楽しまなくちゃ」

「うぅ、デートデート言わないで下さい、恥ずかしいので……」

 

 露骨なほどの軽薄を演じる彩歌と、羞恥に頬を赤らめながらも抗議する菜々。多少の疑問を抱えながらも、ふたりは歩を進めていった。

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