【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第12話 ナンジ、約束を果たさんとするならば

 鳩が豆鉄砲を食ったようというのは、或いはあのような感覚を言うのだろうか。ダイバーシティ東京にて初めてせつ菜のライブを目撃した日の夜、真野(まの)彩歌(さいか)は自室にて椅子に深く腰かけながらそんな益体もない事を考えていた。

 

 その驚愕の対象がせつ菜のライブであるのかと問われれば、彩歌は間違いなく是を返すだろう。目を閉じて現より意識を切り離し記憶の海へと漕ぎ出せば、すぐにでも思い出す事ができる。小さな身体を目一杯に躍動させて己の大好きを叫ぶ少女の姿、そして彼女の思いを具現化したが如き不可視の炎を、彼自身の胸中に去来した衝撃と共に。

 

 目が覚めるような体験であった。自身すら気づかぬうちに心底に押し込め虚飾で塗り固めた本性を、有無を言わせず詳らかにされるような鮮烈であった。心の中に土足で踏み入ってくるのではない。それはさながら炎か、さもなければ太陽のように周囲の人々の心を照らし、その熱で以て相対する者らを魅了する光だったのだ。追想の中でそれを再認し、成る程確かに彼女はまさしくアイドルだったのだろうと彩歌は思う。彼は嘗てその衝撃と似て非なる感覚を味わった筈だった。他ならぬ、若かりし頃、売れっ子のアイドルだった父のライブ映像を観た時に。

 

 だが太陽は隠れ、光は永遠に失われた。彼女自身の行動による責を果たすために、彼女は『優木せつ菜』でいる事を放棄したのだ。今となってはせつ菜の存在を示すのは過去の記録映像のみであり、せつ菜とその正体である菜々の繋がりを証明するものは彼女自身の記憶や所有物を除けば、彩歌に託されたせつ菜のノートだけとなってしまった。

 

「中川さん、どうしてこれを俺に……というのは、考えるだけ野暮かな」

 

 目蓋を開きそんな事を呟きながら、彩歌は学習机の上に置いてあったB5サイズのノートを手に取る。何故、菜々はこのノートを彼に託したのか。その理由など、既に彼女自身が口にしている。彩歌は菜々こそがせつ菜の正体であると知りながら、せつ菜の終わりを見届けた。故に、菜々はせつ菜の残滓の一部を彼に託した。それはノートを渡した時に彼女自身が口にしていた事だ。

 

 彼女のイメージカラーに近しい赤の表紙に書かれているのは、やはり『優木せつ菜』という名前のみ。罫線に沿って書かれた丁寧な字体は、彼女の根底にある生真面目さを顕しているかのようでもある。そうしてその表紙を開く彩歌の手付きは、さながら聖典でも扱うかのような丁重さだ。

 

 手渡された際に彩歌はその内容の一部に目を通していたが、改めて見分して確信する。このノートはせつ菜の練習ノート、或いは活動日誌なのだ。初めのページの内容は主に同好会の立ち上げについて書かれていて、その日に合わせて新調したものなのだと分かる。全体のレイアウトは非常に見やすく整然と纏められていて、同時に文の気配は読んでいるだけで当時の彼女の内心が鮮明に伝わってくる程に情感に満ちていた。その様たるや、ただ読んでいるだけである筈の彩歌が思わず微笑を浮かべる程だ。だが、ある日を境にして読み手に去来する感情は全く異なるものへと変貌する。

 

 それを形容する言葉として、最も適切なものは『自責』、『懺悔』であろうか。日付は今からさして前ではなく、その内容はこの日こそがせつ菜が己の過ちに気付いた日なのだと確信するに十分過ぎるものであった。所々に点在する、縒れたまま乾燥したようにも見える箇所は、せつ菜の涙の跡だろうか。

 

「っ……」

 

 唐突に胸中に湧いた思いに、彩歌が思わず自身の鳩尾で拳を握る。それは人間であれば誰しも抱き得るごく自然な感情で、しかし彼は必死にそれに名前を付けるまいと抵抗するも、耳元にこびりついた雨音は彼に逃避を許さない。せつ菜の自責を前にして、彼が抱いたのは共感であった。

 

 分かっている。自分がせつ菜に対して共感を抱くなど烏滸がましく、分不相応なのだと。だが、その感情は。自身の過ちに気付き、それに囚われてしまったが為の感情は、彼にも強く覚えのあるものだ。いや、覚えがある、などというものではない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。であれば、共感するなという方が無理があろう。

 

 故にこそ、彼は見ていられなかったのだ。自分の心に鍵を掛けて封殺し、その叫びが聞こえないよう耳を塞ぐ彼女の姿を。彼女を自身と同類扱いするのが許されざる事だと、彼は分かっている。それでもまるで3年前の彼のような菜々の姿を、彼は見ていられない。だからこそ彼は優木せつ菜をこのまま終わらせたくないと、そう願った。

 

 だが、どうすれば良いのか。彼の中には決意はあれどそればかりが先行していて、望む未来に至るまでの明確な過程が存在していない。故に彼は無力感に苛まれていて、そんな感傷に絡め取られたまま機械的にページを手繰る。瞬間、そこに挟まれていたと思しき二つ折りの紙が滑り落ちた。その予想外は彼を現実に引き戻して、床に落ちた紙を拾い上げ何気なく開くや、思わず息を呑む。

 

「これは……!?」

 

 そう呟く声は驚愕に塗れている。聊か過剰な反応のようでもあるが、それも致し方ない事であろう。優木せつ菜の活動日誌の中から現れたそれは、しかしながら今までの内容とは趣を異にしていた。その文が何であるかを彩歌は一目で理解していたが、小さな声で読み上げてより確信する。日誌と同じく涙の跡が点在するそれに綴られているのは、紛れもなく歌詞であった。

 

 知らない曲だった。だがせつ菜が発表している唯一のオリジナルの曲であるCHASE! とは異なるものでありながら酷似した気配を漂わせている点、そして何よりこれまでの内容と同等か、或いはそれ以上に彼女の内心が鮮明に想起される点からして、せつ菜の作詞である事は間違いない。詰まる所彩歌の目前に現れたそれは、未完の楽曲、その片鱗であった。

 

 ノートの間に挟み込まれていたものであるから、いつ作詞したものなのかは彩歌には知る由もない。同好会が結成された頃なのか、それとも最近になってなのか。どちらであろうと、彩歌には関係のない話だ。それどころかその未完の存在を無視することさえ彼にはできる。けれど、彼はその選択を好しとしなかった。

 

 ノートと歌詞を学習机の上に安置し、代わりに備え付けの棚から取り出したのは白紙の楽譜。彩歌は動画投稿者としてオリジナルの楽曲を作製する事もあるが故に、常に楽譜を切らさないようにしているのだった。それを広げ、頭に曲名を書き込む。

 

 この行動が正しいかどうか、彩歌には分からない。それどころか彼の中に在る冷酷な部分は出過ぎた真似をするなと、自己満足でしかない事は止めろと主張してくる。だが、彼はその懇願を捻じ伏せてしまう。自己満足。確かにそうだ。彼の行動はただ彼自身が何かした気になりたいが為の、只の自己満足でしかない。だが、たとえそうだとしても誰かの為にできる事をしたいという願いは決して悪ではない筈だと、彼は親友から学んだのだ。

 

 故に、彩歌は決意したのである。決して自己満足以上のものにならぬと分かっていても、この未完を完成させる事を。それこそが、彼が幼き頃に交わした約束の果たし方なのだと信じて。

 


 

「思えば」

 

 唐突に、菜々がその言葉と共に会話の口火を切ったのは彩歌と菜々、ふたりがダイバーシティ東京内のとあるカフェに立ち寄った時の事であった。

 

 早々に運ばれてきていたコーヒーに口を付けながら話題を探していた彩歌はそれを受けてカップをソーサーに戻し、周囲を流し見する。彼らの他にも客はそれなりに訪れており、席は殆ど満席だ。中には彼らと同じ高校生と思しき集団や、井戸端会議に興じていると思しき女性ら、或いは軽食をお供にノートパソコンと向き合っているビジネスマンの姿もある。至って何の変哲もない、全く普通の光景だ。いっそ長閑とさえ形容できるそれに彩歌は短く息を吐き、視線を菜々へと移す。

 

「親しい相手と、放課後にこうして目的もなく外出するのは初めてかも知れません」

「そうなのかい?」

「はい」

 

 知っているでしょうに。彩歌に対し菜々は答えを返す。確かに菜々の言う通り、彩歌は彼女が置かれた状況や境遇について他の者よりもよく知っている。少し考えれば彼女の言がそれに即したごく自然なものであったと分かるだろう。だが、彩歌は菜々にとってあくまでも他人だ。ストーカーなどでもないのだから、彼女の生活について何もかもを知っている訳もない。それ故の問いであった。

 

 彼らが出会った頃は菜々の両親の目に触れないようによく遊んだものだが、小学生の懐事情など高が知れている。そもそもとして幼さのための無垢な無邪気はわざわざ遠出をしてまでカフェに立ち寄るような発想を齎さず、それ故に当時の彼らは専ら真野邸で遊ぶ事が殆どだったのだ。であれば、なるほどこれが初めてというのも頷ける。

 

 だが、それはあくまでも彩歌の知っている情報のみでの推理だ。それが中川菜々という少女を構成する一要素の全てであると断定するだけの手がかりは、彼にはない。そう彼自身は思っていて、けれど菜々はそうではない。その認識の差異に、彩歌は込み上げてきた形容し難い感慨をコーヒーで流し込んだ。

 

「どうだろう。俺がキミについて知っているのは、あくまでも俺が知っている範囲のものでしかない。でも、それはキミの全てじゃあないだろう? 他の人よりは知っていると言うなら間違いじゃないかも知れないけれど、それが思い上がりでない証拠は何処にもない」

 

 或いは酷薄とも思える言葉を、おどけた調子で彩歌は言う。しかしそこにはその軽薄ささえ滲ませる声音とは裏腹に確かな主張の色があった。それはおおよその場合において自身の意志を可能な範囲でぼかそうとする彩歌にしては珍しい事で、その確信に気付けない菜々ではない。彼女の胸中に一抹の寂寞が去来する。

 

 しかし言い方こそまるで相手を拒絶しているような彩歌の言だが、実際の所彼自身にその意図はないのだろう。彼はただ当たり前の、厳然たる事実を述べているだけだ。人間というのは言葉があってさえ誤解をするのだから、形にして伝えていない事象を全て把握できる筈もない。そしてそれが分かっていながらも相手が自身を知っているものだと期待するのは、ある種の願望の裏返しでもあろう。〝相手に自分を知って欲しい、知っていて欲しい〟という、人間の根源的(プリミティヴ)な欲求である。

 

 けれどその欲求は全ての相手に対して作用するものではなく、であれば何故菜々は彩歌に対してそれを抱いたのか。降って湧いたその疑問を押し流すように、菜々がコーヒーを傾ける。──苦い。たまらず角砂糖を投下すると、白は瞬く間に黒い水面に消えていった。

 

「それでも私はきっと、貴方に私の事を知って欲しいと思っています」

「──」

 

 きっと、などと。胡乱な物言いである。だが、それも致し方ない事だ。菜々自身の裡にも自らのその思いが確信に至るような自認はなく、しかし彼女は己の行動がその思いを端に発するものであると推測するに足るものだという自覚がある。他でもない、自らこそが優木せつ菜であると自発的に明かし、その終わりを見届けて欲しいと願ったのは、或いはそういう事なのではないかと菜々は自省するのだ。

 

 対する彩歌は、よもや菜々からそんな事を告げられるとは思っていなかったのだろう、虚を衝かれたとでも言うかのような間抜け顔を晒したままコーヒーカップの取っ手に指を絡ませている。それがひどく可笑しくて、菜々がふふ、と微笑を漏らした。それから窓の外に視線を遣れば、彼方まで広がる海原が見える。

 

「ですが、これは只の私のワガママで、それ以上でも以下でもない。それが分かっていながら、私は……」

 

 知らず、カップに添えられた手に力が籠る。そして常に冷静沈着である筈の『中川菜々』の声音に滲んだ激情の気配は、彼女の胸中を占める後悔の証明であった。俯いた視線の先、黒い水面に映っているのは最早見慣れ果てた彼女自身の顔であり、しかしその中には切り捨てた筈の過去の気配がある。

 

 幼馴染である少女のそんな内心の葛藤に、彩歌は気付いているのか否か。俯いたままの彼女の姿を前に、彩歌は何も言わない。だがそれは何も彼が菜々の告解を無視しているだとか、そもそも関心がないだとか、そういう事ではない。もしもそうなのであれば、彼はそもそも菜々をこうして連れ出すような真似はするまい。

 

 優木せつ菜を圧殺し、封印する。ひいては自身がスクールアイドルを辞める事でせつ菜がいない形で同好会を再起させる。彩歌は菜々が口にしていない目標までを凡そ推測できていて、同時にそれが彼女なりの責任の取り方なのだとも了解している。その是非を、彼は判断しない。彼は何も同好会に所属している訳でもなく、かつその空中分解の現場に居合わせた訳でもない。つまり本質的には全くの部外者であるのだから、その是非を判じる権利を持ち合わせている筈もないのだ。

 

 だが、それでも。ここまで菜々の様子を見ていれば、彼女が自身の心を抑圧しているのは明白であった。故に彩歌はそんな彼女の姿を見ていられない。それは幼い頃に交わした約束の為でもあり、彼自身の願望のためでもあった。

 

「そんな顔しないで、中川さん。ほら、スマイルスマイル!」

「彩歌くん……?」

 

 些か唐突にも思える彩歌の言葉に、菜々が疑問の面持ちを浮かべながら顔を上げる。しかしそんな表情を向けられてもなお、彩歌は笑顔のままであった。

 

「浮かない表情より、笑っているキミの方が俺は好きだな。勿論、生徒会長としての凛々しいキミも素敵だけれどね」

「へぇっ……!? い、いきなり何を言うんですかっ!?」

 

 曇りのない笑顔のまま放たれた彩歌の賛辞に、驚愕の声をあげる菜々。その顔は耳に至るまで紅潮しており、完全に虚を衝かれた形であるようだった。だが、それも当然の事であろう。先の彩歌の言葉にはまるで脈絡がなく、その発言を予期するというのは全く不可能に近い。だがその唐突ささえ、彼にとっては自覚の内であった。

 

 けれど彩歌自身がその如何を言葉にしないものだから、菜々は混乱する他ない。それでも幾許かの時間が経過すれば嫌でも思考は冷静さを取り戻していくもので、加えて先刻も彩歌は軽薄を演じていたためか、彼女が忘我から復帰するのは早かった。そうして、彼女は彩歌の言葉の裡に先の主張と同質の確信の色がある事に気付く。

 

 であれば、一見して軽薄極まりないようでもある彩歌の言は、嘘などではないのだろう。そもそも菜々の知る限りにおいて真野彩歌という少年は少なくとも彼女に対しては嘘を吐く事などなかったのだから、彼女にとってそれは疑うまでもない事だ。それなのに彩歌を疑ってしまったのは、彼女が抱く自身への不信のためであった。

 

「彩歌くんは、優しいですね。こんな私でもそう言ってくれるなんて」

「……そうかい? 正直な気持ちを言っただけだよ、俺は」

 

 違う。こんなものは決して優しさなどではない。ただの打算だ。彩歌はそう言ってしまいたくて、けれど寸での所でそれを抑え込んだ。この場で自己嫌悪を晒し合って、いったい何が生まれようか。彼は何も傷の舐め合いがしたくて菜々を連れ立っているのではないのだから、それを吐き出すのは最悪手というものであろう。

 

 だが、少なくとも彩歌は嘘を吐いてはいない。彼の行為の本質が打算であれ優しさであれ、それだけは紛れもない事実であった。たとえそれが彼女が真に欲している言葉、今告げるべき事ではないのだとしても。であれば、相手の目に優しさとして映ったものをあえて全て否定するというのも、それは自己否定に酔った愚昧の所業となってしまうだろう。故にこそ、彩歌は自身を菜々の知る『真野彩歌』として規定したままで彼女と相対する。

 

「でも、これはキミの事を慮らない、俺の勝手で一方的な思いでしかない。そう、キミの言葉を借りるなら……只の俺のワガママだ。そうだろう?」

「そんな事……!」

「あるさ。でも、そんなワガママをキミは優しいと言ってくれた。そういう風に、ワガママを受け止めてくれる人もいるって事……なんだと思う」

「……言いきらないんですね」

 

 何処か自信なさげで締まらない彩歌に、苦笑しながら菜々はそう返す。だがそれとは裏腹に彼女の声音は揶揄うかのようで、彩歌は露骨なほど演技がかった仕草で肩を竦めてみせた。或いはそれは、情けない逃避であるかのように。

 

 しかし、それでも視線は真っ直ぐ。僅かに残っていたコーヒーを飲み干しカップをソーサーに戻す仕草はいっそ優雅な程であり、次いで真っ向から注がれた視線は菜々の漆黒の瞳に飛び込みその注意を完全に絡め取った。

 

「だからさ、俺に教えてよ、()の中川さんの事」

「……!!」

 

 微笑みを浮かべながら彩歌はそう言い、それを受けた菜々が目を見開く。彩歌の物言いはあまりにも漠然としてはいるけれど、そこに込められた意図はひどく単純であった。菜々は彩歌に自分の事を知っていて欲しいと告げたから、彼は彼なりに菜々の思いに応えようとしている。ただそれだけの事だ。

 

 だが、何と虫の良い話だろうか。内心だけで彩歌は自嘲し、しかしそれを残っていたコーヒーを一気に飲み干す事で臓腑の奥へと流し込んだ。ふと菜々の方を見遣れば彼女も殆ど同じタイミングで飲み終えていて、それを認めるや否や彩歌が伝票を手に取る。代金は合計で1500円に迫るが、幸いにして彼の手持ちにはまだ幾分かの余裕があった。

 

「それじゃあ、休憩はこのくらいにして、そろそろ出ようか」

「あっ、待ってください! 今度こそは自分の分の代金は払いますからっ!」

 

 逃げるような足取りで席を立った事から彩歌がまたも代金を全て自分で負担しようとしている事に気付いたのだろう、そんな抗議を飛ばしながら彼を追いかける菜々。そんな何でない遣り取りが何故だか楽しくて、けれど訳もなく悲しくて、彩歌は短く笑声を漏らした。まるで、この時間が過去となる事を、惜しむように。

 


 

 眩しい。建物の間に沈んでいく夕陽を細目で見遣りながら、彩歌が小さく呟いた。都会の街並みを満たす黄昏の色はさながら沈みゆく太陽の断末魔か。その只中を、群れ飛ぶカラスの鳴声が切り裂いていく。

 

 そんな黄昏の中に、並び歩く影法師がふたつ。長く長く伸びたそれらは時折家々が落とす影に埋もれながらも、やはり両者が直接交わることはない。どこまで行こうと平行線。それは何ら可笑しな点もない自然な現象であるが、それ故に一切の虚飾を許さず世界を詳らかにしていた。

 

「覚えていますか? 小学生の頃、ここまで一緒に帰ってきていた事」

 

 微笑を浮かべたまま菜々がそう問うたのは、何の変哲もない丁字路。しかし僅かに視線を上げると他の建物よりも聊か背の高いマンションが見えた。その内の1部屋が菜々を含む中川家が暮らす部屋である事を、彩歌は知っていた。

 

「覚えてるよ、勿論。……思えば、高校生になってから一緒に帰るのは、めっきり少なくなったね」

 

 今更ながらに気付いたとでも言うかのような声音で、彩歌は菜々の問いに答える。小学校卒業と同時に学校が別になり高校生になって再び同じ学校に通うようになった彼らだが、高等部進学と同時に生徒会で活動していた菜々と帰宅部の彩歌では生活の何もかもが違くて、共に行動する機会というのはそう多くはなかったのだ。ふたりでの帰り道というのもせつ菜の引退ライブの日を含めてたったの2回である。

 

 しかし彩歌のその答えは捉え方によっては菜々に対してひどく失礼であるようにも思えようが、彼自身にはそんな意図はない事に菜々は気付いていた。或いはそれは、その事実を意識する間がないような時間を彼らが過ごしてきたという事でもあるのだから。事実がどうあれ、彼女はそう解釈した。

 

「はい。……今日は、ここでお別れです」

「そうだったね。家の前まで送っていくとか、そういうのは見つかった時が怖いからしてなかったんだった」

「えぇ。……あの。今日はありがとうございました。とても楽しかったです」

 

 こちらこそありがとう。俺も楽しかった。真面目な性分である菜々らしい礼の言葉に、彩歌は微笑みながらそう返す。外面的に軟派にも見える彼がそう言うというのはともすれば口先だけとも思われようが、それは紛れもなく彼の本心であった。

 

 菜々と彩歌の外出は、その逢引めいた気配とは裏腹にそこまで浮ついたものではなかった。ただ取り留めもない事を話しながら歩いていたり、ウィンドウショッピングをしたり、時には彩歌が強引に彼の奢りという形にして軽食をしたり。特筆するような派手さは何処にもなく、ごく普通という表現が相応しい。だが今まで中川菜々としてのイメージを崩さないような振る舞いを心がけてきた彼女にとって、それは初めての経験であった。

 

 だが、彩歌にとってはきっとそうではないのだろう。彩歌の親友である大雅と菜々は少なからず面識があって、彼はきっとその親友ともこんな風に過ごした事があるに違いない。何気なく菜々はそんな事を考えて、不意に胸中に慣れない感覚が過ぎたのを自覚する。疼痛のような、或いは靄のような。だがそれはあまりにも弱々しく、気づいた直後には輪郭さえ不確かなまでに散逸していた。首を傾げる菜々。けれど彼女はそれを追う事無く、再び口を開く。

 

「では、私はそろそろ帰ります。また明日」

「あっ。ちょっと待ってくれるかな、中川さん。最後に渡したいものがあって」

 

 踵を返して独りの家路に着こうとした菜々を呼び止める彩歌の声。振り返った菜々の表情に宿っているのはやはり疑問であり、しかしそれを受け止める彩歌の瞳は、この朱の世界にあってもはっきりと見える程の蒼に輝いている。だが微笑みは常のそれで、菜々にはそれが少しだけ奇妙にも思えた。

 

 しかし彼女は何も言わず彩歌の言葉の続きを待って、その視線の先で彩歌は徐にポケットからスマートフォンを取り出した。そうして画面に光が灯ったと思しきその一瞬のみ彩歌の顔に驚愕らしき色が宿るが、それは瞬く間に立ち消えてしまう。それから、幾許か。彼はスマホの操作を止め、菜々に視線を送る。

 

 その様子からして、彩歌の言う渡したいものとは何かしらのデータなのだろう。だがそれならば別れてからでも良い筈なのに、何故態々今なのか。抱いた疑問の答えも実際にそれを見れば分かるだろうと菜々もスマホを取り出して見てみれば、彩歌のアドレスから1通のメールが来ていた。途端に、何か予感めいた感覚が菜々の胸に立ち現れる。それを振り切ってメールを開き、菜々はそれに何件かのファイルが添付されているのに気づいた。

 

 拡張子から見て、それらの内容は音声データと電子文書。それを認めるや否や、菜々の脳裏に確信めいた何かが奔る。弾かれるようにして彩歌を見れば、彼は常と変わらぬ微笑を浮かべていた。

 

「どうして……」

「……実の所、本当にこれを渡して良いかは迷ってたんだ。でも、今日のキミを見ていたらね」

 

 答えになっていない。彩歌の返答に対してそう反駁しようとした菜々だったが、しかしそれは声にならぬまま腹の底に消えていく。どうして、などと。そんな事は決まっている。彩歌がそうしたかったから。それ以上に何の理由が要るだろうか。

 

 ならば或いは彼の言った『今のキミを教えて欲しい』というのは、これを渡して良いか否か判断するためだったとでも言うのだろうか。その疑念は間違いでなく、けれど全てではない。真野彩歌という少年はそんな合理性の塊のような人間ではないと、菜々は知っていた。

 

 数瞬の間菜々はそれらのファイルへの処方について考えあぐね、結局解答は出せずにスマホをスリープモードにして鞄の中に戻してしまう。

 

「優木せつ菜は、もういません」

「知ってる。俺は終わりを見届けたんだから」

「貴方の気持ちには、応えられません」

「良いのさ。都合の良い偶像(カミサマ)なんかじゃあないんだから。キミも、俺も」

 

 答える声音はあくまでも穏やかであり、即答でありつつも僅かに煮え切らない態度を覗かせている菜々にもまるで動揺していないようであった。或いは、彼女自身でも必至に押し殺そうとしている懊悩や描いている未来でさえ見抜かれているのだろうか。それなのに彩歌は優し気な様子を崩さなくて、それが更に菜々の平穏を責め苛む。

 

 このデータを、彩歌はどういうつもりで託したのだろうか。新たな門出を願う福音としてなのか、或いはこれから消え逝く者へ手向ける鎮魂歌としてか。きっと、どちらでもあるのだろう。このデータを菜々がどう扱おうと、彩歌はそれを否定しない。そんな確信が、彼女にはあった。

 

 それはきっと優しさとはまた別種の何かだ。だが、ならば何なのか。分からなくて、菜々が思わず問いを漏らしていた。あまりにも漠然として、要領の得ない問いを。

 

「彩歌くんは……どうして、そうなんですか」

「決まってる。約束したからには、その責任を果たす。……俺がしているのは、それだけだよ。それが今、俺のしたい事なんだって、教えてくれた人がいた」

 

 約束。彩歌の言葉に菜々は反射的に自らの記憶を反芻して、それの答えを探そうとする。そして、それらしいものに行き当たるのはひどく早かった。だがその間にも彼女の意識の中では彼と過ごした時間の総量にも等しい時間が経過しているようでもあった。

 

 ──誰がキミを否定したとしても、俺はキミの味方だ。

 

 彼らがまだ無垢であった頃、彩歌は確かに菜々にそのような事を告げた。一言一句正確に諳んじる事ができる訳でこそないもののそれは菜々の記憶の隅に残っていて、故に驚愕する。何気ない会話の中で漏らした戯言とも、幼さのための無知から来た背伸びとも、最悪、忘れたものとして棄却してしまえそうなそんな約束を、彼は未だはっきりと覚えていて、律儀に履行しようとしている。約束したのだからという、たったそれだけの理由で。確かにそれは優しさではない。『責任は果たすものだ』という、一種の信念だ。

 

 もしもここで菜々が懊悩も何もかもを放り棄てて縋ったとしても、或いは遍くを否定してデータを全て破棄したとしても、それが菜々の本心からの選択ならば彩歌は何も言うまい。だがそうであるならば、今日の彼の一連の行動は何処か矛盾しているようでもあって、それに菜々が疑問符を浮かべたのと殆ど同時に、彩歌が口を開いた。ともすればそれは彼自身ですら予想外な程に、飾らぬ声音であった。

 

「それでも、最後にひとつだけ伝えるなら……俺は好きだったよ。歌っているキミの姿も」

 


 

『普通科2年中川菜々さん、優木せつ菜さん。至急、西棟屋上まで来てください』

 

 彩歌にとっては聞き覚えのある、柔和な声音でのそんな放送が行われたのは菜々と彼が共に外出した翌日、その放課後であった。呼び出した目的も何も告げないその放送に教室内の幾人かの生徒は訝し気な表情を浮かべるが、彩歌は何かに合点がいったように笑声を漏らす。

 

 そうして彼は鞄からスマホを取り出すと、手慣れた動作でメッセージアプリを起動させる。続けて開いたのは、最近登録されたばかりの侑とのトーク画面。だが、新しく何かメッセージが送られてきた訳ではない。表示されている遣り取りは丁度昨日、彩歌が菜々にデータを添付したメールを送付するためにスマホを開いたタイミングで送られてきた時点で停止している。

 

『明日の放課後、西棟の屋上まで来てね! 絶対だよ!!』

「高咲さん……あぁ、やっぱりそういう事だったんだね」

 

 合点がいった、とばかりに彩歌は呟く。昨日侑から彩歌に送られてきたメッセージは何もそれだけではなく、それよりも前、菜々と彩歌がダイバーシティ東京前で会話をしていた時にも送られてきていた。先程の放送と総合して考えれば、侑達は昨日の時点でせつ菜の正体について知り得たという事なのだろう。

 

 そうしてあえて菜々と共にせつ菜を呼び出す放送をしたという事は、侑達の意図は最早火を見るよりも明らかであった。彩歌は自然と口角を上に向けて曲げたまま、ひとつ息を吐く。机の引き出しに残った諸々を放り込むために再び鞄を開けて、中に残っていたノートが視界に入った。せつ菜から託された、彼女の活動日誌だ。

 

 それを認めたその刹那、彩歌の顔に懊悩らしき色が現れる。けれど彼は何度もそうしてきたように今度も自身の精神をもう一度掌握し直し、鞄を背負いながら席を立つ。先程の放送について早くも関心を失ったらしい生徒の間を縫って教室を出る彼はいつもと変わらぬ微笑みを浮かべていて、しかし蒼の瞳は煌々と輝いていた。そうして、内心だけで呟く。

 

 行かなければ。──願いの行く末を見届けるために。

 




 次回、第1章最終話『カレの願い(ゆめ)が叶う時/』。
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