東京はお台場、東京湾岸に存在する虹ヶ咲学園。その校舎の一角、西棟屋上にて高咲侑は決意で満載された胸の裡に一抹の焦燥を抱いていた。彼女の視線は眼下の校地に向けられていてそこでは幾人かの生徒が放課後の時間を思い思いに過ごしているが、恐らくその光景は侑の視覚野で像を結びつつも意識に投影される前に霧散してしまっているだろう。
そしてその焦燥の原因は何も、この期に及んで菜々/せつ菜に対して告げるべき言葉に窮しているだとか、そういう事では断じてない。むしろそちらの方は既に彼女の胸中で大半を占める決意の中で醸成されていて、当人が見えれば一も二もなく口にしてしまいそうな程だ。菜々/せつ菜を呼び出すという最も重要な行程も、放送担当の生徒の協力を得て既に歩夢とかすみが行っている。故に焦燥の原因は菜々/せつ菜ではなく、数日前に知り合った、大堡礁が如き群青色の瞳が印象的な少年──真野
昨日、旧同好会のメンバーたちから菜々こそがせつ菜であるという情報が齎された──侑自身は半ば気づいていたが──後、一度目の呼び出しに応じなかった彩歌に対して侑は今日この場に来て欲しいとメッセージを送ったのだが、今、彼の姿はこの場所にはない。先程トーク画面を確認した際には既読表示が付いていたのだから、彼が確認していないという事はまずあり得まい。であれば彼はこのメッセージに気付いていながら、来ていないという事になる。だが、それは何故か。
偶然CHASE! を歌っている所を目撃した際に出会った、せつ菜の友人であるらしい少年。だが考えて見れば、侑は彩歌についてよく知っている訳ではないのだ。そもそもせつ菜の友人であるという事も、クラスメイトである大雅から聞き及んだ事で彩歌自身から聞いた訳ではない。その情報を除いてしまえば彼女が知っている事など、殆ど皆無と言って良い。
だが、それでも尚歩夢やかすみ、同好会の面々に対してもそうであるように、侑は彩歌を信じている。たとえ殆ど彼の事を知らぬのだとしても、海浜公園での体験入部の最後に見せた人の善い笑みが彼女の記憶に残っていて、誰かの為に在りたいと願いあのように笑う事ができる者が悪い人である筈がないと彼女は思うのだ。
故に侑はひとつ大きく息を吐き、焦燥を追い出す。彩歌は来る。たとえ、今はその選択をしていなかったのだとしても。そう確信したからこそ、背後から聴こえてきたドアの開閉音と足音の方に向き直った侑の顔はいっそ清々しいまでの微笑で彩られていた。その視線の先にいるのは虹ヶ咲学園現生徒会長にして『優木せつ菜』の正体たるその人、中川菜々。待っていた生徒が侑であるとは思わなかったのか、菜々は訝し気な表情を浮かべている。
「高咲、侑さん……」
「こんにちは、せつ菜ちゃん」
「何処に行く気だよ、彩歌。オマエが向かうべきなのは、コッチじゃねぇだろ」
隠す事もなく不機嫌そうな声音が唐突に彩歌の耳朶を打ったのは、放送での呼び出しに応じた菜々が西棟屋上にて侑と対面したのとほぼ同刻の事であった。全く慮外な事態に彩歌は驚愕のまま反射的に声が聞こえてきた方に視線を向けて、声の主はそれに応えるようにして廊下の陰から姿を現す。果たしてその正体とは、彩歌の親友である宗谷大雅であった。態々練習を抜けてきたのだろう。制服やジャージではなくサッカー部のユニフォーム姿である。
驚愕が態度に出ていたのだろうか、あまりにも露骨な彩歌の様子に大雅はつまらなそうに鼻を鳴らす。放課後であるからか、エントランスに続く廊下にいるのは彩歌と大雅のふたりだけで、その一本道は彼らの独壇場であった。
「大雅、どうして……」
「ンなコトどうでもいいだろ。それに、先に質問したのはオレだ。質問に質問で返すな。
……もう一度訊くぜ、彩歌。オマエ、何処行く気だよ。呼び出されてんだろ、高咲に」
思わず零してしまった質問にも全く取り付く島もない毅然とした態度で大雅はそう言い放ち、唐紅の瞳から放射される光が彩歌を射抜く。言い逃れは許さない。言葉にせずとも気配だけで大雅はそう突きつけてきていて、一度忘我に陥ってしまったとはいえ彩歌もまた親友の問いから言い逃れするつもりもなかった。
まるで彩歌がここに来ることを分かっていたかのように大雅が待ち受けていたのは、何という事はない、先の放送を聞いて彩歌ならばそうすると確信したからに他ならない。更には侑が彩歌に声を掛けていたというのは推測混じりであったようで、微細な彩歌の所作から今になって確信したようであった。やっぱりな、と、溜め息を吐きながらそう呟く。
であれば、この問いも半ば無意味だ。あえて尋ねるまでもなく大雅は彩歌の考えを凡そ察している。宗谷大雅という少年は只人と比較して頭抜けた洞察力を有しているのだ。せつ菜の引退ライブ当日に、自身ですら意識していなかった彩歌の懊悩に気付いた事もその証左と言えよう。それでも問うたのは何も露悪趣味などではなく、あえて形容するならば確認であった。答えを待ちながら大雅は一瞬のみ窓ガラスを通して視線を屋外へと遣る。当然彼らのいる位置からでは侑とせつ菜の姿は見えないものの、放送の時間からして既にふたりは出会っていると思われた。
対する彩歌は感情の読みにくい、或いは真顔とも言える表情で大雅の眼光を受け止めている。
「……エントランスだよ。あそこなら、西棟の屋上もよく見える」
「行ってどうする。ただ指を咥えて眺めてるだけか?」
そう問う声音には剣呑な響きがあり、眼光もまた同様に実体のない熱量を内包し視覚を通して大雅の感情を彩歌に流し込んでいるかのようだ。彩歌は大雅程に洞察に優れている訳ではないにせよ、相手は長い時間を共に過ごした親友である。こうして対面しているのであれば、その内心に感応するのは容易であった。
憤怒。そう一言で言いきってしまうのは簡単ではあるが、大雅が抱いているそれはそんな単純なものではなかった。或いはそれは彩歌の在り方以上に、彼の在り様を変化させきるに至らない自分自身への無力感を端に発しているようにも見える。彩歌の心に根付いているのが、彼ひとりでは如何ともできない紛れもない
「高咲達の所に行けよ。今ならまだ間に合うだろ」
「駄目だよ。……俺にその資格があるようには思えない」
極限にまで感情を抑えた大雅の声音。それに返す彩歌の様子はあくまでも穏やかで、しかし大雅にはどうしてかひどく泣き出しそうにも見えた。そんな素振りなど、どこにもないというのに。
いや、泣き出しそう、などというものではない。真野彩歌という男は彼自身が決して口外しようとしない秘された過去のために、常に心で泣いている。己を罰し、呪い、それなのに他者にはそうと悟られないように笑顔を浮かべているのだ。彼の来歴を知らなければ疑問を抱く事さえ難しい程に、完璧な笑顔を。
詰まる所、彩歌が今の菜々にどうしようもなく共感してしまったというのは、その自罰心と抑圧が要因であった。自身の行いのために己を呪い、本心を押し殺して平静を装っているという点において中川菜々と真野彩歌は全く同質で、だからこそ彩歌は菜々を見ていられなかった。故に彩歌は菜々がせつ菜として再起できるよう促した。彼女が未完のままにしていた曲を完成させたのがそのひとつだ。尤もそこまでは大雅も知らない事ではあるけれど。
だがそうまでして、彩歌は最後に立ち会うのではなくただ見届けるだけに留めようとしている。自分には立ち会う資格などないのだと、そう口にして。であればこれも彩歌なりの責任の取り方であるのだろうか。そうして幾許か。彩歌が再び口を開く。
「俺は……高咲さん達のように、誰かにとっての“
「っ──」
そう吐露する表情はあくまでも平静なままでありながら、そこには隠しきれぬ無力の気配があった。それに伴う絞り出すかのような色合いは、紛れもなくそれが彩歌の心底から湧き出てきた本音である事の証明であろう。それを前に、大雅が息を呑む。
自分は侑達のように誰かに取っての希望で在れないと、そう零した彩歌の目はやはり大雅へと向けられていて、しかし見ているものは全く別のようにも思われた。だとすればそれは、彼自身の記憶であろうか。
以前に彩歌が予想していたように侑や歩夢といったスクールアイドル同好会のメンバーと彼が交流を持つように仕向けたのは大雅ではあるが、大雅はその場に居合わせた訳ではないためにどのような交流があったのかを子細に把握している訳ではない。経験はあくまでも個人のもので、それを洞察しきるというのも不可能だ。故にその経験に立脚した彩歌の思いについて、大雅は何も言う事ができない。けれどひとつだけ、大雅には確信している事があった。
「本当にそうか?」
「えっ……?」
全く想定外の問いであったのだろう、思わず漏れた声には純粋な疑問の色があった。しかし構わず、大雅は続ける。
「彩歌。オマエ、オレの夢って知ってるよな?」
「確か、“教員”だよね。高校の」
まるで脈絡がないようにも思える大雅の問いに、彩歌は疑問を抱きつつもそれを口にする事はない。代わりに言葉にしたのは、問いに対する答え。即答であった。その即応性は、先に大雅から質問に質問で返すなと言われたがためでもあるのだろうか。
高校の教員。彩歌の答えを受けて、大雅は無言で頷きを返す。彼は膨大な人数を誇るサッカー部の中でもレギュラーメンバーを勝ち取った才英として校内でも有名であったが、その実、将来の夢がそれと全く関係が無い事を知る者は少ない。彩歌は、半ば当然の事として知っている側であった。
だが、大雅の将来の夢が今の状況と何の関係があるというのだろうか。その疑問が表情に出ていたのか、それともただ推測しただけなのか、大雅は更に言葉を続ける。
「じゃあ、その切っ掛けって知ってるか?」
「……知らない」
「だよな。だって話した事ねぇし」
そう言って、大雅はからからと笑う。その表情に先程彩歌を呼び止めた時のような剣呑さはなく、けれど唐紅色の瞳は変わらず彩歌へと向けられていた。そこに、親友の夢の由来を知らぬ事への憤りはない。自身は相手が話していない事でも洞察してしまうにも関わらず、そこには〝話していないのだから知らぬのも道理だ〟という一種の割り切りがあった。
諦念ではない。ただそういうものだろうという、一種の受容である。そして数拍を置いて笑声が収まると、大雅は先のそれとは異なる穏やかささえ湛えた笑みを浮かべた。刹那、漠然と既視感めいた感覚を覚えた彩歌を置き去りにするようにして、口を開く。
「オマエだよ」
「俺……?」
「あぁ。オマエは覚えてねぇだろうけどな、中学の時、オマエが分からねぇって言ってた所を教えたら、『すごく分かりやすい。ありがとう』って言ってくれたんだ。オマエにとっちゃ何気ない言葉だったんだろうが、オレは何故だか嬉しくてな。気づけば、こうなってた」
おどけたように肩を竦め、何と言う事でもないかのように大雅はそう言う。だがそれを受けた彩歌の内心は驚愕の一言であった。出会った頃からいつも大雅は彩歌よりも成績が良くて、それ故に彩歌は何度か大雅から勉強を教わった事がある。その度に告げていた礼は何度繰り返しても形骸化する事の無い心底からの感謝の証で、故にこそ彩歌にはいつの言葉が大雅の夢の発端になっているか推定するのは殆ど不可能に近い。
だが大雅の微笑みは偽りのない本物で、そこに事実を歪曲してまで絞り出した世辞の気配は何処にもない。故に間違いなく大雅の言葉は真だ。それ以上に親友を疑ってしまう程の猜疑心を、彩歌は何処にも持ち合わせていない。何故と問うのも馬鹿らしい。どうしてそうまで嬉しくて、何故それが高じて夢にまでなってしまったのか、正確な
けれど確かな事もある。それはその夢の由来が他でもない、彩歌である事であり、そしてその夢に向かって邁進する自らを大雅は誇らしく思っている事。そのふたつだけは、疑い様の無い絶対的な真実であった。けれど、それをどうして今になって告げるのか。戸惑う彩歌に、大雅は勿体ぶる事なく解答を投げ渡してしまう。
「つまりな、オマエは
「──!!」
「だから、そんな悲しいコト言わないでくれよ。そんなんじゃ、まるでオレがバカみてぇじゃねぇか」
これがともすればひどく身勝手な物言いと受け取られてしまいかねない事は、大雅も分かっている。或いは彩歌の過去について何も知らぬ者が同じ事を言ったならば無知故のものと流せるのかも知れないが、大雅はその過去についてよく知っている。何しろこの数年間、互いに最も多くの時間を共に過ごした者同士なのだから。知らない方がどうかしている。
故に彩歌へ言葉を投げながら、大雅の脳裏に過るのは嘗ての記憶。それは彼らが出会った頃の事であり、
けれど、そうだとしても宗谷大雅なる人間が彩歌から夢を与えられたという事実は揺るがない。だがそれは同時に彩歌は先の自罰が親友に対する途轍もない冒涜であることに気づいて、何も言わずに押し黙ってしまった。その反応さえ予想の範疇であるかのように、大雅が
「それに、これは多分会長ちゃんも同じだと思うぜ」
「中川さんが……?」
「応。『
ま、今同じ状況に放り込まれたら高咲を頼るのかもだけどな。そう言って、大雅は悪戯に笑う。人が極限にまで追い詰められた時、誰を頼るのかなど状況によって容易に変わる。彼の言う通り、今は以前のようにはいかないのかも知れない。けれど菜々がせつ菜を辞めると決めた時、彼女は誰に促されるでもなく自ら彩歌に正体を明かしたのだ。或いはそれは彼女にとって彩歌が一種の希望であったからではないのか。
そこで大雅に同意し即座に首を縦に振る程、彩歌は自惚れの強い性格ではない。むしろそれができないからこそ、彼は心に病巣を抱える羽目になったのだ。だがその病巣は、目の前にある現実と真っ向から向き合い過ぎる生真面目な側面を彩歌が持つ証明でもあって、その性質は彼に否定を許さない。
人間というのは時に全く無自覚のうちに誰かを傷つけ、希望を奪ってしまう生き物だ。しかし同時に、同じように無意識に誰かに希望を与えるものでもある。それが善きにしろ悪しきにしろ、どちらかのみという事は在り得ない。そう前置きし、大雅は更に続ける。
「人って、自分の事になるとバカになるってのは本当だな。
……オマエがオマエ自身の行いにどう
その言葉と共に大雅はその右拳を彩歌の鳩尾辺りに軽くぶつける。そこから広がった奇妙な温かさは彩歌の全身に染み渡り、やがては心臓に収束して鼓動と共に再び身体を巡っていくかのようだった。それはさながら大雅の思いが血流と共に彩歌の肉体全てに届き、新たな血肉となっていくかのように。
大雅は何も彩歌に責任の取り方を強制している訳ではない。彼はただ、責任の取り方を決めるならば忘れてはならない事があると示しただけだ。それを忘れてしまえば、きっとその行いは新たな責任を生む。即ち、希望への裏切りの責任を。誰が誰にどんな希望を見出すのか、それは言ってしまえば見出す側の完全な身勝手だ。それでも、理解させられてしまった以上は、見せつけられてしまった以上は無視する事など、彩歌にはできない。
だが、この期に及んで彩歌の心で不可視の病巣が疼く。耳元に残響する雨音が存在を主張する。それらは彼に彼自身の罪過を再認させ、思い切りを阻止してしまう。それを見て取ったのだろうか、大雅が何事か言おうとして──それに先んじるようにして唐突に、可憐ながら張り詰めた声が割り込んだ。
「──あーっ!! やーっと見つけましたよ、彩歌先輩!!」
「なっ……中須さん!?」
果たしてその声の主とはスクールアイドル同好会に所属する、1年後輩の中須かすみであった。全く予想の埒外であった者の出現に彩歌は驚愕し、しかしかすみは我関せずとばかりに大股で歩み寄ると彩歌の手を掴んで来た道を引き返そうとする。
出現から何から何まで唐突かつ何の説明もないその行動に彩歌は即座の対応をすることができずつんのめりそうになりながらも何とか体勢を立て直し、かすみに問いを投げる。
「ちょ、待ってよ中須さん、どこに連れてく気だい!?」
「決まってます! 屋上ですよ! もしも彩歌先輩がいつまでも来ない時は連れてくるように侑先輩から頼まれたんです!」
まったく侑先輩も人使いが荒いですよねぇ。そう言うかすみの顔は言葉とは裏腹に誇らしそうだ。それは単純にかすみの性格的な所に拠るものか、或いは純粋に敬愛する先輩に頼られた事が嬉しいのかも知れない。
そうして答えるために立ち止まった時点でかすみはようやく大雅の存在に気付いたようで、よもや取り込み中だったかと表情だけで問う。これが初対面であるというのに大雅はその意図を明瞭に察したようで、構わず連れていけ、とこちらもまた笑顔のままジェスチャーだけで答えた。元より大雅も目的はそう違わないのだから、当然の反応である。
彩歌の処遇であるのに彼自身の意志の全く介在しない交感。それは両者の目的が殆ど合致しているが故のものであったのだろうか。半ば放置される形になった彩歌はそれを間隙と見て取り、するりとかすみの手から離れてしまう。そうして向けられた視線は訝し気で、だがそれに、彩歌は微笑みで以て返した。それは一言では言い表せない、様々な感情が混じり合った混沌を内包した笑みであった。
「面倒をかけてごめん、中須さん。でも、大丈夫。俺は……もう、ひとりでも歩けるから」
「そうですか……? なら、早く行きましょう!」
奇妙な、或いは超然とでも形容できるような気配を漂わせる彩歌にかすみは刹那の間のみ戸惑いを見せるも、即座に忘我から復帰し彩歌を伴って来た道を引き返そうとする。だが、彩歌はすぐにはそれに続かない。一瞬振り返って、思い直したかのように、或いは決意したかのように大雅に視線を投げた。それが意外だったのか、大雅が首を傾げる。そんな親友に、彩歌は言葉を投げた。
「ありがとう、大雅。キミは俺を
それだけ言って、彩歌は反応を待つ事もなくかすみの後を追って駆けていく。この場に教員や生徒会のメンバーが居合わせていたら間違いなく注意されていたであろうが、大雅はあえて何も言わずに見送った。廊下を走るのを見過ごすなど教員を目指す身としては褒められた行いではないけれど、今ばかりは早く立ち去ってくれた方がありがたかったのだ。
彩歌に言葉をぶつけられた直後に彼が浮かべていたのは、まるで虚を衝かれたかのような間抜け顔。それから数拍を置いて彼は言葉の意味を理解して、気恥ずかしさに顔を赤くする。だが同時に言いようのない暖かな感情が彼の胸中を満たして、それを誤魔化すように彼は誰に向けるでもなくぽつりと呟いた。
「……よせよ。照れるじゃねぇか」
西棟屋上に続くガラス戸を開け放つ直前、彩歌の胸中を過ったのは自らに対する問いかけであった。或いはそれはこの期に及んでもなお彼の中にある躊躇いが鎌首を擡げたかのようでもあり、同時にずっと自覚しているその躊躇いを振り切るための覚悟の自問のようでもある。
優柔不断。そんな自己評価が彩歌の脳内を駆け巡る。いくら光明が見えたとしても人間というものは長年自身を悩ませ、そしてこれからも悩ませていくのだろう懊悩との一定の決別というのは極めて困難な事ではあろうが、抱いている当人にとっては気持ちが悪いものだ。仕方がない、などと容易に割り切れるものではない。
だが──ひとつ、吐息。この扉を開け放ったが最後、後戻りはできなくなる。退路を望んでいる? まさか。弱気な自問を、彩歌は一笑に付した。彼はもう既に情けない姿を晒しているのだ。ようやくその過ちに気付けたというのに、これ以上情けない姿は見せられない。そんな事をしてしまえば、彼はこんなに情けなくて醜い自分をそれでも信じてくれた人々を本当に裏切る事になる。
取っ手に手を掛け、戸を開ける。瞬間、吹き込んできたのは潮風でありそれに乗って鼻腔を突いたのは磯の臭い。殆ど毎日のようにこの学舎に通っている彩歌にとっては今更であるのに殊更にそれらを意識してしまうというのは、ある種の緊張のためであろうか。空は水平線から天頂にかけて橙と蒼のグラデーションを描いていて、間も無く完全な黄昏に染まる事を予感させる。視線を巡らせれば、侑と菜々は彩歌が入ってきた出入り口から少し離れた、聊か迫り出した足場の先にいるのが見えた。
殆ど同じタイミングで彼女らも彩歌の存在に気付いたのだろう。侑が彩歌に向けて手を振り、菜々が驚きに目を見開く。恐らくはこの場に彩歌が来るとは思っていなかったのだろう。菜々は侑と彩歌が知己である事を知らないのだから、自然な反応だ。それは、どうして、と問うているようで、しかしその疑問には答えず彩歌は近づいていく。躊躇いを振り切りながら。
「もー、遅いよ、彩歌くん」
「うん。ごめん。俺が不甲斐ないばかりに、皆に迷惑をかけてしまった」
揶揄うような様子の侑に、彩歌は微笑みながらそう返す。しかし表情とは裏腹にその声音には微笑みでは隠しきれない激烈な自罰の気配があり、彩歌の謝罪が口先だけではない事は明白であった。けれどそうであるにも関わらず彼の笑顔に嘘の色合いはない。それはおおよそ併存し得ない筈の要素の完全な共存であった。
彩歌が抱えている懊悩やその原因である彼の過去について、侑は多くを知っている訳ではない。彼女はただ海浜公園での交流を経ても未だ尚彩歌の裡に何かがある事にだけは察しがついていて、故に万が一を考えてかすみに任せたのだ。結果的に言えばその差配は全く適切であったのだが、それでも侑が見た陰が彩歌から完全に消えた訳ではない。けれど今はそれと相対する光が彼にはある。丁度、先日の体験入部の時のように。
そうして侑は彩歌に笑みを返し、彼もまたもう一度投げ返してから菜々へと向き直った。
「彩歌くん……」
「こんにちは、中川さん。いや……今は優木さんって呼んだ方がいいのかな?」
「……どちらでも構いませんよ。どちらも“私”ですから」
それは、如何なる心境の変化であったのか。今になってようやくこの場に来た彩歌には、これまで侑と菜々がどのような会話をしていたのかを推察する術がない。だが彩歌の問いを受けてぎこちないながらも菜々が浮かべた笑顔は、彼女の心に影を落とし続けていた暗雲が晴れつつある事を彩歌に悟らせるには十分であった。
嗚呼、やはり高咲侑という少女は、中川菜々にとって
だが菜々が見せたその笑顔は彼女の心境の変化を表すものであると同時に、彩歌の裡からその躊躇いを打ち消すには十分な威力を内包していた。交わされた笑みは共に到底満面とは言えないものであるものの、そこに詐術は一切介在してはいない。
「……えぇ。そうでしたね。貴方はずっと……私のワガママを受け止めてくれていたんですね」
「俺はそんなに大層なコトはしていないよ。俺にできたコトなんて、きっと俺でなくても良かったコトだ」
でも、と彩歌は言葉を続ける。
「大好きなものの話をするキミの姿が、俺はずっと好きだったから。だから、ずっと笑っていて欲しかったんだ」
歯の浮くような物言いだ。ともすれば自己陶酔に溺れた気障の戯言と受け取られかねない言葉だ。しかし彩歌のそれがそんな蒙昧の法螺や嘘などではないと、菜々は一切疑う事無く確信する。何故なら彼のその言葉と笑顔は、彼女の記憶にある昔日の残影と変わらぬものであったのだから。
そう口にする彩歌が何処か儚げな雰囲気を纏っている事も相まって、その言葉はさながら愛の告白ででもあるかのようだ。いや、好感好意の吐露という意味合いにおいては、それは間違いなく愛の告白だ。そして過去からの投影でもある。彼らはふたり共に出会った頃から様々な変質と変容を経てきたが故に何もかも変わらぬという訳にはいかないけれど、それでもその思いは変わらないのだと。それは宣誓でもあった。尤もそれのために、彼は空転を続けてきたのも事実なのだけれど。
再認。或いは追憶。それに続く言葉を彼らは探そうとして、直後に生まれた空隙はそのための間であった。しかし彩歌は何事か言う前に侑が何か言いたげにしている事に気が付き、その場から一歩退く。それは丁度、侑の背後から彼女らふたりを視界に収めるような、或いは極めて近くにいながら、ふたりだけの世界を見遣る観客のような
「ホラ、私も、彩歌くんも、そしてきっと皆もせつ菜ちゃんが大好きで……だからせつ菜ちゃんが幸せでいられないのが嫌なんだ。ラブライブみたいな最高のステージじゃなくても、せつ菜ちゃんが笑顔で歌っていてくれれば、十分なんだよ。
私達をこんなに好きにさせたのは、せつ菜ちゃんだよっ!」
花が咲くような笑顔であった。それに同調するようにして、彩歌も無言で頷く。決して同意を求められた訳ではないけれど、それは彼の心底から現れ出た思いであった。
そしてそれはさながら、空を覆う暗雲が消え去り陽光が世界を照らし上げるかのように。或いは闇に閉ざされた岩戸に一筋の光が差し込むかのように。せつ菜が侑にトキメキの炎を灯したとするならば、これはその逆。菜々の心で消えかけていた炬火を、侑はトキメキの光を以て灯し直したのだ。侑の全霊を受けて、菜々の瞳に再び光が宿る。
「……期待されるのは、嫌いじゃありません。でも、本当にいいんですか……? 私の本当のワガママを、大好きを貫いても、いいんですか……?」
「勿論っ! せつ菜ちゃんの大好きは、私達が受け止めるから!」
「っ……!」
震える声で絞り出された問いに、即応する侑。たとえそれが何であろうとも、菜々、否、せつ菜の総てを受け止めてみせるのだという、それはある種の覚悟の宣誓であった。それを前にして彼女の脳裏にダイバーシティにて彩歌から告げられた言葉が過る。菜々が彩歌のワガママを優しいと言ったように、ワガママを受け止めてくれる誰かがいるのだと、彼は言った。それが戯言ではない事の、これは何よりの証明であった。
故に──もう堪えられない。否、堪える必要性などない。菜々の心を押し留めていた堰は今この瞬間を以て決壊し、崩壊したそれらは彼女の新たな糧として変生する。菜々の口許に、挑戦的な笑みが宿る。
「分かっているんですか? アナタは今、すごいコトを言ったんですからね」
人は時に自らの大好きをも抱えきれずに暴走させてしまう生き物だ。嘗ての彼女自身がそうであったかのように。だが侑はそれを全て理解したうえで、それでも彼女の大好きさえ受け止めると宣言したのだ。事も無げに。それは彼女の度量の大きさ故か、或いはまた別の要因か。今は、どちらでも良かった。
三つ編みを解く。眼鏡を外す。その手付きは無造作であるようで、同時にまるで儀式めいてもいよう。そうしてついぞ手放す事ができずにポケットに忍ばせ続けていた髪留めで髪を結び直し、菜々──せつ菜はもう一度視線を侑達に投げた。
「どうなっても知りませんよっ!」
振り返る。眼下には学校のエントランス。空も海も、燃えるように朱い。
もう抑えきれない。抑える必要などない。彼女には、大好きを受け止めてくれる人たちがいるのだから。
いざ、やらいでか。
「これは────始まりの歌です!!」
その宣告と共に──世界を、再び
だが、それは以前のように自らを終わらせ、燃え尽きる終焉の鬨ではない。まるでそうして燃え尽きた自らの灰から、同一にして新たなるモノへと生まれ変わるように。彼女の宣言通り、それは始まりの歌であった。再起の
歌声は黄昏の空に突き抜けるように。躍動する五体は自らの存在をこの世界に刻み付けるように。それらの合一は完璧の一言であり、見る者全ての心に彼女の心象を具現化するかのようだ。そして歌いあげる詞は彼女自身が一度は放棄し、それでもなお信じた者が完成させたそれである。いつの間にか下方には騒ぎを聞きつけた幾人もの生徒が集まっていた。彼ら彼女らも、侑や彩歌と同じものを見ているのだろうか。
せつ菜が放つ圧倒的な熱量の前には世界という絶対さえ屈服し、彼女の再誕を祝福する。そして時間の感覚さえも最早意味を為さず曖昧模糊としていて、歌い終えたせつ菜の残響が陽光の中で解けきるまで、観客たちは自身が須臾に囚われているのか永遠に揺蕩っているのかさえ不確かであった。そうして、元の容を取り戻した夕空の下、せつ菜が叫ぶ。
「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会、優木せつ菜でしたッ!!」
歓声。そして拍手。スクールアイドル〝優木せつ菜〟は今此処に、再臨を果たしたのだった。
「せつ菜ちゃーん!」
興奮冷めやらぬまま半ば突撃するかのような勢いで侑がせつ菜に飛びついたのは、せつ菜が『DIVE!』を歌い終えてからほんの数瞬後の出来事であった。この瞬間まで歌に集中していた彼女にはそれは全く予想外の出来事であったのだろう、せつ菜は勢いを殺しきれずそのまま侑に押し倒されて尻もちをつく形になる。
だがせつ菜は嬉しそうな笑顔を浮かべながら抱き着いたままの侑と言葉を交わしている。少々離れた場所にいる彩歌にはその詳細までを聞き取る事こそできないものの、おおよその見当は付く。大好きだとか、ありがとうだとか、そういう事であろう。
そんな光景を横目に彩歌は踵を返そうとして、その直前に後方から足音が聞こえてきた事でそれを中断する。見れば、歩夢やかすみ、それだけではなく旧同好会のメンバーと思わしき生徒も含めた一団がせつ菜たちの方に歩み寄ってきていた。そうして彼女らが彩歌の近くを横切る一瞬、そのうちひとり、彩歌よりも濃い亜麻色の長い髪と眠たげな目が印象的な少女が彩歌へと視線を投げる。その少女が3年生の〝
「へぇ~、あなたがせつ菜ちゃんの……」
「……? 何です?」
「んーん、何でもなーい。彼方ちゃんは
それだけ言って、彼方は一団に戻っていく。妙に含みのある言葉を投げ渡されたまま放置される形となった彩歌は首を傾げるものの、その疑問について彼自身の中で深く追求するような事はしなかった。彼女の言う後輩というのがせつ菜である事は明白だが考えた所で正誤を教える事はないだろうし、そうなれば如何なる詮索もただの妄想だ。そして何より今目前にある光景を見ていたかったというのもある。
せつ菜/菜々が、彼女の大好きを受け止めてくれる人々に囲まれて笑っている。以前のようにひとりだけに見せているのではない。せつ菜にはもう彼女の本質を知り、受け入れてくれる人々が、手を繋ぐ人々が多くいて、彩歌は唯一などではなくその内の何でもないひとり。彼女の作る輪を、少し離れた所から見ている。尤も当初の予定よりは近くにはなってしまったけれど、彼が独り言ちた。嗚呼、自分はこの光景が見たかったのだ、と。それは彼がかねてから持っていた
許可なく講堂以外で歌ったから、もうすぐ教師が飛んでくる。誰かがそう言い、皆がさせじと撤退していこうとする。せつ菜を先頭にして、笑い合いながら。その背を離れた所から見送って、それから自分は独りで退散しよう。そう企図し瞑目した彩歌の手を、不意に熱が包む。
「彩歌くんも、行きますよっ!」
「えっ、ちょ」
待ってよ、と。自身の企図の行き先を破壊され動揺した彩歌はそう言いかけて、代わりに零れたのは小さな笑顔。意図した通りとはいかないけれど、これも悪くはない。今は流されるまま、希求されるまま、身を任せてしまうのも良かろう。
そうして誰もいなくなった屋上に──白い羽根が一枚。舞い落ちたのだった。
彩歌が自宅である真野邸に帰ってきた時、家の中は全くの無人であった。彩歌の父親である
しかし無人であるにも関わらず彩歌の口から漏れたのは、ただいま、という挨拶。靴を脱ぎ、最低限度の帰後の始末として手洗いとうがいを済ませてから彼が足を運んだのは和室だ。その角に鎮座する仏壇の前に跪き、一通りの作法をしてから視線を上げる。そこに飾られているのは彼の母、真野
「こんな俺でも、何かできたのかな。……母さん」
俯きがちに呟くも、答える声はない。当然だ。母の残影はいつもと変わらぬ微笑を彼に降らせるだけ。仏壇には魂が宿るというけれど答える事はできないのだから。死人に口なし。まさしくその通りである。それが分かっていながらまたしても問いを投げてしまった自らに彩歌は冷笑を飛ばそうとして、吐息が出かかったその瞬間、彼の総身を一陣の微風が撫でた。
全く予想していなかった現象に、弾かれるようにして再び遺影を見上げる彩歌。そこに映る愛歌の姿は、やはりいつもと変わる事はない。けれどその微笑に、彩歌は笑みを返した。生者が死者に勝手な意味を見出すなど、この上ない不敬だと分かってはいるけれど。
何を重ねた所で犯した“罪”が灌がれる事はない。雨音は未だ消えず、彼を責め続けている。それでも今だけは少しだけそれが遠ざかったように、彩歌には感じられた。
第13話『カレの