彩る世界に響く音   作:かってぃー

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接続章
第14話 それでも、カレらの運命は廻る


「何か良い事でもあったのか?」

 

 彩歌(さいか)が父である陽彩からそんな質問を受けたのは、せつ菜の復帰ゲリラライブがあった日から数日後の朝の事であった。あまりに何の脈絡もない、唐突な問いであったが為に彩歌は思わず朝食の手を止め、陽彩に視線を投げる。その先にいる陽彩は休日の装いで、しかし身なりは丁寧に整えられている。

 

 この数日のうちに陽彩が彩歌の様子に気付かなかったのは何という事はない、彼が極めて多忙であるからだった。芸能事務所のプロデューサーとしてそれなりの地位にいる彼には休日というものが滅多になく、かつ出勤は早く退勤は遅い。故に陽彩と彩歌は共に食事を摂る機会というのも、ひどく少ないのだ。

 

 そんな有様であるから陽彩はいつも疲れている筈で、それなのに休日は態々早起きしてまで彩歌と共に朝食を摂るというのが常であった。彩歌が嘆願したのではない。それは陽彩が少しでも愛息と過ごす時間を増やそうとするが故に、ひとつの努力であった。

 

「……? どうしたのさ、急に。俺、そんなに変な顔してた?」

「変な顔だなんてとんでもない。昔の俺そっくりなお前が、変な顔なワケないだろう?」

 

 冗談めかした調子でそう言う陽彩だが、彩歌は呆れ顔だ。何も彩歌は自身の造作について問うたのではないし、そのうえ自己陶酔(ナルシシズム)めいた返答をされればそれも致し方ない事であろう。

 

 だが陽彩は何の根拠もない自己愛のためにそんな返答をしたのではない。それが仕草通り彼なりの冗談であったのは確かで、加えて陽彩は現職に就く前は一世を風靡した売れっ子アイドルグループの花形(センター)であったのだから、容姿が優れているのも事実である。だからこそ彩歌は余計に始末が悪く感じているのだが。

 

「話の腰を折らないでよ。言い出したのは父さんなのに」

「悪い悪い。……あー、でも、お前が何だか嬉しそうってのは本当だぞ? 表情というか、雰囲気が」

「雰囲気かぁ……」

 

 短くそう返す彩歌の声音は、何処か心ここに在らずといった具合だ。一度は奇妙な冗談を挟んだ陽彩だが彼の言は決して嘘などではなく、しかし彩歌自身に自らの変容の自覚はない。それ故の声音であった。

 

 だが思い返してみれば、その要因となり得る事はひとつだけではない事に彩歌は気付く。彼に責任を自覚させた大雅の言葉に、せつ菜の復帰。しかし前者を口にするのは少し気恥ずかしくて、彩歌はまず問いを漏らした。

 

「父さんは……優木せつ菜って娘、知ってる?」

「勿論。虹ヶ咲のスクールアイドルだろう?」

 

 即答する陽彩に、彩歌は無言で頷きを返す。今年で50代(アラフィフ)にもなる陽彩がスクールアイドルについて既知であるのはそれだけを見れば違和感であろうが、彼はその職業柄、スクールアイドルの情報についても精通しているのだ。アイドル業にも進出している事務所も注目しているというのは、スクールアイドルという存在の隆盛を示しているとも言えよう。或いは黎明期に成功例がいたがためにそれに倣っているだけなのかも知れないけれど。

 

「その娘が復帰してくれた事……かな。うん、きっとそうだ」

「そうか。……珍しいな、お前がアイドルの曲だけじゃなくて、その本人にも興味を示すなんて」

「それは……同じ高校のよしみというか、俺も無関係じゃないからというか……」

 

 あまりにも歯切れの悪い、子供じみた言い訳であった。声は上擦り、目も泳いでいる。彩歌の自覚はどうあれ、今の彼の様子は傍から見て何かを隠しているのは明白に過ぎた。

 

 父である陽彩がそれに気づいていない筈もないが、彼は何も言わない。だがその目は疑問のそれから何かを察したか、或いは邪推したかのような生暖かいそれへと変遷していく。それを前にして彩歌が拗ねたように唇を尖らせる。それは彩歌が父以外の前では見せない、極めて子供じみた仕草であった。

 

「何さ」

「いや何、嬉しいのさ。息子が他人の幸せを願い、不幸を悲しむ事ができる奴に成長してくれた事が」

 

 数瞬前の揶揄うような目から一転して、そう告げる陽彩の眼差しに宿るのは慈愛であった。演技などではない。もしもそうであれば、彩歌はすぐにそれと分かった筈だ。他でもなく、彼は陽彩の息子であるが故に。十数年の時間は伊達ではないのだ。

 

 真正面からそれを受けた彩歌の胸中に温かいものが広がり、しかし同時にどうしようもない気恥ずかしさと申し訳なさもまた去来したのを自覚する。そして多感な年頃というのもあって、真野彩歌という少年はそれらへの耐性を獲得しきれていなかった。

 

「大袈裟だよ。俺はのび太くんか何かかい? そんな高尚な奴なんかじゃあないよ、俺は。それに、本当に優木さんを思って行動していたのは俺じゃなくて、きっと同好会の人達だ」

 

 俺は彼女を無用に迷わせただけだ、と彩歌。彼自身にも自らがせつ菜の為に何かできたという思いはある。だが彼の行動がせつ菜の目にどう映り、彼女にどのような作用を齎したのかは彼女自身にしか分からない事だ。他人は他人。自分は自分。人間個人の主観の上で正確に捉えられるのは結果だけで、過程への関与というのはひどく曖昧だ。それが他者の裡への作用というならば猶更である。たとえばそれは、自身の親友の夢の根源となっていた事を知らなかったように。

 

 これがひどく幼稚な思索である事は、彩歌自身も理解している。けれど仕方ないじゃないか、まだ約17年しか生きていないのだから、と。それは半ば言い訳じみた自己弁護であった。ばつの悪そうな、或いはドギマギしたような表情で乱暴に朝食を食べ進める彩歌を、陽彩は優しい表情で見つめている。

 

 そんな父の表情を見る度、彩歌は思うのだ。嗚呼、自分は愛されているのだ、と。親を尊敬する子にとってそれは代え難い充足のひとつであり、だがそれを自覚する度に彼の心を疼痛が射抜く。雨音が充足に待ったを掛ける。やがて充足は僅かに反転を始めて、それを遮るかの如く彩歌は味噌汁を一気に胃の中へと流し込んだ。胸の奥につっかえていたしこりめいたものが、臓腑の底に消えていく。それと殆ど同時に、陽彩が口を開いた。

 

「それでも、お前が相手の為になれたらと願って行動したのは間違いないんだろう? お前の事だからそれが無意味だったんじゃないかとか思ってるんだろうが……たとえそうでも、無駄じゃあないだろうさ」

「……そういうものかな」

 

 返答はない。彩歌は最後に残った緑茶を飲み干し、ごちそうさまでした、と告げて席を立つと手早く自分の食器を片付けてしまう。彼が陽彩の方に視線を遣れば、陽彩はまだ食べきっていないようであった。かなり遅いペースだが、普段が多忙であるから休日はゆっくりと食べたいというのが陽彩の考えであった。

 

 ほう、と息を吐いて意識を切り替える。今日は陽彩にとっては休日であっても、平日であるから彩歌は学校に行かなければならない。朝食が終わったのだから、次は身嗜みを整える。そう決定してリビングを出ようとした彩歌だが、その耳朶を陽彩の声が打った。

 

「そうだ。お前さっき、同好会の子達と親交がありそうな事を言っていたが……入部したりはしないのか?」

「入部? 今の所、そのつもりはないかな」

 

 問いへの答えはあまりにも早かった。まるで初めから問われる事を分かっていたか、或いは既に一度問われた事があるかのように。恐らくは後者なのだろう、と陽彩は思う。

 

「確かに俺はスクールアイドルに魅せられたのかも知れない。でも、それは自分もそう在りたいって事と必ずしもイコールってワケじゃあないでしょ? それに、音楽を通しての自己表現は、スクールアイドルやその裏方だけとは限らないからね」

 

 そう言いながら彩歌は虚空の上でピアノの鍵盤を弾くような仕草をしてみせる。それが示す所が彼が行っている動画サイト上での活動であると陽彩が気付くまでに、そう時間はかからなかった。陽彩は彩歌の活動について子細に把握している。知らぬ筈もない。彩歌が使っている機材の一部は、陽彩が与えたものであるのだから。

 

 そうしてそれだけを言い残して、彩歌は洗面所へと消えていく。それを確認してから、陽彩が大きく息を吐いた。

 

 ──陽彩は息子が彼を誇りに思っている事を知っている。故にこそ彼も常に〝息子に誇れる自分で在れ〟と己を律していて、だからこそその姿は息子のいる場では見せないものであった。手癖めいた雰囲気を漂わせながら、白髪が交じり始めてもなお艶やかな黒髪を右手で掻き上げる。

 

「親は無くとも子は育つ……か。俺にとっては、皮肉だな」

 

 その諺の用法が聊かおかしい事は、陽彩も分かっている。だが彼はそう零さずにはいられなくて、その声音はどうしようもない葛藤に塗れていた。

 


 

「書類の運搬を手伝っていだだき、ありがとうございました。彩歌くん」

「気にしないで。元はと言えば、俺が勝手にやったんだし」

 

 虹ヶ咲学園、その職員室前。礼を告げた菜々に、彩歌はひらと手を振りながら朗らかに笑ってそう返す。尤も彼はそういうつもりでも菜々がそれに甘えきる事が無いのは承知の上で、だからとて彼は自身が完全に施し手であるのも嫌だったのだ。

 

 事の始まりはほんの十数分前。放課後になったため音楽室の使用許可証を貰いに生徒会室に向かった彩歌はその途中で書類の山を運んでいる菜々を見つけ、半ば強引に手伝いを申し出たのだ。所謂余計なお世話、お節介というもので、故に彩歌にとっては礼を言われる謂れなどないのだ。

 

 相も変わらずな彩歌の態度に菜々は困ったように笑み、対する彩歌はおどけるように肩を竦める。それからどちらからともなく歩き始め、ふたりは生徒会室へと向かう。道中で菜々を見つけたものだから、彩歌はまだ許可証を貰っていないのだ。

 

「俺ができる事なんてこれくらいだからね。いくらでも使ってくれて構わないんだ」

「ふふ、変わりませんね、彩歌くんは。なら、貴方も生徒会に入りますか?」

「……中川さん(キミ)でも冗談とか言うんだね。別に選挙とかで承認されたワケでもないんだし、それは申し訳ないよ」

 

 菜々の発言をあくまでも冗談と受け取りそう返す彩歌だが、彼の予想に反して菜々はあからさまに残念そうな様子を見せる。もしも動物の耳や尾っぽがあれば、力なく垂れさがっていそうな程だ。

 

 ならば強ち冗談ではなかったのか、と彩歌は驚愕するが、彼が言う事も尤もなのだ。生徒会は基本的に選挙での承認制であるから、今更生徒会に入るというのも制度上難しい。彼が冗談と受け取ってしまうのも無理からぬ話である。

 

 とはいえ、このままでは聊か居心地が悪い。会話も止まってしまっている。空隙を誤魔化すように彩歌は視線を彷徨わせて、周囲に他の生徒の姿がない事に気付いた。しかし壁に耳あり障子に目ありとも言うから、可能な限り小さな声で問いかける。

 

「そういえば、同好会の活動は順調? 新しく部室があてがわれたって聞いたけど」

「えぇ。まだ手探りな部分もありますが、非常に充実していますよ。先日は新しく入部した方もいまして……」

「へぇ! 良かったじゃない」

 

 彩歌が小声で問うた意図を即時にくみ取ったのだろう、彼の問いに返す菜々の声もまた囁き声である。それこそ、互いの距離でのみ辛うじて聞こえる程度だ。仮に余人がその光景を見れば非常に奇妙に映る事だろう。だがまるで悪戯の相談でもするかのようなそれがおかしくて、菜々は表情を綻ばせる。

 

 曰く、新入部員とは2年生の〝宮下愛〟と1年生の〝天王寺璃奈〟。学科は両名共に情報処理学科。当然ではあるが彩歌には直接の面識がなく、しかし宮下愛という名前には聞き覚えがあった。思い出すためにかかった時間はほんの一瞬。それだけの間で彩歌は宮下愛という生徒が〝部室棟のヒーロー〟と渾名される有名人であったことに気付いた。

 

 度々付近を生徒が横切れば、確実に声が届かないうちに会話を切り上げてある程度の距離が空いてから会話を再開する。まるで、本当に秘密の会合でもしているかのようだ。

 

「そっか。なら宮下さんも、天王寺さんも、優木さんから夢を貰ったのかもしれないね。あぁいや、面識のない俺が偉そうな事を言えた立場じゃあないかもだけど」

「私が……夢を……」

 

 そこで言葉を区切って菜々は押し黙ってしまうが、その口角は上がっていて頬も微かに赤身を帯びている。その様子が菜々が今にも『せつ菜』としての側面に代わってしまいそうな歓喜に見舞われていると彩歌が察するには十分で、ふふ、と彼が笑声を漏らした。

 

 せつ菜のゲリラライブが行われた日、彩歌は菜々に言った。ずっと笑っていて欲しい、と。それが決して嘘ではなかったことを、彩歌は改めて自認する。

 

「良い笑顔。俺はキミの、そういう表情(カオ)が見たかったんだ」

「……もうその手にはノりませんよっ」

「その手って、そんな大袈裟な」

 

 若干頬を膨らませジト目で彩歌を見る菜々だが、その頬には先程とは別種の赤みがある。以前のような動揺こそなく、転じてそれは彩歌の軽薄な物言いに対する耐性が付いたという事でもあろうが、初心な性質の為か全く無反応という事はできないようであった。

 

 しかしそのまま数拍を置いてから、菜々は拗ねたような表情を解いて微笑を覗かせる。その変化を前に彩歌は首を傾げて、その仕草に応えるように菜々が口を開く。

 

「でも、貴方には感謝しているんです。私が今のように在ることができるのは、貴方のお陰でもあるんですから」

「っ……」

 

 菜々からの感謝に対して彩歌が咄嗟に吐き出しかけたのは、否定の言葉。だが寸での所で踏みとどまったからかそれは音となる前に霧散して、無意味な吐息として抜けていく。

 

 彼の脳裏を過ったのは今朝の父の言葉。危うく菜々の気持ちだけではなく父の思いまで無下にしてしまう所だった、と彩歌は自身の悪癖に忸怩たる思いを抱く。自覚しているのに、直しきれない。染み着いている証左であった。

 

 だが気づいて立ち止まることができたのならば、まだ修正できる余地はある。深呼吸をして、数を数える。いち、に、さん。それだけの間を置いて、彩歌は代わりに告げるべきを口にする。

 

「どういたしまして。……でもね、俺だってキミに感謝しているんだ」

「……? 何故です?」

 

 即座に彩歌に返されたのは疑問だ。どうして自分が感謝されるのか分からない、といった具合である。けれど菜々が言うのは想定内であったようで、全く動揺する様子を見せない。彩歌にとってもその感謝は全く一方的なもので、それ故の事であった。

 

 それでも感謝の由来をあえて述べるのも野暮だろう。そう彩歌は考えるけれど、問われた以上は答えるのが責任というものだ。或いはそれは自身の弱さ、醜悪の吐露であるのかも知れないが。

 

 詰まる所嬉しかったのだと、彩歌は言う。再び菜々の心からの笑顔を見られた事が。大切な人の幸福こそが彼自身の幸福でもあると、彩歌はせつ菜の一件を通して再認したのだ。それだけではなくて、彼は約束を守ることができた。たとえ、不完全であったのだとしても。

 

「だから、ありがとう。笑顔でいてくれて。俺に、約束を守らせてくれて。……って、自己中すぎるね、俺」

「彩歌くん……」

 

 自嘲的に笑う彩歌と、彼の名を呟く菜々。いつの間にか足は止まっていて、それに気づいたふたりがどちらからともなく笑い出す。何となく挙動が同じであったという、たったそれだけ。それだけの事がどうしてかおかしくて、それ故の笑みであった。

 

 けれどいつまでも立ち話をしてもいられない。目的地は生徒会室。話している間にふたりは程近い所まで来ていたようで、視界の先には出入り口のドアが見えた。

 

 けれどその出入り口の前で、不意に彩歌が再び足を止める。それを察知した菜々が振り返ってみれば彼は出入り口横の掲示板の方に視線を向けていて、その表情は驚愕一色に彩られている。

 

「彩歌くん? どうしたんですか?」

「あぁいや、コレなんだけど……」

「コレは……ピアノリサイタルのポスターですね」

 

 丁度書類運搬前に張り替えたものです、と菜々。彩歌は生徒会室まで来る前に菜々と遭遇していたから、それがある事を知らなかったのだろう。尤も張り替えたタイミング自体はどうでも良さそうではあるけれど。

 

 彩歌が見ていたのは菜々の思った通り、ピアノリサイタルの告知ポスターであった。場所はお台場からそう遠くない23区内のコンサートホール。そこまで読んだ時点で、菜々は彩歌の視線がそれらの情報ではなく講演者の一点に注がれている事に気が付いた。つられるようにして、そちらを見る。

 

 そこに記載されていた名前は〝八代(やしろ)詩音(しおん)〟。その名前に、菜々は聞き覚えがあった。世界の高名なピアノコンクールでいくつもの賞を受賞している、かなり高名なピアニストである。それこそ、ピアノにさして詳しくない人間にでも名前が知られている程度には。

 

 そんな有名人の公演であるから、興味を引かれたのだろうか。そんな菜々の考えを否定したのは、直後の彩歌の呟きであった。『帰国するなら連絡をくれても良かったのに』という。

 

「え……彩歌くん、この方と……お知り合い、なんですか?」

「……うん。詩音先生は……母さんの音楽大学時代からの親友だった人で、俺にとってはもうひとりの先生みたいな感じ……かな? だから先生って呼んでるんだし」

 

 最後に教えてもらったのなんてもう何年も前だけどね、と笑う彩歌。だが何でもない事であるかのような告白も、菜々にとっては衝撃であった。本当に辛うじて声が漏れるのを抑えた程度には。──故に、菜々は彩歌の発言に潜む違和感を見逃してしまう。

 

 小学生の頃に何度か真野邸を訪れていた菜々がその事を知らなかったのは、訪れた回数自体がそこまで多い訳ではない事も在るがそれ以上に相手が多忙な人間であるという事もあるのだろう。ただ何となく菜々は昔の彩歌について何でも知っているような気がしていて、それ故に知らない事があったという事実が半ば衝撃であったのだ。

 

 だが知らぬ事があるのも当然だ。幼馴染とはいえ、相手は他人。人間というのは己の事ですら知りきれないというのに、他者の全てを知る事ができる訳もない。例えば、そう、恩師に再会できる機会であるというのに彩歌が浮かない表情をしている理由も、彼女には分からない。問おうとして、しかしそれは彩歌が先んじて開口したために阻まれてしまう。

 

「って、いつまでもこんなところに突っ立ってもいられないね。忙しい生徒会長様を引き留めちゃってるし」

「……そうですね」

 

 完全に問うタイミングを失して、菜々は彩歌の言葉に同意を示す。生徒会室のドアを開けてみれば他のメンバーは既に戻ってきていて、彼女らは彩歌の存在にもさして驚いていないようであった。彼は過去に何度も生徒会室を訪れていて、菜々との関係も知られているからだろう。

 

 生徒会長の席に戻った菜々はすぐに許可証の原本を取り出し、素早く必要事項を記載して彩歌に手渡す。その刹那、菜々の胸中に振って湧いたのは郷愁めいた感覚であった。或いはそれは、彼女の知らぬ彩歌について知り得たが故のものであったのかも知れない。

 

「そういえば……愛歌さんや陽彩さんはお元気ですか? 以前はおふたりとも家を空けているとの事でしたが……」

 

 ──瞬間、彩歌の動きが止まる。丁度互いに許可証の端を持っていた所であったからかその硬直は菜々にもはっきりと伝わってきて、首を傾げる。しかし彩歌はすぐに自身の状態を把握したのか、常の表情へと立ち戻り抜き取るようにして許可証を受け取ってしまう。

 

 小学校卒業後からごく最近に至るまで、時により事情こそ違えど菜々と彩歌は疎遠になっていて、故にこそ菜々は知らないのだ。その間に彼の身に起きた事を。

 

 ならば伝えるべきか。その考えを、彩歌は即座に棄却する。もしも伝えてしまえば、それは菜々に余計な心配をかけてしまう事になりかねない。──それは、間違いなく自己正当化のための詭弁で。それが分かっていながら、彩歌は───

 

「あぁ……うん。まぁね」

 

 ───そんな、本当に仕様もない嘘を吐いた。

 


 

 商品が発送されました。侑がその通知を見返したのは、今日だけで何度目の事であっただろうか。彼女自身ですら数える事も億劫になってくる程で、それは即ち彼女がその到着を心待ちにしている証明でもあろう。

 

 だがその通知を見ていた所で配送が速くなる訳でもない。寝間着姿で自室のベッドに仰向けに倒れ込み大人しくその画面を閉じて、代わりに侑が表示したのは動画サイトのアプリケーション。すると先頭に表示されたのはピアノ演奏の配信と思しきサムネイルであった。最近になってスクールアイドルの動画だけでなくピアノの演奏動画も観るようになった影響だろう。何となくそのタイトル辺りを眺めて、思わず声を漏らす。

 

「わ、この人、凄い視聴者数……」

 

 その声音に現れていたのは、純粋な感嘆。現在時刻と配信開始時刻を比較するとどうやら配信を開始したのは本当につい数十秒前といった程度であるようで、にも関わらず接続数は既に数万といった程にまで増えている。

 

 配信者のユーザーネームは〝さっちゃん〟。何となく興味を惹かれて侑はそのサムネイルをタップし───刹那、時が止まった、と錯覚した。それほどの衝撃であった。

 非常に上手い、と、そう表現してしまうのは簡単だ。事実としてそれは間違いではないのだから。だが侑が受けた衝撃を完全に表現するには明らかに不足であった。一瞬にして彼女の意識を鷲掴みにして時間の間隔すら喪失させてしまう程の衝撃を、それだけで言い表せるものか。

 

 それからどれほど経ったのか、夢中で演奏を聴いていた侑は正確な時間の経過すらも分からなくて、ほんの数分であったようでもあり、或いは数時間が過ぎてしまったようでもある。そんな感慨とも動揺ともつかない思いに答えを与えるように、声。

 

『いかがでしたか? まずは1曲、聴いていただきましたが……今日は()の配信を訪れていただき、ありがとうございます』

 

 配信者の声であろう。画面にはピアノの鍵盤と腕しか映っていないため歳の頃は分からないが、イヤホンを通して聴く限りでは恐らくは年若い男性。それも侑達とそう年齢は変わらないようにも思えて、しかし彼女にはそれだけではないようにも感じられた。

 

 その違和感は、言うなればデジャヴといった所であろうか。だが輪郭が曖昧模糊としているが故にそれ以上踏み込むことができない。まるで魚の小骨が喉に引っ掛かったままのような、そんなむず痒い感覚に侑が言葉を漏らす。

 

「この声、何処かで……」

 

 しかし呟いた所でそれ以上の手がかりは得られない。そのうちに配信者は演奏を再開して、侑の注意はそちらに埋没していくのであった。

 




 次回より第2章『雨空の向こうには』が開始となります。

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