【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第2章 雨空の向こうには
第15話 雨天、変わらぬカノジョと変わったカレ


「本日は配信を視聴していただき、ありがとうございました。もし気に入っていただけたようでしたら、高評価とチャンネル登録をよろしくお願いいたします」

 

 あまりにも格式ばった、何の面白味もない挨拶。だがそれが、動画配信者さっちゃんとしての彩歌(さいか)の、ある種の決まり文句であった。終わる間際に視聴者たちは彩歌へと労いの言葉や短い感想を投げ掛け、彩歌はそれらに可能な限り目を通しつつも配信終了の表示をクリックして切り上げてカメラとマイクの電源を落とす。

 

 それから、大きく吐息をひとつ。その姿に、己の眼前に鎮座する巨大なグランドピアノへの畏敬や畏怖はない。彼が生まれた時には既に家に遭ったそれは彼にとっては長らく苦楽を共にしたものであり、半ば己の肉体の延長にすら等しい。それ故の気楽さであった。

 

 しかし鍵盤を撫でる手付きは愛おし気であり、彩歌の愛着を伺わせる。そうして鍵盤にクロスを掛けると、彩歌はピアノから傍らのノートパソコンへと向き直った。配信を切った後に動画配信サイトが表示されたままのそれを操作し、アクセスしたのは直近の動画の管理画面。所謂〝弾いてみた〟というジャンルに該当するそれは、既に再生回数数十万回超、数万の高評価を叩き出している。

 

 相当な数字だ。少なくともピアノの演奏動画というジャンルに限定すれば、評価の程は凡そ最上位とすら言って良いだろう。それだけの評価を貰えている事に感謝を抱きつつも、彼の表情は真顔のままであった。そこに達成感や満足感に類する気配はなく、あるとすればそれは責任感や罪業であろうか。

 

 それらを呑み下すように唾液を呑み込み、PCの電源を落とす。それから髪留めと孔雀青に縁どられたブルーライトカットのメガネ──長時間PCと相対する際には必ず着用している──を外してPCの横に安置すると、ひとつ伸びをした。背中側から聴こえる、断続的な小気味良い音。瞑目を解いて彼が肩越しに視線を投げ掛ける。

 

 果たしてその先にあるものとは、数台のコレクションケースの中に並べられたいくつものトロフィーと額縁に入れられた状態で壁に飾られた何枚もの賞状であった。最早彩歌自身ですら数えるのも億劫になってしまいそうな程のそれは、確かに彼が今までコンクール等で獲得し続けた成績の証明に他ならない。

 

 空恐ろしい光景だ。少なくとも同年代の青少年と比較したならば異常とすら言える総数だ。だが輝かしい功績の中にひとつ、似つかわしくないものがある。席を立ち、ケースの扉を開けて丁重な手付きで取り出したそれは、()()()()()()()()()()()()であった。

 

 折れているだけならばまだ良い。だがそれは残存した部分ですら強い衝撃を受けたかのようにひしゃげている箇所があり、台座に至っては粉砕された後に無理矢理に修復した後が見られる。

 

 いくら努力の結果の可視化たるトロフィーといえど、既に廃棄されていたとしてもおかしくない程の有様である。その姿を何も知らぬ余人が見れば、いったい彩歌の意図をどう考えるのだろうか。そんな思考が一瞬脳裏を過り、彼は己へと冷笑を飛ばす。余人がどう思うかなどと、何を下らぬ事を。これは彼にとっては努力の結晶などではなく、戒めだ。それ以上でも、それ以下でもない。

 

 彼は嘗て愚行を犯し、そのために多くのものを喪った。このトロフィーはその過去の証明であり、故にこれを棄てるというのは彼にとって逃避にも等しい。だからこそ捨てない。捨てられる筈がない。逃避とは即ち、責任から目を背ける行為なのだから。知らず、トロフィーを握る手に力が籠る。

 

(そうだ。俺は──)

 

 自然と思い出されたのはせつ菜やかすみ、己の大好きを全身全霊を以て表現するスクールアイドル達の姿。彼女らを目の当たりにして胸の裡に生まれた輝きは世界の全てを彩らんばかりで、彩歌はその感覚を幼い頃にも抱いた事があるのを覚えている。

 

 或いはそれは、ステージの上で歌い踊る父の姿を映像越しに見た時。或いは、どんなに難易度の高い曲でも笑顔で弾きこなす母の姿を客席から見た時。彩歌の胸は高鳴っていた。侑の言葉を借りるならば、その時の彼が抱いていたのは紛れもなく〝トキメキ〟であったのだろう。

 

 翻って、自分はそれを与える側にいる事ができているか。彩歌はそう己に問うて、しかし不明を返す。彩歌の音楽を、多くの人が聴いている。それは紛れもない事実だけれど。そもそも大好きの表現者たる彼ら彼女らと己を比較する事自体が、彼ら彼女らへの非礼に他ならないと彩歌は理解している。それでも。

 

(──俺の音楽を、俺の価値(そんざい)を、示し続けなくちゃいけないんだ)

 

 それは、夢ではない。かねてから抱き続けてきた願いを叶えた今、彩歌の裡に夢と言えるものは存在しない。であれば、その思いの正体とは何なのか。決まっている。呪いであり、それ以上に責任だ。

 

 耳朶の奥で雨音が反響している。それは断罪の音。彩歌が愚行を犯し、そのために、多くを喪った日から続く、彼を責め苛み過去に縛り付けるための調べだ。遠くなる事はあれど、運命の日からずっと、鳴り止んだ事はない。

 

 愛歌は〝音楽は音を楽しむと書くのだから、まずは自分が楽しまなければ〟とよく彩歌に言っていて、己の思いがその教えに反している事に彩歌は気付いている。それ以前にそもそも彼は本来ならばこうして音楽を続けている事すら烏滸がましい身の上で、それでも、為さねばならない。夢の源泉を薪にして、未来さえも火に焚べて。何故なら、彼は────そのために、生かされたのだから。

 

 


第2章『雨空の向こうには』

 

 

 ──飛行機から降りた時、その女性がまず目にしたのは懐かしい故郷の色彩であった。サングラスを通しているため視界全体が黒みがかってはいるものの遠くには都会のビル群が見え、反対には海が広がっている。生憎と天気は雨であるが、視覚聴覚を刺激する営みの喧騒が彼女は嫌いではなかった。その中にあっては雨音もひとつの差し色(エッセンス)のようなものだ。

 

 それから手荷物受取所までの道中で彼女が感じたのは、自身へと向けられるいくつかの視線。それは彼女の正体に気付いたが故のものであるのか、或いは単純に見惚れているのか。そのどちらであっても納得させ得る気配というものが、彼女にはあった。

 

 見に纏う仕立ての良いパンツスーツは見るからに高級品でありながら当人に“着られている”様子はなく、前を開けたラフなスタイルながら完璧に着こなしている。身体に一本芯を通したかのように、背筋は真っ直ぐに。身長は平均的な日本人女性と比較するとかなり高く、総じてまるでそういう美術品が歩いているかのようだ。もしも彼女の正体を知らぬのならば、今年で齢50と言われたとしても信じるまい。彼女は俗に言う〝美魔女〟という類の人間であった。

 

 視線を向けてきている者らの中には明らかに彼女の正体に気付いて傍らの人と噂している者もいるが、実際に声をかけてくる事はないのは臆しているからか、それとも未だその正体に確信が持てないからか。海外だったらサインを求めてくるのに、と少しだけ惜しい気持ちを抱きながら手荷物を回収し、ロビーを通って外へ出ていく。

 

 屋根の下から見上げる空は分厚い乱層雲に覆われ、降雨は滂沱の有様だ。それはまるで、彼女の心に突き刺さり続ける()()()のように。けれど彼女──〝八代(やしろ)詩音(しおん)〟はその朱色の髪色が連想させる太陽が如き勝気な笑顔のまま、誰に向けるでもなく呟いた。

 

「さて……久しぶりに会いに行こうかしら。あたしの可愛い一番弟子に」

 


 

「あっ」

「おや」

 

 1日の授業が全て終わり、放課を迎えて暫く経った頃。帰宅の途に着こうとしていた菜々と彩歌が偶然エントランスにて出会ったのは、中間テストから数日が経ったある日の事であった。

 

 この日は朝から雨が降っていて、今になってもそれは止むどころか雨脚がより強まっている。ふたりはそれぞれに傘立てからかさを回収し、言葉による示し合わせもなく合流した。或いはそれは、こういう場合は一緒に帰るものだという意識がふたりの中に共に在るようにも、菜々には思えた。

 

 ボタンを外し、傘を広げる。菜々のそれはスクールアイドルとしての彼女のイメージカラーでもある深紅であり、彩歌のものは浅葱色だ。傘の上で雨粒が跳ねる音が、ひどくうるさい。

 

「偶然だね。中川さんは部活帰りかい?」

 

 そう問う彩歌の声は雨音の中であっても明瞭に菜々の耳朶を叩く。元の声質や日々の発声練習もあって彼の声はよく通る方で、それによるものだろうか。しかし彼が大きい声を出す事というのはあまりなくて、菜々は微かな疑問を覚えたけれどそれを口に出す事はなかった。代わりに言葉にしたのは、素直な返答。

 

「はい! ソロアイドルという方針が決まってから皆さんやる気に満ち溢れていて、とても充実した練習でした!

 彩歌くんはピアノの練習をしていたんですか? それにしては、随分帰りが遅いようですが……」

「うん、そうかもね。実は今度ピアノコンクールに出ることになって、音楽科の先生に見てもらっていたんだ。まぁ。一種のレッスンのようなものだね」

「コンクールですか!?」

 

 彩歌の返答に、驚愕を見せる菜々。だがそう口にした直後に、はたと気づく。音楽科の生徒である彩歌は主にピアノを学んでいて、であればピアノコンクールに出るというのもまったく自然な事だ。そもそもふたりが出会った頃から彩歌はそういう場に積極的に参加し優秀な成績を修めていた事を彼女は覚えている。

 

 それなのに菜々は彩歌の言葉に驚きを見せた。それを不思議に思ったのか傘の下で彼は目を丸くしていて、何故だかそれが恥ずかしくて菜々がはにかんだ。平常を取り戻し、次いで立ち現れてきたのは彼女らしい高揚。

 

「頑張ってくださいね! 日付と場所を教えてくだされば、いえ、教えてくれなくても私、絶対に応援に行きますから!」

「そうかい? ふふ、ありがとう、中川さん。でも、無理して来なくてもいいんだよ? 部活とかもあるだろうし……」

「無理だなんて、とんでもない! それが彩歌くんの“大好き”なら、私は応援するって決めてるんですから!」

 

 彩歌の隣から一歩踏み出し、彼の方へと振り返りながら満面の笑みを浮かべて菜々は言う。翻る三つ編みとスカート。彩歌はすぐには答えを返さず、傘で菜々の視界から顔を隠してしまう。

 

 照れているのか、或いはまた別の何かか。表情は見えず、言葉はない。数拍を置いて傘を上げた時、そこにあったのはいつもと変わらぬ微笑であった。

 

「“大好き”、か……そうだね、キミはそういう人だった。

 じゃあ、帰ったら詳細を送るよ。それでいいかい?」

「はい! えへへ、楽しみです!」

 

 そう言って屈託のない笑みを浮かべる彼女は、さながら雨天の中に現れた地上の太陽ででもあるかのようだ。

 

 〝中川菜々〟としての彼女があまり人前では見せない表情。嘗てはそれを知るのは彼のみで、けれど今とはってはそうではない。今の彼女にはありのままの彼女を受け入れてくれる人々がいる。故に真野彩歌は何も特別などではなく、何でもないただのひとり。

 

 望んだ結果だ。そして現在はその結果から伸びた新たな過程の只中である。何もおかしな事はない。だから胸中を過った疼痛はきっと錯覚だ。そう決めつけ、その通りに呑み下し、彼は菜々に追いついた。再び、ふたり並んで歩き出す。彩歌が車道側だ。それは気遣いではなく、ふたりにとってはそれが自然な形であるというだけだった。

 

 傍らから鼻歌など聞こえてきて、彩歌が微笑む。

 

「上機嫌だね」

「勿論です! 彩歌くんの“大好き”を応援したいというのも本心ですが……私は貴方のピアノが大好きですから!」

 

 小学生の時も言ったでしょう? と菜々。その言葉は確かに彼らが出会った頃に投げかけられたものと相似していて、故に彩歌の胸中に湧いた感情も同質のものであった。尤も以前のように気恥ずかしさに頬を染めることはないけれど。

 

 歓喜。彩歌が覚えた感情をあえて言語化するのならば、まさしくそれだ。自らを応援したいと言われた事もそうだが、それ以上に演奏が好きだと言われた事が嬉しいのである。

 

 だが、人とは変わるものだ。過去と帰結が同一であったとしても、由来までが同じとは限らない。彩歌はそれを自覚するが故に、歓喜を塗り潰すようにして後ろめたさが立ち現れてくる。唐突に顔を出しては急激に体積を増すそれはさながら積乱雲のようで、しかし彼は菜々にそうと悟られないよう己を常の〝真野彩歌〟として規定し直す。けれど。

 

 ──通学路の上、彼らが差し掛かっていたのは大通りの交差点付近の歩道。空は曇天であり、それ故に晴れであれば黄昏に彩られている筈の世界はただ薄暗い。そのせいだろうか、その交差点で1台の車が甲高いクラクションを鳴らす。たったそれだけの、現代社会においては1日の間に数えきれない程に起きているような、何でもない現象だ。そのため菜々も音に驚きこそしたものの歩みを止めることはなく、だがその直後、彼女は異変に気付いた。彩歌の足が、止まっている。

 

「彩歌くん……?」

 

 返事はない。雨音に掻き消されたのだろうかと駆け寄りそのまま覗き込むように彩歌の顔を見て、菜々が思わず息を呑む。

 

 目の焦点が合っていない。過呼吸とまではいかずとも呼吸のペースが異様に速く、それに反して顔色は悪い。蒼白という程ではなくとも、放置しておけばすぐにでも血色が失われそうだ。身体も小刻みに震えていて、明らかに異常である。だが心配した菜々が腕を掴むと、その振動によるものか漸く彩歌の焦点が戻り忘我から復帰したようであった。そうして笑みを浮かべたが、それが虚勢である事は明白だ。

 

 けれどそんな有様でありながら彩歌は彼の袖を掴む菜々の手を半ば強引に振りほどき、大丈夫だから、と一言だけ告げて歩み出そうとしてしまう。無論そんな状態の彼を菜々が放っておく筈もなく再び引き留めようと腕を伸ばすも、彼はすり抜けるようにしてそれを回避してしまう。

 

 理解が追いつかなかった。先程のクラクションは菜々や彩歌とは何の関係もない筈で、しかしタイミングからして彩歌が発作めいた反応を見せた原因はそれ以外に考えられない。分からない。分からないから、訊かなければ。そんな菜々の決心を置き去りにするように、彩歌の歩みは止まらない。

 

 マズい、このままでは行ってしまう。行かせてしまっては、次に会った時には彩歌はいつもの調子ではぐらかしてしまうだろう。そんな危機感から菜々は尚も彼に追い縋ろうとして、直後、雨音を切り裂き聞き慣れない声が彼女らの耳朶に触れた。

 

「──もしかしたらココを通るかもと思って、ビックリさせようと待ってたら……女の子を困らせるなんて、感心しないわねぇ」

「え……?」

 

 疑念の吐息は菜々と彩歌ふたりのもの。前者はそれが全く慮外であったからで、後者はその声の主の存在に対してのもの。何故ここに、と。言葉にせずとも、彼はそう問うているかのようだ。

 

 曲がり角の陰からふたりの視線の先に現れた女性を一言で形容するのならば、奇妙という言葉がよく似合うだろう。着用しているスーツはまさしく一張羅と言って良い上等なものであり傍らのスーツケースも相応のものであるというのに、傘だけがまるでそこいらのコンビニで買ってきたかのような安物の、それも新品のビニール傘。何より珍妙であるのは、この雨天の中でもサングラスをかけている事だろう。

 

 突然の闖入者を前にして硬直するふたりの前で、女性はサングラスを外してみせる。そうして現れた朱色を基調とした不思議な色彩の目を細め、女性は微笑んでみせるのだった。

 

「久しぶりね、さっちゃん」

「詩音、先生……」

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