【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第16話 カレの笑顔、潜伏する過去

「ピアニストの矢代詩音さんですよね……? よろしければ、サインをいただけませんかっ!?」

 

 半ば興奮気味に詩音へとそんな言葉が投げかけられたのは菜々と彩歌(さいか)が通学路にて詩音と遭遇し、彼女に連れられるまま通学路付近のファミレスに入店してから幾許か経った頃の事であった。

 

 声をかけてきたのは虹ヶ咲とは別の、付近の高校の制服を着用した女子高校。詩音は彼女からのサインの求めに快く応じ、それを受けてか様子を見ていた周囲の客も詩音の許へと殺到する。その様は、さながらファミレスの一角が小さなサイン会場にでもなったかのようだ。

 

 テーブルを挟んだ対面の席でその光景を見ながら、菜々は改めて目の前にいる人物が紛れもない有名人なのだと実感する。

 

 〝矢代詩音〟。海外に拠点を置くピアニストであり、多くの高名なコンクールで数多くの賞を獲得した実績を持つまさしく凄腕と言うべき実力をもつ女性。その名声は日本だけではなく海外においても高く、そのせいだろうか、かなりの人数からのサインの求めを捌き切った後でも詩音は全く平然とした様子であった。恐らくは慣れているのだろう。

 

 そうして店内が再び普段通りの喧騒を取り戻した頃になると漸くウェイターが注文を取りに来れるようになって、一通り注文を済ませてから詩音が口を開いた。

 

「落ち着いた? さっちゃん」

「これだけの時間を置けば、流石にね。ありがとう、先生。……中川さんにも、余計な心配をかけてしまった。申し訳ない」

「余計な心配なんて、そんな……」

 

 心底から申し訳なさそうな表情のまま隣に座る菜々へ頭を下げる彩歌に彼女はその謝罪を受け取るまいとするが、その語調は聊か歯切れが悪い。それは彩歌の謝意を真っ当なものと感じているのではなく、それよりももっと根本的な部分から来る動揺であった。

 

 数刻前の降雨の中、彩歌が見せた異常。いっそ病的、或いは発作症状とすら形容できるそれは、菜々にとっては初めて見る彼の姿であった。故に彼女はその原因、由来を全く知らない。動揺するのも無理からぬ事である。

 

 少なくとも今の彩歌は頬の血色も戻り呼吸数も目に見えて増えている訳でもなく、落ち着いたという彼の言葉は嘘ではないように見える。だがそうだとしても先の光景は全くの現実だ。故に見逃す事はできなくて、けれど懊悩は消えず、まごついているうちに表情を真面目なそれから柔和なそれに切り替えた詩音が言葉を放った。

 

「じゃあ改めて……久しぶりね、さっちゃん! 前に会った時から、もう2年は経つかしら。見違えるくらい大きくなっちゃってまぁ……」

「男子三日会わざれば刮目して見よってね。成長期だし、まだまだモリモリ大きくなるよ」

 

 懐かしさに声音を弾ませる詩音と、冗談めかしてそれに応対する彩歌。その遣り取りは過不足なく久方ぶりの再会を喜び合う身内のそれで、そこに不穏の種はない。その傍らで菜々が抱いたのは、ある種の悟りにも似た感慨であった。

 

 彩歌の母である愛歌以外の、彼のピアノの師。その存在について耳にした時、菜々の心境は半信半疑とでも言うべきものであった。彩歌の言葉を疑っていたのではない。ただ彼女にも彩歌とそれなりに長い時間交流してきた意識があって、しかし数刻前から今に至るまでに彼が見せた姿は大半が彼女の知らないものである。

 

 ならば、或いは自分は〝真野彩歌〟という少年に感じている時間の質量とは、全く虚構のものでしかないのだろうか。菜々らしからぬそんな疑念が脳裏を過り、けれどそれを深追いする暇は彼女にはなかった。あえて思考を切り上げたのではない。不意に視線を感じて顔を上げ、サングラス越しの視線とかち合う。

 

 かなり黒色の強いレンズを挟んでいるため、菜々の側からその視線に込められた意図を察するのは困難だ。だが菜々を見つめる詩音の表情は神妙で、気圧された菜々が息を呑む。そうして幾許か、何を納得したのか詩音は顎に手を遣りながらふむふむと呟き、一転、にんまりとした表情で彩歌に問う。

 

「……彼女さん?」

「かっ、彼女!?」

「何言ってるのさ先生!? 中川さんは別にそんなんじゃなくて、その……」

 

 一言のみの、けれど衝撃的な詩音の問いに、驚愕の声を漏らす菜々と彩歌。全く予想していなかった問いだからだろうか、ふたりの顔は耳まで紅く、彩歌に至っては先の言葉に続く適切な表現が見つからない程に動揺しているようであった。

 

 多感な青少年特有の、あまりにも青い反応だ。期待した通りのレスポンスに詩音は満足げに笑み、同時に彩歌が口にした〝中川〟という名前に聞き覚えがあることに気付いた。

 

「中川……あぁ、もしかして貴女、中川菜々ちゃん?」

「えっ……私の事を知ってるんですか?」

「モチのロンよ~。まだ小学生の頃、さっちゃん、貴女のコトをよく話してたのよ? とっても真面目で優しい子だって、べた褒めだったんだから!」

「ちょ、やめて、先生やめて……恥ずかしすぎる……」

 

 紅潮しきった顔のまま、半ば涙目にすら見える瞳で懇願する彩歌。しかし愛弟子のそんな求めに、詩音は唇を尖らせて応える。

 

「えー、良いじゃない別に。……あっ、そうそう。小学生と言えば、卒業の時すごく悲しそうにしてたのって、もしかして菜々ちゃんと離れちゃうからだったりしたのかしら」

「ノーコメントで! というか本当……勘弁して……」

 

 あまりにも容赦のない詩音からの暴露の数々に、遂にはメニュー表を広げて自らの顔を隠してしまう彩歌。けれど彼の横に座る菜々には全てを隠しきれている訳ではなくて、先程よりも一層耳が赤くなっているのが見える。

 

 詩音の問いに対し彩歌はノーコメントと返したが、言葉にはせずともその反応こそが紛れもない答えであった。もしも詩音が出まかせを言っているのであれば彩歌はもっと冷静に対応していたであろうし、そもそもとして詩音がそんな人柄なのであれば彩歌は彼女を先生と呼ぶまで慕ったりはするまい。

 

 つまり詩音が語った内容は全て間違いなく過去の真実なのだろう。中でも相手に対して見せていなかった一面をよりにもよってその相手の目前で暴露されたというのだから、羞恥に悶えるのも当然というものだ。だが常に飄々としていて時に相手を手玉に取るような言動をする事もある彩歌が一方的に翻弄されている様というのは、菜々から見ても新鮮であった。

 

 だがそれ以上に昔から本心が見えにくいきらいがあった彩歌が確かに自分を想っていてくれた事が菜々には嬉しく、同時に羞恥に悶える彩歌に感応したかのように菜々まで恥ずかしくなってしまって、彼女は小さく俯いた。その頬は僅かに赤く染まっていて、紅潮したふたりを目の前にした詩音が微笑みながら口を開いた。

 

「イイわね~、まさしく青春ってカンジの色。こういうのをアベックって言うのかしら」

「先生、それ死語」

「えっ、マジで」

 

 或いは老婆心めいた気性を発揮する詩音に、ようやく羞恥から復帰しつつあある彩歌がせめてもの意趣返しとばかりに言葉を返す。普段は日本にいないからか、それとも単純なジェネレーションギャップというものか、詩音があからさまなまでの驚愕を見せた。

 

 それから、幾許かの静寂。何がおかしかったのか、彩歌と詩音が噴き出し、声を出して笑い合う。傍らにいる菜々は直前の遣り取りの中にいなかったために半ばおいて行かれたような形になってしまうが、それでも悪い気はしなかった。

 

 数刻前に菜々の目の前で彩歌が発作めいた様子を見せた事も、その原因についてそうしている理由までもを含めて彩歌が隠そうとしているのも事実だ。だが同時に今、彩歌は偽りならざる本物の笑顔を浮かべている事や彼が昔から菜々を大切に想っていることもまた、紛れもない事実で。ならば或いは隠している理由というのも何か重大な事由があり、それを今此処で何もかも問い質そうとするのは善くないのではないかと、菜々は思ったのである。

 


 

「菜々ちゃん」

 

 神妙な声音で詩音が菜々へとそう呼びかけたのは、注文した料理を食べ終わった後、彩歌が用を足すと言って席を離れた事であった。

 

 初めこそ昔馴染み同士である彩歌と詩音のペースを測りきれず半ば置いていかれてしまう事もあった菜々だが、彼女は元より対人コミュニケーションには長けた手合いである。一食分程度の時間さえあれば、相手との距離を詰めるというのは造作もない事であった。或いはそれは、その相手である詩音が陽気で人好きな性格であった事も在るのかも知れない。

 

 だが今、菜々の名前を呼んだ詩音は間違いなく彼女自身のものでありながら何処か異質であった。出会った頃から見せていた年齢不相応な陽気が鳴りを潜め、代わりに本来あるべき人生の質量が立ち現れてきたかのような。心なしか表情も老成した人間のそれであるように、菜々には見えた。

 

 どちらかが嘘というのではない。過去の思い出を暴露して弟子をからかう陽気と、年に見合った老成、どちらも真というだけの事。菜々にとって“中川菜々”と“優木せつ菜”がどちらも真実であるように。

 

「今日はありがとうね、付き合ってもらっちゃって。今更だけれど、ご迷惑じゃなかったかしら」

「迷惑だなんて、そんな事はありません。私も、楽しかったですから」

「そう。良かった。……貴女みたいに優しい友達がいて、さっちゃんは幸せ者ね」

 

 くすくす、と。口許に手を遣り、詩音は小さく笑う。その仕草はとても上品であり、先刻弟子を翻弄していた人物と同一人物であると、余人にはすぐに信じる事はできまい。

 

 だがそうして笑む表情の中に、菜々は何か違和を見る。それは陰のような、かつ望郷のような、そんな何か。少なくとも詩音以外の誰にもその正体の見えない表情であった。サングラスを着用しっぱなしであるというのもあるかも知れないけれど。

 

 その好奇とでも言うべき視線を感じ取ったのだろうか。サングラスに手を遣り、詩音が苦笑する。

 

「コレ……やっぱり気になる?」

「いえ、そんな事は……」

「良いのよ、別に。何か重大なコトがあるワケでもないのだし。……それに、遠慮とかそういうの、あたしには分かっちゃうから」

 

 え? と。詩音が零した呟きの意図が分からず疑問の声を漏らした菜々の前で詩音がサングラスの弦に手を掛け、出会った時と同様に何のためらいもなく外す。そうして顕わになったのは、やはり不思議な色彩の瞳だ。

 

 全体的な色は彼女自身の髪色と同じ朱色だが、それ以外の色も見える。であれば、それは朱を基調とした玉虫色とでも形容すべきだろうか。サングラスを胸ポケットに仕舞い、詩音は声なき問いへの答えを続ける。

 

共感覚(シナスタジア)……ってやつでね。あたしの場合、色聴と言って、音に色がついて見えるの。だからなのかしら、裸眼で世界を見ていると、頭が疲れちゃうのよね。

 だから普段はサングラスをかけて、入ってくる情報を制限してるの。あたしにとっては普通の視界より、色の方が分かりやすいから。要は、コレは()()()ね」

 

 そう言って、詩音は笑む。共感覚(シナスタジア)。五感のうちの特定の入力刺激が他の感覚の刺激を齎す知覚現象であり、中でも音に色が伴って見える色聴は最も報告が多いとされている。その知覚現象を、詩音は持っているというのだ。

 

 であれば〝遠慮とかそういうのは分かってしまう〟というのは、つまりは声に伴う色の為に詩音からすれば視覚として視えてしまうという事なのだろう。菜々には感覚的には理解しにくい現象だが、詩音にとってはそれが当たり前なのだ。共感覚というのは、殆どの場合において先天的なのだから。

 

 尤も共感覚と虹彩の色に関係があるという報告はない。故に詩音自身の感覚と玉虫色の瞳は無関係の筈で、しかし菜々には全くそうであるとも思えなかった。そんな彼女の目前で、詩音はサングラスを再び着用する。

 

「ハイ、じゃああたし(オバサン)の話は、このくらいでおしまい。

 ところで、変なコトを訊くようだけど、あの子……さっちゃんは学校で上手くやっていけてるのかしら。その、友達とかと」

「……? えぇ。私と彼は学部は違いますが、クラスでも上手くやっていると聞いています。それに最近は、私と彼の共通の友人が増えたりして……」

「そうなのね……良かった」

 

 言って、大きく息を吐く詩音。同時に肩の辺りが弛緩した点から見て、その吐息は安堵の溜め息だったのだろう。だがそれだけであるにしては詩音の仕草は大袈裟で、何らかの事情の存在を伺わせる。

 

 再び、違和感。それは果たして何度目の事であったのか。積み上がり続けた違和は無意識の裡から菜々の思考を刺激し、彼女らしからぬ発想を齎す。

 

 彩歌は学校で上手くやっているのかという問いは、或いは〝そうできないかも知れない可能性がある〟という事の裏返しではないのか。それは下衆の勘繰りめいていて菜々は自覚するや否や引っ込めようとするが、自身を見つめる詩音の視線に気づいた。その瞳は、菜々の色を捉えている。詩音自身の意志とはまるで無関係に。

 

「あの、彩歌くんに、何か……」

「うん、ちょっとね。あの子、中学の時、荒れてた時期があったから」

「彩歌くんが、荒れていた……?」

 

 信じられない、とでも言いたげな声色であった。そんな菜々の目前で、詩音が頭を振る。

 

「荒れていたと言っても、非行に走ってたとかじゃないのよ? ただ、何て言うのかしらね、自暴自棄? 音楽以外どうでもいいって具合になってた事があったの。それこそ自分自身の事も、周囲の事も顧みないくらいに」

 

 その詩音の弁を、人は笑うだろうか。音楽で大成せんとするのならばその程度は当たり前だ、と。だが彩歌をそう評しているのは他でもないプロのピアニストたる詩音であり、それは転じてその時期の彩歌は大成した人間から見ても異常であったという事なのだろう。

 

 菜々は他人の発言を嗤うような人間ではないが、だからとて詩音の言に潜む不穏に気付かぬ筈もない。菜々がよく知る今の彩歌は彼女の中では確かに彼女と出会った頃の彼からの延長線上に在って、故に詩音が語る自暴自棄な姿というのは全く以て想像の埒外であった。

 

 しかし、納得できる事もある。高名な音楽家を多数輩出している名門とも言える虹ヶ咲学園音楽科の中に在っても特待生を維持するだけの実力を彩歌が備えているのは、或いはその時期に積み上げた研鑽があるからなのだろう、という。大成したピアニストから見ても異質なまでの努力の果てというのであれば、それだけの実力に至ったとしても不思議ではあるまい。

 

 だがそのために、彩歌は自身や周囲を顧みなくなってしまった。菜々は原因こそ知らないが、少なくとも現在の彩歌にその気が見られない以上、彼は何処かの時点でそんな状態から立ち戻る事ができたのだろう。

 

「あたしは仕事が忙しくって傍にいる事ができなかったけれど……今は皆と仲良くやれているようで安心したわ。あの子は周りに恵まれているのね」

 

 安堵半分、憂い半分といった声音であった。詩音の言う周りというのは菜々を始めとした交友や、陽彩などの家族の事だろう。彩歌が荒れていたのが中学時代の事であるとするならば、関わりがあると考えられるのは家族と、大雅(しんゆう)。──後者の可能性が脳裏を過った刹那、不慣れな感覚が胸中を駆け抜けていく。

 

 名前や、輪郭すら判然としない感覚であった。けれど最近、それと同じものを抱いた覚えがあって、けれど曖昧模糊としているが故にそれが何処に仕舞われているのか辿る事も出来ずに首を傾げる。そんな菜々の前で、詩音はでも、と続ける。

 

「肝心な部分は治ってない。あの子はまだ()()()()()()()()。それはあの子自身の問題だけれど、同時にあの子だけではどうしようもない問題なのでしょうね。だって、始まりはあの子じゃないのだもの」

「……そこまで言って、教えてはくれないんですね」

 

 菜々にしては珍しい、何処か反抗的な気配さえ含んだ様子であった。だがそれも致し方あるまい。詩音の物言いはあまりに露骨で、それなのに決定的な部分だけが意図的にぼかされている。菜々が最も知りたい所だけが欠落している。それでは、誰だって苛立つだろう。

 

 自身が冷静になりきれていない事は菜々自身も自覚している。自覚しているのに収拾が付かない。これではまるでスクールアイドルを引退しようとしていた時に逆戻りしたようだ、と彼女は心の中だけで言う。

 

 菜々のそんな気配(いろ)を真正面から受け止め、困ったように詩音は笑う。そうして、机の上に投げ出された菜々の手を握った。

 

「ごめんなさいね。でも、いつか知ることになる。あの子は嘘を吐き続けるのが下手だから、いつかきっとボロが出てしまうから。

 だから、その時はあの子を助けてあげて欲しいの。勿論、貴女が良ければ、だけれど」

 

 詩音が微笑む。けれどその笑顔はぎこちなくて、それは即ち彼女自身が自らの発言に潜む身勝手について自認しているという事でもある。自認し、理解した上で言っている。大人の卑怯さというものだった。

 

 しかし同時に、そこには優しさも同居している。弟子に健やかでいて欲しいという慈愛。半ば押し付けてしまう形になる菜々への慚愧。それは大人であるが故に、後進への懇到であった。

 

 けれど詩音自身の意図がどうであれ、彼女の言葉は菜々にとって今の彩歌は菜々と出会った頃の彼とは決定的に何かが変質しているという証明でもあり、それでも、返答せんと口を開いた菜々の表情は毅然とし真っ向から詩音を見据えていた。

 

「勿論です。以前、彼は今の私を知ろうとしてくれました。一度は自分の“大好き”を諦めて、封じてしまおうとした私を……それでも、皆と一緒に背中を押して、立ち戻らせてくれた。

 だから──今度は、私が彼を知る番です」

 

 人間にとって、未知とは脅威であり恐怖だ。知らないという事実は、それだけで恐れを喚起する。たとえばそれは自然現象であり、故に先人たちはその原理を解き明かし未知を既知へと貶めたのである。

 

 だが相手であれば人間であれば選択肢は決して理解のみに限定されない。自然現象は不可避のものだが、人はそうではない。知らないのならば、理解できないのならば、避ける事も、未知すら知らぬふりをして接することもできる。未知を暴くことで関係に不可逆の変質を来してしまう事もあるのだから、その判断も決して間違ってはいまい。

 

 故にこそ、相手の未知を暴く決断をするにはそれらの障害を越えるだけのものが必要で。しかし、彼女は───

 

 ───それでも、知りたい。そう願ったのだ。

 


 

「俺がいない間、中川さんと何を話してたの?」

 

 いつの間にか雨が止み、薄くなった雲の隙間から黄昏空が覗く夕刻。彩歌が詩音にそんな事を問うたのは、真野邸への帰路の中、菜々と別れて暫く経った頃の事であった。

 

 ただ自宅に帰るだけの彩歌だけではなく詩音までも真野邸に向かっているというのは、何という事はない、彼女が日本にいる間、真野邸を拠点にするというだけの事。普段海外を拠点にしている詩音は日本に自宅が無く、かつ仕事柄ピアノの練習が欠かせない彼女にとって、真野邸は非常に都合が良いのである。

 

「知りたい? でもダメよ。女同士の秘密に、男は入ってこれないんだから」

「秘密って、そんな大層なコトを話してたのかい……? でも、確かに今の質問はデリカシーがなかったかも知れない」

 

 彩歌は特に深い意味があって質問をした訳ではなかったが、だとしてもデリカシーに欠けた問いであった事は事実だ。声色こそおどけているようだが彩歌は内心で確かに反省し、自律に反映する。

 

 真野邸がある辺りの住宅街は都心のビル群に比べて人通りが少なく、響く音はふたりの足音とスーツケースの車輪が回る音のみ。雨は止んでいるけれどアスファルトが乾き切っていないからか、環境音は全てが湿っている。

 

 それから暫く歩いていると、ふたりの視界の席に真野邸の白い外壁が見えてきた。それと殆ど同時に、思い出したかのように詩音が言う。

 

「でも、これだけは言えるわ。まぁ、菜々ちゃんと話してた内容そのものってワケじゃないけど……」

「……? 何?」

「さっちゃん。……助けが欲しい時は、ちゃんと“助けて”って言いなさいね」

「───」

 

 それは、いったいどういう意味と意図で告げられたものであったのか。耳朶を打った瞬間に彩歌は一瞬のみ理解を放棄して、そのせいか歩調まで停止する。それに合わせて、詩音も数歩先で立ち止まり彩歌の方に視線を寄越した。

 

 意味。意図。そんなものは態々考えるまでもない。即座に思考能力を取り戻した頭で彩歌は結論する。全く文字通りであり、それ以上でもそれ以下でもない。助けが欲しいのならば、誰かに助けを求めろ、と。それだけだ。

 

 そして思い至る。詩音が彩歌らの目の前に現れた時に言い放った〝女の子に迷惑をかけるなんて〟というのは決して『菜々の目前で発作を起こした事』に対するものではなく『菜々の心配を無下にしてできもしない平然を取り繕おうとした事』に対してだったのだろう。

 

 気づきと、理解。それらに対して何を思ったのかを、少年は口にしない。音にしない以上は、いかな共感覚者にとて真意を悟られることはない。代わりに、返答と似て非なるを口にする。

 

「じゃあ、ひとつ。俺、今度コンクールに出るんだ。だから、久しぶりに練習に付き合って欲しい。時間がある時でいいんだ。……お願い、できるかな?」

「当たり前田のクラッカーってね。可愛い弟子のお願いだもの、聞いてあげる」

「だからそれ死語だって。……ありがとう、先生。先生が協力してくれるなら百人力だ」

 

 少しおどけた、弾んだ声。そこに潜伏する色は、彼自身には見えない。詩音が言及する事もない。そのままそれ以上に追及することもなく、ふたりは邸宅の門を開け放った。

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