【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第17話 アンタが/オマエが/アナタが/キミが/オレが

 ──明日、一緒に昼食を食べませんか?

 

 彩歌(さいか)の許に菜々からそんな提案があったのは、菜々と共に詩音と出会い、ファミレスから数時間後、その日の夜の事であった。事前の約束通りにコンクールの日程を送り、それに関する遣り取りの直後、それまでの流れから話題を切り替えるための一手である。

 

 それが送られてきた時、彩歌のスマホにはトーク画面が表示されたままであったから、彼女の側には即座に〝既読〟の表示があっただろう。だが彼女からの提案に対し、彩歌はすぐに返事をする事ができなかった。その理由というのはいくつかあるが、有り体に言えば()()()だったのだ。

 

 学園からの帰り道、詩音と再会するよりも前に彩歌は菜々の目前である種の宿痾の発作とも言える異常を露呈させ、あまつさえそのまま逃げようとさえした。思いがけず詩音と再会しそのまま有耶無耶になった状態であったが、この短時間で忘れる筈もない。メッセージアプリを介した文字のみによる遣り取りである事も手伝って、彩歌が真意を測りかねたのは当然とも言えよう。

 

 だが、あえて断るような理由も彩歌は持ち合わせていない。異常を目撃された直後に尤もらしい理由をつけて断るというのもむしろ不自然であろう。コンクールに向けての練習というのもあるが、義務でもない事を理由に持ち出すというのは全くの不実というものだ。故に、彩歌はその提案を了承した。その際に菜々の分の弁当も作っていくと言ったのは、全くの出来心であった。

 

 ──ふたり分の弁当箱を膝に乗せ、ひとつ大きな欠伸を漏らしつつ伸びをする。幸いと言うべきだろうか、今日は昨日の大雨が嘘のように早朝から晴れていて、未だ気温が上がり切っていない事も在ってか陽光がひどく心地良い。常であれば大雅と共に利用しているベンチへと一足早く到着した彩歌はまるで日向ぼっこでもしているかのように、完全にくつろいでいた。

 

 彩歌や大雅がいつも決まったベンチを利用している事に、特別な理由はない。だが1年以上も使い続けていれば勝手ながら愛着も湧くというもので、故に安心したからだろうか、押し寄せてきた眠気に目を瞬かせる。けれど、眠る訳にもいかない。彼は既に何度か野外で眠り注意を受けているのだし、何より眠ってしまっては菜々との約束を半ば反故にしたようなものだ。であれば眠れるはずもない。そうして彼が眠気と格闘し始めて幾許か、遂に聞き慣れた声が彼の耳朶を打つ。

 

「お待たせしました。早いですね、彩歌くん。……大丈夫ですか?」

「え? うん、ダイジョウブダイジョウブ。俺もさっき来た所だから」

「そんな眠そうな顔をして、そんな筈がないでしょう……」

 

 呆れた様子で溜め息を吐き、失礼します、との言葉と共に菜々が彩歌の隣に腰を下ろす。彼としてはどうにか眠気を堪えているつもりであったのだが、傍から見れば全く隠しきれなかったらしい。タハハ、と苦笑いして後ろ髪を掻く。

 

 けれど待ち人が来てまで眠たげな顔を晒している訳にもいくまいと、彩歌が自身の両頬を挟み込むようにして叩く。所謂気付けというもので、それだけで眠気がある程度退散していくようにも彼には感じられた。意識が明晰に立ち戻り、僅かに菜々との距離を広げる。

 

 そうして膝の上に乗せていた弁当の包みのひとつを菜々へと差し出し、彼女は礼の言葉と共にそれを受け取る。しかし彼女はすぐに包みを開けるのではなく少々意外そうな目をしていて、それに気づいた彩歌が問いを投げる。

 

「どうかしたかい? 何か変なモノでもついてた?」

「い、いえ、そんな事はありません。ただ、その……本当に作ってきてくれたのだな、と」

「そりゃあ、俺から言い出した事だからね。約束は守るよ、俺は」

「それは疑っていません。しかし、何というか……」

 

 妙な所で言葉を区切り、弁当箱に視線を落とす菜々。そこに込められているのは落ち込みや落胆ではないまた別種の何かで、であれば先の驚愕は彩歌が本当に弁当を作ってきた事自体に対するものではないのかも知れない。

 

 そも人の感情とは決して同時にひとつのみが顕在化するものでもなく、時としてひどく混沌としている時もある。今の菜々は混沌という程ではなかろうが単一という訳でもなさそうに彩歌には見えた。感慨という言葉が脳裏を過り、彼は即座に頭を振って払い落とす。それは、思い上がりだ。

 

 その所作が不可解だったのだろうか、彩歌を見る菜々の目には今度こそ真性の疑念が宿っていて、何でもないとでも言うように彼は頭を横に振った。そうして包みを解くと、菜々もそれに倣う。胸の前で両手を合わせたのは、殆ど同時の事であった。

 

「いただきます」

「いただきます」

 

 示し合わせた訳ではない。ふたりの挨拶が重なったのは全くの偶然で、それがおかしくて彼らは顔を見合わせて一拍を置いてから笑い合う。何気なく、かつ無意味な偶然の事象だけれど、彼らには共有し合うに値する事であるようにも思えたのだ。

 

 それから弁当箱の蓋を開け、視界に飛び込んできた様相に菜々が感嘆の吐息を漏らす。一般論、或いは公衆に流布されている偏見から言えば男子高校生の作る弁当というのは雑なものになりがちであろうが、彩歌が作ったそれは栄養バランスや彩りにもある程度の工夫が見られた。流石にそれらの分野について専攻している訳ではないため完璧とはいかないが。慣れている。菜々は、一目でそう察した。

 

 そうして菜々はその中から卵焼きを摘まみ上げる。卵焼きという料理は工程を言語化するとひどく単純なようだが、それ故に出来栄えに料理人の巧拙が現れやすい。その点から言えば、無駄な焦げのひとつも見当たらないそれは相当なものだろう。少なくとも一朝一夕で修得できる程度ではない。その一切れを、口に放り込む。

 

「──美味しい」

「そう? フフ、良かったぁ。いつもとちょっと味付けを変えてるから、うまく出来てるか不安だったんだよね」

 

 菜々のそれは無意識の、それ故に心底からの呟きであった。彩歌が胸を撫で下ろし、しかし菜々はそこに疑問を差し込む。いつも。卵焼きの完成度などから彩歌が料理をする事に慣れているのは菜々にも分かったが、その理由までは彼女は知らないのだ。

 

「いつも……という事は、彩歌くんは毎日自分で弁当を作っているんですか?」

「うん、そうだよ。将来の事を考えても料理はできるに越したことはないし、親の手を煩わせるワケにもいかないからね。それに、美味しいって言ってくれる人もいるし」

「それは……宗谷くんの事、ですよね」

「アイツもそうだけど……キミもそうだ。さっき、美味しいって言ってくれただろう?」

 

 そう言う彩歌の表情は全くの笑顔であり、虚偽の気配と一片とて存在しない。まさしく〝輝くような〟という形容が似合うだろう。自分が作った料理を菜々が美味しいと言ってくれた事が、或いは菜々が笑顔になってくれた事が、心底から嬉しいのだろう。

 

 菜々の知る限りにおいて、真野彩歌とはそういう人間だ。誰かの幸福を是とし、その幸福に共感し、それを己の幸福として捉えることができる。それは人として当たり前の事であるのかも知れないが、実際にそう在る事は難しい。故に自然体でそう在る彩歌の姿は、菜々にとりそれだけで尊敬に値するものだった。尤もそれは彼女自身に自覚はないが彩歌から彼女に対しても思っている事なのだが。

 

 だが菜々は彩歌の全てを知っている訳ではない。それは昨日の事もそうだが、それだけではない。例えば、この弁当もそうだ。今まで菜々は彩歌が大雅と昼食を共にしている事は知っていたがそれを彩歌が作っている事も、そもそも彼が料理ができる事知らなかったのである。織っているという認識と、知らぬという事実。それを目の前にする度、彼女の胸中を疼痛にも似た感覚が通過していく。既に何度も経験している筈なのに彼女はそれの名前もまだ分からなくて、けれど確かな事もあった。

 

「何だか、羨ましいです」

「羨ましい……? 何がだい?」

 

 彩歌からすれば、菜々の言葉にはあまりにも脈絡がない。故に察しがつかないのも当然だ。彼が菜々の感情の所在について問うたのも仕方のない事で、そんな彼の問いに菜々は困ったような笑顔を浮かべる。

 

「何でしょうね。私自身にも判然としませんが…もしかしたら私は〝私の知らない貴方〟を知っているモノを羨ましく思っているのかもしれません」

 

 中川菜々としての彼女には珍しい、はにかむような笑みであった。それがたとえ全くの本心であったとしてもせつ菜ならばいざ知らず、菜々にとっては気恥ずかしさのようなものがあったのだろう。

 

 だがその笑顔に、彩歌はすぐに言葉を返せない。弁当を食べる手は止まっており、孔雀青の瞳は驚愕に見開かれている。果たしてそれはある種の告白とも言える菜々の言に対してのものか、或いはまた別の何かか。答えを知るのは彼のみだ。眉根を下げ、口を開く。

 

「……俺なんかを知っても、得なんてないと思うけど」

「得の有無を言っているのではないんです。だって、これは私のただのワガママなんですから。

 それに……貴方だって、私の事を教えてと言ったではないですか。貴方に得はないのに」

「得はあったさ。確実に」

 

 そう、確かに得はあった。数週間前の過去、ダイバーシティ東京での一連を反芻し、彩歌はそう結論する。何故ならあれは彩歌の裡では優しさではなく打算なのだ。であれば、得はある。でなければ打算などとは言うまい。

 

 暴論である。自分が相手を知る事には得があるというのに、相手が自分を知る事は相手にとって得がない、などと。唾棄すべき屁理屈でしかないという自覚は、彼にもある。だが紛れもない彼の本心でもあり、同時に彼のそんな態度は昨日の行動とも相まって菜々の裡に違和として落ちていく。

 

 自分の事を知っても、得などない。それはそのまま彩歌自身の自己評価の現れであり、けれどそれを受けた菜々の脳裏に過ったのは〝自虐〟ではなく〝拒絶〟の二文字。あまりにも突飛で、冷ややかな不安だ。それでも、菜々は反駁する。

 

「なら、貴方の事を知れるのは私にとっては得です」

「……」

 

 彩歌は何も言わない。何も返そうとさえしなかったのではなく、何事か返そうとして、しかしできずに苦笑として漏れた形であった。それは何処か諦観にも似ているが、笑みにはそれらしい仄暗さは皆無であった。

 

 価値というのは絶対的なものではなく、相対的なものだ。故に自身にとっては無価値なものも、他者にとっては価値があるというのは珍しい事ではない。それを否定するというのならば、それは理屈ではなく理不尽を持ち出すしかない。それが満足にできる程、彩歌は器用ではなかった。

 

「そう。……俺を今日ここに呼んだのも、それが理由?」

「はい。貴方の身に、何があったんですか?」

 

 あまりにも真っ直ぐな視線であった。虚飾や糊塗の介在しない、偽らざる彼女の本心であった。その言葉には由来が欠けていたが、分からない程彩歌は愚鈍ではないつもりでもある。

 

 彩歌が不器用というならば、菜々も同様に不器用だ。それを訊き出したいのならば、もっと上手い方法などいくらでもあるだろうに。それは彼女も分かっていて、それでも本心を正面からぶつける処方を選んだのだ。

 

 目線を逸らす。だが、逃げるのではない。その所作の真意は菜々の知る所ではないが、少なくとも彩歌はこの状況からの離脱を考えていないようだった。幾許かの間を置いて、食事時にする話じゃないけど、と前置きする。

 

「───事故に、遭ったんだ」

「事故……?」

「そう、事故。……中学に入って少し経った頃、信号無視をしてきた、飲酒運転の車に撥ねられた」

「なっ……」

 

 菜々の口から驚愕の吐息が漏れる。交通事故。彩歌が語った経験は、その表現だけで事足りる。近年の年間発生件数は約30万件を超えていて、全国で1日あたり800件程度発生している計算になる。ごくありふれていながら、同時に全くの非日常。隣にいる人間がそこに巻き込まれていたと知れば、驚くのも無理からぬ事である。

 

 だが、薄々感づいてもいた事だ。昨日彩歌が発作を起こした時、要因となり得るのは直前に付近で鳴ったクラクションのみだった。そんな状況であれば、可能性のひとつとして浮上するのも当然である。尤も、だからといって全く平常心のまま受け止めるというのも不可能であろうが。

 

 そんな菜々の様子に彩歌は何を思ったのか、自嘲的な笑みを覗かせる。

 

「丁度、昨日みたいな雨の日だったよ。いきなり撥ね飛ばされて……暫く意識不明の重体ってヤツになってた。期間は……よく覚えてないけど」

 

 菜々は何も言わない。その間隙を彩歌はどう受け取ったのか、更に言葉を続ける。菜々に尋ねられたままを、まるで出来合いの文章を読み上げるかのように。

 

「それからかな。車の気配を感じると発作を起こすようになってね。周りにすごく迷惑をかけてしまって。父さんは『迷惑だなんて思うな。子供が大変な時に、サポートするのを嫌がる親はいないさ』と言ってくれたんだけど……

 とはいってもここ1年くらいはだいぶ落ち着いてたんだ。でも、条件が揃うと稀にまだ発作が起きる。昨日のは、それだね」

 

 自分の身に起きた事を話している筈なのに。未だ過去の事にはならず、現在にまで禍根を残す事象について口にしているというのに。その声音に色はなく、抑揚は平坦で無個性だ。彼自身に起きた事と言う前提が無ければ、誰かの伝聞を語っているものを錯覚してしまいそうな程に。

 

 交通事故と、その後に残ったトラウマ。彩歌の言を要約するのならば、それだけで十分だ。原因は相手の信号無視と飲酒運転。となれば、事故の規模は相当なものであったとも考えられる。精神に瑕疵を残すのも無理からぬ事だ。

 

 だが、彩歌が語ったのは事の大枠、概要でしかない。詰まる所、()()が圧倒的に欠けている。当事者である彼が何を思ったか、或いは、何を思っているか。そういう主観が無く、菜々が伝聞めいているように感じたのはそのためだ。何故だかそれが我慢ならず口を開きかけた菜々はしかし、何事か言う前に口を噤んでしまった。

 

 息を呑む。菜々の視線の先、押し黙る彩歌の表情は真顔そのもので、それなのに菜々にはどうしてか何かを堪えて今にも泣き出してしまいそうにも見えた。彼の語りが他人事めいていたのは、そうでなければ何もかもをぶちまけてしまいそうであるからなのかも知れない。そう彼女は予感する。その虚勢が悲しくて、膝の上で握り締められた彩歌の拳を彼女は上から掌で包んだ。唐突な接触に、彼の肩が怯えたように跳ねる。

 

「……ごめんなさい」

「どうして中川さんが謝るのさ。キミに非なんて、ひとつもないじゃないか」

「いいえ。実の所、私は気付いていました。車の音で様子がおかしくなってしまったから、もしかしたらそうなのではないかと。それなのに尋ねた。貴方にとっては酷な経験だと、少し考えれば分かった筈なのに」

 

 言い訳めいてはいるが。それでも、菜々は知りたかったのだ。同情などではなく、それは彼女自身の個人的な欲望だ。たとえどんなお為ごかしで脚色したとしても、その本質だけは変わらない。

 

 好奇心ではない。詩音に頼まれたからでもない。正確な由来は、菜々自身にも判然としない。しかし彼の事を知りたいという気持ちは決して錯覚などではない、彼女自身の裡から発生したものだ。

 

「でも、もうひとつだけ訊かせてください。……どうして、今まで話してくれなかったんですか」

「キミに無関係な事で、キミの気を煩わせたくなかったんだ。俺の自意識過剰かもだけどね。それに、もう終わった事だ」

 

 吐き捨てるような、独り言のような呟きの後に、彩歌は唇を引き結ぶ。もう終わった事、既に過ぎ去った事象であるのだからえて気に掛けるようなものではなく、そんな事で菜々に心配を掛けたくなかったと、彼は言うのだ。それを自意識過剰と彼は評したけれど、謙遜が過ぎる評価だったと言えよう。今の菜々の様子がその証左だ。

 

 いっそ彩歌の言う通り何もかもが終わった事であれば、菜々はこうもひどく心配したりはするまい。伏せられていた真実に驚愕し、やはり心配はしつつもそれで終わっていたかも知れない。

 

 けれどどうしてか、菜々にはそれが終わった事だとはどうしても思えなかったのだ。触れ合う手が震えている訳ではない。表情がおかしい訳でもない。しかし本当に何もかもが終わっているのなら、発作など起こす筈もない。

 

 つまりは、あの偶然こそが決定的な綻びだったのだ。その瞬間に彩歌が被っていた正常という名の強がり(ペルソナ)は破綻して、それなのに今以て嘗てのままで在ろうとしている。その姿に菜々は───以前の自分を視る。同時に、理解した。『優木せつ菜(スクールアイドル)』を辞めようとしていた彼女に彩歌がああも関わろうとしたのは、それが果たされた先に何が在るかを知っているから。

 

 要は同じなのだ。以前の菜々と今の彩歌は。違うのは相手の身に起きた事をどれだけ知っているかという事と、ほんの少し、彩歌の方が隠すのが上手かったという事。故にこそ見ていられなかった。それは独善(エゴ)ではあるけれど、救われた人間がいるのもまた事実だ。

 

 ならば見て見ぬふりはできない。知ってしまった以上は。理解してしまった以上は。それは選択肢から除外される。

 

 ───予鈴が鳴る。無慈悲にもこの逢瀬は終わりだと告げるように。けれどそれを一時先送りにせんとばかりに菜々は彩歌の拳を包む掌に一際力を込めた。再び、彼の肩が震える。

 

 これを疵の舐め合いだと、嗤うならば嗤えば良い。それを理解してもなお、菜々は、これだけは言わずにはいられなかった。

 

「貴方が何に恐怖しているのか、私には分かりません。でも、もしもその恐怖に耐え切れなくなったら、私が力になります。たとえ今は何も知らないとしても……手を握るくらいなら、できますから」

 


 

「お弁当、ありがとうございました。美味しかったです。それと……すぐには無理かも知れませんが、いつか私もお弁当を作ってこようと思いますので、その時は食べていただけると嬉しいです」

 

 去り際に菜々が残した一言はそんな、何でもないものであった。彼らの昼休みにおける一連を無にするのではなく、さりとて深入りする訳でもない。笑顔を覗かせて、彼女は教室に戻っていく。

 

 小さくなっていく背中。それが校舎の中に消えていくのを見届けてから、彩歌は深く息を吐きつつベンチにもたれかかった。綿のような雲が浮かぶ青空が、視界いっぱいに広がる。

 

 既に予鈴は鳴っている。授業開始まではまだ幾らかの猶予があるとはいえ、教室に戻らなければ遅れてしまう。けれど立ち上がる気力も湧かない。綱渡りのように常に言葉を選び続けていたからだろうか、と彩歌は自己分析する。

 

 彩歌が菜々に語った内容に嘘はない。真野彩歌という少年は4年前、信号無視と飲酒運転という二重の違反を重ねた車に撥ねられ、一時的に重体にまで陥った。だが、()()()()()()()()。それは彩歌が意図的に作った欠落であり、菜々はその欠陥に気付いていながら言及しなかった。知りたい、という気持ちを抑えてまで。

 

 彩歌の側もそれを悟っていた。ならば言えば良かったのに、と彼の冷徹が言う。

 

「───言えない」

 

 言える筈がない。

 それは義務ではなく拒否。道理も何もない、子供の駄々にも等しいものだ。呟くと共に目蓋を閉じて掌で覆えば、視界は蒼から一転して暗闇に染まる。陽光は両手を貫通せず、何も見えない。その筈なのに、何かが浮上してくる。

 

 それは過去だった。思い出であり、瑕疵であり、断罪だった。雨音の幻聴が、やはり煩い。見えるのは顔も声も、未だハッキリと焼き付いて離れない子供達。皆一様に行き場を喪った筈の、醸造され果てた嚇怒を彩歌に向けてきている。

 

 幻視の震える腕が動き、その指が彩歌に向けられる。

 

「俺は、もう、二度と……」

 

 

 

『おまえが───』

『アナタが───』

『きみが───』

『アンタが───』

 

 

 

 

 

『───彩歌が、死ねばよかったのに』

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