──その光景を覚えている。
それは4年前のとある日の事。元トップアイドルグループのリーダーからアイドル事務所のプロデューサーという異色の転向から10年程度が経ち忙しい身の上となっていた
目まぐるしく情勢の移り変わる芸能界の中で少しでも間隙を作ると言うのは半ば責任放棄のようだが、陽彩はその点においても抜け目はなかった。彼は仕事の引き継ぎを疎かにするような男ではないし、休んでいる間の仕事も長い間目を掛けてきた信頼できる後輩に任せている。殊プロデューサー業というその一点において、陽彩の仕事ぶりは自身の抜ける穴の補填すらも完璧の一言であった。
だが仕事において全く完璧である人間でも、全てにおいて完璧であるとは限らない。元より陽彩は自身の主観においては自らを完璧と評した事は一度たりとて無かったが、己の前に立ち現れてきた現実を前に自身の不完全性を実感する。
いっそ病的なまでに清潔な白い壁。開け放たれたガラス窓から吹き込む心地よい風。そして、しゃくりあげる少年の切なげな声。それらが陽彩の前に在る全てで、同時にそれは彼がずっとひた隠しにしていた真実が彼のいない間に詳らかにされたのだと悟らせるには十分過ぎるものでもあった。それを認識するや否や、彼の胸中に湧き上がってきたのは一度はどうしようもないと切り捨てた筈の憤怒だ。
既に過ぎ去った事象に対する、やり場のない怒り。矛先を喪ったそれは後悔と混ざり合って自己嫌悪へと変質しそうになるけれど、変質しきる前に陽彩はそれを呑み下した。そうして、病室に一歩踏み入る。その足音でようやく来客の存在に気付いたのだろうか、彼の息子たる
よもや陽彩がいるとは思っていなかったのだろうか、彩歌は慌てた様子で入院着の袖で涙を拭うけれど、そうしている間にも涙は止め処なく溢れてくる。その様は、まるで決壊したダムででもあるかのようだ。
やがては虚飾の努力さえ全くの徒労だと悟ったのか、彩歌は涙に塗れた、泣き腫らした顔で陽彩を見上げる。その表情は笑顔であったが、虚勢であるのは火を見るよりも明らかだった。何故なら、まだ泣いている。体内の水分が枯れ果てんばかりのそれは、正しく滂沱であった。
だがそれを見ても陽彩の震える唇から漏れたのは、どうした、というただ一言だけ。まるで世界が遠くなかったかのように音が遠く、呼吸は浅くなり足元が覚束ない。後になって、陽彩は思う。人の親として、これは全く以て無責任な言葉だった。たとえそれが致し方ない事だったのだとしても、只の理想論だったのだとしても、父親として、それは最善ではなかったのだ。
故に、返答が決して親へは口にしてはならないものであったとしても、それは仕方のない事だった。
──ごめんなさい。
──目醒めてしまってごめんなさい。
──生き残ってしまってごめんなさい。
───産まれてきて、生きていて、ごめんなさい。
目覚めは最悪であった。ユメに無理矢理叩き起こされ本来覚醒に至るまでの
時計を見れば、時刻は目覚めにはまだ少し早い。しかし二度寝をするような余裕はなく、かつ真野陽彩という男性はあまり二度寝をしない性質であった。仕方なしに重い躯を引きずりながらベッドを降り、ひとりぼっちの寝室を出る。そこで、思わぬ視線とかち合った。だが挨拶は自然と滑り落ちてくる。
「む。彩歌、おはよう」
「父さん。おはよう。今日は少し早いね」
ひらと手を振りながらの陽彩の挨拶に、彩歌は笑顔で以て返す。恐らくは彼も陽彩同様に起きてからそう経っていないのだろうが、その恰好は寝間着ではなく愛用の青いランニングウェアだ。これから日課のジョギングに出ると言う事なのだろう。
いつもの事だ。数年前から始まり、片手で数えられる程度しか欠かしたことのない、彼の習慣だ。いつもは陽彩が起床する前に出てしまうのだが、今日は偶然早起きしたために遭遇した形であった。
であれば、起床後に息子の顔を見る事ができたのは早起きは三文の徳の例と言うべきか。陽彩がそんな事を考えた刹那、甘い考えを窘めるように今朝の悪夢が浮上し泣き顔が今の表情と重なる。
もしもそれがただのユメであったならば、現実と
そのせいだろうか、それを認識した途端に形容しがたい混沌が陽彩の胸中で渦を巻いて、気づけば彼は息子の頭に手を伸ばしていた。掌に伝わる、柔らかな亜麻色の感触。久しく体験の無かった〝撫でられる〟という行為に、彩歌が困惑を覗かせる。
「父さん……? いきなりどうしたのさ」
「……何となくこうしたくなっただけだ。スキンシップというヤツだよ。いいから大人しく撫でられとけ」
「そんなムチャクチャな──うわぁ!?」
自身の無意識的な行動に対する羞恥のためだろうか、陽彩は掌に込める力をより強めて、彩歌が半ばつんのめる形になる。髪が乱れるー!! と悲鳴をあげる少年の表情は初めこそ年甲斐もなく撫でられている事への恥が見て取れたが、やがてそれは微笑へと変わった。そしてそれは陽彩にも伝播していく。
分かっている。彼の息子は今でこそこうして笑えているけれど以前はそうではなくて、その原因となっていた影は消えることなくその心に残り続けている。今の少年が笑えているのはただその影に慣れたに過ぎず、容易に再発し得る。丁度先日、発作という形でそれが起きたのだと、陽彩は詩音から聞き及んでいた。
父親としてそれを取り除いてやれればどれだけ良いか、と陽彩は思う。けれどそれは不可能だ。いくら親子いえど個人の精神に対する直接的な介入など人間の手には余る所業で、最終的な決定権は当人しか持ち得ない。詰まる所、人間の精神的な変質は当人にしか成し得ないのだ。そこに血縁は関係ない。
それでも、願ってしまう。祈ってしまう。いつか彩歌の心から影が立ち消えて、心底からの笑顔を浮かべてくれたのならばどれだけ良い事か、と。情けないと自覚しているが、陽彩は自身があくまでも
(情けない親父だけど、彩歌のために俺もできる事をしなきゃな……愛歌のためにも)
宗谷大雅にとって部活の朝練がある生活というのは慌ただしくはあれど苦ではないものであった。彼自身体力は相当にある方であるし、朝にも強い。なおかつ身体を動かすのも好きであるから、苦になる要素がある筈もない。
故に苛烈な練習を終えたばかりだというのに、教室へと立ち入った大雅の様子は疲労など一切覗かせない平常そのものであった。彼の来訪に気付いた友人達に挨拶を返しながら自らの席へと向かっていく。
大雅に与えられている席は窓際の一番前。そこまでの途上には、最近になってよく話すようになったクラスメイトたる高咲侑の席がある。見れば彼女は既に着席していて、イヤホンを装着しスマホと向き合っていた。であれば声が届かないかも知れないが、大雅はいつも通りに軽く挨拶を投げようと口を開く。
「高咲、おは───んん!?」
挨拶もそこそこに大雅の口から漏れたのはあまりにも間の抜けた驚愕の声。大した声量ではなかったが、それが耳に入ったのだろうか。侑は再生した動画を一時停止すると、イヤホンを外し大雅へと人の好い笑顔を向けた。
「おはよう、大雅くん。……どうしたの? すごくビックリした顔してるけど」
「あ、あぁ。
えぇとだな、大したコトじゃねぇんだけど……
そう口にしながら大雅が指したのは机上に表示された侑のスマホ、正確にはそれに表示された動画であった。中央に一時停止の表示を湛え全く静止したそれの中では、一対の腕がグランドピアノのものと思しき鍵盤を叩いている。侑が観ていたのがピアノの演奏動画である事は疑い様もない。
今でこそ大雅は度々侑と会話を交わすようになったとはいえ、その付き合いはあまり深くなく、日も浅い。故に彼には高咲侑という人間について新たに知った事がそうある訳でもなく、イメージは依然として〝スクールアイドルが大好きなクラスメイト〟という、その程度のものだ。先程の驚愕は、そんな彼女がスクールアイドル以外の動画も観ているという事に対してのものでもある。だが動画投稿サイトというのは様々なジャンルの動画で溢れていて、その内の何を見ていようとも個人の自由だ。故に驚愕の由来の大半は先の理由ではなく、その動画自体に起因する。
「その
「えっ!? 大雅くんも観てるの、〝さっちゃん〟の動画!?」
───観てるも何も、それの投稿者、
思わず発しかけたその言葉を大雅は声になる前に静止し、腹の底へと呑み下す。大雅は動画投稿者さっちゃんの正体を知っているから
偶発的な事であるとはいえ半ばショルダーハッキングじみた経緯であるからか、大雅の表情は何処か申し訳が無さそうだ。しかし対する侑はスマホを覗き見られた事を全く気にしていないようで、それどころか再度の同好の士の発見に瞳を爛々と輝かせている。
発端の立場こそ真逆ではあるが、その光景はさながら先日、大雅がせつ菜のライブ映像を観ている所を目撃された後の焼き直しのようだ。だが完全に同一という訳ではない。少なくとも話題に挙がっている対象についての知識においてならば、以前の場合とは異なり大雅にも相応のものがある。それこそ、無数にいる視聴者の内でも一番程度には。けれどあえてひけらかす意味もない。
「一応、今までにアップロードされた動画は全部観てるぜ。ま、流石にそこまで頻繁にってワケでもねぇけど」
「そうなんだ。なんだか意外かも」
「そうか? まぁ、そうかもな。……でも、意外に思ったのはオレもそうだ。オレはてっきり、こういう類ならアンタはスクールアイドルに
侑はすぐには大雅の言う〝こういう類〟という言葉の意味を推察しかねたが、会話の流れを振り返りそれがスクールアイドルやLTuberといったサブカルチャー、或いはインフルエンサーとでも言うべき人々を指しているのだと気づくのにそう時間はかからなかった。
そしてそれを口にした大雅の声色に冗談の気配はない。故にそれは全く過不足なく宗谷大雅の抱く高咲侑への印象であった。
決してスクールアイドル以外のインフルエンサーに興味のないように見えただとか、そういう事を言っているのではないのだろう。ただ、知らなかった、と。それだけの事だ。それが分かったからだろうか、返答する侑は表情こそ苦笑めいてはいるが声は弾んでいる。
「勿論、スクールアイドルは大好きだよ! 歩夢やせつ菜ちゃん、同好会のみんな、ひとりだけなんて選べないくらい大好き!!
でも、スクールアイドルじゃなくても、誰かに夢を与えている人がいる。自分の大好きを叫んで、夢に向かって一生懸命な人がいる。それって、とっても素敵な事だと思うんだ」
「───夢、か」
呟く声は、さながら反芻のように。声帯を震わせ音声として体外に漏らしているというのに、それは誰に対する呼びかけでもなく彼自身の裡に向けられたものであった。耳朶に落ちてきた侑の言葉を嚙み砕き、落とし込むための行程だ。
大雅は侑との付き合いをそう深くするつもりもなく、彼女に対する興味というのも友人への一般的なそれと大差はない。故に彼は侑の全てを知っている訳でもなく、不必要に知る気もない。先の未知がその証明だ。
だが、何もかも未知という訳ではない。少なくとも、こういう場合において高咲侑という少女は嘘を吐かない。そもそも嘘を吐く理由がない。ならば、そこに疑いを差し挟む余地はない。
「大雅くん? どうかした?」
「……いや、何でもない。そうか、夢か。
アンタからオマエへ。大雅の二人称代名詞が変化したことに、侑はおろか大雅自身もさしたる違和を感じていないようだった。彼の口の端に浮かんでいるのは笑みであり、半ば脈絡の感じられないそれに侑が困惑を見せた。けれど頷きには肯定の意が込められている。
「うん。……何かおかしなコト言ったかな、私」
「ンいや? オレも概ね同意見。だからオマエがおかしかろうとオレに詰る権利はねぇし、まず絶対におかしくなんてねぇよ。
……あぁ、でも、本当にイイ
そう言いながら侑を見る大雅の表情は微笑。ひどく端整な顔立ちをした少年がそういう表情をしているというのはとても画になろうが、それ自体は侑の精神に何ら影響を与えるものではない。だというのに彼女の反応が一拍遅れてしまったのは、大雅の微笑の裡に何か別の感情を見たが為であった。
それは笑みの中に在る影のように明確な輪郭を持たないものであったが、あえて形容するならば寂寞、或いは旧懐だろうか。
しかし、不可解である。侑が大雅と真面に会話をするようになったのはつい最近の事であるから、彼女には大雅から懐かしまれるような謂れはない筈なのだ。であれば彼の懐古とは侑へと向けられたものではなく、彼女を通して見ている別の誰かへのものか。だが侑はそれ以上の詮索はせず、代わりに諧謔の笑みを投げ掛けた。
「大雅くんも、良い表情してる」
「マジ? ハハッ、そんな表情してたか、オレ。だが……」
そこで一旦言葉を区切り、大雅は席を立つ。どうしたのかと彼の様子を見ればどうやら席の主が登校してきたようで、その生徒に軽い謝罪を告げている。実質的に無断で使っていたが故に半ば当然の事だが、相手は気にしていないようである。或いはそれは周囲に対して大雅が築いた信用の表れでもあるのだろうか。
そうして席を離れた大雅は数拍を置き、先の続きを吐露する。まるでばつの悪さを誤魔化す子供のようにはにかみながら。
「好きなんだよ。誰かが夢を語ったり、好きなものの話をする時の表情が。だからかもな」
歯の浮くような
ならば、それは紛れもなく真実だ。人間、誰しも彼の言うそれを好ましく思う事はあろうが、大雅は〝好ましい〟ではなく〝好き〟と言い切る。その二者は似ているようで、明確に異なるものでもあろう。好感と好意ではその規模や感触まで違うのだから。
そしてその返答を受けた侑は思う。明確な根拠はないけれど、大雅のこの方向性を決定づけたのは彩歌なのではないか、と。彼は以前、侑の雰囲気が昔の彩歌に似ていると、そういった。その時もまるで懐かしむような顔をしていて、となれば無関係というのも考えにくい。
しかしそれはあえて口にするべきでもない気がして、侑は代わりに茶化すように言う。
「なんか、愛の告白みたいだねっ」
「告白ぅ? オイオイ、やめてくれよ。精々がガキの痴れ事だろ、こんなん」
そんな遣り取りを交わし、ふたりは共に笑声を漏らす。余人からすれば不可解な笑みであろうが、彼らにとってそれは互いの諧謔の交感、或いは他者理解の証明であった。不可解であるのも致し方ないというものだろう。
そうして不意に時計を見れば、間も無く朝のSHRの時刻であった。それを認めた大雅はその旨を侑に告げて席を離れ、挨拶代わりにひらと手を振り合う。そのまま彼は自らの席に着いて一通りの準備を整えると、ほう、とひとつ息を吐いた。
(なんか、柄にもなく自分語りしちまったな。───いや、しかし……)
そう独り言ちながら彼の記憶の焦点は先の自身の行動への反省からその少し前、侑との会話が始まるに至った切っ掛けへと移り変わる。
知人が自身も観ている活動者の動画を観ているというのは、何もおかしな事ではない。メジャーな動画投稿サイトに投稿されている以上、それは誰の目にも触れる可能性があるのだから。だが大雅も何もひとりの動画を観る訳ではなく、むしろ様々な種類の動画を観る方であった。だというのに、よりにもよって
(……世間って、狭いんだな……)
あまりにも陳腐な表現だ。しかしそれが、大雅の内心を表す最も適切な形容でもあった。