渺々とした蒼穹に、白く悠々とした積雲が浮かんでいる。青々とした芝生を戦がせる風が運んでくるのは微かな海原の匂いであり、時折視界の内を数人の生徒が談笑しながら駆けていく。そんな長閑を絵に描いたかのような放課後、
手には付近の自販機で購入した
ロックや演歌、或いはアニメソング、アイドルソング。彩歌のスマホにはジャンルを問わず様々な曲が保存されているが、現在再生されているのは洋楽である。若干14歳にして天才とまで称される、アメリカ在住のとある作曲家の曲だ。彩歌は彼女が作った曲のファンであった。
そんな曲を聴きながら完全に自分独りの世界にはまっている所為だろうか、心底に押し込めた認識外の領域にて内圧は次第に高まっていき、洩れ出た熱は無意識に染み入ってゆく。やがては自ずと口を開きかけ──
「───ひょわぁっ!?」
──しかし、歌声が紡がれる事はなかった。肺から押し出された空気が声帯を震わせる直前、唐突に頬に冷感が奔り情けない悲鳴に切り替わったのである。驚愕も凄まじかったのか、僅かに飛び跳ねてしまっている。
そうして弾かれるようにして冷感を押し付けられた方に視線を移せば、果たしてそこにいたのは侑であった。既に同好会の活動準備を済ませた状態であるのか、学校指定の半袖ジャージの上から長袖ジャージを腕を通さずに羽織るという何とも珍妙な格好である。その手にはミネラルウォーターのボトルが握られ、端整な顔には悪戯な笑みを浮かべている。
「なんだ、高咲さんかぁ。びっくりしたなぁ、もう……」
「あはは、ゴメンゴメン」
相手が決して不審な者ではないと分かって安心したのか大きく息を吐く彩歌と、笑いながら謝る侑。そのまま彼女はごく自然な動作で彩歌の隣、丁度ひとり分の空白に腰を下ろし、彩歌はそれに合わせて侑との距離を少々空ける。
流石にそれに気付かない侑ではなく、神妙な表情で彩歌を見るが彼は未だ羞恥の様相を浮かべていて、何らおかしな所はない。自身の心理を切り替えるように、咳払いをひとつ。
「こほん。……久しぶりだね、高咲さん。同好会の活動はこれからかい?」
「うん、そうだよ。今は飲み物がなくなっちゃったから、買いに来たんだ」
彩歌の問いに答えてから、侑はペットボトルに口を付ける。彩歌の言葉通り、ふたりが直接対面するのは久方ぶりであった。せつ菜の復帰ライブ、及び屋上からの撤退後に当時の同好会メンバーと彩歌で軽く会話をした時が最後であるから、数週間ぶりである。
詰まる所、それは彩歌が侑やかすみに余計な迷惑をかけてしまって以来、これが初の邂逅という事になる。それを認めるや否や、彩歌の胸中に当時と同質の混沌が再来する。それは少女らへの感謝であり、罪悪であり、かつ自罰。だがそれらを告げたとしても言い訳や自己満足にしかなり得ず、かつ先に口を開いたのは侑であった。
「彩歌くんは? もしかして、これからピアノの練習?」
「うん。もう少しでコンクールだからね。自分でも結構練習してきたつもりだけど……こういうのは、いくらやっても充分にはならないものだしね」
「コンクール……彩歌くん、コンクールに出るんだ」
感嘆のような侑の呟きに、彩歌は無言で首肯を返す。侑と遭遇する前は全く脱力していた彼だが、完全にサボりを決め込んでいたのではない。授業から練習に移行するまでの、一種の小休止であった。
しかし小休止を置いているとはいえ、彩歌は過剰な余裕を持っている訳ではない。何しろ近日行われるのはあくまでも東京予選のようなものであり、よしんば入賞できたとしても後に全国大会があるのだから。過分な余裕など、持てる筈もない。
それでも休憩を挟んでいるのはそれが自分の過去を由来とする反省であるからだ。嘗て周囲はおろか己すら省みずに狂気的とさえ評される程に打ち込んだ経験を持つ彼は、その結果として破綻が現出し得る事を知っている。それが故の間隙。つまりはそれは彼なりの自己保全、自己管理、自己補完であるのだ。
尤もそんな事はあえて侑に言うようなものではなく、彩歌が語ったのはコンクールについての簡単な概略のみだ。誇張も矮小化もない、ただの事実。けれど侑にとっては、十分に興味を惹かれるものであった。
「そうなんだ……凄いなぁ……!
そうだ、私もそのコンクール、観に行ってもいいかなっ?」
歌詞かに彩歌の方に身を乗り出し、食い気味の姿勢で侑はそう問いを投げる。その瞳はスクールアイドルのライブを目の当たりにした時のそれを思わせる程に輝いていて、だからだろうか、彩歌が初めに覚えたのは困惑であった。
彼自身、侑のそれに見覚えがない訳ではない。彼がCHASE! を歌っていた際の、初めて遭遇した時。或いは音楽室にて出会った時。彼は二度、その瞳を向けられている。けれど、分からない。果たして自身には、その瞳を向けられて良い権利があるのか。そんな疑念を、彼は心底に棄却する。そうして覗かせたのは微笑。
「それを決めていい理由は、俺にはないよ」
或いは拒絶とも解釈できるような、持って回った物言いである。しかし彩歌の表情はあくまでも友好的であり、侑に対する拒否の情は何処にも在りはしない。自らに決定権が無いというのは、彼なりの首肯、放任であった。彩歌とて、自身の演奏に興味を持たれている事について思う所がない訳ではないのだ。
「でも、キミがピアノに興味がある事は知っていたけど……もしかして、練習続けてたりするのかい?」
「うん。実はそうなんだよね。最近は貰った楽譜ナシでも弾けるようになってきたんだぁ。……あっ。歩夢にはナイショね。もっと上手くなってから言いたいから」
そう言いながら侑は自身の唇の前で人差し指を立て、彩歌に向けて微笑んでみせる。彼女の言う通りその仕草は彼へと守秘を求めるもので、あえて断る理由もない彼は鷹揚に頷いた。
ピアノの練習をしているのを歩夢に対して秘密にしている理由までは、彩歌には分からない。だがその守秘というのは侑にとっては歩夢が特別な存在であるが故の事だというのは、彼にも理解できる。でなければこうも笑顔で彼女の話をする筈がない。
そしてそれはともすれば夢の萌芽とさえ形容できる思いだ。コンクールに興味を示しているというのも演奏を聴くだけなのではなく、他者の技術を自らに取り入れんとする貪欲の片鱗とも見て取れる。ともあれ、彩歌の目から見て侑のそれは、他者の介在しない能動の証明であった。
「そっか。……夢のために頑張ってるんだね、皆」
「えへへ、ありがとっ。……でも、私のはまだ、夢って言えるものじゃあ……」
「ううん、そんな事ないよ。行動を起こしているだけで、それは尊敬に値する事だと思う。
それに前にキミが言っていた〝夢に向かって頑張っている人を応援したい〟、〝夢が見たい〟っていうのも、立派な夢だと俺は思うよ」
夢を見たいという夢。言葉にすると矛盾しているようではあるが、自らの将来の在り方への希求という点においてはそれは紛れもなく夢であると言えるだろう。少なくとも彩歌にとって、侑の望みはそう見えるのだ。
温順な声音で語る彩歌。侑へと向けられた彼の瞳に宿るのは柔らかな光であり、それは何処か憧憬、敬仰のようすらある。であれば先の発言が真である事は疑い様もない。最早回避する事も出来ず、侑が顔を紅潮させる。
「もうっ、そんな事を言っても何も出ないよ?」
「別に見返り欲しさに世辞を言ってるワケじゃあないさ。ただの俺の感想、所感だよ」
冗談めかした照れ隠しにも、返す声音は至って真面目である。自身の言をあえて低めるような言い方は、彼の親友にも通ずるものがあろう。だがその気配に気づくような余裕は、侑にはなかった。
自身の裡に在る
柳に風の如くに回避する事も許されず、ノイズが飽和し麻痺する思考回路。〝私なんて〟を剥奪され、侑は返答に惑う。卑下という退路を先回りされたが故の
「ピアノだって、たとえ今は夢と言える強い方向性でなくても、貴いモノに違いはない。……あぁ、本当に眩しいよ、キミ達は」
「うぅ、べた褒めだぁ。何だか照れる……」
紅潮した自身の頬を両手で挟みながら、侑はそう零す。それは逃げ道を塞がれたが故の、高咲侑という少女としては稀有な反応であったが彩歌には与り知らぬ事である。彼は優しく、同時に何処か悲し気な微笑で侑を見ているのみだ。その合一を形容するのならば、懐古と言うが正しいだろうか。
その懐郷は、侑そのものへと向けられたものではない。彩歌が侑と知り合ったのは今年に入ってからそれ以前には面識もないのだから、それも全く当然の事だろう。だが同一のものを志望する者として、それは共感にも近い感情であった。
「今やりたい事を通して……キミは
独白のような呟きだ。ともすれば誰に聞き届けられることもなく拡散してしまいそうな程に細々としたそれは、しかし完全に掻き消えるより早くに侑の耳朶に触れてその意識を引きつける。
羨望。憧憬。鑽仰。それらがない交ぜになった声色を、侑は一瞬己に対して向けられたものであると認識できなかった。何故ならそれは、侑が彩歌に抱いている感情と近似していたから。逆に自分がそれを向けられ得ると、想像もしていなかったのだ。加えて、まるで〝自分はそうではない〟とでも言わんばかりの声色もまたそうだ。
『真野彩歌』という少年の事について、侑は多くを知っている訳ではない。それは以前から今に至るまで変わらない事実だ。故に先の発言について、その裏に潜む意思を彼女は推測できる材料を持たない。だが、
「ねぇ。彩歌くんはさ、どうして音楽を始めたの?」
「え……何だい突然?」
些か唐突にも思える侑の問いに、訝しんだ様子で彩歌はそう言葉を返す。平素の飄逸とした態度が崩れたその様は彼が侑の意図を測りきれていない証であるが、対する侑は「何だか気になって」と返すのみだ。反駁を呑み下し、代わりに吐き出したのは返答である。
「……実の所、正確に切っ掛けを覚えてるワケじゃあないんだ。物心付いた頃にはもう始めていて、当たり前の日常になっていたから。でも、間違いなく両親の影響だね。それだけは確信できる」
「両親……?」
問い返す侑に、彩歌は無言で首肯する。そうして缶コーヒーを傾ければ、先程までは冷たかった筈のコーヒーはいつの間にか温くなっていた。残りを一息に飲み干し空になったそれに視線を落としながら、言葉を続ける。
「自分で言うのも変かもだけど、俺の家は所謂音楽一家みたいなものでね。……母はピアノ講師、父は元アイドルで、そのせいか
「そうなんだ……って、元アイドル!?」
「うん。〝真野陽彩〟って、聞いた事ない?」
「あるかも。確か……〝昭和一のスーパーアイドル〟とか〝カラフルスター〟とか言われてる、あの人?」
侑の問いに、頷きを返す彩歌。侑はスクールアイドルに出会うまでアイドルというものにそこまで強い興味を持っていた訳ではないが、そんな彼女でも聞き覚えのある名前だった。〝カラフルスター〟というのは、如何なる色・形態の衣装でも完璧に着こなしてパフォーマンスをしてのけた事から付いた異名である。他にも〝虹彩のエンターテイナー〟という二つ名もテレビ番組で紹介されていたのを、彼女は朧気にではあるが覚えている。
しかしいくら有名であっても、30年近く昔が全盛であった人物である。顔の造作が判然とせずにスマホで検索を行い、表示された結果に侑が驚愕する。検索結果として現れた画像に映っていたのは煌びやかな衣装を纏っている事と黒髪黒目である事を除けば、彩歌と殆ど瓜二つの人物であったのだから、それも致し方ない事であろう。思わず画像と彩歌を何度も交互に見て、その仕草に彩歌が微笑を漏らす。
「父がそんな感じだから、家にも記録映像の類が結構あって。古い映像だから画質も相応に悪いけど、それでも分かるくらいに観客は笑顔だった。父達の歌が……皆を笑顔にしていたんだ」
声音はさながら謳うように。表情は年相応の少年らしい無垢な懐古のそれであり、眼光には尊敬と敬愛が宿っている。その様子だけでも彼ら父子の仲が良好であり、彩歌が心から父を尊敬していると察するには十分だ。それが微笑ましくて、柔和な表情で侑は続きを促した。
「そっか。何だか、凄いなぁ。……お母さんは? どんな人なの?」
「母は……」
不自然な箇所で区切られた返答は、まるで吐息のようだ。その刹那の間のみ彩歌の表情が歪んだのを侑は見逃さず、しかし即座に彼の様子は元のそれに立ち戻る。そこに演技の気配はない。併存する情動が競合した結果であった。
「母は俺とは比較にならないくらいピアノが上手くて、それ以上に、音楽が大好きな人だった。だからかな、母が演奏する周りでは、生徒も観客も、皆が笑ってた。
俺はそんな両親に憧れて……だから〝俺の音楽で皆を笑顔にしたい〟って、そう思ってた。それまで漫然と続けていた俺にとっては、それは始めた理由になるのかも知れない。……ごめんね、あんまり面白い話じゃなくて」
そう言って、彩歌は自嘲的に笑う。両親に憧れ、自らもそのように在りたいと願う。その両親の経歴を度外視すれば、彩歌の返答は親を尊敬する子供としてはあまりにもありふれて、平凡な在り方だ。
だがそれを普通だ平凡だと嗤う人間性を、侑はしていない。彼女自身の自認はどうあれ彼女に一度救われている彩歌がそれを知らぬ筈もなく、それなのにそう口にしてしまったのは、或いはそれが彼の自身への評であるからか、それともその経緯自体は極々ありふれたものであるからか。彼の自嘲をどのように受け取ったのか定かではないまま、侑は首を横に振る。
「訊いたのは私なんだから、気にしないで。つまらなくなんてなかったし、それに友達の事をもっと知れるのは、私も嬉しいから!」
そう告げる侑の屈託のない笑顔は、さながら太陽のようだ。そこに気遣いや遠慮、詐術の気配はなく、そこに由来する心底からの真摯は彩歌が独善の呵責を抱く余地さえも残していない。
分かっていた筈だ。それが偽りなく表現された己自身であるのならば、高咲侑は否定しない。歌であれ、音色であれ、ただの言葉であれ。そして先の彩歌の言葉に嘘はなく、ならば彼女が否定する筈もない。或いはそれは、以前に彩歌の音楽を聴いた事があったが故でもあるのか。
自分の音楽で皆を笑顔にしたい。それが今の彩歌の起源であり、嘗て耳にした旋律と歌はそれに違わぬものであるように侑には思えたのだ。
「音楽で皆を笑顔にする。それが、彩歌くんの夢なんだね」
「夢……か。さて、どうだろうね。……でも、これでは言える」
はぐらかすように肩を竦め、瞑目をひとつ。それから彩歌は徐に立ち上がると、手に持っていた空き缶を唐突に付近のゴミ箱に向けて軽く蹴り飛ばした。宙へと投げ出された缶はそのまま重力と慣性に従って鮮やかな放物線を描き、ゴミ箱の淵に跳ね返されてタイルとモルタルからなる地を転がる。惜しい、と悔しそうな一言。
無論、そのままにしておく筈もない。転がった空き缶を拾い上げ、今度こそゴミ箱に収める彩歌。そうして、侑の方へ向き直った。その顔に浮かんでいるのは何の変哲もない薄い微笑である。それなのに、何故だろうか。侑には何処か哀哭のようにも見えた。
己の音楽で皆を笑顔にする。侑はそれを、彩歌の夢と言った。確かに嘗ての自分なら一も二もなく肯定していただろう、と彩歌は思う。だが、今は違う。違わなければならないのだ。
それでも、為さねばならない。為し続けなければならない。本来ならば彼は音楽を続けている事すら烏滸がましい人間で、それなのに続けている理由は、ただひとつ。
「それが今の俺がやりたい事……やらなきゃいけない事で、果たさなきゃいけない”責任”なんだ」
「さっちゃんって、かなり料理上手くなったわよね」
彩歌の目前にて神妙な表情の詩音がそんな言葉を零したのは、彼が放課後偶然に侑と出会った日の夜、夕食の為にふたりが卓を囲んでいた時の事であった。レッスンが終わってからの食事であるため時刻は遅めではあるが、陽彩はいない。まだ仕事が終わっていないのである。
空腹のために無言でカツ丼──仕込みから完成まで全て彩歌が行ったものである──をがっつこうとしていた彩歌は詩音の意図が読めず、訝しむような様子で問いを返す。
「……何さ、いきなり」
「何って、別に、言葉通りの意味よ? 昔はホラ、卵焼きを黒焦げにしちゃったり、塩と砂糖を間違えたりしてたじゃない。それが今では店で出しても恥ずかしくないくらいになってるんだもの」
「店って、それは買い被り過ぎだよ。というか、昔の事は言わないで……」
思いがけず過去の醜態を掘り返され、羞恥のために紅潮する彩歌。今でこそそれなりの料理の腕前を誇る彼だが、作るようになった当初の有様はそれはそれは酷いものであった。元は愛歌が亡くなったことで彼女と陽彩で分担していた家事を父子で再分配した際に自ら買って出たのだが、初めから真面なものを作れる訳ではなかったのだ。
その頃と比べれば、現在の成長は相当なものだ。能力の初期値はどう見積もっても平均か、或いはそれにすら至っていないレベルだった筈が今では上澄みとも形容できる程にまで達している。そしてそれは、何も料理においてだけではなかった。
「思えば、ピアノや歌もあんたはそんな感じだったわね。それが今じゃネットで大人気の配信者で、ピアノでは全国を狙おうというのだもの。凄い成長ぶりだわ」
「褒められているのか貶されているのか……後者だとしても事実だから言い返せないっ……」
ぐぬぬ、と悔しそうに彩歌は歯噛みする。だがそこに本気の怒りはなく、であれば彼らの遣り取りというのは付き合いが長いが故の遠慮の無さを由来とするものであった。何しろ詩音は彩歌が産声をあげたばかりの頃から彼を知っていて、彩歌にとって詩音は幼い頃から時折面倒を見てくれていた相手なのだから、その距離の近さも半ば当然のものであろう。
故に詩音は彩歌の弱点などについても知り尽くしていて、事実であるために彼は言い返す事ができない。反抗の代わりとでも言うかのように乱暴に一切れのカツを咀嚼、嚥下し、呟く。
「俺には先生みたいな共感覚も、母さんみたいな絶対音感も、父さんみたいな天性の
いじけたように、或いは当たり前の事実を改めて吐き出すように。努力を重ねれば成長するというのは、全く当然の事だ。少なくとも真野彩歌という少年の人生は、今までその原則の中に在った。
子供というのは人により程度の差こそあれど大人の背中を見ながら成長するものだ。その点で言うならば、彩歌にとって身近な大人の背中はあまりにも大きいものだった。師は世界的に有名なピアニストであり、父は元々は超が付くほどに高名なアイドルである。唯一対外的な肩書として著名なものを持たない母も、最も身近であるが故に存在は強く、絶対音感という特殊性を備える人でもあって、そんな中で彩歌はただひとり何も持たずに生まれた者だった。
だからこそ、努力した。何も持たぬからこそ、手に入れるために足掻いた。彩歌にとって努力とは身に付けた過程を後から指す言葉であり、自己の艱難辛苦を労うものではない。故に彼は分からないのだ。努力すれば身に付くというのは、誰でも発する事ができる訳ではないのだと。十の労を必要とされれば、二十の労を以てこれを踏破する。彼は常にそうしてきたのだから。彼にとっては、それが自然な事だ。
なればその類稀なまでの克己心、自律心こそが、彩歌に与えられた最大の才であるのかも知れない。だが、強すぎるそれらは時として主に不利益を齎す事もある。サングラスを外し、詩音が口を開く。
「確かに、あんたはそういう子だったわね。あたしの技術もどんどん吸収してるし、案外、あたしが教えられることもすぐ無くなっちゃうのかもね。
……でもね、さっちゃん。覚えてる? 愛歌の口癖」
「……音楽は、まず自分が楽しまなければならない。覚えてるよ。忘れる筈がない」
彩歌の返答に、詩音が無言で頷きを返す。けれど、それの何が“でも”なのか。詩音はそれを彩歌に語らず、しかし彼は言葉にされない師の意図を汲み取った。その交感は皮肉にも、彼らが共有してきた10年を超える時間が齎す理解より来たるものであった。
あえて今愛歌の口癖を彩歌に問うたのは即ち、確認なのだ。それを受けて彩歌は確信する。やはり、見抜かれている。元より共感覚を有する詩音に隠し通す事ができる筈もないとは彼も分かっていたが、心根まで見透かされているような目を向けられて動揺を抱かない程豪胆ではなかった。
“今、彩歌は自分の音楽を楽しめているか?” 言外の問いを読み取り、飲み下し、観念したかのような深い吐息の後、絞り出すような声で彩歌は答えを返した。耳朶の奥で鳴り響く雨音から、必死に意識を逸らしながら。
「でも俺には……もう、その"権利"はないよ」