【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第19話 ソノ気持ちは健在なりや?

 東京湾を臨む海沿いに屹立する、何処か荘厳ささえ漂わせる巨大な市民ホール。その陰、丁度道路からは見えない位置に隠れるようにして、幼い少年が泣いている。幼童らしく感情を爆発させている訳でなく何かを堪えているかのように時折肩を震わせしゃくりあげるその様子は小学生にも至らぬ年の頃にしては大人びても見えようが、代わりとばかりに滂沱の如く伝う涙と鼻汁がその印象を全く打ち消してしまっている。

 

 少年──彩歌は己のそんな有様を自覚しているのか仕立ての良いジャケットの袖が汚れるのも構わず乱暴に顔を拭うが、それでも涙と鼻水は留まる所を知らず流れ落ちていく。だが泣き腫らし充血した瞳が湛えるのは悲しみだけではなく困惑や慚愧、その他いくつもの感情が綯い交ぜになった混沌で、幼い彩歌にはそれの名前さえ分からない。

 

 生まれて初めて参加したコンクールにて入賞さえできなかったという結果。入賞者達と比べて実力が足りなかったという原因。人並み以上に好奇心旺盛ながら同時に聡明な子供でもあった彩歌にはそれらが己の前にある全てだと言語化はできないまでも理解はできていて、それなのに感情が理性と同期しない。それどころか感情が身体を支配して、今でもこうして滂沱している。

 

 既に確定した現実だ。記憶の中に過ぎ去り、最早変えようもない過去だ。そもそもとして彼この結果を不当とは思ってもいないし、他の参加者の演奏に感嘆さえした。それなのにこれだ。あまりに矛盾している。彼自身も訳が分からなくて、けれど泣いている所を両親に見られては心配をかけてしまうと衝動的に隠れてしまった。皮肉にもそれだけは、理性と感情の判断の一致であった。

 

 だが、全くの子供の浅知恵である。冷静でなかったとはいえ、見つかりたくないのならただ建物の陰に隠れるだけで十全である筈もなく、そもそも息子が唐突にいなくなれば心配すると冷静ならば気づけた筈だ。すぐに無為になると知りながら涙を拭い続ける彩歌の背後から、声。

 

「見つけた。こんな所にいたんだね、彩歌。お父さんも心配してたよ?」

「! ……お母さん……」

 

 弾かれるようにして肩を震わせ、思わず聞き知った声の方へ視線を遣る彩歌。果たしてその先にいたのは、彼の母たる女性〝真野愛歌(まなか)〟であった。既に齢30を超えているとは思えない程に端整な顔には微笑が浮かんでいるものの肌には少々の汗が浮かび、彩歌と同じ色をした、腰程もある長い髪は僅かに乱れている。どうやら平静を装ってはいるものの、その実必死に彩歌を探していたようであった。その理由は心配であったからに他ならない。

 

 であれば微笑の由来というのは、息子を見つけた事による安堵だろうか。だが彩歌の涙に気付くや、はっとした表情に代わり、次いでそれは何かを悟ったような、或いは苦笑のような優しい笑みに立ち戻る。ごく自然な所作でしゃがみ込み、愛歌が彩歌と視線を合わせた。

 

「あらあら。こんなに泣き腫らして、可愛い顔が台無しだよ? ……どうして泣いてるのか、お母さんに話してみて」

「……分かんない。分かんないよ……」

 

 身体中の水分が枯れ果てんばかりに泣いているというのに、本人ですら涙の理由が分からない。全く答えになっていないが愛歌は何も強要せず、慈愛の籠った瑠璃色の瞳で彩歌を見つめている。経験の差によるものだろうか、彩歌自身以上に彼の信条を察しながらそれを肯定し、彼の口から語られるのを待っているかのようだ。そんな母を前に、遂に彩歌はしゃくりあげながらも必死に言葉を探し始める。

 

 曰く、悲しくはないのだ、と。やはりいくら反芻しても彩歌は他の参加者の演奏に感動していたし、それは今も変わらない。結果に不満がある訳でも、やはりない。入賞できなかったのは自身の実力が足りなかったという、ただそれだけの純然たる事実に立脚する結果なのだから。

 

 だが、いや、だからこそ、何かが彩歌の胸の内につっかえている。勝てなかった。誰かを笑顔にできなかった。自分が音楽を続けているのは父や母のお陰であるのに、何も返せなかった。その事実を前にすると胸中に激情が溢れてきて、こうして隠れて泣いてしまった。

 

 泣いているが故につっかえながらの彩歌の言葉を、愛歌は頷きながらも黙って聞いている。そうして彩歌が内心を吐露しきると、それに応えるようにしてようやく口を開いた。

 

「そっか……きっと悔しいんだね、彩歌は」

「くやしい……」

 

 悔しい。悔しい。母の言葉を舌の上で転がすように、彩歌は何度か譫言めいた調子で繰り返す。その表情は告げられた瞬間こそ虚を衝かれたようであったが、次第に納得へと変わっていく。まるでたった今その感情の名を理解したかのように。

 

 無論、彩歌とてそれまで悔しさを覚えた事がない訳ではない。ピアノにおいてはなかなかミスを修正できない時。歌であれば思ったような音が出せなかった時。父から習っていたダンスであればステップを間違ってしまった時。彼は確かな悔しさを感じていて、しかしそれは自分に打ち克てないが故のものだった。詰まる所彼にとって悔しさというのは自身で完結するものであり、音楽を他者と比する事による悔しさというのは発想の外であったのだ。母の経営する音楽教室に通う生徒達とは少なくとも彩歌は比較するような事はしていなかったのだから、半ば当然の帰結である。

 

 けれど愛歌から激情の名を告げられ、幼子なりに考えて自ら定義した。そしてそれのために困惑は気付きに転じ、しかし涙は止まらない。むしろ悔しさを自覚したことで滂沱はよりその勢いを増してしまいそうで、しかし彩歌は乱暴にそれを拭った。涙の跡ははっきりと残ているが表情に先の困惑はなく、代わりに決意めいた色が立ち入っている。それから何かを見て取ったのか、愛歌が無言で頷いた。

 

「ん。いい表情(カオ)だ。やっぱり彩歌には、そういう表情の方が似合うね」

「えへへ、ありがとう。……うん、おれ、きっとくやしいんだ。……入賞できなかった。お母さんとお父さんに、何もかえせなかった。おれがほかのひとより上手くなかったって、それだけだけど……」

 

 彩歌の述懐にも、愛歌はやはり何も言わない。慰めもお為ごかしも、彼女が発することはない。真野愛歌という女性は優しい母であったが、同時に自他関わらない厳格さを備える人でもあった。彩歌に年齢不相応な現実主義者(リアリスト)の一面があったのは、彼女の影響でもあるのだろう。

 

 自身の教導も足りなかった。そう愛歌は自省する。だが彼女はあえて彩歌に先回りして逃げ道を用意する事はしない。それは卑怯でもあろうが、同時に息子の成長に対する最大限の信任でもあった。

 

 愛歌が待つ前で、でも、と彩歌は言葉を続ける。

 

「もうぜったいに負けない。次こそ入賞してみせるよ。もっと練習して、もっともっと上手くなって、みんなを笑顔にしてみせるんだ!」

 

 幼さを残す短い腕を目一杯に広げ、高らかに宣言するかのように彩歌が言う。その頬には涙の跡が浮かび目は充血して赤いままだが、満面の笑みに影の気配はない。悔しさを糧へと転化させた者の姿がそこにはあった。

 

 自身の音楽で、皆を笑顔にする。文字通りに受け取るのならばあまりにも突飛で大それた願いだ。ともすれば幼さが齎す蒙昧が故の戯言と一笑に伏されてしまいそうな。だが歌う彩歌の瞳はあくまでも真っ直ぐで、自身の夢を叶えんとする気概に満ちている。

 

 そしてそれは何も幼気な自己顕示欲と承認欲から来るものではなく、自身の“大好き”を叫び、本当に皆に笑顔になって欲しいという純粋な希望(ねがい)だ。本当に音楽が大好きだからこそ芽生える思いだ。宣言を受け取り、愛歌が彩歌の頭を撫でる。

 

「うん、その意気だ。その気持ちを忘れず練習を続ければ、夢はきっと叶うよ。なんたって彩歌は頑張り屋だし、私と陽彩君の自慢の息子だからね」

 

 そう言いながらもまだ、愛歌は彼女とよく似た彩歌の亜麻色の髪を撫でている。コンクールのために整えた髪型が崩れてしまいそうな程にそうしているのは、或いは歓喜に綻ぶ自らの表情を隠すための、ある種の照れ隠しであろうか。自分や夫の大好きなものを、子供も心の底から好きでいてくれる。それだけでも望外の幸福だというのに、夢でもあるなどと。幸福でありすぎていっそユメなのではないかとさえ疑ってしまう程であった。

 

 だがあまりの果報の飽和に現実感を喪ってしまいそうだとしても、これは紛れもない現実だ。故にこれ以上撫で続けているといい加減鬱陶しがられてしまいそうで、漸く自嘲した愛歌が手を離す。そうして彩歌は乱れた髪を軽い手櫛で直し、次いで母に悪戯な笑みを向ける。その意図が読めず、愛歌が首を傾げた。いったいどうしたのか、と。

 

「えへへ、お母さんとお父さんはホントになかよしなんだなぁって、それだけ!」

「ええっ!? そりゃあ、私と陽彩君の仲が良いのは当然だけど……」

 

 息子の思わぬ発言にそれまでの冷静な気配を崩し、頬を紅潮させ含羞の声音を漏らす愛歌。彼女は知らないのだ。彼女のいない所で陽彩も全く同じことを彩歌に言っていた事を。その間に彩歌は彼女の肩越し何かを見つけたようで、未だ涙の跡が残る顔をより綻ばせた。反射的に愛歌がその視線を追ってみれば、その先にいたのは陽彩であった。彩歌が飛び出した後に愛歌と手分けして探していた陽彩だが、愛歌からも連絡がないため彼女の方にも来たのだろう。

 

 ふたりに気付いた陽彩はその傍まで駆け寄るとまずは愛歌に礼と謝罪をしてから彩歌を叱る。何故叱られているのかこの期に及んで理解できない程彩歌は子供でもなく、謝罪と反省は素直だ。よし、と言い、陽彩が彩歌の頭を撫でる。

 

 へへへ、とはにかむ彩歌。その表情は滂沱の名残こそあるものの悔しさに振り回されている気配は既に立ち消えている。忘れたのではない。自身の胸中に在る混沌が悔しさだと定義し、呑み下した者の笑みがそこにはあった。それを見て、愛歌が安堵の籠った吐息を漏らす。

 

 それを知ってか知らずか、陽彩と手を繋いだ彩歌が笑顔で愛歌にも手を伸ばした。その手を取り、息子を挟んで家族3人で家路に着く。ピアノも歌もまだまだ頑張ろう、だとか。今日の夕飯は何にしよう、だとか。そんな、直近から先々までの未来の話をしながら。

 

 ───この時、真野彩歌5歳。未だ彼は6歳の頃に1年前と同じコンクールで最高の賞を取ることも、それより更に先の未来にて幸福の回想に痛みと雨音を伴う事になる事さえ、知らない。

 


 

『いよいよ明日ですね!』

 

 開口一番の明朗快活な声。彩歌の許に菜々、もといせつ菜から通話があったのは彼が1日の予定を全て終えて、自室に戻ってきた少し後の事であった。彼女の言ういよいよ明日というのは他でもない、彼が出場するピアノコンクールの東京大会である。

 

 ふたりは同じ学校で通っているとはいえ学部が異なり、またそれぞれに忙しい身の上であるからこの数日は会話もしていなくて、だからか椅子に深く腰掛けながら話す彩歌の口の端には笑みが浮かんでいる。

 

「そうだね。……でも、どうして電話を? 明日、会場で会えるだろうに」

『えへへ……何だかソワソワして、居ても立っても居られなくて。思わず電話しちゃいました』

「なんで優木さんがソワソワしてるのさ」

 

 ふふふ、と微笑する彩歌とせつ菜。最後に会った時にはいつかの雨天の日の出来事のために不穏な気配が漂っていた彼らだが、今の彼らに先日と同質の気配はない。或いはそれは直接対面していないが故であるのかも知れないが。

 

 あえて先日の話題を避けているという訳でもなく、どちらかが気を遣っているという訳でもない。そういう距離感が彩歌にはとても心地よいものに思える。いくら何度もコンクールに出て慣れているとはいえ緊張とは無縁ではいられなかった彩歌だが、楽しげな幼馴染に影響されてか聊か緊張が和らいでいくのを感じていた。無意識に笑みが零れているのは、そのためであろうか。

 

 たった数拍の、笑声の交錯。電話越しであるため互いの顔は見えないが、彩歌には相手の表情が目に見えるようであった。それが彼の思い上がりでない証拠は何処にもないけれど。

 

「でも、うん。俺もソワソワしてる。人前で演奏するのなんてもう慣れてる筈なのに、こればかりは全然消えてくれないね」

『大丈夫ですよ、彩歌くんなら。それとも、武者震いですか?』

「武者震いか……そうかも知れないね」

 

 何処か挑発的なせつ菜の問いに、彩歌は諧謔を以て言葉を返す。せつ菜の声を聞いても緊張は完全に消失した訳ではないが、その分は武者震いだ、と。そう思えばこそ、明日の演奏への意気込みも増すというものだ。

 

 彩歌は全国大会における優勝経験こそ一度も無いが、東京大会における優勝経験なら何度もある。だが、だからとて今回も優勝できるとは限らない。彼が毎日練習を欠かさないのと同様に、他の参加者も日々練習を重ねているのだから。故に緊張から完全に解放される事が無いのも致し方ない事だ。

 

 それでも、彩歌は勝たねばならない。勝って、自らの価値(そんざい)を示さねばならない。それが責任だから。もう負けないと誓ったから。心情も状況も、何もかもが変化した現状の中にあって、その決意は変わらずに彩歌の胸中に在る。となれば、武者震いというのも決して間違った表現ではないだろう。

 

 内在するやる気を表すかのように、肩を回す彩歌。無論それはせつ菜からは見えないが、雰囲気からそれを察したのだろう。ふふ、という笑声が電話口から聞こえた。

 

『やる気一杯ですね! うおぉぉぉぉ、私も燃えてきました! 明日は全力で応援しますね! 声は出せないので、心の中で!!』

「ありがとう、優木さん。キミが応援してくれるなら、百人力だよ」

『それなら良かったです! えへへ』

 

 歯の浮くような気障ったらしい彩歌の言葉にも、せつ菜は屈託のない喜悦を以て返す。傍から見れば彼の発言は軽薄な男のそれであろうが、そこに嘘がないとせつ菜が確信できるのは彼女の純真さとふたりの間に在る時間の質量によるものか。

 

 電話越しであるために無論彩歌からはせつ菜の表情は見えない。だが彼女の声音は彼に満面の笑みを確信させるには十分で、彼は胸中に柔らかな熱が広がっていくのを自覚する。大切な人が笑顔でいてくれる。抑圧と不感に凍り付いた彼の心でも、その事実に揺れ動かない筈もない。元より大切な人に笑顔でいて欲しいといのは彼の根底にある思いで、何も感じない訳もないのだ。

 

 故にこそ、明日のモチベーションも上がるというものだ。自身が果たさなければならない責任は果たす。その上で大切な人が笑顔でいてくれたのなら、それは望外の幸福というものだろう。───その勘定の中に致命的な瑕疵が存在する事に彩歌は気付かない。或いは、意図的に欠落させている。彼にとっては()()が勘定に含まれないのは当然であるが故に。それにそれの存在も忘れてしまう程に相手の笑顔を望んでいるとも言えるだろう。

 

『昔から、貴方は大好きな事に一所懸命でしたから。自然と応援したくなってしまうんです。それに……貴方のピアノや歌、それを楽しむ貴方の姿が、私は大好きですから』

「っ……」

 

 ある種の確信を伴って放たれたせつ菜の声音に、彩歌が思わず息を詰まらせる。真野彩歌とはそういう少年で、だからこそ自分は好ましく思っているのだ、と。それは何の変哲もない他者評であるけれど、同時にせつ菜から彩歌への信頼でもあった。

 

 何故なら、今のせつ菜は彩歌には彼女の知らぬ一面がある事を知っている。彼女だけではなく、誰に対してもひた隠しにある過去がある事を知っている。今の彩歌が、彼女と知り合った時の彼とは同じでない事を知っている。それでもせつ菜にとって彩歌とはそういう人だと、彼女はそう言うのだ。

 

 その信頼が痛くて、しかし確かに嬉しくもあって。そんな矛盾した感情に、彩歌は自身の鳩尾の辺りで掌を軽く握る。そうして、数瞬。彩歌の表情に浮かんだのは偽らざる微笑であった。

 

「これだけ応援されて、期待されて。猶更負ける訳にはいかないね。尤も、ハナから負ける気もないけど。

 それにしても……さっきのキミの言葉、まるで愛の告白みたいだったねっ」

『こっ、こここここ、告白っ!? 何を言ってるんですか!? わ、私は別に、そんなつもりでは……』

「フフ、分かってるさ。冗談だよ」

 

 直接は見えずとも、今、せつ菜の表情は含恥のために耳まで赤くなっている事であろう。そう確信させる声色が彩歌の耳朶に触れ、彼が笑んだ。左手を口許に遣りくすくすと笑うその仕草は、彼の癖であった。

 

 そうしているうちにせつ菜も落ち着きを取り戻してきたようで小さな声で何事か呟いているが、電話を介しているが故に彩歌にはその詳細を聞き取る事ができない。或いはあえて彼には聞こえないようにしているのだろうか。後者であればあえて聞こうとする事もあるまいと、彼は笑んだまま黙っている。だがそのうち、せつ菜ではない別の女性の声が微かに混じる。それが彼女の母の声である事を、彩歌は知っていた。

 

『あわわ、お母さんですっ……』

「こんな時間まで電話している所を見られたら、怒られてしまうかな。そろそろ終わるかい?」

『はい……すみません』

「良いのさ。じゃあ……おやすみ」

 

 はい、おやすみなさい。その挨拶を最後に、せつ菜との通話が切れる。そうしてホーム画面に戻ったスマホを軽くベッドの上に放ると、彩歌は椅子から腰を上げた。足を向けた先は壁面のスイッチであり、その短い間に彼は先のせつ菜の言葉を反芻する。

 

 彩歌のピアノや歌、それを楽しむ姿が好きなのだと、彼女は言った。以前の物言いを総合すればそれは昔だけではなく今もそうで、だからこそ分からない。彩歌にはもう音楽を楽しむ権利などないと、そう自身で規定しそのように行動してきた筈だった。只管に己の技術を高め、誓いと責任を果たし、己の価値(そんざい)を示すために。自己認識と他者評価の乖離がそこにはあった。

 

 

 ならば───己の本心は何処にある?

 

 

 降って湧いたそんな自問自答に、彼は冷笑を浴びせた。あまりにも今更だ。そんな懊悩が許される段階は、とうに過ぎている。

 

 照明のスイッチを切り、視界が薄暗闇に閉ざされる。目前に立ち現れる懊悩を、掻き消すかのように。

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