ピアノコンクール当日のような忙しい日でも、彩歌の
自己の裡で定型化された動作というのは、それだけで一定のパフォーマンスを維持する呼び水となる。例えるならば、ルーティンとは鍵だ。決まった一連を以て自身の中に仕舞われている〝いつも通り〟を十全に外界へと出力するのである。
日々の練習を本番さながらの熱量で熟している彩歌にとっては、これは非常に重要な事だ。毎回の練習を本番のように行っているのであれば、本番も練習同様に行えればそれは少なくとも最低限とは言えよう。練習は本番のように、本番は練習のように。以前彩歌はクラスメイトが遊んでいたスマホゲームでそんなセリフを目にした事があったが、彼の行いはまさしくそれであった。
詰まる所早朝のランニングというのは、彩歌が彼自身に最低限度の
「──む。おはよう、彩歌。今日も朝から精が出るな」
「おはよう、父さん。そういう父さんは、これから仕事?」
彩歌の問いに陽彩は言葉では解を返さず、しかしおどけるように肩を竦める動作には肯定の意が込められている。同時にそれは愛息の細やかな反抗期に対する彼なりの確認でもあった。
今日は他でもない、彩歌が参加するピアノコンクール当日である。だというのにいつもと変わらず出勤する陽彩の姿は、余人からすれば薄情とも捉える事もできようが、これは陽彩にとっては本意とは言い難い。彼にそうあるように望んだのは、彩歌であった。
故に陽彩の所作に潜む再確認の意図に彩歌は気付いたものの、あえて明確な
「お前がそう望むなら、俺は何も言わないさ。……でも、これだけは忘れないでくれ。たとえその場にいなくても、俺はお前を応援している。いつでも、いつまでもな」
「……うん。ありがとう、父さん」
父からの真っ直ぐな言葉に、はにかみながら彩歌が首を小さく縦に振る。それを見て取るや陽彩もまた微笑みを返して優しく彩歌の頭を撫でた。触れられた瞬間こそ驚いた彩歌であったが、恥ずかしそうな表情をしながらも何も言わずに受け入れている。
幾許かしてから陽彩は彩歌の髪から手を離し、出立の挨拶を残してその場を去っていく。そうして陽彩が乗り込んだ黒い自家用車が駐車場から出て行くのを見届けてから彩歌は踵を返す。ポケットから鍵を出してドアを開錠しようとしたが鍵穴は空回りだ。恐らくは家を出た直後に陽彩が彩歌の帰宅に気付いたからであろう。取っ手に手を掛け、何気なく開放する。
ただいま、と一言。既に陽彩は出勤してしまっているから、少し前まではそれに応える声などは在る筈もなかった。けれど、今は違う。眠たげな欠伸と、緩慢な足音。2階から降りてきたのは彩歌の師であり居候、もとい同居人である詩音だ。くすんだ赤朽葉色の寝間着を纏った詩音は彩歌が聞こえていたか否かは不明だが、その姿から彼がランニングを終えて帰ってきた所だと察したのだろう、声を投げる。
「あら。お帰り、さっちゃん」
「先生。今日はちょっと起きるのが早いね」
「ふふ、そうね。30分程度だけど。……陽彩クンは、今日も仕事?」
数瞬前までは表情の上に在った眠たげな気配を引っ込めた、至って平静の声音であった。それでいて様子を伺っているようでもある。あえて陽彩の事について言及したのは、玄関に彼の靴が無い事に気づいたからか、或いは彩歌の雰囲気からだろうか。
だがどちらであれ彩歌にとっては唐突な問いかけであったようで、面食らったかのような表情を浮かべている。尤もそれも一瞬の事であり平常に立ち戻るのにそう時間はかからず、滲んだ汗を拭ってから詩音に答える。
「うん。ついさっき、外で会ったよ」
「そう。……息子がコンクールに出るって時まで仕事なんて、ワーカーホリックってやつ?」
「あはは……あんまり心にもない事は言うものじゃあないよ、先生。それに、仕事があるのは先生だって同じじゃない」
からかうような調子で彩歌はそう言い、詩音が「ばれた?」とでも言うかのように短い笑声を漏らす。彩歌は自身と父の間にある事情について詩音に詳しく話した事はなかったが、父、子供共に彼女とは相当長い付き合いである。予想されているというのは想定内であった。
「地区大会は見に来なくてもいいって言ったのは俺だからさ。その時はちょっと言い合いになっちゃったけど、父さんの足枷にはなりたくないし、それに……」
そこで一旦言葉を区切り、閉口する彩歌。さしもの共感覚者たる詩音といえど相手が何も言わないのであれば色も視えないが、あえて先を促す事はしない。けれど彩歌の言を耳朶の奥で反芻していた。
彩歌は自身を父の足枷と言ったが、陽彩は息子をそう評するような人間性をしていない。それは彩歌も理解しているだろうにあえてそう形容したのは、それが彼による彼自身への評価であるからだろう。ひとりで大半の家事ができるのも、学費が免除される特待生になったのも、その裏返しとも言える。
一方で本心ではすぐ近くで彩歌を応援したいと思っていながら彩歌の意向を優先した陽彩もまた、彩歌の負担にはなりたくないが故にその選択をしたのだろう。互いに相手には口にしていない思いや秘めた願いがあると分かっていながら。つまり彼らは、どこまでも似た者
だがそうして相手のために自身を押し殺してしまう彼でも口にした希望がある。間隙の続きは、まさしくそれであった。
「どうせ見てもらうなら、全国の舞台に立ってる所を見てもらいたいんだ。まぁそう言って、まだ一度も全国で一番にはなれてないんだけどさ……」
そう言ってわざとらしく肩を落とす彩歌。その仕草こそまるで彼が全国で頂点に立てていない事をさして重大に捉えていないかのようであるが、実態としてむしろそれは本心を隠すための道化のようなものであった。何故なら、彼は未だ誓いを果たせていないのだから。責任感の強い彼は、その事実を容易には流せない。
そんな彩歌を詩音が察せない筈もない。それは彼女が有する特異性が故でもあり、彩歌の性格への理解が故でもある。けれどそれらを踏まえた上で、彼女は呵々としながら弟子の肩を軽く叩いた。
「なら、尚の事手は抜けないわね。……ホラ、朝食の準備はあたしがしておくから、あんたはシャワー浴びてきちゃいなさい。後で最後の練習、するんでしょ?」
「うん。ありがとう、先生。まぁ、朝食の準備と言っても、昨日の残り物温めるだけだけどっ」
「余計なコト言うんじゃありません」
最後に詩音をからかうようにそう言って、彩歌は浴室の方へ早足で駆けていく。その背が曲がり角に消えて完全に見えなくなるまで見届けてから、息を吐く詩音。そうして、ひとつ伸びをする。
詩音とて陽彩と同じように仕事──ピアノリサイタル関係の打ち合わせである──のために彩歌の演奏を聴きに行けない身の上である。だが陽彩が彩歌に言葉と熱を残したように、人を支えるというのは決して同じ場にいなければできない事ではないのだ。些細ではあるけれど、朝食の準備もそのひとつ。そう決めて残った眠気を追い出し、詩音は台所へと足を向けた。
「───」
目的地たる市民ホールを間近に臨み、自然と深呼吸が洩れる。そうして肺を満たした磯の空気は、彩歌にとっては既に嗅ぎ慣れたものだ。5歳の時分に初めてコンクールに参加してからというもの、その市民ホールは毎年のように利用しているのだから当然というものであろう。
軽く周囲を見渡せば恐らくは参加者と思われる正装姿がいくつかあって、彼らの表情は皆真剣そのものだ。それだけで彼らがこのコンクールに掛ける思いの質量を察するには十分であり、なれば彩歌の気概も増すというものである。尤も、それは周囲の人々も同様であろうが。
だが全員が敵手でありながら志を同一とする状況の中に在って、彩歌には異にする所があった。そのひとつが彼が抱える菊などからなる
分かっていた筈だ。理解していた筈だ。毎年のようにこの場所を訪れていれば、いつかはそういう事もあると。けれどこの数年、
「キミは……」
絞り出すような、乾いた声。半ば無意識の事であったためかその声はひどく小さく、けれど相手には聞こえたのだろう。その少女の肩が動き、次いでゆっくりと立ち上がる。ただ黙礼を解いただけにしてはあまりに緩慢に過ぎるその動作は、何かを堪えているかのようでもある。
恐怖とは、罪業とは、己の過去より来たるものである。なればそれはまさしく彩歌の過去よりずっと彼を縛り付けてきた罪業が形を取って立ち現れてきた結果なのだろう。
故に、眼を逸らせない。立ち尽くす彩歌の前で少女はゆっくりと振り返り、遂には彼と目が合う。顕わになったその瞳は、煮え滾る岩漿の如くに醸造され果てた嚇怒と怨嗟を湛えていた。それは誰あろう、彩歌への激情の顕現であった────。
侑とせつ菜の待ち合わせに半ば飛び入りのような形で歩夢までもが参加したのには、いくつかの理由があった。まず以て侑と彼女の親しい相手がふたりきりで外出するという事態に対して形容し難い胸騒ぎめいた感触を覚えたから、というのがある。その行き先が出会って間もない異性の友人であるらしい、というのは勿論そうだ。だが侑に同行を申し出た際に語った〝自分も演奏を聴いてみたい〟というのも、決して嘘ではなかった。
せつ菜や侑とは違い、歩夢は彩歌とは特筆して親しい訳ではない。連絡先も知らなければ、そもそも直接言葉を交わした回数も片手で済ませられる程度だ。その間柄は友人というよりも知人、顔見知りという方が適切だろう。
にも関わらず演奏に興味があるというのは、聊か不自然であるのかも知れない。だが、理由はある。菜々、もといせつ菜の復帰ライブがあった日に見た、彩歌の〝目〟だ。あの日かすみに連れられる形で歩夢らよりも遅れて屋上にやってきた彼の瞳は自身の幼馴染への友誼以外の何かを感じさせるもので、同じように幼馴染のいる彼女はその正体も分からない感情に共感めいたものを覚えた。それを由来とした、些細な興味だ。ある種の同族意識と言い換えても良いかも知れない。
だが侑やせつ菜にとってそれは知る由もない事であるし、歩夢自身にとってもあまり重要な事でもない。今も目の前で談笑しているせつ菜と侑を見て気を揉んでいる程には。けれど3人で学校やスクールアイドルについて話すのはとても楽しくて、そんな矛盾とも言える感情が彼女の中で同居していた。
そうして3人で会話しながら歩いているうちに目的地である市民ホールに程近い所にまで来ていて、侑が声を洩らす。
「見えたよ! 楽しみだなぁ……!」
歩夢らの方を向き市民ホールを差しながらそう言う侑。その緑玉のような瞳は強い期待を宿し煌々としていて、その様たるやまるでスクールアイドルのライブを目前とした時のようですらある。
無論、彩歌はスクールアイドルではないし、これから向かう先はライブではなくピアノコンクールの会場だ。同じく音楽でこそあるものの、ジャンルが違う。それなのに同じようにトキメキを表現する姿は、歩夢にとっては既知であり同時に未知でもある姿だった。
故に思わずその理由について問おうと口を開きかけて、しかし声が音として形を得ようとしたのと同時に彼女らの横を路線バスが過ぎ出鼻を挫かれてしまう。そのせいだろうか、胸中で膨らんでいた胸騒ぎは空転して、勢いを減じてしまった。
「歩夢?」
「歩夢さん? どうかされましたか?」
「あ……ううん、何でもないの。ごめんね」
空転が表情に出ていたのだろうか、ふたりは歩夢にその所以を尋ねるが、歩夢はその答えを曖昧にしてしまう。それでも侑とせつ菜は心配そうであるけれど、歩夢は平常に立ち戻りそのまま歩いていく。そうなってしまえばもう無理に尋ねるのも憚られて、ふたりも歩を戻した。
その先では先の路線バスがホール最寄りのバス停に停まっており、降車口からは続々と人が降りてきていた。その恰好は様々だが多くがある程度整った姿であり、目的地が同じであるのは察するまでもない。そしてその人の流れの中に、侑は見知った顔を見つけた。
「あっ、大雅くんだ」
「っ……!」
侑の言葉の通り、その視線の先にいたのは彼女の友人兼クラスメイトであり彩歌の親友でもある宗谷大雅であった。侑がその姿を発見したのと殆ど同時に、彼女の隣で微かにせつ菜が表情を強張らせる。
それを知ってか知らずか、大雅も侑達に気付いたようで驚いた表情を浮かべたがすぐに彼女らがこの場にいる理由を察したようで、無線イヤホンを外しながら「よっ」と掌を振った。
「オマエらも来てたのか、高咲、上原。それと……アンタは、優木せつ菜?」
「は、はいっ。優木せつ菜ですっ。
そう言って小さく頭を下げるせつ菜だが、その所作は何処かぎこちない。それもその筈で、せつ菜、もとい菜々と大雅はこれが初対面ではなかった。彼らは共に普通科であるし、彩歌と交友がある。彼を通して遭遇し会話した事は、一度や二度ではない。
だがせつ菜として遭遇するのはこれが初めてで、しかし彼女にとって〝菜々としての知人にせつ菜として初対面らしく振る舞う〟というのは決して初ではない。それなのにぎこちなくなってしまったのは、彼女が大雅に対して抱く彼女らしからぬ隔意、ある種の苦手意識が原因であった。それの由来は未だ彼女自身にも判然としないけれど。
それでも菜々としての隔意を隅に追いやり、大雅もまた丁寧にせつ菜に応える。けれどそのふたりの遣り取りを見ていた侑と歩夢の目には疑問符が浮かんでいて、せつ菜が首を傾げた。
「あぁいや、大したコトじゃあないかもなんだけど……せつ菜ちゃんって、大雅くんと初対面なの?」
「……? そうですが……何かありましたか?」
「うぅんと……」
その時点でおおよその
「私達にね、せつ菜ちゃんと彩歌くんが友達だって教えてくれたのは……大雅くんなんだ」
「えぇっ!?」
侑の暴露に思わず素っ頓狂な声を洩らしてしまったせつ菜だが、それも無理からぬ事であろう。まず優木せつ菜という生徒は本来的に実在しない、中川菜々のスクールアイドルとしての姿だ。故にその同好会外の交友関係の知識を全く初対面の人物が知り得ているというのはあり得ない事態である。ただひとつ───〝優木せつ菜の正体は中川菜々である〟と知っている場合を除いては。
驚愕に支配されていても聡明なせつ菜は瞬時にその事に思い至り、反射的に大雅の方を見る。無論せつ菜自身が大雅に自ら正体を明かす理由はないし、状況からして彩歌が
「自力で気づいたんだよ。まぁ、色々あってな。当然だが誰にも正体は言ってないし、バラすつもりもないから安心してくれ。
……当人に言う気がないのに他人が勝手にバラすのは、良くないからな」
「───?」
肝心の本人に明かす気がないのに、余人が明かすのは善くない。大雅の返答は至極真っ当であると同時に、極めて普通の事だ。声音にも嘘の気配はなく、けれどせつ菜にはほんの一瞬、大雅の瞳に憂いめいた色が過ったようにも見えた。瞬きの間に雲散霧消し常の勝気な表情に立ち戻る。
見間違いを疑ってしまうような極めて短い間隙だ。既に大雅の様子に奇妙な点は無いため真偽を確かめる事すらできず、また真実であったとしても彼は決して口にするまい。何故なら、話す気が無い事は話さないのだから。それは、ある意味では大雅の誠実さの表れでもあろう。
しかし当の大雅はせつ菜の思案など何処吹く風で、全く呑気に大きな息を吐いてから親指で市民ホールを指し示した。
「さ、そろそろ行こうぜ。時間がなくなっちまう」
「は、はい。そうですね」
大雅の音頭で我に返るせつ菜と、首肯する侑と歩夢。それぞれから同意を得られた事で大雅は頷きを返し、踵を返してホールに入っていく。地区大会とはいえコンクール自体の規模がかなりのものであるためかエントランスは多くの人でごった返していたが、大雅は全く迷いもしない。手慣れた様子で全員分の受付を済ませてしまう。
その様子は明らかに何度か同じことを繰り返してきた者のそれだ。恐らくは今までもこうして何度か彩歌が参加したコンクールを見に来た事があるのだろうと、侑達が悟る。そうしてそれと同時にせつ菜の胸に靄のような感慨が生まれたけれど、それは以前のように正体を掴むより早くに輪郭を喪ってしまう。
そうしている間にも大雅は受付を離れ、やはり迷いのない足取りで何処かへと向かっている。初めから彩歌の居場所を知っているかのように。そして、確かに彩歌はそこにいた。大ホール出入り口の扉に程近い壁に背を預け、スマホに視線を落としている。その肩を大雅が横から叩き、すぐに彩歌の目が見開かれた。
「よう」
「大雅!? キミ、部活は!?」
「開口一番それかよ。休んだに決まってんだろ? オマエだってオレの出る試合は練習休んで見に来てくれるし、第一、中学の頃からこうだっただろ。今更だ」
「確かにそうだけど……レギュラーとしての自覚が無いのかい、キミは……」
態々コンクールを見るために部活を休んだとまで宣う大雅に彩歌は半ば呆れた様子だが、孤を描いた後角は彼が呆れ以上に歓喜を抱いていると周囲に悟らせるには十分であった。彼らの口ぶりからして彼らは互いの出る大会に応援に来ているのは明白であり、そんなふたりの様子に侑が微笑みを零した。
「仲良しだね、彩歌くんと大雅くん」
「そうだね。何だか、小っちゃい頃から一緒にいるみたい」
「ふふっ、まるで侑さんと歩夢さんみたいですねっ」
笑声と共にせつ菜はそう言い、直後にはたと気づく。彩歌と大雅は侑と歩夢、即ち物心付いた頃から共に過ごしてきた幼馴染のよう。それは紛れもなく彼女の裡から出でた正直な感想だ。だからこそ、それは彼女自身に対してすら虚偽を許さない。
大雅は、何度もこうして彩歌の応援をしてきて、応援をされてきた。せつ菜は、今回を除けばどちらも1回だけだ。それに彩歌は大雅の事だけは苗字ではなく名前で呼ぶ。他の人々には、せつ菜に対してすらそうではないのに。
自己の不明領域からやってきてその存在を主張する『優木せつ菜』らしくも『中川菜々』らしくもない感情。焦りにも似たそれは、これまでも何度か彼女の裡に現れてきたものだ。それが嘗てない程に彼女を揺さぶって、心穏やかにはいられない。だがそれを鎮めるかのように、彩歌の声。
「優木さん、高咲さん、それに上原さんも。今日は来てくれてありがとう。友達からこれだけ応援されるのは、初めてかも知れない。フフ、今日は情けない所は見せられないね」
口許に手を遣り不敵な笑みを浮かべながら、彩歌が言う。それはせつ菜にとっても見慣れた彼の癖であったが、仕草の浮薄さとは裏腹にそこには闘志とでも言うべき情念が宿っているようにも、彼女には見えた。
昨晩電話した時に想像した通りの表情だ。彼女の知る彩歌の姿だ。その事実にせつ菜が微かな安心を覚えていると、スタッフと思しき人物が遠方で声をあげた。どうやら参加者の収集であるらしくその場を離れようとした彩歌だったが、その背を大雅が呼び止めた。首を傾げる彩歌に接近し、その耳元で呟く。
「なぁ、彩歌。オレの気のせいだったら悪いんだが……何かあったか?」
あまりにも要領を得ない問いだ。この場において何かあったかなどと、屁理屈でどうとでも答える事ができるだろう。そもそも大雅らの前で彩歌は普段通りに振る舞っていて、察する余地など無かった筈だ。
それなのに大雅は彩歌の態度の中に在った一分の隙から、彼の異常に朧気ながら辿り着いた。この親友はいつもそうだ、と彩歌は内心で独り言ちる。彩歌に限らず他人の事をよく見ている。洞察力が頭抜けているのか、少なくとも宗谷大雅という少年に対し嘘とは無力であると彩歌は知っていた。
であればあえてせつ菜らには聞こえないように訊ねてきたのは大雅の温情であるのかも知れない。背中側から呼び止められたために振り返って応えた彩歌の視界には不思議そうな3人の表情が映っている。自嘲的に笑み、彩歌もまた小声で答えた。
「別に……懐かしい顔に会っただけさ。憎らしいくらいのね」
「……! マジか……」
あまりにも曖昧模糊とした彩歌の返答であったが、それだけでも大雅は彼の言わんとする所を察したようであった。余人であればこうはいくまい。問われた側である彩歌もまた、両者の間にある共通理解とでも言うべき認識に仮託したのだから。
「惑わされるんじゃねぇぞ。オマエは───」
「分かってる。演奏中に余計な私情は持ち込まないよ」
常の軽妙を一切合切排した大雅の忠告を最後まで聞く事もなく、遮るようにそう返して彩歌は踵を返す。それはまるで大雅が何を言おうとしていたのかを全て理解しながら、それを拒むかのように。
彩歌と大雅は親友である。それは片一方の思い上がりなどではなく、相互理解に基づく共通の認識だ。故にこそ大雅程には洞察力の強くない彩歌でも彼の考えている事がおおよそ分かる。そのための先回り。
だが相互理解があるからとて相手を全肯定するという事にはならない。むしろ理解しているからこそ需要はできても共感はできない事もある。大雅にとって、自分自身にすら本心を偽る彩歌の悪癖こそがそれであった。同様の由来から、糾弾もできないのだけれど。
「いつまで、オマエはそうやって……」
大雅が呟く。けれどその声は喧騒に掻き消されて、彩歌の姿は雑踏の先へと消えてしまった。