今回
居住人口に対してあまりにも手狭な東京23区、その一等地内の決して少なくない面積を我が物顔で占有する偉容。高名な建築家がデザインしたとされる外観は近代的でありながらお何処か古代の神殿か何かを彷彿とさせる壮麗さがあり、独特な雰囲気を纏ったまま市街の中に屹立している。平凡と言うにはあまりに日常から隔絶し、さりとて異常と評するにはひどく自然なそれは、さながら都市の中に滲み出した非日常の顕現、平生と隔離されたある種の異界であった。
そしてその中枢たるは、体積の大半を占めるコンサートホールである。収容人数1000人超、緩い孤を描く二階層式の構造を特徴とするそれは建物外観の荘厳さに負けず劣らずの厳威たる有様であり、見掛け倒しという形容とは全くの無縁だ。内を満たす喧騒も相俟って、さながら聖地と巡礼者の様相である。開場からさして時間を置かずしてそれなのだから、最終的には殆ど満席になる事は予想に難くない。
故に
そんな、人ひとりの座席を確保する事にすら難儀する状態であるのだから、会場が騒然たる有様になるのは半ば当然の事だ。しかしホールを満たす銘々の話し声も開会式が始まれば大幅に減衰して、けれどその中にあってせつ菜は落ち着きなく時折視線を会場に滑らせていた。尤も真面目な彼女であるから周囲の迷惑にならないよう、静粛に。だが唐突に、彼女だけに聴こえる程に微かな声がその耳朶を打った。
「いねぇよ」
囁くようにそう言ったのは、せつ菜の隣の座席に座る大雅である。彼女が驚いてそちらを見れば大雅の顔はあくまでも壇上で挨拶を述べる主催者の方を向いていて、しかし視線だけは横目でせつ菜を捉えている。表情は真顔であるが憮然ではなく、粗野な物言いであっても乱暴ではない声音もあってただせつ菜に結論だけを投げ渡したようであった。
だが、いないとは誰がいないというのか。そもそもせつ菜は誰を探して視線を彷徨わせていたのかを言葉にしておらず、であれば余人には対象を誰としているのかを察するにはあまりに不十分である筈だ。
だというのに大雅の声には確信が伴っていて、それだけでもせつ菜が誰を探していたのかを大雅が気付いていると察するには十分だ。少ない状況証拠からせつ菜の正体に辿り着いたという事実から一度は彼女も実感していた事だが、並外れた洞察力、勘の良さである。宗谷大雅という少年の前にあっては虚飾や欺瞞、真実を覆い隠す胡乱は全くの無力なのではないかと錯覚してしまう程に。或いは大雅の内に確固たる理論があるのだとしても他者にはそれが見えない以上、せつ菜は驚愕するばかりだ。その間隙をどう捉えたのか、視線を壇上に戻し大雅は言葉を続ける。
「
「追い出した、ですか……?」
「あぁ。……いや、うん、追い出したってのは人聞きが悪いか。まぁ要は、見栄だよ」
見栄。追い出したという物言いとは些かイメージの食い違う表現だが、大雅の裡ではそれが適切な組み合わせだ。つまりは彩歌にとって地区大会程度は問題ではなく、より上位の大会で成績を残した自分を見てもらいたいという事なのだ。随分な自信であるけれど、それが虚勢や自惚れではなく五指が摩耗せんばかりの研鑽に裏打ちされたものである事を大雅は知っていた。
対するせつ菜にとって、それは全く初耳の事である。彼女が知っているのは彼女らが小学生であった頃に見に来た1回だけの事で、情報が更新されていなかった。去年はこうして誘われる機会もなく、彩歌の公的な場での演奏を観覧するのは実に5年振りの事だ。その間の事を彩歌は語りたがらないのだから、彼女が知らぬのも自然な事である。
それまでの既知が後追いの事実に塗り替えられていく。自身の裡に在った他者の人格という輪郭が解け、新たな事実を内包するように再構築される。形而上の
故にせつ菜が淡々と語る大雅の黒い瞳の裡にそれらしき色合いを見咎めたのも、全く以て不自然ではない。だが、それでは配役が逆だ。今しがた既知を破壊されたのは、せつ菜の方であるというのに。なれば大雅のそれは過去の残滓であろうか。けれど即座に彼のそれは立ち消え、平時の冷徹にして温和なる中庸に回帰する。
「オレからもひとつ、訊きたいコトがあるんだが。いいか?」
「……? 何です?」
壇上では開会の挨拶が終わり、名前も知らない来賓による長々とした話が始まっている。大雅はやはり顔だけはそちらを向いているが、黒々とした瞳が捉えているのはせつ菜だ。互いの距離にしか伝わらない程の音量で展開される、開いた密会。なれどそこに甘い気配は無い。さりとて険悪でもなく、奇妙な距離感の応酬であった。
「アンタはどうして、
「───」
笑むような気配。せつ菜は息を呑み、けれど解答は即座には返されない。明朗快活を絵に描いたような彼女にしては珍しい間だ。しかしそれは大雅の問いを無視したのではなく、実態はむしろその逆。問われたが故に答えようとし、行き詰ったが為のものである。その感覚は何処か好きに理由を尋ねられた時と似ている。空白故に答えられないのではなく、混沌故に明文化が困難である、そんな感覚だ。
友達だから。幼馴染だから。詩音に請われたから。真っ先に脳裏を過ったのはそんな所で、それらはきっと間違いではない。同時に解答としては聊か不足のようでもあり、せつ菜の生真面目さは不足を自覚したままの返答を自身に許さなかった。故に手繰る。己の裡に在る
「……約束したんです」
「約束」
「はい。小学校を卒業する時に……離れていても、心は隣に在るって。そう約束したんです」
過去を懐かしむような声色に、大雅は何も返さない。だが無視したのではない。彼はしっかりとせつ菜の答えを聞いていて、故にこそそれを吟味していた。離れていても心は隣に在るなどと、あまりに
約束した。故に知りたい。知らなければ、真の意味で寄り添えないから。至極単純な
「約束を守れない事を、アンタが気に病む必要はねぇよ。アイツは一度……いや、今でもその約束を破り続けてる」
それが真実だ。今の真野彩歌では、優木せつ菜の真摯に報いる事ができない。大雅は彩歌の親友として彼と多くの時間を共にし、彼の過去を織っているからこそそれが確信できる。彩歌は自身の責任全てを取らんとし己と誠実たらんと規定しているが、故にこそ彼の責任感とは不完全なのだと、大雅は言うのだ。
いかに彩歌がその過去に由来する深い悲しみを抱えていようと、約束を反故にしたという事実は消えない。情状酌量など在りはしない。過去の事実も何もかも、理由はどうあれ彩歌自身がせつ菜に伝える気が無いのなら、それは彼の裡で完結する理屈だ。
故に、彼はあえて謂う。『約束を守ろうとしても、報われるとは限らない』と。あまりにも露骨でいっそ露悪的なまでの忠告を受けて、それでもせつ菜は笑みを湛えたままだ。
「それでも、です。どうなるかなんて、やってみるまで分からないでしょう? それに彩歌くんは一度、ちゃんと約束を守ってくれました。だから、今度は私が守るんです」
「そうかい。
「えっ……?」
羨望。今まであくまでも無貌に徹していた大雅の声音の中に確かにそれが混ざったのを、せつ菜は具に感じ取った。だが彼女が二の句を継ぐ暇を与えぬまま、大雅が人差し指を垂直に立てる。
「ひとつだ」
「……?」
「アンタがオレの質問に答えてくれた分、オレもアンタの質問に答える。どうだ?」
そもそも大雅がせつ菜に質問したのは、先にせつ菜の方から尋ねたからではなかったか。せつ菜は即座にそう反駁しようとしたが、それを察した大雅が目線だけで制した。そんな事は彼が一番よく分かっている。なのにそんな事を言い出したのは、つまる所それが宗谷大雅という秘密主義者なりの開示であるからだ。
そして質問に答えると言った以上、大雅はせつ菜が何を質問したとしても解答するだろう。それを理解した途端、とある問いがせつ菜の鎌首を擡げる。しかし、彼女は咄嗟の所でそれを堪えた。ソレを問えばきっと大雅は答えるのだろうが、だとしてもソレだけは彩歌から直接訊くべき事だと思ったのだ。
故に、問うたのは別の事。
「───さっき、私たちがホールに入る前……貴方と話していた彩歌くんの表情が曇っていたのが見えました。あれは……どうしてなんですか?」
せつ菜の問いを受け、大雅が口の端に笑みを浮かべる。しかしそれは何も彼女の問いが愉快だと感じているのではなく、彼女の言葉が半ば想定していた通りのそれであったからなのだろう。或いはそれが最も彼女の知りたい事でない事も、気づいている。
だがせつ菜はあえてそこの言及を避けた。真っ直ぐで純粋な彼女らしくない婉曲だが、そこには彼女なりの理由があるのだと分からない大雅ではない。であるならば、その部分について、大雅には彼女に対して語る権利はあるまい。そこを語るのは渦中の者の義務だ。
故に、投げ渡すのは解のみ。それはひどく冷酷な事であるのかも知れないが、彼女の意図を察した以上はそれが最適解であろう。経緯は後に置くとして、まずは結論から、単刀直入に。
壇上では既に全ての来賓が挨拶を終えていて、初めの参加者が登ってきている。大雅は悠然と受付で貰った資料を開き、そこに記載されている参加者の一覧に視線を落とした。或いはトップバッターの氏名を確認しているような所作だが、彼の指がなぞったのはそれとは別の氏名。そうして数拍を置き、彼が口を開いた。
「詰まる所、出会いたくなかった
それは、“孔”だった。
そして彩歌が演奏の度に行うルーティンとは、彼にとっての不都合を廃棄孔へと押し込めるが如き工程であった。一度の深呼吸にて新しい酸素を肺腑に取り込み、瞑目と共に両手で耳を塞ぐ。そうして彼の耳朶に触れるのは漣のような微音。血液が身体を巡るその音は彼の生命の証明であり、切り離された肉体と精神の狭間に在る不要物が赤血の奔流に呑まれ認識の埒外に流れ去っていく。そうして流れた先は主である彩歌にすら分からない。分からないからこその不感。認識を放棄するが故の無知。観測しなければ、それは無いのと同じだ。
最後に、ポケットから取り出した浅葱色のヘアゴムで髪を小さく束ね、彩歌最大のルーティンは完了する。身体の駆動理論から魂魄を切り離し間隙に揺蕩う不都合な音さえ排除した、単一の目的に特化した人間の完成だ。或いは合理の化身とも形容できるかも知れない。
その段階に至れば最早緊張などとは無縁であり、彼の意識を支配するのは渺々とした平静と潜在の雨音のみ。五体が十全に稼働する事は確認するまでもなく、彩歌は控室を出た。数刻前に彼はスタッフに呼ばれていて、そろそろ出番なのだ。舞台袖を目指し、歩く。
観客で満ちているホールとは対照的に、廊下は虚ろだ。人の気配が薄いその中に彼の足音が反響する。しかしその場を支配する静寂とは裏腹に峻烈な熱狂と緊張の色を彼は確かに肌で感じていて、歩を進める度にそれは熱量を増してゆく。舞台袖にまで至れば、それは現の熱波と化して肌を焼かんばかりだ。
ホールに満ち満ちた観客達の寂然たる気勢。通路に残留する、不安と誇りが折り重なった参加者達の熱意。その裡に在って場違いなまでに研ぎ澄まされた、彩歌の犀利な瞳。最早混沌と形容する事すら生温い程に雑然とした雰囲気を、彩歌はよく知っている。忘れる筈もない。彩歌は幾度もその中に身を投じ続けてきたのだから。
何もかもが慣れ親しんだものだ。故にこそ、彩歌がすべきは今回も変わらない。日々積み重ね続けた研鑽のままに音色を奏で、観客を魅せる。それだけだ。今までも、そしてこれからも変わらない。それだけが真野彩歌に許された在り方なのだ。他の誰でもない、彩歌自身がそう自らを定義した。
舞台袖にて聴こえてきていたピアノの音色が止み、賞賛と辞令から成る拍手がそれに取って代わる。控えていたスタッフが無言のままに視線を彩歌に向け、それに応えて彼は舞台に続く階段に足を掛けた。心拍は正常。情動は凪。魂魄の躍動も、真野彩歌という機能には何の支障も及ぼしはしない。
そうして登壇する間際、彼は最後にソレを思い出す。いや、思い出すと言うにはソレはあまりに直近に過ぎるだろうか。開会の前、市民ホール付近にて再開した“過去”から投げ掛けられた、その言葉。
───どうしてあんたなんかが、ピアノを続けてるの。
敵愾心と嚇怒が綯い交ぜになったそれはあまりにも
「さぁ、いこうか」
不敵に、されど悲壮に。そう云った。
新たな登壇者の登場に観客席から社交辞令めいた拍手が立ち昇る。或いは
後頭部で小さく束ねられた髪。正確にはそれを束ねているヘアゴムは、せつ菜の記憶の限りでは彩歌の母たる
だが壇上の彩歌にはそれを悟る術が無い。聴衆の偉容を前にしても小動もせず、しかし肩で風を切るでもなく、ステージを横切り、観客に一礼。それに応える短い拍手。型式めいた炸裂音が止んだ後に奏者は刹那の笑みを覗かせ、席に着く。手短に座面の調節を済ませ、脚はペダルへ、指先は鍵盤へと。短く鋭い呼吸。そして、静寂が場を包み───
───万象が、その内側から爆ぜ散った。そう錯覚する程の凄烈だった。
変革は瞬きの事。少年の十指が
無論、それらは余さず幻想だ。しかし人間は己の認識によってしか現実を捉えられない。然るに、それは幻想であると同時に観客達にとっての現実でもある。在り得ざる矛盾だ。あってはならない法外だ。だがその暴論を成立させるだけの力が、彩歌の演奏にはあった。年齢離れしたという表現すら不十分なまでの、只管な研鑽にのみ因って立つ超抜技巧。雑音の入り込む余地など一分とて許さない超絶奏楽。それが、完成された
気づけば呼吸すら忘れていた。それはせつ菜だけではなく、この場にいる彩歌以外の全員がそうであっただろう。望む望まざるに関わらず、彩歌が齎す衝撃により万民が正常な認識を剥奪される。だが───
けれどその違和を置き去りにして、演奏が終わる。残響が虚空に溶け消えると共に真実はその容を取り戻していき、世界には静寂が訪れる。しかし微睡は止まず、それに終幕を告げるように彩歌は恭しく礼を取った。その瞬間に観客達は悉くを正しく理解し、鯨波の如きスタンディングオベーションが彼に浴びせられる。その中で奏者の嘗てを知る者だけが、拭えぬ何かを抱えたままでいた。
やりきった。いつも通りに、何も過たずに。自身のパフォーマンスを終え、感慨にも満たない反芻を胸に抱えたまま、彩歌は奏者という役を脱ぐ。鳴りやまぬスタンディングオベーションを背に舞台袖に消え、少年は表舞台より降りて髪を解く。未だ意識の裡で演奏が残響しているのだろうか、控えているスタッフは上の空で、しかし強烈な視線が彼を射抜く。
その気配に、彼は覚えがあった。それもその筈だ。彼は先刻もそれを向けられ、今より4年前にもまた、嫌になる程浴びていたのだから。それこそ反射的に根源に察しが付く程に。彼が顔を上げればやはり、そこにいたのは開会前にも遭遇した女生徒。尋ねるまでもなく彼はその名を知っている。知っていて当然だ。何故ならその少女は彼と同門、嘗て愛歌のピアノ教室にて、
「……うちはあんたを認めない」
絞り出した声音にはいっそ露骨なまでの敵愾心が滲んでいる。対する彩歌は何も言い返さない。それが不可解であったのだろう、先程までは上の空でいたスタッフは困惑の目で彼らを見ている。致し方ない事だ。この場にいる者の内で彼らが共有する過去を知る者は彼ら自身以外にいないのだから。
既に彼は髪を降ろし、それに伴って精神の在り様も演奏時のそれから平時のそれへと立ち戻っている。だが彩歌の表情は今以て尚、演奏前と同じく能面を思わせる無。それは何も相手の言葉を無視しているのではなく、むしろその逆だ。美律の言葉も気配も、全てを愚直なまでに正面から受けているが故の面貌であった。
しかしそれは自身が重ねた罪の質量を悉く満身にて受け止めるに等しい行為だ。そんな事が未熟極まりない青二才程度にできる筈もない。知らず彼は口の端を噛み締め、それを見咎めた美律は何を思ったか鼻を鳴らして彼の横を過ぎていく。その刹那。
「──────」
「っ……!」
交錯の瞬間に零れた囁きに、彩歌が息を呑む。
4年の時を経ての同門との再会。彼の過去より追い縋り、遂には追いついた罪業の具現。最早出来過ぎな程に彩歌にとっては最悪の時分だが、彼の中には確かな納得があった。いつだって運命とは唐突に目前に立ち現れ、人の寝首を掻いていくものなのだから。彼はそれを
──彼が己に対してさえ吐き続けてきた