【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第22話 混迷はカレらの過去より来りて Ⅲ

 思い返せば、違和感は初めからあったのだ。彩歌の演奏を聴き届けた後、次の奏者を待つ間の静寂の中、せつ菜/菜々は内心でそう独り言ちる。最早至上に近い演奏を受けて感動と熱狂に打ち震えながらも、同時に彼女の裡にはある種の確信めいた感覚が生まれていた。

 

 嘗て、彩歌は今では『せつ菜』と名付けられた彼女の側面を知る殆ど唯一の人間であった。それほどまでにその付き合いは深く、半ば当然の帰結としてせつ菜は何度か彼の家を訪ねた事もある。そのため彼女は彩歌の両親とも顔見知りであるし、その家庭についてある程度を既知としていた。例えば父の陽彩は仕事で家を空けがちだとか、母である愛歌は広い自宅の一角でピアノ教室をしているだとか。

 

 そして彼女が初めて『優木せつ菜』として真野邸を訪れた時、その中が彼を除いて伽藍堂であったのは、これまで経験したことが無い事象だったのだ。しかしその時は彼女自身が不安定であったり、そもそも家人が留守にしているという事自体は有り得る事であるから、彼女の目には不自然としては映っていなかった。だが種々の違和を経て、それは徐々に潜在するものをせつ菜の目前に晒し始めていたのだ。そうして先刻、その一端は大雅により解答を示された。()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 いつかの雨の日、車の急ブレーキ音を耳にした彩歌が晒した異状。詩音から告げられた、彼が吐き続けながら限界を迎えつつあるという“嘘”。中学1年生だった頃の彼を襲ったという交通事故。ピアノ教室が既に無いという事実。それらの点と点が、先程の演奏により結ばれていく。それはさながら独立していた音符が統合され、ひとつの旋律と化すように。

 

 先程の彩歌の演奏は、素晴らしいものであった。他の奏者の演奏もせつ菜を感激させるに十分過ぎるものであったが、彼のそれは別格だった。それは間違いない。だが彼の嘗てを知るせつ菜は、それと同時に違和感も覚えたのだ。真野彩歌の音色とは果たしてこれであったか、と。確かに楽し気であるというのに、何かが嘗てと異なっている。或いは空虚。それは、無視できない矛盾だった。

 

「彩歌くん……」

 

 名を呼べども応えは無い。奏者は壇上から降り、舞台袖に消えて久しい。それでも思わず呟いてしまったのは、それが彼女の胸中にある不安の発露であったからか。

 

 多くの要因が揃い、それらが結ばれ像を成し始めた今、せつ菜の中には凡そ確信に近いひとつの推論が出来始めていた。だがそれが真であったとするなら、彩歌が抱えるものはひどく残酷で根深い。せつ菜自身としても、この推論が杞憂である事を願ってしまう程に。であれば不安を覚えてしまうのも致し方ない事だ。

 

 だがそんな彼女を時間は待ってくれず、次の奏者たる少女が登壇してくる。せつ菜はその少女を見るのは初めてであったが、名前だけは知っていた。大雅曰く、出会いたくなかった過去(ヤツ)。愛歌のピアノ教室を閉じる際、彩歌と他の門弟との間に何らかの不和があって、その渦中にいたひとりがその少女、宮古美律(みのり)なのだと、彼女は聞き及んでいた。

 

 胸騒ぎがする。彩歌が秘め続けてきた過去が徐々にその輪郭をせつ菜の前に晒し始め、それに伴って予感めいた漠然とした感覚が彼女の胸中で存在感を強めている。だがそれを前にしても彼女にできる事は何もない。彼らの間に横たわる因果は過去より伸びるものであり、起点は最早変える事ができない事実であるのだから。

 

 空白を維持する虚勢(ヴェール)が剥がれ、混迷が迫る足音が密やかに鳴り始める。それを掻き消すように、次なる奏者を歓待する拍手が会場を満たした。

 


 

 ──結果から言えば。今年のコンクール東京予選はここ数年の通例から大きな番狂わせが起きる事もなく、彩歌が第1位に選ばれる幕切れを迎えた。他の参加者の努力が足りなかった、というのではない。彼らは皆、常に血の滲むような努力を重ね、しかし研鑽の総量という点において彩歌は誰よりも先を行っていた。であればこの結果はその顕れであり、必定の結末であったと言えよう。観客達が自然とスタンディングオベーションにまで至ったのが彼だけであったと言えば、その完成度も推して知るべしというものだ。

 

 そうしてその場において公に結果に対して異を唱える者もおらず、閉会式は恙無く終了しコンクール東京予選はその全行程を終えた。正常な感覚を喪失する程の静謐と熱狂に支配された時間も過ぎてしまえば束の間の夢のようで、醒めてしまえば立ち去る他ない。参加者、その保護者、或いはそれらとは関係の無い只の観客。雑然とした群衆が、緩慢と出入り口の方に流れていく。

 

 そんな有様であるからすぐに退出できる筈もなく、せつ菜や侑達4人は席に着いたまま。全行程が終わった今となっては私語を禁じる暗黙は最早存在せず、辛抱溜まらずにいた侑が口を開いた。

 

「すっ──ごかった……ね、歩夢!」

「う、うん。そうだね、侑ちゃん」

 

 驚嘆と感嘆の混在した侑の言葉に、同意の首肯を返す歩夢。その声音は何処か忘我めいてもいたが、それも自然な事であろう。事実、彼女らは終始圧倒されていたのだから。自身の夢を叶えんと集った奏者達による貪欲にして壮麗たる音色の数々に。その信条は或いは雄大な自然や重厚な芸術品を目の当たりにした者のそれにも似ていよう。故に圧倒されきった感情の中に確かなトキメキがあるのも、全く自然な事であった。

 

 そう、それほどまでに素晴らしい演奏ばかりであったのだ。技術の巧拙や表現の形など各々の間で確かな差異はあれど、それだけは変わらない。だからこそ侑の心は驚嘆や感嘆と共に興奮にも支配されていて、理性を追い越す程の興奮であるが故にそれを十全に表現する言葉が容易に見つからない。そんな彼女の様子を歩夢ら3人は微笑のままに見ていて、しかしそんな中で不意に侑の視界の端にとあるものが映り込んだ。

 

 果たしてそれは、両親と思しき壮年の男女に肩を抱かれ涙を流すひとりの少女であった。名前は知らないもののその少女が奏者のひとりであった事を侑は覚えていて、その光景を前に侑の精神が幾らかの平常を取り戻す。次いで視線を巡らせてみれば、その少女と同様に悔しさを噛み締め、或いは打ちひしがれる少年少女の姿がそこにはあった。

 

 そうして生まれた変化は、傍から見れば些か唐突なものであったのだろう。覗き込むようにせつ菜が侑を見ている。

 

「侑さん……?」

「あっ、ううん。なんでもないよ。ただ……少し、悲しいなって。そう思っただけ」

 

 侑の答えにつられるようにして彼女の視線をなぞり、謂わんとする所を察したせつ菜達は何も言わない。その沈黙こそは侑の心情への理解と同意の証明であった。

 

 詰まる所、このコンクールは形こそ違えどもラブライブと同じなのだ。参加者は己の夢と『大好き』のために今まで積み重ねてきた研鑽の結実を乾坤一擲の如くに披露し、しかし残るのはたったひとり。鎬を削り合った果てに待ち受けるのは勝者と敗者の存在という冷酷にも思える現実だ。

 

 そこに寂寞を感じるというのは、或いは不敬であるのかも知れない。ここに集った者達は皆それを了解した上で、それでも自らの夢を叶えるために己の総てを載せた音を奏でていたのだから。それは己が音で世界を彩るに等しく、侑たちはその色彩に魅せられた。だが残る色彩はひとつ。であれば、そこに寂寞を見出してしまうのも自然な反応ではある。ここに至るまでの研鑽と経験は無駄にはならないなどと、希望に満ちた事を言うのは夢破れた者のみの特権だ。部外者が口にすれば、それは愚弄にしかなるまい。

 

「勝者がいれば、その裏には敗者がいる。それは仕方ねぇ。だがオマエみたいにそれを寂しく思うのも当然だし、夢破れた敗者が悔しく思うのも自然だ。

 だから……割り切れず責任を感じちまうヤツがいるのも当然なんだろうな」

「責任……?」

「あぁ。責任だ。()()()()()()()()()

 

 一切の迷いなく、断言するかのような口調で大雅は言い切る。侑達がそこに嫌に真に迫った実感めいたものを感じ取ったのは、決して間違いではないだろう。宗谷大雅という少年は虹ヶ咲学園のサッカー部において優秀な成績を残す筆頭(エース)である。故に彼はこれまで決して少なくない相手を下し、その涙を見てきた。故に誰よりも知っているのだ。誰かの夢を奪った責任を。

 

 だが、果たしてそれだけであるのだろうか。大雅の瞳は侑たちの方へ向けられてはいないが、しかし過去を捉えている訳でもないように彼女らには思えた。茫洋とした彼の視線は舞台上に鎮座するグランドピアノに注がれ、それを通して何かを見ているようでもある。そこに、侑は大雅の内心を見た。

 

「……彩歌くんも、そうなのかな」

 

 侑から見て、彩歌の演奏はおおよそ至高と言っても良いものであった。些細なミスのひとつもなく完璧に譜面を弾き熟す圧倒的な技術力と、それに基づく筆舌に尽くし難い表現力。それは才能などという簡単な表現で片づけられるものではなく、むしろ壮絶な修練に裏打ちされたそれであった。そして奏でられる音色には確かなに音楽が好きな気持ちがあって、けれど同時に何か違和感もあったのだ。まるで自分の気持ちに抑制(ブレーキ)を掛けているかのような。一方で既視感めいた感覚もあったが、それは今は問題ではない。

 

 もしもその抑制の正体が大雅の言う責任であったのなら。そこまで考えた時に侑の脳裏を過ったのは先日、偶々出会い言葉を交わした時に彩歌が見せた表情であった。柔和な微笑であるというのに何処か哀哭めいていたそれ。そして責任という発言は、あまりにも現在の推測と符合している。

 

 そんな思考を巡らせる侑を隣で見ている歩夢は場違いだと自覚しつつもドギマギとした思いを抱きつつも、同時に自身の大好きを抑制するその在り方に嘗ての自分に近しいものを感じていた。彼女もまた、スクールアイドルに出会うまで自らの気持ちを我慢し続けていたが故に。

 

 幾許かの間、絶える会話。再び口火を切ったのはせつ菜であった。

 

「きっと、そうなんだと思います。彩歌くん自身は否定するのでしょうけど、彼は優しい人ですから。でも……」

 

 順序がおかしい。せつ菜がそう感じてしまうのも決して無理からぬ事である。彩歌は自らの実力に人並の信任を置きこそすれ、結果が出るより先に勝利を確信して勝手に責任を感じるような傲慢ではない。

 

 だが演奏に先んじて彩歌の裡に在った責が由来を勝者となった事とは異にするのであれば、その矛盾は解消される。それは何も知らぬ者からすればあまりに突飛な発想ではあるけれど、せつ菜の中ではむしろ嫌に現実感を伴って存在を主張していた。けれど、或いはだからこそ、確信できる事もある。

 

「それでも、彩歌くんはピアノが、音楽が大好きな事は変わらない。その筈です。だって、そうでなければ……」

「こんなにトキめく訳がない。でしょ?」

 

 せつ菜が言わんとする所を悟り、先取りする侑。悪戯なその笑みはせつ菜への共感を何より如実に表し、歩夢もまた同質の笑みを浮かべていた。そんなふたりに、せつ菜は首肯を返す。

 

 たとえ彩歌が自らの過去とその責任感のために自身の気持ちに嘘を吐き続けているのだとしても彼の心底には確かに『大好き』が残っていて、だからこそ人を魅せる演奏ができるのだ。せつ菜はそう確信している。或いはそれは、嘗ての彼女もまたそうであったからだろうか。

 

 事ここに至り、せつ菜は真に理解する。原因となった因果こそ異なるが、嘗ての彼女と今の彩歌は同じなのだ。自身が犯した所業とその責任のために心に鍵を掛け、自らの声に耳を塞いでいる。それが如何なる行いであるか知ればこそ、彩歌はせつ菜がそうなる事を厭ったのだ。そのために今のせつ菜の事を知りたいと言ってまで。そうまで想われている事に、せつ菜はこそばゆさにも似た喜びを覚える。

 

 だがせつ菜の背中を押し正道に押し戻しても、彩歌自身は未だ自縛に囚われたままだ。ならば己が為すべきはひとつだと、せつ菜は規定する。嘗ては自らが背中を押されたというのであれば、今度はそれを返さなければならない。たとえそれが自己満足だとしても、それが今の彼女の“やりたい事”であった。決意と言うのはあまりに大袈裟に過ぎようが、さりとて間違いでもあるまい。

 

 ──しかし。彼女の決心に茶々でも入れるかのように、不意に舞台上の喧騒が増す。見ればその喧騒の発生源は舞台袖であるようだが、何処か慌てているようにも伺える様子は撤収準備と言うには些か異質だ。

 

「どうしたんだろう。何かあったのかな……」

 

 (ささ)やかに、けれど明らかに漂う異常の気配に、不安げな声を洩らす歩夢。その直後、大雅が小さく呟いた。

 

「──まさか」

 

 それだけを言い残し、大雅は席から立ち上がるとそのまま足早に喧騒の方へと向かっていく。或いは奇行とすら言えるそれに狼狽するせつ菜らであったが、3人で顔を見合わせて頷き合うと、その後に続いた。彼女らの性格上そのまま見過ごす事はできなかったし、何より明確な根拠の無い“嫌な予感”を感じているのは彼女らも同じであったのだ。

 

 幸い閉会後で参加者はその大半が帰宅の途に就き、撤収作業も始まる前であるためかスタッフの数もそう多くない通路に人影はまばらであったため4人を阻むものはそう多くはなかった。尤もそうであるが故に残ったスタッフらからは注意を受けるが、謝罪の言葉を口にしながらも足は止めない。胸騒ぎはよりその存在感を増し、焦燥が加速する。そうして一際厚い人だかりを掻き分けたせつ菜らの視界に飛び込んできたのは、為されるがままにされる彩歌と彼のジャケットの襟を掴み、鬼気迫る、或いは悲壮にも見える面持ちを向ける美律であった。

 

「な──」

 

 訳が分からない。先程まではこの場にいなかったせつ菜が状況の理解に数拍を要したのは、全く自然な事であった。しかし時は彼女らの理解が追いつくのを待つ事もなく、美律の口からは悔恨の熱が迸る。その殆どは余人の理解が及ぶ所ではなかったが、その先に待つものが何であるかを大雅は確信していた。故に止めようと踏み出し、しかし一度露わになった歪み、遂に追いついた因果を押し留める事はできない。

 

「どうして……どうしてあんたが、あんたなんかが、ピアノを続けてるの‼」

 

 彩歌が積み上げてきた研鑽、そのために費やした時間や彼の気持ちすらも真っ向から否定するかの如き憤怒の咆哮であった。感情の昂りのためか瞳には涙さえ浮かんでいる。しかしそれを向けられてさえ、彩歌は何も言わない。まるでそれを浴びせられるのが当然であるかのように。

 

 あまりにも理不尽な振る舞いである。だが、どうしてだろうか。せつ菜には彩歌だけではなく激憤の内にある筈の美律までもが拭えぬ過去に囚われているようにも見えてしまう。その理由すら判然としないまま、不意に彩歌の孔雀青とせつ菜の漆黒がかち合う。

 

 

 それが、号砲ででもあったかのように。

 

 

 遂に因果は、現在(いま)へと追いついた。

 

 

「──()()()()()()()()()()()()()()()()()‼」

 

 

 


 

 今更一瞥もせずとも文面を諳んじられる程に見慣れた賞状と金色の鍍金がくまなく張り巡らされた小さく簡素なトロフィー。表彰式を兼ねた閉会式が終わった後に彩歌の許に残ったそれらは、彼がこの東京予選において第1位という成績を修めた証明であった。

 

 この上無い結果である。彩歌だけでなく参加者全てが目指した、至上の成績である。だがそれらを目の前にしてさえ、彩歌の面持ちは至って平静のそれであった。歓喜していない訳ではない。けれど、彩歌にとってこの成績は己が為すべき過程を成した証左であり、それ故か歓喜を打ち消す程の安堵が胸中にあった。

 

 また、彼にとってはこの場はあまりに息苦し過ぎるというのもある。周囲に残る他参加者から彼へと向けられるのは技量への賞賛や尊敬だけではない。妬みや嫉み、怒りといった感情はたとえ数は少なくとも比類ない存在感を放つものだ。神才(真野愛歌)カラフルスター(真野陽彩)の息子だから。八代詩音の弟子だから。そういう物言いで悪意を向けられるというのは、彼にとっては慣れたものだった。

 

 だが慣れているとしても、居心地が悪いのは変わらない。故に彩歌は誰と言葉を交わす訳でもなくその場を後にしようとして、しかしそれを呼び止める声があった。

 

「待ちなさいよ、彩歌。……あんた、愛歌先生の教えを忘れたの?」

 

 美律から投げ掛けられた問いに、彩歌はすぐには答えを返さない。だがそれは彼が美律を無視しているのではなく、美律から問いを向けられたという事実への驚愕から来るものであった。再会してからというもの、彼女は怒りをぶつける事しかしてこなかったから。問われるとは想像していなかったのだ。

 

 声音は変わらず憤怒に彩られている。だが声が震えているのは全く別の要因から来るものであるようで、そのせいか彼女の気配は何かを堪えているかのような気配に満ちていた。それが分かっていても、彩歌の答えは変わらない。

 

「忘れてないよ。〝音楽はまず自分が楽しまなければならない〟……忘れるワケがない」

「っ……じゃあなんでッ……なんであんたの演奏はああなのよ!」

 

 厳然たる現実を諳んじるだけの彩歌の答え。たとえ相手が友好的でないとしても問いに対して虚偽を述べるのを彼の誠実は自身に許さない。或いはそれもまた悪手であると理解していても。

 

 そうして返された解を受けた美律はいよいよ抑制を忘れ、彩歌の襟を掴んだ。その拍子に彼は背中を壁に打ち付けられるが、痛みは無い。勢い自体が大したものではないというのもある。けれどそれと同等に彼は混乱していて、それが痛覚に優っているが故の結果でもあった。

 

 何も知らぬ者からすれば美律の態度は彩歌にただ怒りをぶつけているだけのそれだろう。彩歌から見てもそれは変わらず、しかしその憤怒は先程までのそれとは些か性質を異としているようでもあった。まるで彼が変わってしまった事を責めるかのように。或いは、変わっていなければ赦せたのにと嘆くように。

 

 しかし、赦すとはいったい何を赦すというのか。彩歌か、それとも彼を今のようにしてしまった同門(じぶん)達か。それを暴く手段は彩歌には無く、またあったとしても答えは変わらない。『誰のせいだと思ってる』と。出かかった身勝手な反論を喉元で押し殺し、呑み下す。

 

「今の俺に……そんな権利は無い。無いんだ。だって俺はまだ義務を果たしてない。そうでなきゃ母さんは、何の為に……」

 

 耳元で雨音の幻聴が煩い。それに導かれるようにして彼の脳裏を過るのは鋭いブレーキ音とそれに続く衝撃音。そして、雨と混じり合い地に広がる赤。最小単位のサバイバーズギルト。振り切るように弱弱しい早口で答える彩歌の意識には、彼らを遠巻きに見る野次馬の存在は一片とてありはしない。それは彼の解答に虚を衝かれた美律も同じであり、それを目の当たりにした彩歌は彼女の真意を悟る。

 

 数年もの時間を空けてでも美律が為そうとしたのは、要は共倒れだ。彼らを縛る過去の起点にして()()()()()()()()()()()()()()()彩歌を打倒し否定することで、嘗ての教えを否定する。自分達同門の根幹を破壊することで、自身らの音楽そのものに見切りを付けようとしたのだ。自分らを縛っていたのはこの程度のものだったのだ、と。己の道程さえ陳腐化し、吐き捨て、踏み躙る。この数年はそのための時間だった。

 

 だが彩歌が今のようになってしまったのは彼の同門たる自分達の所為で。それを認めてしまえば、前提が崩れてしまう。それを厭うかのように美律は言葉を募らせ、彩歌はそれを正当なものとして反論さえしない。だからだろうか、遂に彼女は言ってはならない悲鳴を漏らす。

 

「どうして……どうしてあんたが、あんたなんかが、ピアノを続けてるの‼」

 

 いっその事、彩歌がピアノ、ひいては音楽を辞めていれば何もかもをその程度のものだったと棄てられたのに。誰も彼もが過去に縛られていて、そこから抜け出せずにいる。

 

 対する彩歌は何も返せない。音楽を続けて良い人間ではないと彼は自分自身を思っていて、けれど辞める訳にはいかないのだ。辞めてしまえば何もかもを無駄にしてしまう事になる。それだけは許容できず、なれば今彼にできる事は何もない。どん詰まりを前に彼は天を仰ぎそうになって、瞬間、いつの間にかその場にいたせつ菜と目が合った。

 

 何故、彼女らが此処に。それを理解する猶予すら、彩歌には無かった。

 

「──あんたのせいで、愛歌先生は死んだのに‼」

 

 それは、言ってはならない一言だった。彩歌の為などではない。彼ら愛歌の門弟自身の為にそれは口に出すべきではなく、しかし放った言葉は戻らない。

 

 足元が抜けたかのような感覚だった。視界が歪み、聴覚が雨音に塗り潰される。感覚が現実から剥離する。そうして空虚となった認識の漆黒に、膿んだ傷口から過去が染み出してくる。愛歌の死を知らぬ者らの前で真実の一端を晒されるというこの状況は彼が嘗て経験したものであり、まさしく未だ消えぬ爪痕(トラウマ)の再現であった。

 

 その場にいる誰も彼もが彩歌に対し口々に何かを言っている。無論、それは幻覚だ。色濃く残る過去より来る身勝手な被害妄想だ。何故なら今この瞬間、せつ菜や侑、歩夢と大雅は尋常ならざる様子の彩歌を心配して駆け寄り、美律は自分達が彩歌に残した傷跡の結末を初めて目の当たりにして動揺している。理性はその現実を何処か他人事のように理解していて、それでも幻は消えてくれない。

 

 違う。違う。止めろ。彼ら彼女らは、せつ菜は、侑は、歩夢は、そんな人じゃない。それに愛歌の死に関わりの薄い人間が怒る道理などある筈がない。声なき声でそう叫んでも目に浮かぶ幻は消えてはくれず、雨音は現と変わらぬ威勢で彼を叩く。その中で人々は彩歌を指差し、そして、幻覚の幼馴染(菜々/せつ菜)が、口を開いた。

 

 

 ───あなたが、死ねばよかったのに。

 

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