【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

25 / 53
第23話 ナンジ、手を握らんとするならば

 ガラス張りの窓から覗く渺々とした空は見慣れた蒼さを誇り、その中をいくつかの綿雲が悠々と泳いでいる。早足で廊下を駆けていく生徒達は昼食を目当てにカフェテリアに向かっているのだろうか。外気を取り込むために開け放たれた窓からはグラウンドにて昼練習に勤しむ運動部の掛け声も聞こえてきている。

 

 それらは全て平時と違わぬ日常の色彩。相も変わらず今日も世界は平穏であり、日常は廻り続けている。それは良い事だ。けれどどうしてか、その裡に在って菜々の胸中には形容し難い靄のような感覚があった。或いはそれは、いつも通りという色彩の裏でそこに組み込まれる事を許されない異状(シミ)の存在を彼女は知っているが故だろうか。

 

 常ならば昼休みも生徒会室にいる事が多い菜々がこの場にいるのを不思議に思っているのか周囲の生徒達は物珍し気な視線を彼女に向けているが、話しかけてくる事はない。薄情にも思える処方であるが、今の彼女にとってその対応はむしろ有難いものでもあった。だがそんな遠慮を意に介さず、彼女の後方から快活な足音。

 

「菜ー々先輩っ!」

 

 思案に費やされた意識に割り込む声。それにより忘我から引き戻された菜々は反射的に声の方へと振り返ろうとし、しかしその途中、頬に柔らかな感触を覚えた。見れば人差し指で頬を軽く突かれている。唐突に呼びかけて振り返った相手を突くというあまりに古典的な悪戯だが、成功させた少女──中須かすみは得意げな笑みを浮かべていた。

 

「にっひっひ、引っ掛かりましたね菜々先輩! 油断大敵ですよっ!」

「かっ──中須さん……何か御用ですか?」

「菜々先輩が浮かない顔をしていたので、かすみんのハッピースマイルをお届けですっ。辛気臭いカオしてると、幸せが逃げちゃいますよ?」

 

 そう言って笑むかすみの表情はスクールアイドルとしてステージに立つ時のそれと同じ、太陽の如き笑み。深刻そうな顔をしている相手に軽い悪戯を仕掛けた挙句のそれは傍から見ればおちょくているようでもあろうが、それがかすみなりに菜々を心配しての事だと気づかない菜々ではない。それを受けて、菜々も微かに笑む。

 

 かすみが偶然にもこの場に居合わせたのは何という事は無い、彼女がしずくや璃奈と合流するために他学科の教室方面に向かっていた途中で菜々を見つけたという、ただそれだけの事であった。それだけならば何ら不思議な事もないものの、見かけた菜々の表情が菜々/せつ菜としては珍しい懊悩を感じさせるものであったが故に見ているだけというのもできず話しかけたというのが経緯であった。オホン、と咳払いし、かすみが問いを投げる。

 

「それで、何があったんですか、菜々先輩?」

 

 心配半分、呆れ半分といった具合の声音であった。今回のように深刻な顔をしている事こそあまりないが菜々は生徒会長として何らかの対応に追われている事も少なくなく、かすみの脳裏には今回もそういった類である可能性もあったのだろう。だが答えに窮するような菜々の様子に、かすみがそれを棄却する。

 

 菜々としても、今回の一件は言語化に困窮するものであった。そもそも菜々からすればかすみと彩歌の関わりはその多くが彼女の知る所ではなく、であれば説明するにも苦労するという発想に至るのは自然な事だ。加えて先日の事は他言するにはあまりに個人の事情に踏み入り過ぎているというのもある。

 

 だがそんな菜々の応対に空いた一部の間隙から、かすみは何かに気付いたのだろう。解答が投げ渡される前に口を開いた。

 

「もしかして、彩歌先輩と何かあったんですか?」

「っ──!」

「ビンゴって顔ですね! ふっふっふ、この名探偵かすみんには何でもお見通しですよ!」

 

 菜々は何も答えていないが、その表情から自身の推測が正しいと分かったのだろう。再び得意げな笑みを浮かべながら、かすみは大仰なポーズなど取ってみせる。だが菜々の驚愕も無理からぬ事であろう。何しろ彼女はまだ何も言っていなかったのだから。

 

 しかしかすみ、或いはある程度事情を知る余人からすれば、それはあまり難しい推理ではない。元より菜々に個人的な関わりのある他学科の生徒はそう多くなく、それが同好会のメンバーであれば自ずとかすみにも知れている筈だ。そうでないという事は相手は同好会所属でなく、そんな相手は彩歌を置いて他に無い。大雑把な推理ではあるが当てられてしまった以上は解答を避ける訳にもいかず、言葉を選びながら菜々は顛末を語る。

 

 曰く、事の由来は先日のコンクール後まで遡る。嘗ての同門たる少女との騒動の最中、菜々達の前でいつかの雨の日と同じ、けれどより甚だしい過呼吸発作を起こした彩歌であったが、幸いにも意識を失うといったような事は無かった。しかし彩歌自身が精神的・肉体的に消耗していた事や事情を知る大雅から「今はそっとしておいてやってくれ」と告げられた事でその日は患いが解消されぬままに別れとなったのであった。

 

 だが見てしまった以上、知ってしまった以上は何もせずにいられず、何が正しいかも分からないまま彩歌を探したものの、未だ出会えないのである。故に確かな事はまだ分からないけれど、菜々の裡には彩歌についてあるひとつの確信があった。それを明文化するために必死で言葉を探し、やがて一言だけが口を衝いて出る。

 

「……彩歌くんは、以前の私と同じなんです」

 

 あまりに要領を得ない解答であった。しかしかすみからすればこれ以上ない答えでもある。前同好会に纏わる一連の出来事において、彼女は当事者のひとりであったのだから。或いは現状、かすみと彩歌の関わりがその騒動の中で完結する程度のそれでしかないのが奏効したのだろうか。

 

 だがその相同の中で、互いの立場だけが違っている。思いも意思も既に定まっていながら為すべきが曖昧である姿を、かすみは既に見ていた。だが無理からぬ事でもある。思いを貫くにも、無軌道であったのならば独り善がりに終始してしまう事さえあるのだから。

 

 応酬に生まれた空白。それを不思議に思い菜々がかすみの方に視線を戻してみれば、かすみは何処か呆けた表情を浮かべていた。菜々が首を傾げる。

 

「菜々先輩でもそういうコトで悩むんですね。何だか意外です」

「わ、私だって、悩む事くらいありますっ。それに、彩歌くんは私の……」

 

 私の、何だと言うのか。些か不貞腐れたような菜々はそれ以上に言葉を紡がず、そこから先を想像する材料がかすみには無い。だがそれが何であるにせよ、その表情を目にした瞬間にかすみの中で菜々のイメージと現在の懊悩の間にあった齟齬が是正される。たとえ些細な定義が多少異なっていようとも相手が大切なのであれば、菜々が悩む事がある。旧同好会が空中分解してしまった時のように。そこには未だ彼女の脳裏に先日の彩歌の目──他者全てを恐れるかのような瞳が残留しているというのもあるかも知れない。

 

 始まったのなら、貫くのみ。『優木せつ菜(スクールアイドル)』として復帰した際に菜々が得た信念だが、それは何も悩まないという事ではないのだ。

 

 要は、菜々/せつ菜は優しすぎるのだ。漠然と、しかし確かにかすみはそう感じる。だがそこには嘗ての彼女が犯した愚の影が見え隠れしていて、ならば今、かすみがそれを聴き届けたのはある種の行幸であったのだろう。

 

「ふふふ、菜々先輩も抜けてますねぇ」

「抜けている……ですか?」

「そうです。だって、手を振り払われてもまた繋げるじゃないですか。逃げられたら、逃げられないようにしちゃえばいいんですよっ」

 

 返す言葉が、すぐには見つからなかった。もしもそれを告げたのが他の誰かであれば、菜々もそうはならなかっただろう。けれど他でもない、中須かすみからそれを告げられたという事実が大きな意味を伴って菜々の胸の裡に響く。

 

 手を伸ばしても相手がそれを掴もうとしないのだとしても、振り払われるのだとしても、思いを貫く。さながら、避けられているのならば避けられないようにしてしまえ、とでも言うかのように。今まで菜々と彩歌の間にあった行儀の良いワガママではなく、もっと自儘に。

 

 つまりは相手が背中を押される事を望んでいないのなら、無理矢理にでも手を掴んで引き上げてしまえばいい。いっそ横暴とすら形容できる処方だが、不思議とそれは菜々の胸の裡に落ちてそこに在った靄を打ち払うようであった。そうして視界が晴れ、菜々はそこに己の為すべきを見る。

 

「強引なのもせ──菜々先輩の持ち味じゃないですか。心配してるだけなんて、菜々先輩らしくないですよっ」

「その物言いには思う所がありますが……ありがとうございます、中須さん。私がするべき事がこれではっきりとしました」

 

 明朗な菜々の返答にかすみは満足げな笑みを見せ、菜々もまた笑みを以て応える。そこに先刻までの懊悩の影は無く、代わりに決意の気配が満たしていた。始まったのなら貫くのみ。思いを如何に貫くかが定まったのなら、後は走らせるのみだ。

 

 もしも己の大切な人が恐怖と懊悩、自罰の中にいるというのなら、己がその手を握ろう。たとえそれがワガママな独り善がりだったとしても、為すべきと信じた事を為す。嘗て彼女に対して、彩歌がそうしたように。至極単純な事だと菜々は決意し、その決意の前にあっては道行の臨みを阻む暗雲は無力であった。

 


 

 西方より押し寄せる斜陽の鯨波が都会の無彩色を茜色に沈め、東方の空からは夜闇が染み出してきている。都心ではあるがコンクリートジャングルからは遠く、無秩序な喧騒とは無縁だ。肌に感じる営みの気配は無機質であり、その中を彩歌は自宅に向けて独りで歩いている。

 

 彩歌が今まで送ってきた日常(テンプレート)と照らしても、今日は何という事もない一日であった。ごく普通に登校し、授業を受け、放課後は管理担当の教師から許可を得て音楽室に籠る。言葉にしてしまえばそれだけであり、特筆するような事は何もない。ただひとつ、せつ菜や侑といった人々に遭遇しないよう立ち回っていたという事を除けば。

 

 全く以て愚かしい処方だ。自意識過剰と詰られても仕方のない対処だ。そんな事では何も解決しないというのに。それを彩歌は自覚していて、けれどそれを圧殺する感情が彼を縛っている。即ち、それは()()であり()()だ。彼の脳裏には未だ先日の幻想が張り付いて、その存在を主張している。彩歌(おまえ)は咎人なのだと。今、こうして生きている事自体が罪なのだ、と。

 

 ならば、そんな人間は彼女らといるべきではない。それが分かっていながら、彩歌は優しさに甘えて関係を続けた。一度は平穏の裡に消してしまおうとしながら、親友(とも)に諭された責任を言い訳にして。故にこそ先日の露見はその罰なのだろう。分不相応な安寧に浸り続けた罰だ。

 

 そう、元よりこの身が今も在る事を許されているのは、自身の所為で失われたモノを贖うため。罪の清算のため。その自己定義/自縛から外れてはならない。痛みと共に自らを呪縛し、不要物を心底の孔に押し込める。せつ菜やかすみ、父のライブを目の当たりにして胸中に生まれた光輝(トキメキ)さえ、未定義として追い遣った。

 

 痛哭する心を頭を振って払い落とし、意識を無理矢理に現へと還す。すると自宅は既に目の前で、けれど彩歌はそこに、在る筈の無いモノを見た。夜空を梳かし込んだが如き艶やかな黒髪と綺羅星にすら優る輝きを湛えた漆黒の瞳。多少離れた場所からでも、彼がその姿を見紛う筈もない。そこにいたのは彼が避け続けた筈の人、優木せつ菜であった。

 

「こんにちは、彩歌くん」

「優木さん……⁉」

 

 存在を気づかれてしまえば、最早逃避は許されない。彩歌の声音には驚愕が宿り、身体は硬直していた。何故、彼女がここに。反射的にそう思案し、解答はすぐに見つかった。元々、彼女は彩歌の家が何処であるかを知っている。彩歌はそれを以前せつ菜の涙を見た日に知っていた筈なのに、そこにすぐには思い至らなかった。あまりに愚昧だ。

 

 せつ菜の漆黒と彩歌の孔雀青がかち合う。瞬間、未だ脳裏に宿る妄覚がその存在を強め、理性を超えて彼を襲った。彼女はそんな人ではない。そう主張する声を押し流して、過去より来る因果が彼を縛る。

 

 彼我の距離は未だ結構なもので、すぐに詰める事はできまい。だがこうなってしまっては、観念して応答する以外の処方を彼は知らなかった。

 

「……何の用だい、優木さん? 男の家に先回りしているなんて、ファンが見たら勘違いしてしまうかも知れないよ」

「そうかも知れませんが、こうしないと貴方に会えそうになかったので。待っていました」

 

 忠告と質問の体を取りつつも剣呑な彩歌の声音にも、せつ菜は動じない。彼女は気付いてるのだ。彼女を厭うかのような彩歌の態度は、その実さながら追い詰められた小動物が最期に見せる威嚇が如きもの、弱い己を必死に隠そうとするが故のものだと。

 

「そうまでして会いに来たっていうのかい。俺はずっと……キミに、嘘を吐き続けていたようなヤツなのに」

「そうですね。貴方は嘘吐きです。大嘘吐きです。でも、その嘘ももう終わりです。もう、嘘を吐く必要は無いんですよ、彩歌くん」

 

 そう言いながらせつ菜は彩歌の方へと一歩を踏み出す。彩歌は後退りすら己に許さず、意識はせつ菜の物言いに潜む違和に囚われていた。そして、その解に辿り着くまでにそう時間が要る筈も無い。──彩歌が隠していた真実に、せつ菜は気付いている。

 

 元よりせつ菜には違和感があったのだ。以前彩歌が話した、彼が中学時代に遭ったという交通事故。そこに情報の欠落があるのは彼女も気づいていて、ずっとそれが引っ掛かっていた。その正体に至ったのは他でもない、コンクール後に起きた一件を経ての事だ。

 

 飲酒運転の車による信号無視とそれに巻き込まれた憐れな少年。この図式に虚偽は無い。だが欠落があって、その解とは“()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()”という事。そうして母の犠牲の上に助かった息子こそが彩歌なのだ。それなりの期間を意識不明のまま過ごすような事故に遭いながら現在まで続く身体的な不自由が無い事にも、それで一定の説明が付く。

 

 無論、これは事実の一端でしかない。その後の彩歌の身に何が起きたかをせつ菜は知らず、けれど今の彩歌の目を見れば自ずと察しも付くというものだ。全ての虚飾が無力と化して引き剥がされて露わになった、他者への恐怖を湛えた目を見れば。つまりは彩歌はずっと虚勢の仮面(うそ)で弱い己を隠していたのだ。

 

 遍く欺瞞を暴き出され、立ち竦む他ない彩歌。せつ菜はそんな幼馴染の目前まで歩み寄ると、その右手を取り額を胸板に押し付けた。あまりに予想の外にある行動に彩歌の身体が跳ね、疑問の宿る視線を落とす。

 

「あの時と同じですね。彩歌くんの手……震えてます。

 どうして……どうして、何も言ってくれなかったんですか」

「……これは俺の個人的な事情だ。キミには関係が──」

「──関係ありますッ! 関係無いワケ、ないじゃないですか……」

 

 この期に及んで本心を隠そうとする彩歌の言葉を遮り、せつ菜が叫ぶ。そこに込められた瞋恚も分からぬ彼ではなかったが、だからこそ訳が分からなかった。彩歌が事故に遭い愛歌に庇われた事も、その後の事も、彼女には直接の関係が無い筈なのだから。彼女が怒るべきは彩歌がずっと"いつも通り"、或いは"笑顔"の仮面(うそ)を被り続けた不実にあるべきで、だが彼女の瞋恚はそこにあるものではない。

 

 脳内を占める困惑により対応が遅れる彩歌。しかしそんな彼をよそにせつ菜は彼の右手を離すと、両手で彼の身体を拘束してしまう。その抱擁は、まるで彼が逃げるのを厭うかのように。或いは、彼を引き留めるように。こうなってしまえば、彩歌は最早身じろぎすらできない。

 

 分からない。彼女がこうも関わろうとする所以も、伝わってくる体温も。二の句が継げずにいる彩歌に、せつ菜は更に言葉を投げる。

 

「彩歌くん、言っていたじゃないですか。笑っている私の姿が好きだったって。ずっと笑っていて欲しかったって。

 私だって同じなんです。私だって笑っている貴方の姿が大好きで、だから彩歌くんが幸せでいられないのは、嫌なんです」

「っ……!」

 

 息を呑む。それを言われてしまえば、最早彩歌は反論ができない。何故ならかの日の屋上にて彩歌がせつ菜に告げた思いに嘘は無く、そこに至るまでに本来なら自身と関わりの無い事象に首を突っ込んだのは彼とて同じなのだから。自身のワガママを押し通した彩歌は、同質であるせつ菜のワガママを否定できない。

 

 だが、こう言われてしまえば最早目を逸らせない。せつ菜の悲憤は決して、彼の命が母の犠牲の上に在る事に対するものではない。彼女の怒りは彩歌にそんなものを背負わせた実体の無い何かに対するものであり、彼の仮面に気付かなかった己へのものであり、そして、恐怖故に周囲と正面から向き合う事から逃げて孤独でいようとする彩歌へのものでもあった。嘗て彩歌はせつ菜の孤独を祓いその手を握ろうとしたのに自身は相手にそうさせないなどと、そんなものはあまりに不公平が過ぎる。

 

 制服越しに触れ合う肌から伝わる体温が身体の奥底に染み入り、恐怖に冷え切った心を溶かしていく。恐怖や自罰そのものが立ち消える訳でなくとも彩歌の心の自由を僅かでも取り戻させるには十分で、だからだろうか、せつ菜が抱擁を解いて数瞬、彩歌は名残惜しさにも似た感慨を覚えてしまう。

 

「えへへ、改めて言うと、何だか恥ずかしいですね……でも、嘘は言ってませんよ。私は絶対に、彩歌くんの味方です。たとえ、彩歌くん自身が“貴方”を否定しても。貴方が私にそうしてくれたように」

 

 味方。それは幼い頃に彩歌が己に規定し、貫いた在り方。しかしそれは相手の行動を盲目的に肯定するのではない。傲慢にも相手の本心を定義し、その心に味方するという事だ。故にこそ彩歌はせつ菜がスクールアイドルを辞めようとする事を阻止した。相手の為ではなく、それは己のワガママだ。

 

 ならばそれはせつ菜とて同じ事。彩歌が己にも他者にも嘘を吐き自身の本心を隠そうとするなら、彼女は勝手でもその本心を規定してその味方をする。だがそのためには必要な事がある。自身の両手で彩歌のそれを包み、せつ菜が告げる。

 

「だから、私に教えてください。()の彩歌くんの事」

 

 相手の心を規定(りかい)するためには、解り合うためには、まずは相手を知らなければならない。相手の“今”、即ち相手を構成し続ける過去から現在に至るまでの総てを。故に以前の彩歌はせつ菜にそう願い、今度はそれを願われている。

 

 そして願われたのならば、それに応えないという選択は彼には許されない。願いは光となって有無を言わさず彼の心を照らし、暴かれた妄覚(トラウマ)は彼女の前に在っては最早無力だ。

 

 以前、せつ菜は彩歌に言った。きっと自分は彩歌に自分の事を知ってほしいと思っていると。それは“誰かに己を知ってほしい、知っていて欲しい”という人間の根源的(プリミティヴ)な欲求より来る願いであり、“相手の事を知りたい、知っていたい”という願いもこれに同じ。どちらも人間の根源的欲求であり、しかし誰に対しても抱くものではない。

 

「優木さんは、優しいね。こんな俺にでもそう言ってくれるなんて」

「そうですか? 正直な気持ちを言っただけですよ、私は。……ふふ、デジャヴですね」

「あぁ、そうだね」

 

 彩歌の声音は自嘲と嘆きのように。対するせつ菜は何処か苦笑のように。了解を交わさぬままに応酬された意思のリブートは、言外の観念の宣誓であった。こうまで言われてしまえば、もう仮面は許されない。

 

 尤もそれは彩歌を自縛する恐怖と自罰の終焉を意味するものではない。それでも、せつ菜に願われたのならば、こうも言われてしまったのならば、彩歌にはそうさせた責任がある。責任は、果たさなければ。そうでなければ今の在り方さえ嘘になってしまう。

 

 深呼吸をひとつ。話すにも覚悟が要る。何しろ身勝手で横暴で弱くて到底見るに堪えない心根を晒すのだから。そうして数拍を置き、初めに口を衝いたのは「ごめん」という謝罪であった。すわ心変わりか、と表情を曇らせるせつ菜の前で、彩歌が続ける。

 

「ずっと……怖かったんだ。いや、今だって他人が怖い。他人から裏切られる事も、他人を裏切ってしまう事も」

 

 故に彩歌は笑顔の仮面を被り続け、他人から一定の距離を空け続けた。せつ菜や侑達に対してだけではない。或いは親友たる大雅や家族である陽彩、師である詩音にすらも。そうして他人に好都合な(やさしい)自分であれば裏切る事も裏切られる事も無い。“お前が死ねばよかったのに”などと、二度と言われる事も無い。

 

 恐怖と自罰とで己を縛り、己だけを裏切り続ければいい。それが彩歌が自身を守り、自己を贖いに費やすための術。あまりにも愚かにして幼稚である。自己への裏切りそのものが親しい相手への裏切りにも等しいと、彼は知らなかったのだ。

 

 だが今を以てその裏切りは暴かれた。ならば下手人は下手人らしくいなければならない。恐怖を言葉にして、幾許。少年は己が嘘を贖うべく、大切な少女に告げる。

 

「──でも、話すよ。正直、過去……キミと離れていた頃の事を知られるのはまだ怖いけど……今更だ。それに、キミにこうまで言わせてしまった責任は、果たさないと」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。