【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第24話 残響追憶:コレが運命(せかい)の悪意なら(前編)

 とある少年の話をしよう。

 

 誰よりも純粋にに己の”大好き”を追いかけ続け、それ故にあまりに無垢に過ぎた少年の話を。

 

 少年が幼い頃から、彼という存在の裡には音楽があった。父は嘗て一世を風靡したとあるアイドルグループのリーダーを務めていた元トップアイドル。母は大仰な肩書こそ持たぬもののその腕前から”神才”と渾名されたピアニストでありピアノ講師。そんな音楽一家とさえ形容できる家庭に生を受けた彼が両親の影響を受けて自身もまた音楽の道を志すのは、半ば自然な事であった。

 

 母からはピアノを。父からはダンスと歌を。それは或いは両親からの受け売り、模倣を始まりとするものであったのかも知れない。事実、物心付いた頃から少年にとって自らがそれらを嗜むのは当たり前の日常で、何を切っ掛けとするのかさえ不確かであったのだから。であればその始点にあるものは両親の真似事と考えるのが妥当だろう。

 

 だが始まりが模倣に依るのだとしても、何もかもが受け売りのままである筈も無い。少年が幼さ故の純真と無垢を原動力に音楽の道を猛進する中で芽生えた、自身の全存在を傾ける事さえ惜しくない激烈な情動。音楽への”大好き”は、誰の受け売りでもない、彼自身の裡から発生した感情だった。

 

 それがいつから少年の中にあったものなのか、明確な所は彼にも分からない。だが両親の模倣として音楽を始めた少年にとってその感情は、誰に影響された訳でもない、初めて自らの中から生まれたもので。それが彼の自我の構成要素として多大な部分を占めるようになった頃になると、至極自然な道理として彼は夢を抱くようになっていた。

 

 

 “いつか己の音楽で皆を笑顔にしたい”。それが、彼の夢だった。

 

 

 あまりに曖昧模糊としていて、それでいて壮大な夢である。さながら幼子が白紙の上に悠々と描き出す絵空事のような、あまりに現実感の無い空想である。或いは音楽を嗜む遍く少年少女が一度は胸に抱き、しかし冷厳なる現実の内で摩耗されながら棄ててしまう幼稚な理想。

 

 だが───少年はあまりに無垢だった。あまりに愚かで、同時に他の誰より直向であったのかも知れない。夢はいつか現実(ほんとう)になる。そんな、誰が言い出したかも分からない机上論を真っ向から信じ抜き、彼は幼童としての短くも貴重な時間の全てを自身の夢のために捧げた。

 

 無論、全てが順調であった訳ではない。その道程には敗北があり、挫折の端緒もあった。初めて出場したコンクールにおいて入選もできなかった経験もそのひとつであり、だが彼はそれらを悉く乗り越え己の力に変えていった。或いはその類稀なる克己心、自律心こそが、両親の天稟を唯のひとつも受け継がなかった少年に与えられた、数少ない天才性のひとつであった。

 

 そうして、少年──彩歌(さいか)が6歳であった時分。彼は己の夢の一端をその目で見る事になる。

 

 

 眼前に広がるは神殿の如き偉容を誇るコンサートホール。スポットライトに照らされ目が眩む程のステージとは対照的に照明の消えた観客席は仄暗く、地続きでありながら明暗が分かれた両者はまるで隣接しながらにして隔絶された異界のようだ。膨大な収容人数を誇る客席は観客で満載され、それが湛える静寂の空気は仮想の質量を獲得しステージに圧し掛かってきているかのようですらある。

 

 ステージに注がれるは千を超える視線。或いは成熟した大人であっても重圧に耐えかねて竦み上がってしまいそうなその中に在って、彩歌は笑顔のまま、時折口を開きかけながらも黙している。その気配に緊張の色は無く、孔雀青の瞳に宿るのは爛々とした輝き。そして胸に抱く小さなトロフィーは、彼がこのコンクールで第1位に選ばれた証であった。なれば今、彼の胸中を満たし言語化すら不可能な衝動の奔流を生み出している感情の正体とは歓喜を置いて他にない。だが、それは決して優勝という結果に向けられたものではなかった。

 

 そう、結果そのものはどうでも良いのだ。己の実力が認められた事も、嬉しくはあれど彩歌にとっては重要ではなかった。彼にとって重要であったのは彼がここに集った人々を笑顔にできた事。自分がピアノの演奏を心底から楽しんでいた事。優勝という結果は、余人が彼のそういう在り方に後から付加したものに過ぎない。

 

 その結論に至った時、彩歌は改めて自覚したのだ。自分は音楽が大好きで、己の音楽で以て人を笑顔にする事こそが何よりの幸せなのだと。そして、この瞬間こそは数多の人間が求めて止まない自己の意義に彼が到達した時でもあり、若くして彼は人生を懸けて果たすべき宿願を得たも同然であった。

 

 

 だが、これより後になってこの思い出を振り返った時、彼はこうも思うのだ。きっとこの瞬間こそは己が真理の絶頂に在ると同時に、その存在を夢に縛り付けられた時だったのだろう、と。

 


 

「彩歌はさ、今年もコンクールに出るんでしょ?」

 

 彩歌が中学校に入学して暫く経った頃の、とある昼下がり。真野邸のリビングにて僅かに開け放たれた窓より差し込む陽光とそよ風を浴びながら、ダイニングテーブルに突っ伏した美律(みのり)が彩歌にそう問うた。

 

 いくら彩歌と美律が友人であるとはいえ、家人ならざる人間が他所の家であまりにもリラックスしているその光景は、世間一般であれば異様の部類に入る事だろう。だが彩歌は美律の様子に何の疑問を抱いた様子も無い。彩歌の母である愛歌が営むピアノ教室にて教導を受けている彼らにとって、暇な時間を真野邸で過ごすというのは最早日常の一部であった。

 

 故に同門のひとりたる美律が自宅のリビングで寛いでいるというのも彩歌にとっては最早慣れた事であり、問いを受けた彼は手元の譜面から顔を上げて答える。

 

「勿論だよ。去年は全国でも良い所までは行けたけど、優勝は逃してしまったからね。今年こそは、絶対に勝つさ」

 

 詰まる所、目指すは全国優勝。不敵に笑いながらそう答える彩歌に美律は半ば呆れのような表情を返すが、面持ちとは裏腹にそこに彼を嘲るような意図はない。ともすれば大言壮語と一蹴されるような展望を臆面もなく言い放つ彼の度胸に苦笑はすれど、それが決して夢物語ではない事を彼女は知っているのだ。

 

 教室長である愛歌の愛息たる彩歌程ではないにせよ、美律もまた愛歌からピアノを習うようになってから長い身である。故に彼女は知っているのだ。今まで彩歌が積み上げてきた修練の総量とそれに裏打ちされた実力、そしてそれに基づく遍歴を。

 

 5歳の頃に初めてピアノコンクールに参加した彩歌は6歳の時分に初めて地区大会を突破し全国へと駒を進めた。その時こそ全国では特筆する成績を出せた訳ではないが、それ以来彼は毎年地区大会を通過し全国においても評価を上げ続け、去年は遂に全国大会において準優勝という成績を残すに至ったのである。

 

 あまりに突出したものではないが、十二分に輝かしい成績であろう。それを前にしては全国優勝という目標さえ強い現実味を持ってしまうような。だが彩歌にとって真に重要であるのは優勝という結果そのものではない事も美律は知っていて、だからこそ洩れた呆れであった。

 

「宮古さんは? キミも出るのかい?」

「そりゃあね。うちだってそのために練習してきてるんだし。……でも、あんたも出るなら地区の突破も厳しいかなぁ」

「フフ、そんなコト、思ってもないクセに」

 

 口許に手を遣り、彩歌は小さく忍び笑いを漏らす。何処か芝居がかった、聊か気障ったらしい所作であるが、それが幼い頃からの彩歌の癖である事を美律は知っていた。だからだろうか、彼につられるようにして、美律もまた口の端に笑みを覗かせる。互いに挑発めいた言葉を交わしながらも和気藹々としたそれは、気心の知れた仲のみに許された交感であった。

 

 彩歌と美律は友人であり、同じ師を戴きその教え──〝音楽はまず自分が楽しまなければならない〟──を共有する仲間だ。だがそれと同時に彼らは道を同じくし、ひとつの到達点を目指して競合する好敵手(ライバル)でもある。仲間で、好敵手。互いの実力を認め合う彼らは決して競わずして屈服する事はない。今は勝てずとも次。次も勝てないのなら、より修練を重ね更に次を目指す。その在り方を共有するが故に、挑発は戯れでもあった。

 

 それを再確認し、彼らが交わしたのは好戦的な笑み。それはさながら言葉に依らない宣戦布告であり、しかし幾許かの後、何かを堪えきれなくなったかのようにふたりは同時に噴き出した。互いが互いを好敵手と認識しているといえど、既に何度も繰り返され陳腐化した険悪と挑発は彼らにとってあまりに滑稽に過ぎたのだ。

 

 笑みにより緩んだ目尻から滲む涙を拭い、美律が言葉を続ける。

 

「でも実際、あんたは凄いよ。実力もそうだけど、やりたい事がハッキリしてる。自分の音楽で皆を笑顔にしたい……だっけ。バカみたいに壮大な夢だけど、叶えるために努力してる所、うちは尊敬してる。多分、他の皆も」

「えへへ、何だか照れるなぁ……でも、俺もまだまだだよ。母さんや父さんには、まだ及ばない」

 

 美律からの偽らざる賛辞に頬を染めた彩歌であったが、それはさして間を置かずして別の色に取って代わられる。それは言葉通りの謙遜や卑下、そして両親への尊敬、その他様々な感情が綯い交ぜになった混沌の色彩。明朗たる真野彩歌の裡から染み出した、(くら)い色相であった。

 

 だがそれは何も彩歌が両親を疎んでいるだとか、彼らに及ばぬ自身を恥じているだとか、そういう事ではない。でなければ彼は今まで音楽を続ける事も修練を重ねる事も、それどころかその胸の裡に夢を抱える事も無かっただろう。彼は己の偉大な両親を心底から尊敬しているからこそ、己もそう在りたいと願うに至ったのだ。両親の存在は、彩歌にとって光のようでもあった。

 

 だが彼らの光に魅せられたのは息子たる彩歌だけではなく、そして強すぎる光は目を()き、眼を曇らせてしまう。そうして暗んだ瞳は現実の容を捉える機能さえも喪失し、けれど灼かれた者はそれに気づかぬが故に時に己が見ている光の在処すら履き違えてしまうものだ。そういう時、人は嫉妬と侮蔑を込めてこう言うのだろう。──七光り、と。

 

 己の手で何かを為した時であろうと、彩歌が何度その謂れの無い悪罵を受けてきたか知れない。だがそういう時、悪罵を向けてきた者ではなく、そういう者の目を覚ませられない自身の非力に憤るのが彼の常であった。そこに気休めを欲する邪心は無く、故にその謙遜に美律は待ったを掛けられない。

 

「それに、凄いのはキミや皆もだよ。努力を理由に俺が尊敬されるなら皆もそうだし、俺は皆を尊敬してる。……勿論、キミもね。宮古さん」

「うぐ……あんたって時々、恥ずかし気もなくそういうコト言うよね……!」

「本心だからね。あえて偽る必要も無いでしょ?」

 

 そう言って彩歌は悪戯に笑い、美律は今度こそ反論を封じられてしまう。僅かに頬が紅潮しているのは果たして偽らざる賛辞を正面から受けた事によるものか、或いはまた別の要因によるものか。どちらであるにせよ、彩歌はその原因に気づかないのだろう。彼にとってはただ本心をありのままに伝えただけであるのだから。

 

 真野彩歌という少年は嘘を吐かない。それは美律を始めとした同門たちが共有してきた時間の中で獲得した共通認識であり、だからこそ美律に反論は不可能であった。たとえ彼の敬慕を無下にするような事を言おうとも、彼はそれを軽くあしらってしまうだろう。そこに世辞や虚飾は無く、言い募れば言い募る程に彩歌の言葉はより存在感を増していく。

 

 けれどこのまま一方的に落ち掛けられたままでいるのも悔しくて、美律は何度か深く息をする。そうして不可解な早鐘を打つ心臓を落ち着けてから思索を巡らせるけれど最適な反駁は見当たらなくて、そうしているうちに玄関の扉が解放される音が彼らの耳朶に触れた。足音はそのままリビングの方まで来て、彩歌が声を投げる。

 

「お帰り、母さん」

「ただいま、彩歌。……おや。美律、こんにちは。レッスンまでにはまだ時間があったと思ったけど、もしかして、待たせちゃったかな」

「いえ、気にしないでください。うちが来るのが早すぎただけなので」

 

 彩歌と言葉を交わしていた際の砕けた調子とは一転し、ひどく畏まった様子で美律は愛歌(まなか)の謝意を受け流す。いっそ不可解なまでの変わり身の早さだが美律の声音には愛歌に対する激烈なまでの恭敬の念が籠っていて、ならばそれ故の態度であることは疑いようもなかろう。

 

 であれば愛歌を見る美律の目に彩歌と対面している時とはまた別種の、かつ彼に対するそれよりも明瞭な熱が宿っているように見えるのも、致し方ない事であるのだろうか。愛歌の教室に通う生徒たちは皆彼女に対して尊敬や崇敬めいた感情を抱いていたが、中でも美律のそれは人一倍であった。ならば一見するとただ変わり身が早いだけに見える所作も、彼女にとっては平常なのだろう。誰しも自身が尊敬する相手の前では畏まるものだ。

 

 ともあれ愛歌が買い物から帰宅した以上、これからふたりはレッスンに入るのだろう。つまり美律との会話はここで中断であり、状況からそれを察した彩歌は机に投げ出していた譜面を再び手に取った。余白の雑筆はおろか五線譜に並んだ音符さえ手書きのそれは、彩歌が制作を進めている曲の譜面であった。シャーペンを手に取り、ノックカバーを顎の辺りに押し当てる。

 

 そうして意識が再度作曲に没頭するその刹那、彼は閉じかけたドアの隙間から美律が自身を見ている事に気づいた。作曲に移行しつつあった意識を彼女に向ける。

 

「ん。じゃあ、彩歌、また後で」

「うん。また後でね」

 

 互いにひらと手を振り、今度こそドアが閉まる。至って普通。何という事も無く、特筆には値しない、友人との何気ないやり取り。それさえ楽しくて、彩歌は微笑した。楽しいなぁ、と呟きながら。

 


 

 真野家の夕食において、3人が同時に食卓を囲む機会というのはそう多いものではなかった。

 

 未だ中学生の身の上であり特に部活動に所属している訳でもない彩歌と自宅の一角を利用して音楽教室を営む愛歌は夕方には家にいるのが基本であったが、一家の大黒柱たる陽彩(ひいろ)は大手アイドル事務所にて有望株のプロデューサーとして働いている身である。そのため彼はいつも朝早くに出勤し、彩歌や愛歌が眠りに就いてから帰宅する事さえ珍しくなかった。

 

 それ故か、稀に陽彩が夕方のうちに帰って来る事ができる日の夕食はいつもよりも少しだけ豪華になるというのが真野家の常だった。ただ家族全員が食卓に揃うというだけで些か大袈裟な処方であるのかも知れないが、彼らにとって一家の団欒というのはそれだけの意味を持つ行為であったのだ。

 

 この日の献立は炊き立ての白米にハンバーグ、生野菜サラダ、ミネストローネの4種。愛歌が一から作った、彼女の自信作であった。鼻腔を突く芳香により逸る心を宥め賺し、いただきます、と声を合わせる。何という事の無い食前の挨拶の一致さえ、久方振りの事だった。

 

「今日もお仕事お疲れ様、陽彩君」

「ありがとう。愛歌も、家事とか色々、お疲れ」

「ふふ、お安い御用だよ」

 

 軽く頬杖を突いて澄ました声音でそう返しながらも、それとは裏腹に愛歌の表情には隠しきれない喜色が滲んでいる。それを受けた陽彩もまた照れ臭そうに微笑し、その様はまさに言葉に依らざる交感だ。或いはそれは、結婚する前から続く彼らが共有してきた時間の質量が齎すものであるのだろうか。

 

 陽彩と愛歌は現在は夫婦であると同時に、幼い頃から互いに親しくしていた、所謂幼馴染というものであった。故に彼らは互いの長短も遍くを知り尽くし、その間には揺るがぬ相互理解がある。あえて言葉にせずとも通じ合うという確信と事実はそれに裏打ちされたものだ。

 

 彩歌はふたりの息子としてそれを知るが故にあえて口を挟む事はないが、彼とて年頃の男子である。両親の仲がいつまでも睦まじい事を幸福と思えど、眼前で惚気られる事には些か気まずいものがあった。故に、咳払いをひとつ。不可聴な夫婦の睦言を、子供の自儘を以て切って捨てる。

 

「夫婦仲良しなのはいいけどさ、息子の前でまでイチャイチャしないでよね」

「ハハハ、ゴメンな、彩歌。気を悪くしたか? それとも……ヤキモチか?」

「……そんなんじゃないし」

 

 唇を尖らせてそっぽを向きながらそう答える彩歌だが、彼自身、己の感傷が陽彩の言う通り子供のやきもちであることは自覚していた。尤も、それが父と母のどちらに向けられたものであるかは彼自身にすら判然としない。或いはそれはどちらにも向けられた感情でもあるのだろうか。

 

 息子のそんな態度から彼の内心を察したのだろうか、陽彩は空いている左手で愛息の柔らかな亜麻色の髪を撫でて、彩歌は唐突な父の行動に面食らい何か言いたげな顔をしつつも抵抗するでもなく受け入れている。そんな父子の姿に、愛歌が幸せそうに笑んだ。そのまま幾許か、陽彩は僅かに乱れてしまった亜麻色から手を離し、代わりに言葉を投げる。

 

「そうそう。彩歌、今年もコンクールに出るんだろう? 俺も観に行っていいか? 結果発表まではいられないけど、彩歌の演奏を観る時間くらいなら何とか確保できそうなんだ」

「えっ、本当!? 父さんも来るの?」

「あぁ。彩歌さえ良いならな」

 

 先刻までの不機嫌な表情から一転、驚愕と歓喜をその幼い面貌いっぱいに滲ませながら目を輝かせる彩歌。その様子を見ればあえて解答を貰わずとも彩歌の意思は分かり切ったようなものだが、陽彩は先回りする事なく鷹揚に首肯を返す。

 

「良かったね、彩歌。お父さんも見に来てほしいって言ってたもんね」

「うん! へへ、嬉しいなぁ。大雅も見に来てくれるって言ってたし、これはもっと練習を頑張らないと!」

「大雅?」

 

 彩歌の口からは聞いた事が無い名前を耳にし、思わず問いを漏らす陽彩。それを悦喜と奮起の中にあっても耳ざとく聞き取ったのか、彩歌が前のめりになりながら父の疑問に答えを返す。曰く、フルネームは宗谷大雅。中学に入学した直後、授業での班決めを切っ掛けに話すようになった友人であるようだった。

 

 つまり友人になってからの時間はそう長くはないものの、現時点で友誼を結んでから数か月は経っている事になる。それは同時にそれだけの時間を陽彩は息子の生活の変化について知らないまま過ごしてきたという事でもあり、陽彩にとってその事実は恥じ入るに十分なものだった。いくら仕事で多忙にしていたとはいえ、それを無知の理由にするのを陽彩は自身に良しとしない。彼は彩歌の父なのだから。

 

 だがその感傷をこの場で漏出した所で何にもなるまい。そう決定して陽彩は顔に浮かべた笑みをそのままにする事に成功し、けれど愛歌はその内心に気付いたようで視線の交錯と共に苦笑を交わし合った。

 

「でも、中学でも楽しくやっているようで俺も安心したよ。

 ……そうだ、友達と言えば、菜々ちゃんには声を掛けてないのか?」

 

 何気ない問いだった。陽彩は菜々と顔を合わせた事は数える程しか無いけれど、彼はその職業柄、他人の顔と名前を覚えるのは得意だった。加えて息子の友人、それも一度コンクールを観に来た事がある相手であるのだから、覚えていない筈も無い。

 

 彼が覚えている限りでは菜々は彩歌が通う公立中学ではなくお台場に建つ虹ヶ咲学園の中等部に入学した筈だが、彩歌は彼女の連絡先を知っている。故に関係が全く断たれた訳ではなく、ならば誘いをかけた可能性に思い至るのは自明だろう。だが彼の予想に反し、彩歌は視線を逸らしてしまう。あまりにも露骨に過ぎる仕草だった。困ったように笑い、愛歌が口を開く。

 

「この子、今年はいいって」

「そりゃまた……なんで?」

「うるさいなぁ……俺にも色々あるのさ」

 

 ぶっきらぼうにそう言い、彩歌は白米を無造作に掻き込む。それが両親からの追及を拒むためのポーズであるは誰の目にも明らかであり、目配せと共に肩を竦める。彩歌が菜々に声を掛けていない理由について、陽彩は勿論の事、愛歌も何も聞かされていないようであった。

 

 少なくとも彼らの知る限りにおいて、彩歌は友人を蔑ろにする類の子供ではないし、またそう育ててきたつもりもなかった。では両者の間に何らかの不和があったのかと言えば、それも在り得ない話だ。小学校の卒業式において、彼らは菜々と彩歌が最後まで別れを惜しんでいたのを覚えている。

 

 ならば、何故。何も友人のひとりに声を掛けない事は大した問題ではないにせよふたりはそれが気になって、幾許か。その疑問が齎す熟考の内から芽生えた悪戯心が、夫婦の中で鎌首を擡げる。

 

「まさか、これが最近話題の草食系男子ってやつか……? 好きな子ほど積極的に関われないっていう……」

「かもね。どうなの、彩歌?」

「なぁっ……!? す、すすす、好きっ!? いや俺は別に、そういうのじゃ……!

 勿論中川さんの事は好きだけど、それはホラ、友達なら当然っていうか」

 

 おや、と。思いの外に好感触な反応を示した愛息を前にして、ふたりの表情は得意なそれではなくむしろ素っ頓狂なそれであった。愛歌らとしてはほんの些細な戯れのつもりであり、よもや彩歌がこうも良い反応をするとは思っていなかったのだ。顔を耳まで紅潮させ、早口でそれらしい方便を展開する、などと。それではむしろ本心を曝け出しているようなものではないか。

 

 尤も、恐らくこれは菜々に声を掛けない理由とは全く別の箇所に位置する感情なのだろう。もしも今の感情がふたりの推測通りのそれなのだとしても、今までに積み上げてきた友誼は変わらない。それを現在の情動ひとつで全く以て反故にしてしまうなど、あまりに薄情に過ぎよう。自身の責任を過剰な程に意識するきらいがある彩歌の行いとして、それではあまりに不自然だ。

 

 だがその場合の適当な理由が両親には分からず、だがそれに疑問を覚えど無理に聞き出すような陽彩らではなかった。彩歌は彼らの息子であるが、それ以前に独立したひとりの人間である。ならば、その内心には家族すら立ち入れない禁足領域があるのは当然だ。いくら家族といえどそこに土足で上がり込む事はできず、また独りで抱えきれないのなら彼は葛藤しながらも吐露するだろうという確信が、彼らにはあった。故に、彼らは親として見守るだけである。

 

 しかし、それと同時に息子の精神的な成長が喜ばしいのもまた事実。喜色を悪戯心で糊塗し、聊か意地の悪い笑みを浮かべたまま愛歌が言葉を投げた。

 

「それじゃあ、今以上にレッスンを頑張らないとね。吉報を届けるために」

「だからっ……うぅ……でも、うん、そうだね。どうせ伝えるなら、悪い知らせより良い知らせの方がイイし」

 

 最早弁明を放棄したのか、或いは良い歳で未だ悪童めいた気性の抜けきらない両親の前に屈したのか。彩歌は紅潮した顔を隠す事も無いままぶっきらぼうに愛歌に応えを返し、残りの夕食を乱暴に掻き込むのであった。

 


 

「やっはろー! さっちゃん! 愛歌!」

 

 夕餉の最中に繰り広げられた夫妻とその愛息による児戯めいた問答より数日が経った、とある休日の夕方。勢いよく扉が開かれた轟音と共に真野邸の洋間に飛び込んできたのは、邸宅の隅々にまで轟かんばかりの快活な声であった。

 

 唐突である。卒爾である。あまりにも予想だにしない事態であったものだから名前を呼ばれたふたりは驚愕の表情のまま、闖入者たる旅装姿の女性──矢代詩音を見つめていて、しかしそんな視線を受けても詩音は何処吹く風といった面持ちだ。

 

「何よー、久しぶりに会ったのに、ふたりとも反応悪いわねぇ」

「いや、詩音、キミね……」

 

 帰国するならば事前に言ってくれても良かったのに、だとか。いくら合鍵を持っているとはいえ潜入行動(スニーキング)じみた事をするのは如何なものか、だとか。様々な思いが愛歌の脳裏を掠めて、しかし実際に音になる事は無かった。代わりに零れたのは溜め息であり、続く笑みは苦笑めいている。そんなふたりの遣り取りは、彩歌にとっては既に見慣れたものであった。

 

 世界的に有名なピアニストたる詩音と愛歌の関係は、所謂親友というもののそれだと彩歌は了解していた。彼女ら自身が彼にそうだと主張した訳ではない。だが、親戚や恋仲でないにも関わらず海外に拠点がある詩音の日本滞在中の逗留先として自宅を利用する事を認め合鍵まで渡す程の信任が介在する関係を形容するには、只の友誼というのは不足に過ぎよう。無論、合鍵の譲渡は陽彩も了解済みの事ではあるが。

 

 そんな状態であるから彩歌にとっても詩音の破天荒は既に慣れたもので、突撃の直後こそ驚愕で硬直したものの忘我からの復帰は早かった。

 

「久しぶりだね、先生。……とは言っても前に会ったのは半年くらい前だから、いつもよりは短いかもだけど。今回は仕事で戻ってきたの?」

「そうなの。あ、でも安心して? さっちゃんが出るコンクールの日は空けてあるから、あたしも観に行けるわよ。

 ……そうそう。さっきの演奏、聴こえてた。相変わらず良い色してるわね」

 

 色というと本来的に不可視たる演奏を形容する言葉としては聊か不適にも思える表現だが、彩歌に違和を覚えた様子はない。むしろ彼は一考を挟むまでもなくそれが意図する所を悟ったようで、小さくはにかんで見せた。

 

 共感覚。それが詩音が有する特殊な感覚の名である事は、彩歌にとって歴然たる事実であった。一口にそれと言っても種類は様々だそうだが詩音のそれは音程や微妙な調子に反応して色が変わって見えるものらしく、その色彩から発話者や奏者の感情を類推する事も詩音にはできるらしかった。

 

 半ば御伽噺めいた現象であるが、幼い頃から詩音に面倒をかけている彩歌は何度も内心を言い当てられた事があって、故にそれが真であると理解している。詩音の言う良い色というのは言葉通りの意味であり、彼女が持つ最大限の賛辞でもあった。

 

「演奏自体も去年より上手くなってるし、今年も良い所までいけそうね。勿論、油断しなければだけど」

「えへへ。……あっ、そうだ。先生は俺の演奏を良い色と言ってくれるけど……俺の音って、どんな色してるの?」

「色? そうねぇ……」

 

 不意に降って湧いた疑問を素直にぶつける彩歌の瞳は、幼さ故の無垢な好奇心の光を内包したそれだ。それを真正面からぶつけられ、詩音は頤に指を当てながら思案の呟きを漏らす。

 

 今更な疑問だ。しかし当然の疑念でもある。彩歌は詩音の共感覚が御伽噺ではない事を知っているが、彼自身はそれを持たないのだから。彼の意識が捉える世界においては五感は独立したものであり、音は不可視である。故に彼の理解には実感が伴わず、確かめるには当人に尋ねる他ない。

 

 幾許かの空白。応答の間隙を満たす黙考の吐息。彩歌は小首を傾げて何事か口を開きかけて、だが二の句が継がれる前にやおら詩音が常用してるサングラスを外した。そうして何も言わぬまま自身の顔を彩歌のそれに触れんばかりに近づける。必定、少年の視界に広がったのは、詩音の瞳であった。彼女の髪と同じ橙色を内包しながらも様々に輝くそれは、或いは玉虫色と形容すべきであろうか。その極彩色に視線を吸い寄せられ、彩歌は押し黙ってしまう。

 

「……蒼。でも、ただの蒼じゃないわ。あんたや愛歌の目みたいな、綺麗な蒼。孔雀青って言うのかしら。まるで澄んだ青空か、珊瑚礁みたいな……ねぇ、さっちゃん。さっちゃんは、自分の目の色は好き?」

「えっと、考えた事なかったなぁ……でも、好きだよ。少なくとも嫌いじゃない」

「そう……じゃああたしとお揃いね。()()()()()()()()()()()()

「───?」

 

 詩音の言葉に、何ら奇妙な所は無い。彼女の捉える世界においては彩歌の音は彼の目と同じ孔雀青の色彩を描いていて、彼女はその色が好きだというだけ。ただそれだけの事だ。先に彼女が言っていた事とも何ら矛盾はしない。だというのに彩歌の胸中には言い知れない感覚が蟠っていた。

 

 彩歌や愛歌が内包する蒼が好きだと言う詩音の目に宿っていた情念。それに近いものを彩歌は知っている筈で、それなのにどうしても言語化ができない。言語化ができないのならば、やはり訊くしかない。そう判断して彼は口を開きかけて、けれどそれに先んじて不意に詩音との距離が離れた。見れば、不機嫌そうな、或いは揶揄うような面持ちの愛歌が詩音の両肩を掴んで引き剥がしたようであった。

 

「詩音……私の息子に色目を使うのは止めてもらえるかな? いくらキミが相手でも見過ごせないね」

「ちょ、色目使うってなによぉ。仲睦まじい師匠と弟子のじゃれ合いじゃない。

 それに、さっちゃんの事は生まれた時から知ってるし、あたしにとっても半ば息子みたいな──」

「誰が、誰の息子だってぇ?」

 

 何処か言い訳じみた詩音の物言いを最後まで述べさせる事も無く、その途中で声を割り込ませ凄む愛歌。言葉とは裏腹に表情は笑顔でこそあったがそこに言い知れぬ圧があることは彩歌の目から見ても明らかで、しかしどうしてか戯れめいてもいる。であれば至近でそれを受けた詩音がひえぇ、と悲鳴をあげながら彩歌の背中に隠れたのもそれに呼応したものなのだろう。

 

 今年で40半ばにもなろうという者同士の会話としては、それは聊か以上に大人気の無い遣り取りであろう。だがそれは転じてふたりの間に互いの子供染みた一面を許容するに値する信頼があるという事でもあって、巻き込まれた彩歌も不思議と悪い気はしなかった。尤も大人としての分別もあるが故に戯れも長くは続かず、詩音が彩歌から引き剥がされていく。

 

 しかしそうして離れた詩音に何か不服の気配があるような気がして、彩歌は小首を傾げた。それは決して明確なものではなく、むしろ彼女の表情は笑顔のそれで、しかしそこに空いた一分の隙から窺い知れる程度のもの。だがそれらの合一はまるで寂寞のようでもある。それを見咎めたからか、それとも元から胸の裡にあったのか、自然と言葉が彩歌の口を衝く。

 

「ね、先生。先生さえ良ければ、仕事が無い時にまた、俺にピアノを教えてくれないかな? 俺、先生にも教えて欲しいな」

「さっちゃん……ふふ、モチのロンよぉ。可愛い弟子のお願いだもの、無理にでも時間作って教えてあげるわよ」

「ええっ、無理にはしなくても……でも、ありがとう、先生。先生が協力してくれるなら百人力だよ」

 

 これから先に待ち受ける未来を、彼らは知らず。ならば交わされた会話は全く何気ないものであるのか、はたまた予言めいたそれであったのか。少なくとも現在(いま)の内においてそれは師弟の他愛ない約束に過ぎず、それ以上の意味は持ちようもない。

 

 不意に彩歌が視線を動かせば、その先で愛歌と目が合った。彼女はその符合を何と捉えたのか、肩を竦めて少し大袈裟なまでに戯笑の仕草を覗かせ、彩歌もそれに応えて笑む。

 

それを知ってか知らずか、よぉし、と意気込む詩音。そんな親友の様子に愛歌は苦笑を漏らし、何も言わず彼女のキャリーバッグを手に洋間を後にし、詩音は愛歌に代わり彩歌の傍らの席に着く。特段の遣り取りも交わす事なく展開された、あまりに性急な転遷。自身の要請によるものとはいえ、それを前に彩歌は驚きを覗かせつつも再び演奏を開始すべく、深く呼吸。そうして無言のまま、演奏を開始した。

 


 

「思ったより人がいるんだな……」

 

 東京某所に存在する市民ホール、そのエントランスにて。決して狭くはない筈の空間に満ち満ちる雑踏を壁際から眺めながら、宗谷大雅はそんな呟きを漏らした。常ならば勇壮にして清澄な笑みに彩られているその端整な艶貌は、だが辟易と緊張に歪み声色には疲労めいたものが窺える。それを傍らで耳にして、彩歌が同情めいた笑声を漏らす。大雅の様子は大袈裟ではあったが、その感覚には彼も覚えがあったのだ。

 

「意外だった?」

「……正直に言うと、そうだな。今までこういう場に来た事がねぇモンだから。まさかサッカーの試合前にも引けを取らないとは……」

 

 ともすれば大雅の解答は彩歌だけではなく他の奏者や観覧者への失礼にも成り得るものだ。彼の言とは即ち、音楽という場で鎬を削る者らの規模を低く見積もっていたと告白するに等しいものなのだから。だが彩歌はむしろ、この少年のそういう正直な一面を好ましくさえ思っているし、先入観から来る無意識の侮りを許容できない程狭量でもないつもりであった。

 

 とはいえ、内心に少なからぬ侮りがあった事は事実。それを認め、大雅は夢想を現実で上書きする。それだけで彼はこの状況に適応して見せると、大きく息を吐いてから視線を巡らせた。既に受付は済ませ、彩歌の両親とも言葉を交わした。その両親もある種の有名人であるからか声を掛けられる事も多く、今は少し離れた所で名も知らぬ大人達と言葉を交わしている。他に声を掛けるような相手もいない。必定、大雅は彩歌とふたりきりの状態にあった。

 

 だが大雅には声を掛ける相手はおらずとも、彩歌はそうではない。この場には彼と同様に愛歌の薫陶を受けている者らもいて、彼らは彩歌と親し気に会話を交わしつつ初対面である筈の大雅にすら声をかけてくる。彼は人並み以上に社交的な方ではあるけれど半ば怒濤とさえ言える勢いの前に気圧され気味で、しかしそんな彼の倦怠に頓着する事無く彩歌に投げられる声があった。

 

「──彩歌。おはよ。……こんな日だってのに大雨とか、マジでダルすぎ」

「おはよう、宮古さん。ふふ、確かに、今日に限っては雨は嫌だね。一張羅が濡れちゃう」

 

 果たして彩歌を呼んだ声の主とは、先程から彼に話しかける者らと同じく彼の同門たる美律であった。躊躇いがちに小さく手を振る彼女とは対照的に、その存在に気付いた彩歌はひらと手を振りつつ呼びかけに応え、その応答を受け取った美律が小さく破顔しながら彩歌の前まで歩み出る。その時点で彼女は大雅の存在に気付いたらしく、彼へと向けられたのは躊躇いがちな誰何の視線であった。

 

「えっと……彩歌、この人は? 彩歌の友達?」

「うん、そうだよ。同じ中学の宗谷大雅君」

 

 簡潔な紹介と共に彩歌は大雅の方を手で指し示し、それにつられるように美律の視線が大雅へと移る。そんな遣り取りをしたのは、今日で何度目であったか。最早大雅には数える事も億劫になってきて、だが紹介された以上はおざなりにするのは彼の流儀に反する。交わされた挨拶は、至って平常のそれだ。

 

 だがそんな有様であっても、大雅は他人との交流そのものを厭うている訳ではなかった。彼自身人と話すのは好きな方であるし、何より彩歌の同門らとの会話は彼にとって彼の知らない友人の一面を知る機会にもなる。そういう会話を交わす度、彩歌が恥ずかしそうにするのも彼にとっては愉快だった。

 

 それは大雅と同門達と大雅の間にある共通の話題が彩歌のみであるという事でもあるが、同時に彼についてだけで会話が成立するだけの印象を彩歌が他者に与えているという事でもあろう。故に美律と大雅の間で交わされる会話も自然とそういうものになって、その横では彩歌が居心地悪そうにしている。何という事もない一幕だ。特筆する事もない平穏だ。しかし安穏は幸福でもある。

 

「ちょっとふたりとも、何で俺の話ばっかり……?」

「別にいいじゃねぇか、友達(ダチ)の話くらい」

「そうそう。それに、それくらいしか話題もないしね」

「そりゃあそうかもだけど……うぅ……」

 

 苦し紛れの抗議をふたりからにべもなく切って捨てられ、最早逃げ場を無くした彩歌は赤面するばかりだ。まさしく打てば響くという諺を体現したかのようなその応答を前に大雅と美律は悪戯に笑い、共謀は共感、共鳴となる。彼らの裡で、彩歌の素直さは美徳として捉えられていた。

 

 彩歌としては他者から好感を抱かれている事は嬉しいものの、揶揄われるのは承服しかねる所だった。故に時折抗議を差し挟むけれど彼の人となりを把握している相手には滅法弱く、カウンターは無意味に終わってしまう。まさに暖簾に腕押し。だが何処か悪い気はしないのは、或いは彩歌が彼らに気を許しすぎているという事なのだろうか。

 

 そんな遣り取りをしているうちに時間は過ぎて、先刻まではごった返していたエントランスも次第に人が減ってくる。恐らくは適当な座席を見つけて少しずつホール内に移動しつつあるのだろう。その頃になると愛歌らに声を掛ける人も絶えつつあり、それを見計らった美律が一旦の別れを告げてそちらに歩を向ける。刹那、途切れる会話。再開は容易であり大我は口を開きかけて、だがその直前に彼は不意にこちらに注がれる視線とかち合った。正確には彼らではなく彩歌に、だろうか。

 

 意図せぬ交錯。瞬間、大雅の背筋を不快な感触が駆ける。或いはそれは交錯した眼光に宿る粘質な情念によるものであったか。

 

 ──七光り。

 ──才人の親から生まれた出涸らし。

 

「っ──!」

 

 微かに、だが確かに大雅の耳朶に触れたのはそんな悪罵としか形容のできない悪意。相手としても交錯は想定外だったのか、或いはよもや聞こえているとは思わなかったのか、彼の反応から己の失態を悟り逃げるように踵を返す。反射的にそれを追おうとして、しかし彼を止める手があった。彩歌である。

 

「いいよ、大雅。毎年(いつも)の事さ」

「けどよ、言われっぱなしで──」

「──それに」

 

 大雅の反駁を最後まで聞かず、彩歌は言葉の続きを差し挟む。その語気はさして強くはなく、だが大雅は口を噤んでしまう。彼を見上げる孔雀青が放射する圧力にはそれだけの気勢があった。

 

「実力で黙らせるから」

 

 言選には決意と観念。語勢には覚悟と諦念。大言壮語、などという揶揄は内心に浮上さえしなかった。

 

 そうして大雅が二の句を継ぐより早く、エントランス全体に呼びかける声。恐らくは開会を前に参加者を呼ぶスタッフのものだろう。それを聞き届け大雅に一時の別れを告げる彩歌の表情はいつもの柔和なそれに立ち返っており、大雅は反駁の機会を逸してしまう。

 

 離れていく友の背中。最早届きようもないと知りながら、大雅はその背に向けて言葉を投げた。

 

「まったく、仕方ねぇヤツ……頑張れよ」

 


 

 ──半ば独り言めいた友の激励が功を奏したのか否かは、彩歌のみぞ知る所ではあるが。果たして大雅の前で彩歌が気丈に言い放ってみせた宣誓は愚昧の戯言に堕ちる事もなく、この年の東京大会は幕を閉じた。

 

 手にした小ぶりのトロフィーが放つ安っぽい金の輝きは、既に何度も間近で見てきたが故に見慣れ果てたそれ。しかし彩歌にとって真に重要であるのは物質的な証明ではなくそこに潜在する意味の方であり、そこに慣れなどは生じ得ない。彼の胸中では達成感や歓喜、そしてそれに勝る程の向上意欲が渦を巻き極彩色を描き、色彩は笑顔として現出していた。

 

 そして優勝者がそうも素直に喜色を表しているものだから周囲も祝福と同時に茶々も入れたくなって、結果として彩歌が同門からの打倒宣言や大雅と詩音からの祝福より解放されて帰路に就いたのは閉会からそれなりの時間が経ってからの事であった。

 

 母と息子、ふたりだけの帰り道である。陽彩も詩音も、それぞれ異なるタイミングでこそあるが仕事のためにその場を離れてしまっている。無論その事は残念だけれど、同時にそれだけ多忙の身であるふたりがあえて時間を作ってまで自身の演奏を聴いてくれたという事が、彩歌にはたまらなく嬉しく思えた。

 

「──改めて。おめでとう、彩歌」

 

 鼠色に閉ざされた地上に咲く蒼い二輪の華の下、会話の口火を切ったのは愛歌であった。蝙蝠を乱打する雨が奏でる不協和音の中にあって、しかしその澄んだ湖水の如き声は減衰などとは全く無縁である。

 

「ありがとう、母さん。これも、母さんと先生のお蔭だよ」

「ふふ、確かに練習を観ていたのは私と詩音だけどね、努力したのは彩歌自身だよ。でなければ音色があんなに楽しげな筈がない」

 

 軽々に過ぎる謙遜とそれへの応報たる諧謔。それは最早彼らの間で慣例と化してしまっており、微笑と共に返された賛辞に彩歌がはにかみを返す。愛歌の評価は一見すると身内贔屓のようでもあったが、彼女は音楽の求道という点においては家族に対してすら厳格(シビア)であると息子である彩歌はよく知っていた。故に愛歌が口にした賞賛は世辞などではなく、紛れもない本心だ。

 

 〝音楽は音を楽しむと書く。故にこそ、まずは己が楽しまなければならない〟。それが愛歌の信条であり信念。そして彼女にとって、息子の彩歌こそはその信念を体現する存在であった。少しだけ自虐的に過ぎる所が、玉に瑕ではあるけれど。

 

 家族としての無条件の愛情と師として弟子に抱く信任。一切の隔意も無いままそれをぶつけられ、彩歌は赤くなった頬が愛歌から見えないように少しだけ傘を傾けた。思春期真っ只中で直截簡明な本性と反抗期の狭間に在る少年にとって、それすら見透かすが如き親愛は毒のようでもあった。

 

「音楽は“ただ上手い”だけじゃあいけない。音は魂の声なんだ。だからいくら上手くても、無色の旋律では何処かで破綻してしまう。(こえ)は、そう、()()()()()()ようなものじゃなくちゃ。

 ……なんて、彩歌には釈迦に説法かな」

「誉め過ぎだよ……まだ地区を通過しただけなのに、何か全国で勝ったみたい。気が早いんじゃないの?」

「フフン、彩歌なら大丈夫だよ。何しろ彩歌は努力家で、それに私と陽彩君の自慢の息子だからね」

「またそれだ……」

 

 どうしてか予選通過した本人である筈の彩歌よりも得意満面に宣う愛歌に、呆れめいた吐息を漏らす彩歌。相変わらず顔を隠しているが彩歌が照れ隠しをしているのは態度から明白であり、そんな息子の背後で愛歌の笑みが悪戯なそれから慈愛のそれに立ち変わる。

 

「自分の音楽で皆を笑顔にする。そんな夢も、いつか叶えられるよ。私は確信してる。今の気持ちを忘れなければ、だけどね」

「……うん。叶えるさ。叶えてみせる。夢は叶えなくちゃ。それに……」

 

 それに、何だというのか。背後から向けられる視線が言葉の続きを望んでいる事は彩歌も分かっていたが、あえて口にしなかった。その要求に従って発してしまえば、きっとまたこそばゆい目で見られてしまうだろうから。いつかの夕餉のように。

 

 或いはそんな羞恥さえ、母からはお見通しなのだろうか。そんな疑問が彩歌の脳裏を過るが、実際に問いとして発する事はない。それをしてしまえば認めているようなものだ。今の彩歌が抱く夢の内側に、少しだけ菜々に対する見栄、或いは律儀の領域がある事を。尤も、それは自己満足に過ぎないのかも知れないけれど。

 

 だがそれがどうであれ、根底は変わらない。彩歌の夢は現実の荒波に晒され果ててもなお幼い頃と変わらぬまま、その胸中に根差している。文字通りの非才の身にあって、その強固に過ぎるまでの克己は紛れもなく彼の才と言えるものだろう。彼の夢は既に走り始めている。故に、始まったのなら貫くのみ。それは彼もまた抱く信条であった。

 

「そのためにも、もっともっと練習しないと! ここで満足してなんていられない!」

「あはは、やる気だね。じゃあ、今日も帰ったら練習?」

「勿論!」

 

 その身は未だ未完なれば、夢の道程に潜む陥穽の悉くを乗り越えるにはあまりに不十分だ。だがそれを自覚すればこそ、より燃えるというもの。未熟の自認よりやる気は湧き出し、仮想の内圧の高まりは熱狂となって全身に充溢する。そうして身に余るその熱を吐き出すかのように、彩歌は走り出した。

 

 

 ──目の前には横断歩道。歩行者用信号機は丁度良く青に切り替わった。

 

 

 高揚の中でも慌てずに。右見て左見て、また右を見て。

 

 

 車影は遠く、真っ当にブレーキをかければ十分に止まれる距離だ。

 

 

 横断に問題無し。誰が見てもそう判ずる状況。だが。

 

 

「彩歌────ッ!!」

 

 

 乱打する雨音を斬り裂く母の声。その所以を問うより早く、振り返りかけた視界に人影が割り込む。そして───

 

 

 

 ───嘶きのような異音と、続く轟音。何が起きたのかを理解する暇すらなく、殺到した衝撃が彩歌の意識を圧し潰した。

 

 

 

 

 ……雨が降っている。冷え切った総身を容赦なく打ちのめされる感覚で、そうと知れた。だがそうであるならば、何故傘も差さず、それどころか仰向けに転がっているのか。何故、別れた筈の大雅(とも)がこちらを見下ろし泣き腫らした目で何かを言っているのか。夢の只中のように覚束ない思考では何も分からなかった。

 

 澱のように積もった薄ら寒さに埋もれた彩歌の知覚では前後の記憶さえ判然とせず、それが現とさえ分からぬままに少年の意識は再び汚泥のような寒気に凍結する。

 

 けれど、雨音が煩い。それだけは、どうしてかよく解った。

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