【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第25話 禍福糾纆:コレが運命(せかい)の悪意なら(後編)

 初めての臨死体験は、少年が幼心に夢想していたよりもずっと淡泊なものであった。

 

 覚醒はまるで、闇黒に染まる汚泥の底から浮上するかのように。質量すら消え失せた虚無が絶対零度より立ち返り、闇の中に意識の火が灯る。それはひどく弱々しく僅かなものであったが魂が現へと帰還するには十分で、それから少年の目蓋が開くまでにそう時間はかからなかった。

 

 僅かに開かれた目蓋の隙間より飛び込んできた光に目が眩むが、久方ぶりの光を前にしても対光反射は十全に機能して彩歌の視界がホワイトアウトのそれから正常に立ち戻る。そうして初めに視界に映ったのはいっそ病的なまでに白い、見知らぬ天井だ。遅れて現実に復帰してきた嗅覚を擽る刺激臭は消毒用アルコールのそれだろうか。それを押し流すように開け放たれた窓から無遠慮な風が吹き込み、カーテンを揺らしている。

 

 此処が何処なのか。今がいつなのか。そもそも、何がどうなっているのか。未だ思考はあやふやなまま脈絡を喪っていて、そのせいか直前の記憶すらも不確かだ。そんな有様であるから即座の状況理解など望むべくもなく、疑問が口を突くが、実際に漏れたのはひどくしゃがれた声。

 

「──あ、あ──」

 

 思うように声が出せない。声帯が十全に機能しない。それどころか肺から空気を絞り出そうとする度に鳩尾の辺りが痛んで、再起動した痛覚が意識を微睡の内より叩き起こす。

 

 看過し得ない不全だ。到底受容の追いつかない不可解だ。発声すらままならない現実は彩歌に動揺を齎し、しかしそんな内心に反して身体は緩慢だ。五体はまるで彫像のように重く、倦怠は戒めのよう。詰まる所、今の彩歌は死に体も同然であった。

 

 故に自らの身体を動かすために必要な力さえ彩歌には残されてはおらず、点滴が抜けないように上体を起こすという至極単純な動作ですら酷い苦行のようだ。心臓が急激に早鐘を打ち始め、呼吸が繰り返される度に肺腑が悲鳴をあげている。明滅する視界はまるで電流が散るようで、眩暈にも似た浮遊感が彩歌を襲う。

 

 それに抗えず倒れそうになり、反射的に右腕を突き出す彩歌。半死半生の身でありながらその反応ができたのはまさに奇跡であり、しかし彼の身体はそのまま再びベッドの上に頽れてしまう。間に合わなかったのではない。腕を突いたその刹那に肺のそれとは比較にならない程の激痛が彼の意識を焼いたのだ。

 

 いくら筋力が衰えているとしても説明の付かない痛みである。想像の埒外より押し寄せたそれの前に彩歌は悲鳴も出せずに悶え、瞬間、漸く目に映った自らの右腕の有様に愕然としてしまう。

 

 ──木乃伊男。自らの右腕を見た時、彩歌が真っ先に思い出したものがそれだった。在り得ざる想像だ。彼はまだ確かに生きているのだから。だが、むべなるかな、とも思う。事実、病院着から覗く包帯に巻かれた腕に残された力は、死体のそれと大差なかったのだから。

 

 指先から肘の辺りまでがくまなく包帯で覆われた腕はまるで自分のものではないようで、しかし容赦なく彩歌の神経を焼灼する電撃は彼に否応なくこれが紛れもない現実であると実感させる。

 

「あ──いっ、たい……何が……」

 

 たったそれだけの声を漏らすだけでも身体が悲鳴をあげている。弱り切った臓腑は激しい呼吸と巡る血潮の前にさえ屈服してしまいそうで、漏れる苦悶の吐息もまた身体を貫く刃物のようだ。

 

 自らの内より出でる刃に切り刻まれそうな思考を懸命に繋ぎ止めながら、彩歌はこの事態の原因を探るべく記憶を辿る。だが──思い出せない。コンクールを終えて、愛歌と共に家路に着いた所で記憶は途切れている。それがあまりにも不自然な断線である事は彼自身でも理解できているが、何度思い出そうと試みてもその先を辿れないのである。

 

 つまり、当事者たる彩歌にすら真相は闇の中。記憶は無く、身体を満足に動かすだけの体力も無く、日常などという幻想が立ち入る余地もまた、そこには無い。長い眠りから久方ぶりに目覚めた少年を待っていたのはそんな、何もかもが失われてしまった現実であった。

 


 

 飲酒運転を犯した運転手が起こした、信号無視に由来する自動車事故。自らの身に降りかかった不幸の正体を彩歌が知らされたのは、目覚めから暫く経った後、彼の意識が戻った事を知った陽彩と共に医師が現れた時の事だった。

 

 何気なくテレビを見ていれば時折取り上げられるような、極々ありふれた不幸。だが当事者からすれば人生を歪められてしまう程の絶望で、けれどその絶望さえ彩歌には何処か遠い世界の出来事のようでもあった。紛れもなく自らの身に起きた事であるというのに、だ。その原因はやはり、真相を知っても記憶が戻らなかった事が大きいだろう。事故のショックによる一時的な記憶の脱落であろう、とは担当医師の言だ。

 

 だからだろうか、犯人は現場から逃走した後に数㎞離れた地点で自損事故を起こし死亡したと聞いた時に彩歌の胸中に去来したのは下手人への嘲弄などではなく故人の冥福を祈る鎮魂であり、しかしそんな彼の内心とは裏腹に彼の身体が負った傷は決して生中なものではなかった。

 

 何しろ一度は生死の境を彷徨う程の負傷だったのである。そう簡単に治るようなものではない事は自明だ。右腕の骨折もそのひとつであり、その破壊の程は、多くの怪我を診てきた医師をして彩歌のピアニストとしての復帰の保証を半ば放棄してしまうまでのものだった。

 

 正しく絶望と言うべき状況。だが幸か不幸か、真野彩歌という少年は克己と自律という点においては幼い頃から比類なき天才であった。無論、現実を知った時には失意もあった。悲嘆もあった。だが彼はその強靭な自制で以てそれらを抑えつけ、リハビリにおいては医師が瞠目し奇跡なる表現すら投げ捨ててしまう程の回復を見せていた。

 

 その結果のみを知る余人からすれば、それは驚嘆に値する事だろう。だが彩歌に近しい人々は知っている。度外れた彼の回復速度が、彼に内在する妄執めいて苛烈な努力によるものなのだと。

 

 しかし彩歌にとってはそれが〝当たり前〟で。故にそれを誇る事も、弱音を吐く事もない。家族や親友の前であっても彼は朗らかに笑っている。まるで何事も無かったかのように。けれど彼の身体には未だ事故の傷跡が残っていて、両者の相違(ギャップ)が周囲の心を苛む。

 

 真野彩歌は嘘を吐かない。或いは、嘘を吐けない。彼を知る者らが共通理解として有する性質は一度の臨死体験を経ても変わっておらず、素直過ぎるが故に彼の回復は美談の顔をした悲劇であった。

 

 ──だからだろうか。窓より差し込む無遠慮な日差しを満身に浴び、淡い色彩の中に佇む彩歌が、陽彩にはひどく儚い存在に見えた。彼は既に峠を越えて久しいというのに。或いはそれは、彼に対して秘している事があるが所以後ろめたさから来る錯覚なのかも知れない。

 

「無理に見舞いに来なくてもいいのに」

 

 病室に現れた陽彩の姿を見咎め、微笑と共に彩歌が吐き出したのはそんな言葉。半ば呆れめいた声色のそれは自身の見舞いに来た父へのものにしては薄情に過ぎるが、それも無理からぬ事だろう。彩歌は陽彩が多忙な人である事を知っている。その父が彼が目覚めてからというもの、3日と空ける事なく頻繁に病院を訪れているのだから。突き放すような物言いも仕方がないというものだ。

 

 それに現在のプロデューサーという職務が陽彩の夢の結果である事を彩歌は知っていて、それを自身の存在が邪魔しているようにも思えるのだ。口にしてしまえば、きっと陽彩はそれを否定するだろうけれど。

 

 いくら彩歌が嘘を苦手としているとしても、言葉にしなければ伝わらない。そんな彼の内心を知ってか知らずか、以前より明らかにやつれた頬に笑みを浮かべながら陽彩がベッドサイドの椅子に腰を下ろす。

 

「俺が好きで来ているだけなんだ、気にするな。……それに、息子の容態が気にならない父親なんていないさ」

 

 何気ない日常の話をするかのような声色。だがそこには隠しきれない実感の熱量が内在していて、陽彩が努めて冷静に振る舞おうとしているのは明白であった。幾らか瘦せこけた頬が戻らないのもその気配を強めている。

 

 詰まる所、陽彩も彩歌も同じなのだ。父子だから。家族だから。理由は様々に考えられる。その結果として彼らは悪癖まで似通い、あえて詮索するまでもなく互いの意図が分かってしまう。相手を思えばこそ、自らに対して心配させたくない。それは彼らが共通して抱く思いであった。

 

「容態って、大袈裟だなぁ。……うん、俺ならこの通り、問題ないよ。このまま順調に回復していけば退院も近いって、お医者様が」

「それは俺も聞いてるよ。……あぁ。本当に良かった……」

 

 聊か過剰な父の表現に苦笑を零しながらも自身の壮健をアピールする彩歌と、そんな愛息にも安堵の吐息を漏らす陽彩。彩歌の言の通り大袈裟にも思える陽彩だが、彼の立場からすればその反応も自然であった。むしろ冷静であるとすら言えるかも知れない。

 

 事故の被害者当人たる彩歌自身には知る由もない事だが、陽彩の記憶には強く焼き付いているのだ。厳然と閉ざされた手術室の扉の上で無機質に灯る赤色も、ベッドの上で身じろぎすらせず眠り続ける息子の姿も、一度は原型を留めぬまでに破壊され、最大限繕われながらも二度と元には戻らない妻の身体も。であれば、多少の無理は通していても順調に回復している姿に安心するというのは、ひどく自然な事だろう。

 

 だがそうして陽彩の心を安堵が過る度、それに比肩し得る程の幻痛が彼の胸中に去来する。彼は愛息の復調を心の底から歓べばこそ、その回復がある種の虚構という薄氷の上に成り立つものである事を意識せずにはいられない。その事実とそうせざるを得なかった無力感が綯い交ぜになり、陽彩の心を責め苛むのだ。そんな自責は全く無意味だと、既に理解しているというのに。

 

「父さん?」

「……! いや、何でもないんだ。少し……寝不足なのかも知れない」

 

 幻痛が表情にも表れていたのだろうか、心配そうな様子で父の顔を覗き込む彩歌。その視線を受けて忘我より立ち返った陽彩は咄嗟に誤魔化しを口にするが、それを真に受ける程彩歌は愚かではない。尤も、陽彩が寝不足気味であるのは事実ではあるけれど。

 

 故に追及に先んじて、陽彩が言葉を続ける。

 

「それより、彩歌。退院したら何かしたい事とか、あるか?」

「したい事?」

「あぁ。欲しいものでもいいぞ。長い入院生活から解放されるんだ、少しくらいワガママになったっていいだろうさ」

 

 よもやそんな事を言われるとは思っていなかったのか、陽彩の言葉を受け、彩歌は顎に手を遣って思索に漕ぎ出す。ワガママ。したい事。欲しい物。それらは彼もまた当たり前に持つもので、しかし改めて訊かれると返答に窮するものでもあった。

 

 彩歌は昔から人一倍自己に正直な性質であったが、同時に誰より聞き分けの良すぎる子供でもあった。それこそ、自身の晴れ舞台を前にしても多忙な父に希望を直接言えない程度には。

 

 故に即答できず、彩歌は懸命に言葉を捜すべく自己の裡へと潜航する。そうして、暫く。彩歌が口を開いた。

 

「……父さんと母さん、それに先生にも、また俺の音楽を聴いて欲しい……かな。ピアノでも、歌でも。まぁ、ピアノは暫く難しいかもだけど。

 とにかく、皆にまた、俺の音楽を聴いて欲しい。それじゃあダメかな?」

「────」

 

 思わず、息を呑んだ。もう一度、皆に自分の音楽を聴いて欲しい。それはあえて嘆願するにしてはあまりにも素朴かつ恬淡で、だからこそ彩歌の心底より溢れた飾らない本心であった。

 

 であれば、言葉にしたのは初めてであってもその(おも)いこそが彩歌が逆境に抗するための支柱であったのかも知れない。心から再起を決意すればこそ彼はその強靭な克己と自律で以て自己を規定し、苛烈なリハビリを乗り越えてきたのだ。願いとは、夢とは、彩歌に取ってそれだけの力を与えてくれるものであった。

 

 だが、少年は知らない。或いは()()()()()()()()()()()()()()()()()()と言う事を。それは今の彩歌が立脚する虚構が齎した最大の齟齬であり、彼自身はそれに気づけない。彼の記憶に空いた間隙は未だ埋まらず、虚構の違和を打破する糸口さえないのだ。少年の夢とは、正しくユメであった。

 

 彩歌は信じている。彼と一緒にいた事で事故に遭い重症を負った母が未だ目覚めないと知らされ、激甚な罪悪感に苛まれながららも、いつかはその夢が叶うものと。彼にとっては、その希望こそが糧だった。

 

 故に陽彩はそれを否定できない。最早愛歌が目覚める見込みも、それどころか助かる見込みも殆ど無い事を彼だけは知っていながら。息子の夢が見せる幻と僅かに残る希望とが綯い交ぜになて、彼の中で現実と抗っているのだ。

 

 ならば彩歌の吐露に対して陽彩が即応できなかったのも致し方ない事なのだろう。彼の心は冷酷な現実と甘美な夢想の間で圧搾され、軋みをあげていた。だが、彼はそれを悟らせない。その点において、彼は完璧な父であった。

 

「──あぁ。彩歌の音楽なら、いくらでも聴いてやるさ」

「本当? フフ、嬉しいなぁ」

 

 今までも何度かそうしてきたように、頤に手を遣り微笑みを浮かべる彩歌。彼が幼い頃からの癖であるその仕草は陽彩にとっては見慣れたものであり、故に底に潜在する感情を読み違える筈もない。純粋な歓喜が、陽彩の胸を打つ。

 

 どうしてこんな事に。軋む心に空いた傷跡より弱音が染み出し、声ならぬ問いとなって彼自身に知覚される。故にこそそれは彼の本音でもあり、しかし弱音が無価値である事も彼は知っていた。いかにたらればを繰り返そうとも過去は既に確定しているのだ。それを変える事はできない。

 

 たらればは無価値。後悔は無意味。在り得ざるif(もしも)の夢想は救いなどではなく、虚像の幸福を以て現実の輪郭をより強めるばかりだと、彼は知っている。だが不在のユメを見る息子にそれを思い知らせる程彼は冷酷ではなく、懊悩は堆積するばかり。

 

 そう、できる筈もないのだ。真野陽彩は無責任な他人などではなくひとりの父親であるが故に。目の前で苦悩を押し殺して笑う彼らの息子(ゆめ)を壊してしまうなど。

 

 或いは進んでいれば逃げない事と現実、他にも何かが手に入ったのかも知れない。けれど陽彩は逃げてでも、息子の夢を守るたったひとつを選んだのだ。その先に何が待つかを、知らないまま。

 


 

 ──その光景を覚えている。

 

 滂沱の如き豪雨を降らす鈍色の空。霏々たる地上には色とりどりの傘が咲き、その下で人々は口々に何かを言い合っている。彼らの視線はとある一点に集中していて、しかし関心はありながら関わり合いになりたくはないのか遠巻きに対象を見ているようであった。

 

 あまりにも卑怯。だが当然の心理でもある。人々の目前に立ち現れてきたソレはあまりにも非日常であり、易々と立ち入れるものでもないのだ。けれどそんな人々を後目に、大雅は必至に群集を押し割って進んでいく。傘をさしたままそんな事をしているものだから時折迷惑そうな目を向けられるが、彼は止まらない。そんな余人の視線など、気にしている余裕もなかった。

 

 まさしく狂乱と言うべき有様である。けれど無理もない。数刻前に彼が聞き及んだ情報は彼にとってはそれだけのものであり、それを否定するためには直接確かめるしかない。現実を否定するためには、現実を目の当たりにするしかない。矛盾した論理は、動揺の証であった。なればその在り方は駄々をこねる幼童にも似ていよう。

 

 停滞した人波を掻き分け、さながら幽鬼の如き足取りで大雅は先に進む。途中で傘を取り落としてしまっている事も、最早気にならなかった。心無い人から浴びせられる罵声も、口々に交わされる風聞も、全てを黙殺して切り捨てる。そうまでして彼は最奥を目指し、しかしそこで彼を待っていたのは、否定しようもない残酷な現実であった。

 

 黒々とした地に広がるは霏々とした降雨と交じり合ってもなお色褪せぬ赤。まるで小さな沼のようなそれの中に、2人の人影が横たわっている。ひとりは関節があり得ない方向に曲がり、あまつさえ関節が増えているかのようにすら見える亜麻色の髪の女性。そしてもうひとりはその女性と同じ髪色をした少年──即ち、真野彩歌であった。

 

 そして皮肉な事に、傷付き果てた親友を目撃してからの事も、大雅ははっきりと覚えていた。そう、忘れられる筈もない。いくら我を忘れて親友の身体に縋りついていたのだとしても。秒読みで薄くなっていく呼吸や雨に打たれて冷えていく体温、それらが合一し形となって立ち現れてきた濃密な〝死〟の気配など、忘れたくても忘れられる筈もない。特に、それが大切な人の身に起きた事とあっては尚の事。

 

 故に、彩歌が目覚めて順調な回復の傾向を見せている今、大雅が何度も彼の病室を訪れているのも無理からぬ事であろう。親友の身に立ち現れた死の色彩に間近で触れてしまった少年にとっては、友が生きているというのはそれだけで嬉しい事であったのだから。

 

「しっかし、回復してやるコトがコレとはなぁ……」

 

 半ば呆れのような、それでいて何処か納得を窺わせる声音であった。最早何度目になるかも分からない見舞いの場、病室の仮の主たる彩歌も大雅がいる状況に慣れきっていて、特段の会話もない中で一心不乱に書き込んでいたノートから視線を外す。

 

 いっそ無垢ですらある疑問を宿す孔雀青。恐らく問題を解くのに集中していて小声で零された嘆息の内容までは聞こえなかったのだろう。分かりやすすぎる程に素直な親友の姿に笑みを漏らし、大雅が先んじる。

 

「別に、何でもねぇよ。ただ、入院中まで勉強するなんて、殊勝なヤツもいたモンだと思ってな」

 

 自分が入院している間の授業内容について教えて欲しい。そんな半ば無茶とも言える請願を彩歌が大雅に対して行ったのは、彼が昏睡より目覚めてそう経っていない頃の事であった。

 

 お門違いと詰られても仕方のない要求だ。本来大雅は彩歌と同じ一介の生徒で、逐一他人の面倒を見る義務など無いのだから。だが、彼はそれを承諾した。それは彼が彩歌の腹積もりを理解したというのもあるが同時にそれは彼が彩歌に会いに来るにあたって良い口実でもあるからであった。病床の友人の面倒を見る。そう言われてしまえば、咎め立てする者はそういるまい。

 

 無言の裡にあった彩歌の問いに適当な答えを返しながら、ノートに整然と並んだ文字に視線を滑らせる大雅。一通り検め、頷く。

 

「だいたい合ってるな。……殆ど独学でコレなら、先公(センコー)なんて要らねぇんじゃねぇか?」

「そんな事ないよ。俺は元々、そんなにできる方じゃあないし……教えてくれる人の腕がいいのさ、きっと」

 

 冗談めかした大雅の物言いに、しかし返す声音は全くの真面目であった。内容こそまるで世辞のようだが、大雅の知る限り、彩歌が心にもない事を平然と口にするような男ではない。それが親友相手ならば猶更だ。

 

 故に、そこに込められているのは純粋な感謝と敬意。何の隔意や下心もなく過度な程に真っ直ぐなそれをぶつけられ、大雅が一瞬たじろぐ。いくら友としてその人となりを知っているとはいえ、不意の賛辞にさえ全く平静でいられる程、大雅は淡泊ではないつもりだった。その動揺に気付いているのか否か、彩歌は更に言葉を続ける。

 

「大雅の教え方、丁寧で分かりやすいし、俺は好きだな。それに俺ひとりでは入院中の遅れを入院中に取り戻すなんてできそうになかったし、本当に感謝してる。ありがとう、大雅」

「……おう」

 

 少なくとも彩歌の認識の上において、勉強を教えて欲しいというのは彼自身の我儘である。それを大雅が自身に会いに来るための口実として用いる事は承知してこそいるもののそれで我儘の事実が消える訳ではなく、なれば感謝は彩歌にとって当然の事であった。

 

 だがただでさえ直截に過ぎる賛辞に動揺していた所に畳み掛けられた側にとっては堪ったものではない。最早茶化してしまうだけの余裕も大雅の手元には一片も無く、微かに頬を紅くしたままそっぽを向くばかりだ。

 

 けれど言い負かされっぱなしというのも悔しくて、大雅が無造作に後ろ髪を掻いた。このままこの話題を続けていては、同じ事の繰り返しだ。故に、気を逸らそうというのなら、話題を変える他ない。

 

「まぁ、イイんだよ、ンなコトは。オレも好きで教えてんだから。

 ……それよりだ。オマエ、そろそろ退院できるんだって?」

「うん、そうだけど……誰から聞いたの?」

「オマエの先生から。前に、たまたま会ってな」

 

 先生かぁ、と彩歌。大雅が全くの偶然から詩音と会ったというのはそれだけならあまりにも出来過ぎのようだが、今のふたりには彩歌の見舞いという共通の行動がある。遭遇するというのは決して不思議な事ではない。

 

 しかしその遭遇を思い出していると見える大雅の表情は呆れか疲労のようで、彩歌は苦笑してしまう。大雅はまだ何も言ってはいないがふたりの人柄について熟知している彩歌にとっては仕草だけでも察するには十分に過ぎる。大雅が詩音に振り回されている光景が、彩歌には目に浮かぶようであった。

 

 それ故の笑み。半ば憫笑のようにも見えるそれに大雅は彩歌が察したのを気づいたのか自嘲めいて肩を竦める。

 

「大変だったぜ? マシンガントークとはまさにこの事って感じだった。

 それはさておき……お前が無事に退院できそうで良かったよ。学校も、オマエがいねぇと張り合いがねぇからな」

「そう? フフ、嬉しいコト言ってくれるね。冗談じゃあないといいけど」

「ンな下手な冗談言うかよ、ダチ相手に。……正直言うとな、オレ、めちゃくちゃ安心してんだ。()()()はホントに気が気じゃなかったんだからな」

 

 一拍の間を置いて絞り出された声はそれまでの飄々としたそれではなく、或いは今にも泣き出してしまいそうなそれ。表情や仕草にはそれらしい所などないというのに、彩歌にはどうしてかそう感じられた。

 

 何が大雅をそうまでさせるのか、分からない彩歌ではない。彼と愛歌が事故にあったあの日、その現場には大雅もいたというのは彼も聞き及んでいる事なのだ。尤も、実感は未だ無いのだけれど。

 

 大雅が現場を目撃した時には彩歌が意識を失っていたのだから、当然と言えば当然の事ではある。だがそれ以上に今の彩歌には欠落しているものがあって、彼の表情からそれを察したのか、大雅が口を開いた。

 

「……その様子だと、まだ思い出してはねぇみたいだな」

「うん……そうなんだよね。しばらく時間が経つか、強いショックみたいな切っ掛けがあれば思い出すかもって、お医者様は言ってたんだど……」

「いいじゃねぇか。無理に思い出さなくても」

「大雅……?」

 

 応える声はなく、代わりに漏れたのは親友の名。それは応答として適切ではなかろうか、しかし転じてそれは大雅の声音に現れた奇異を表すものでもあった。僅かに俯いた唐紅の視線は病室の床に向けられているが、今の彼が捉えているのが現実ではない事は明らかであった。

 

 なればその唐紅が捉えているものとは、即ち過去。耳朶を打つのは霏々たる幻。両の腕を濡らす血の粘度も、それを無慈悲に押し流しながら総身を打つ雨の冷たさも、大雅の裡で未だ鮮明であった。

 

 そのせいだろうか、大雅が膝に突いた手に、力が籠る。彼自身にすら自覚し得ない半ば無意識のそれは痛い程で、それ故に隠しきれずに溢れた本心の具現であった。なれば彩歌が口を挟める筈もない。

 

「忘れてるなら、忘れたままでもいいだろ。誰だって辛い記憶なんて持っていたくはねぇんだ。なら……あんなのは、忘れるに限る。誰もそれを責めたりしねぇよ」

「確かに辛い記憶なら、忘れていた方が幸せなのかも知れない」

 

 でも、と彩歌は言葉を続ける。

 

「忘れたままでいたら、いつか酷い事になる気がするんだ。それに、ずっと忘れたままでいられる保障もないし……そうなったら、きっと俺はそれを受け容れた俺自身を許せない」

 

 違う、そうじゃない。そう言えてしまえたのなら、どれだけ良かったか。彩歌が揺蕩う虚構を打破し、自らの手で真実を白日の下に晒してしまえたのなら、最悪の事態は避けられるのではないか。そんな誘惑が鎌首を擡げる。いつかは破れる虚構なら、今この瞬間に壊してしまっても構うまい。仄暗い甘美さえ纏う誘惑に、しかし大雅は否を突きつける。

 

 忘れたままに在ることを受け入れたら、万が一思い出した時に自分を許せない。それは紛れもなく彩歌の本心だが、同時に嘘でもある。何故なら、忘却という事実は既に在るのだから。母も共に巻き込まれた事だけは知っている中、それを思い出せない己の事を彼は自ら罰している。

 

 詰まる所、最早真野彩歌の行く先に平穏の二文字は存在し得ない。それを知りながら自らの手で彼を暗澹に突き落としてしまうなど、大雅にはできなかった。今ですら罪の意識に苛まれながらいつも通りに振舞おうとしている相手を追い詰めるなど、どうしてできようか。

 

 だが、大雅が何もせずともいつか〝その時〟は訪れる。虚構は決して現実には勝てない。人の認知に空いた間隙に依拠するのが虚構である以上、その間隙が埋められた時、虚構もまた現実により塗り潰されるが定めというものだ。

 

 数年、数か月、数週、数日、或いは数分後かも知れないし、それどころか今この瞬間にさえ〝その時〟は来るかもしれない。友の思いとは裏腹に、大雅にはそれが恐怖だった。

 

「彩歌、オマエは……」

 

 言いかけて、しかし大雅はそこで言葉を収めてしまう。彩歌は不思議がって小首をかしげるけれど、それに対して大雅は応えを返さない。無視しているのではない。ただ、返す言葉が見つからなかった。

 

 分かっているのだ。真野彩歌という少年は可能な限りにおいて全力で誠実であろうとし、故に責任の人なのだと。忘却の受容を肯定させてしまえば、きっと彼はそれにさえ責を負おうとする。きっと、それは何より残酷だ。

 

 だが、それでも。宗谷大雅と真野彩歌は違う人間だ。大雅は彩歌を理解すれど彩歌にはなれないし、なる気も無い。故にこそ、同じ事象を前にして違う結論を出すもまた道理。

 

「それでも彩歌、オマエには責任なんて──」

 

 無いじゃないか。大雅はそう言いかけて、しかしそれは病室のドアをノックする音によって切られてしまう。それはまるで彼の言葉が言いきられるのを阻むかのように。困惑しながらも彩歌は入室を了解し、そうして入ってきた人々を見た刹那、大雅は思わず息を詰まらせてしまう。

 

 果たして大雅の言葉を阻んでまで病室に入ってきたのは、ひとりの医師とそれに付き従う看護師であった。皆一様に苦虫を噛み潰したかのような、或いは何らかの憂いを覗かせた神妙な面持ちであり、明らかに尋常ならざるその気配に彩歌も身を硬くしてしまう。

 

 回診の時間ではない。投薬の必要も、今の彩歌には無い。ならば何故。胸の裡に湧き上がる悪寒は何かの予感のよう。そのせいだろうか、喉が急に渇いたような気がして、けれど医師はそんな彩歌を置き去りに何かを観念するように一度深く呼吸をしてから、少年に告げた。

 

「真野さん。少しお話があります。よろしいですか?」

 


 

 昏睡中は言うに及ばず意識を取り戻してからもそれなりの時間を病院で過ごしてきた彩歌だが、その生活の中で彼は一度も同じ病院に収容されている筈の母の許を訪れた事が無かった。

 

 初めの内は彩歌自身がベッドの上から動けるような状態ではなかったというのもある。だが動けるようになってからも面会が断絶されていたのだ。曰く、未だ意識を取り戻さないため万全を期しての事だという。

 

 そして真野彩歌という少年は純朴であっても阿呆ではなく、故に最悪の想像を一度もしなかったと言えば、それは間違いなく嘘になる。だがそれでも彼は己の夢を信じた。夢はいつか叶うもの。己が何も努力できない環境にあっても彼はそう思い続け、未来を願っていた。

 

 ──故に()()を目の前にした時、彩歌は暫くの間何が起きているのかを理解する事ができなかった。案内された部屋の中、陽彩が声を殺し、肩を震わせながら泣いている。詩音も殆ど同様の有様でふたりは彩歌の入室に気付くや何か言いたげな表情を浮かべたけれど、結局は何も発さなかった。最早真実は後戻りが利かない所まで進行している。なればその前で何を言い募ろうとも、それは空虚だ。

 

 彼らの目の前に鎮座するベッドには誰かが眠っているようで、しかし入り口辺りからはそれが誰であるか分からない。数歩して見えたのは胸の前で組まれた痩せ細った両手。それからもう少し進んで全容が視界に入ったが、顔には白い布が被せられていて、容姿から誰であるかを確認できない。

 

 それでも、彼が見間違える筈もない。たとえ、彼の知るそれとは違い肩の辺りで短く詰められていたとしても。たとえ、比べるまでもなく痛んでいたとしても。彼と同じ亜麻色の髪を持つ人間など、ひとりしかいないのだから。

 

「──母さん……?」

 

 応えは無い。動きも無い。病室にはただ、泣き声が無意味に木霊するばかり。思考が覚束ず、なのに嫌に冷静で酷薄な己が何かを言っている。なれば顔を隠す布に伸ばされた手が縋るようであったのも、きっと自然な事だ。

 

 だがそうして露わになったものを前にして、彩歌は息を詰まらせてしまう。布は指の間を滑るようにして床へ。あまりにあんまりな反応であるけれど、それほどまでに彼の動揺は激しいものであったのだ。

 

 而して、真実は白日の許へと晒された。そこにいたのは、否、()()()のは紛れもなく彩歌の母たる真野愛歌その人であり、けれど彩歌の知る姿とはあまりにもかけ離れている。痩せこけた頬に土気色に変わった肌。顔の造作は可能な限り繕われているが、元が端整であっただけに嫌でも一度破壊し尽くされているのが一目で分かってしまう。

 

 それでも理解と受容は違うものだ。むしろ理解できるが故に拒絶は激甚であり、足取りは忘我のように。無意識に腕は胸の前で組み合わさった手に伸び、触れ合った刹那、反射的に離してしまう。

 

 あまりにも冷たい。触れ合った肉は熱を内包せず、底冷えするような現実だけがそこにはあった。或いはそれは、いつかの雨が残した冷たさが未だ残留しているかのように。無視し得ない既視感に頭が痛む。割れるように痛む頭蓋の奥から雨音が染み出し、聴覚を支配してしまう。

 

 こんな音は知らない。知らない筈なのに、知っている。それは有り得ざる矛盾であり、ならば自己欺瞞はとうに無意味に堕ちて幻の雨は涙となって現を浸食する。最早、抗い様もなかった。

 

「母さん……!」

 

 冷え切り、土気色に変じた身体はまるで彫像のよう。いや、まるで、などというものではない。一度破壊し尽くされ、破片を繋ぎ合わせた、ツギハギだらけの肉の彫像。それが、数刻前まで彼の母だったモノの真実(いま)なのだ。

 

 つまり、真野愛歌はもうこの世には亡い。二度と彩歌に笑いかける事も、言葉を交わす事も、ピアノを弾く事も無い。その現実が、不可視の刃となって少年の心を切り刻む。──最早、堪えていられなかった。

 

「う……あ、あああぁぁぁぁぁっ! ああぁぁぁあぁぁッ──!」

 

 冷厳なる現に響く、少年の慟哭。それを前にしてさえ、彫像が再び目を開ける事は、無かった。

 


 

 元より、長く生きていられるような容態ではなかったのだ。何しろ直前になるまでブレーキをかけていなかった常用車の衝突を直撃という形で受けたのである。即死を免れたというだけでひとつの奇跡であろう。

 

 だが即死はしなかったとはいえ愛歌の身体が負ったダメージは非常に重篤であった。全身の骨は折れていない所を探す方が早いといった有様であり、酷い所は開放骨折に至っている箇所さえあった。内臓の損傷もまた激しく、半ば破裂に近い状態であったものもある程で、であれば医療者がどれほど手を尽くそうとも元に戻る可能性が万にひとつもあり得ないというのも自明であろう。

 

 それでも関わった全員が為すべきをしていたのだ。医療者は彼らの使命の許に患者を救うべく最善を為し、陽彩や詩音は多忙な身ながら時間の許す限り彼女の許を訪れていた。そんな彼らの思いに応えるように愛歌もまた残された力を動員して何度か死の淵より脱する回復を見せていて、けれどそんな幸運が何度も都合よく続く筈もない。結局、増悪から死ぬまではあまりにあっさりとしたものだった。

 

 誰も彼もが己が為すべきを果たした先の結末である。故にそれは初めから不可避の末路であり、しかし遺された者にとっては仕方ないの一言で済ませられる事実ではない。少なくとも、彩歌にとってはそうだった。

 

 だが最早死という結末が訪れてしまった以上、彼にできる事は何もない。故に少年は泣くばかり。泣いて泣いて泣き続けて、或いはそのまま身体中の水分が枯れてしまうのではないかという程に泣いていた。激情は理性を薙ぎ倒し押し流してしまわんばかりであり、そのせいかどれほど泣いていたのかさえ、彩歌自身には判然としなかった。

 

 まさしく永続を錯覚する程の滂沱。そんな慟哭の中より彩歌が一応の復帰をすることができたのは、やはり陽彩と詩音の存在が大きかろう。自身らもまた妻/親友を喪ったばかりであるのに彩歌に寄り添い続けた。彼らがいなければ、彩歌はそのまま深い慟哭の中で泣き果てていてもおかしくはなかっただろう。

 

 しかし霏々の内より解放されたからとて全ての悲しみが癒えた訳ではない。むしろ激情より返り冷静さが戻った分だけ現実はより色濃く彩歌の前に立ち現れ、否応なく直視させられる。悲しみとは氾濫しているよりもむしろ秩序立っている方が強いのだと、彩歌は初めて実感していた。

 

 責任ある大人であればその責務で以て悲しみに蓋をし、前進する事もできただろう。陽彩や詩音が今もそうしているように。だが子供はそうもいかない。彼らには大人程の責はないが故に立ち止まるのも容易であり、悲嘆を掘り起こすのもまた簡単であるのだから。

 

 ──病室の窓越しに、空を見遣る。空は青々として高く、その中を悠々と泳いでいるのは疎らな綿雲だ。開け放たれた窓からは風と共に蝉の声が入り込んでくる。まさしく絵に描いたような夏の日。いっそ皮肉なまでに良い天気であった。

 

「っ……」

 

 短く息を吐き、デスクの端に十指を這わせる。その構えは紛れもなくピアノを目前とした時のそれであり、唾液をひとつ呑み下したのを合図とするかのように指は架空の鍵盤の上にて踊り始める。

 

 だが、はやり拙い。嘗ては一分の狂いもなく統一された意志の許に整然と、かつ大胆に躍動していた筈の指は今や統率を喪い、雑然と言う他ない様相を呈していた。右手など酷いもので、利き手であるにも関わらず明らかに左手に比べ反応が数拍遅れている。

 

 そうして一曲を音もないままで弾き終え、あまりの醜態に嘆息してしまう。こんな有様では全国優勝はおろか、地区大会での優勝も夢のまた夢だ。尤も、コンクールの全国大会はたった今開会の時間を迎えたのだから、全ては杞憂にしかならないのだが。

 

「ダメだ、こんなのじゃ……!」

 

 乱暴な仕草でベッドに背を預け、そう吐き捨てる。こんな有様でも目覚めた時に比べれば回復したのは確かで日常生活を送るだけならば問題ない程度の機能を保ってはいるが、それでは不足なのだ。このままでは満足にピアノを弾く事も出来ない。夢を叶えられない。

 

 どれだけ酷い有様であったとしても、彩歌は生きているのだ。ならば、夢は叶えなければ。リハビリが辛くて諦めたなどとなってしまっては、死んだ母に顔向けができない。そうやって己を奮い立たせ、少年は再び背を起こした。

 

 そうして再度無音の旋律を奏でるべく彩歌の指に熱がより一層に籠り、けれどそれが解放される事はなかった。彼の指が仮想の鍵盤を叩こうかというその刹那、不意の衝撃音が耳朶を叩き注意を現に引き戻してしまったのだ。

 

「何だ……?」

 

 唐突な不可解に、思わず困惑が口を突いた。ただの物音ならばいざ知らず、まるで壁を拳で殴りつけたかのような音など明らかに異常だ。壁越しに複数人が何か言い争っている気配が続くとなれば、杞憂と判ずる方が難しかろう。

 

 その異質に、彩歌は胸騒ぎを自覚する。死が齎す荒天めいて粘性な侵略ともまた異なりながら同様に尋常ならざる非日常の色彩。そのせいか、耳朶に張り付いた雨音がその存在を強く主張してくる。

 

 だが彩歌がどれだけ胸騒ぎを覚えようとも正体不明のインベーダーは待ってはくれない。扉の前、複数の足音が止まる。だがすぐに開け放たれることはなく、代わりに入ってきたのは扉越しであっても判ぜられる程に聞き慣れた声。

 

〝ねぇ止──よ! こんな──〟

「宮古さん……?」

 

 或いは足音の主達を諫めようとしているのか、切羽詰まった様子を湛えた声音であった。だが一群の勢いがそれで止む事はなく、美律の短い悲鳴の直後、遂に扉が開けられる。そうして足早に入ってきた人々の姿に、彩歌の表情が驚愕に染まった。

 

「みんな……どうし──っ!?」

 

 果たして訪問者(インベーダー)の正体とは彩歌と同様に愛歌の薫陶を受けていた同門達。だが彼らの表情に常の友好は一分として存在せず、それどころか先頭にいた少年は彩歌に肉薄するや否やその襟首を掴み上げてしまう。

 

 動揺。困惑。そして恐怖。状況に理解が追いつかない。いったい何故、今まで一度も姿を見せていなかった同門達が一斉に現れたのか。いったい何故、美律だけが彼らを止めようとしていたのか。いったい何故、彼らは皆一様にその目に激烈な憤怒を宿しているのか。

 

 分からない。だというのに胸騒ぎは秒読みでその主張を増し、それに呼応するかのように頭蓋が割れるように痛む。そうして出来た亀裂から染み出すのは雨音の情景だ。

 

 こんなものは知らない。知らない筈なのに、知っている。在り得ざる矛盾だ。しかし雨はそれに頓着する事も無く彩歌の五感を食い荒らそうとその色を広げ、彼にはそれに抗う術もない。その中に在って、その身を突き刺す煮え滾るような嚇怒だけが鮮明だった。

 

『……愛歌先生が死んだ』

 

 そう切り出したのは誰であったか。襟首を掴む腕の主でもあるようで、はたまた別の誰かのようでもある。或いはそれはその場にいる者皆の総意であったのか。雨音に食い荒らされつつある五感では、それさえ判然としない。

 

『なのに、どうしてお前が生きてる?』

「っ……それは……」

 

 考えた事も無かった、と言えば嘘になる。共に事故に巻き込まれた筈なのに、どうして母だけが死に自分は生き残ったのか。ただの運で片づけるにはそれはあまりにも決定的な差異であり、しかし当時の記憶を持たない彩歌にはそれを知る術はない。

 

 ──否。本当に? 饐えた澱のように堆積した怨嗟に当てられたかのように、頭蓋が軋む。脳髄が震える。脳漿が煮える。割れたヴェールの奥から、雨天の夢幻がよりその勢いを増して噴き出してくる。

 

『お前のせいだ……! お前のせいで、愛歌先生は……!』

 

 その言葉は、さながら地の底より這い出た怨毒が形を成して現れたかのように。襟首を掴み上げられ自由を奪われた彩歌では抵抗もできず、怨毒は少年の心に染み入る。なれば、それが少年に巣食う悔恨とない交ぜになるのは道理。混沌とした黒が、彩歌を貪る。

 

 違う、と即答できなかったのは、それ故の事。その間隙を肯定として捉えたのか彩歌の襟首を掴む手により力が籠り、頬に水滴が落ちる。刹那、総身を駆け抜けた既視感に思わず彼は苦悶の声を漏らした。

 

 その感覚を知っている。生温かい雫が頬に落ち、滑り落ちる感覚を。それは予感というよりもむしろ確信に近く、確信は呼び水となって意識に濁流めいたノイズが奔る。

 

 お前のせいだ。お前のせいだ。輪唱のように繰り返される悪罵が彩歌へと浴びせられる。その度にノイズは勢いを強め、反対に濁流は秩序を増してひとつの像を結び始める。

 

 それはいつかの霏々たる降雨の残響。断絶していた旋律の続きを編むように、目蓋の裏をヴィジョンが過る。記憶の間隙。無明に埋没した真実が立ち現れ、虚構の闇はその前には何の用も為さない。

 

 お前のせいだ。

 

 ──お前のせいだ。

 

 ────お前のせいだ。

 

 声は止まず、故に像はより明瞭に結ばれていく。滂沱は留まるところを知らず彩歌に降り注ぎ続けて、その感覚は正しくかの日の再演だ。

 

『あぁ──』

 

 頭蓋が割れ、虚構は砕ける。無知の欺瞞は最早意味を為さない。

 

 東京予選からの帰路。雨音に負けない朗々とした声で語り合うのは愛歌と彩歌、一対の母子であり、その様子は未来への希望に満ちている。そのうちに総身に満ちる情熱のままに彩歌は走り出すが、彼も莫迦ではない。いっそ律儀過ぎる程確かに周囲を確認し、横断歩道に足を踏み出した。

 

 或いはそこに彩歌の非があるならば、それはきっと他者を信じすぎたという事。本来であれば赤信号を前に止まる筈だった車は一切の減速もないまま交差点に進入し、彩歌は彼を呼ぶ母の声を聞く。

 

 それが、最後。振り向こうとした彼が見たのは、我が子を庇わんと割り込む母の姿で──

 

 

彩歌(おまえ)が、死ねばよかったのに』

 

 

 ──気づけば、胃の中身を全て吐き戻していた。もう戻せる物など何もないというのに何度も嘔吐き続けて、いっそ胃が裏返りそうだ。だが皮肉にもその痛みが彩歌の意識を現実に引き戻す。雨音だけが未だに残響していた。

 

 吐気は留まる所を知らず、呼吸すらままならない。少年は自らぶちまけた吐瀉を見下ろしながら無意味に肩を上下させるばかり。その頃になってようやく異変を察した職員が応援を連れてきたと見えて、錯乱した同門達を彩歌から引き剥がして強制的に連れて行く。

 

 そうして、その最後尾。最後まで憎悪と混沌より切り離されていた美律はその頃になってようやく状況に追いつき、おずおずと彼の名を呼ぶ。彩歌、と。それが聴こえたのだろうか、少年はゆっくりと顔を上げ、そうして見えたものに少女は悲鳴とも驚愕ともつかない声を漏らしてしまう。

 

 あまりにもあんまりな応答。だが致し方あるまい。亜麻色の髪の間より覗く蒼い瞳にはもう光などなく、ただ憔悴と恐怖、そして懺悔ばかりを湛えていたのだから。

 

 それが己にも向けられたものであると、美律が気付かない筈もなく。何も言わず、少女は背を向けて足早に去っていく。或いはそれは、現実から逃げるように。自らの気持ちに、見ないフリをするかのように。それが招く未来を、知ろうともしないまま。

 


 

 1年前に事故に遭った〝神才〟の息子が、再びコンクールに出るらしい。その話を聞いた時、人々は憫笑すると同時に冷笑を漏らした。

 

 真野彩歌。天才の両親の間に生まれた、出涸らしの息子。生死すら危ぶまれた程の事故からの復帰と言えば聞こえは良かろうが、よりによって生き残ったのが母ではなく息子とは。あの息子では復帰した所で大した演奏はできないだろうというのが、大人達の総意だった。中には愛歌を()()()()だと、そう罵った者もいたという。

 

 故に母の形見たる髪留めを着用した彩歌が舞台に現れた時、現場にいた者らの中には失笑を禁じ得なかった者もいて、しかし彼はそんな不遜に一瞥もくれてやる事はなかった。その嘲りを当然のものと受け入れるかのように。確とした、同時に幽鬼の如き足取りで少年は席に着き、鍵盤にその十指を這わせた。

 

 短く、鋭い呼吸。彩歌の腕に、力が籠る。

 

 刹那──人々は戦慄に包まれた。

 

 それは、一切万象悉くを灰塵と帰すが如く。彩歌が奏でる音により世界は崩れ、人々の意識は彩歌が魅せる演奏(せかい)に囚われる。その中に在っては呼吸すらもままならない。そう錯覚する程の圧巻であった。

 

 只管に黒く、深く。さながらこの1年に堆積した情念をそのまま音色としたかのように。なれば、それは孔だ。音色を以て人々の心を捕らえ、その奥へと誘う孔。一度彩歌の音に魅せられてしまえばそこから逃れる術はなく、あらゆる防備を引き剥がされ丸裸になった心に彩歌の演奏(せかい)が入り込んでくる。

 

 あまりにも暴虐。だが過剰なまでに純化された激情の音色はいっそ清廉ですらあり、聴衆の心を捕らえて離さない。彩歌が紡ぐ演奏(せかい)の中、人々は自由を奪われて洞の如き激情とその中であっても確と瞬く光輝に晒される。

 

 それがあまりにも鮮烈に過ぎたからだろうか、彩歌の手が止まり残響が虚空に解けても、その場に拍手と歓声が満ちる事はなかった。全員がそれに値しないとしたのではない。実体はむしろその逆で、皆が皆、圧倒され果てて忘我より復帰できなかったのである。そんな聴衆を後目に少年は恭しく礼を取り、舞台から降りていく。

 

 その背を目で追い、次第に戻ってきた実感の内で彼らは理解する。真野彩歌。自律と克己以外に際立った際を持たない出涸らしの子。それが彼に対する周囲の評価であった。

 

 だが、違った。違ったのだ。生死の境を彷徨う程の事故から1年と経たずに復調し、あまつさえそれ以前よりも高い技術を伴って帰参するなどと、そんな所業が自律と克己だけで為せる筈がない。

 

 そう、それらは初めから、彼が秘め持っていた才の一側面でしかなかったのだ。ひとつの目標のために己を殺し、只管に修練を積み上げそれら総てを己が力と成す才。それこそが、彼が持つ唯一の天稟。或いは両親のそれすら凌駕し得る、獣性じみた可能性の源泉。

 

 即ち秀才などでは生温い、滅私にすら似た〝努力〟の天才。それが、出涸らしの息子の正体であった。

 


 

 あまりにもはしゃぎ過ぎた演奏だった。コンクールからの帰路の途上、自身の音色を反芻しながら彩歌は内心で独り言ちる。その手には彼がこれまで獲得してきたものと同じ、トロフィーがある。

 

 かの事故が起きた雨天の日より、およそ1年。再び出場したコンクール東京予選の結果は優勝。それは良い。だが、演奏には大いに反省すべき点がある。聴衆の戦慄とは裏腹に、それが彩歌の判断だった。はしゃぎ過ぎたというのは、その総評であると言えよう。

 

 第一に、感情を出し過ぎた。家族や友を除けば人前で演奏するのは久方振りであったせいだろうか。演奏をしている彼自身ですら分かる程にその音色は奏者が秘めた情念を孕み、故にそれは今の彼にとっては己の不出来の証明だ。

 

 嘗ての彩歌であれば、それをひとつの完成としただろう。己の感情総てを過不足なくそのまま音色に変えるなど、誰にもできる事ではない。だが、今は違う。最早、彼にその権利はない。必要なのは技術だけだ。圧倒的な技術で以て旋律を紡ぎ、諸人を魅せる。それが、咎人たる彼に許された唯一。

 

 そう規定しながらもそう在れないのは、偏に修練が足りないからだ。ならば地区大会を突破したからとて手は緩められまい。能面の如き無表情のままそう断じた彼に、声。

 

「……彩歌」

 

 呼びかけが耳朶に触れ、意識は施策から現実へと立ち戻る。瞬間、脳裏に蘇った過去の残滓に彩歌は身を強張らせてしまう。だが、それも当然の反応だろう。場所は、いつかの交差点。彼を呼び止めたのは、同門のひとりだった宮古美律その人だったのだから。

 

 彼らが最後に顔を合わせたのは愛歌の葬式での事。だがその表情は約半年ぶりの友との再会を喜ぶそれではなく、まるで信じられないもの、信じたくないものを目の当たりにしたかのような動揺のそれだ。

 

 けれど、彩歌は努めて冷静に、嘗ての己のように旧友と相対する。脳裏に湧き出す恐怖も、主の意思を無視して今にも震えだしそうな脚も、全てを己の支配下に置いて。その心を満たす混沌のために、美律はそれに気付かない。

 

「あんた……あの演奏は、何?」

「何って?」

 

 再会の感慨も何も無いまま、震える声で零された問い。美律の内心に渦巻く感情をそのまま言葉にしたかのようなそれを浴びても、彩歌の様子は変わらない。だがその不動こそが決定的だった。

 

「彩歌、あんた、愛歌先生の教えを忘れたの……?」

「忘れてないよ。忘れるワケない。〝音楽はまず自分が楽しまなければならない〟って」

「なら、どうしてっ……!」

 

 あの演奏はああも辛そうだったのか。感情の高ぶりのためか美律は最後まで言い切る事は無かったが、その続きが分からない程の愚鈍であるつもりは、彩歌にはなかった。つい先刻まで己の演奏を自省していたというのもあるけれど。

 

 美律の知る限りにおいて、真野彩歌という少年は彼らの師の教えを最も体現した人物であった。故にこそ彼女は信じられなかったのだ。いっそ純粋ですらある程に黒く(くら)い音色が、彩歌が奏でたものであるなどとは。

 

 まるで幼子の駄々めいた動揺。だが同時に、それは至極真っ当な感情でもあろう。美律は愛歌を除けば彩歌を誰より尊敬していたのだ。それなのにその相手が変わり果てていれば、誰しもすぐに受け入れる事はできまい。

 

 しかしそんな美律の内心を知ってか知らずか、歯噛みをひとつ。そうして、彩歌が口を開く。

 

「俺にはもう、そんな権利はないよ」

「そんなの──」

「母さんは俺のせいで死んだ。俺が母さんの(ゆめ)を奪ったんだ。それなのに俺だけがのうのうとしているなんて……許される筈がない」

 

 美律の反駁に重ねるように、彩歌はそう言い切る。決して激しくはない、むしろ落ち着き払った声音であるというのにそこには有無を言わさぬ圧力があり、美律はたじろいでしまう。或いはその空白は、彼の物言いに覚えがあったからだろうか。

 

 愛歌が死んだのは、彩歌のせい。それはいつかの病室にて、彼らの同門が彩歌に浴びせた悪罵。あまりにも理不尽な暴論だ。事実に即さない、ただの感情論だ。それなのにそれを真っ向からぶつけられても、美律は否定する事ができなかった。

 

 違う、と。そう即答できればどれだけ良かったか。だが彩歌自身さえもが彼を下手人と断じた刹那、彼女は思い出したのだ。あの病室で、吐瀉をぶち撒け涙ぐむ彩歌の目を見た時に懐いた思いを。故にこそ彼女は否定できず、彩歌は更に続ける。

 

「それでも救われたからには、救われた意味を果たさなくちゃ。……だから俺は俺の義務(ゆめ)を果たす。義務を果たして、俺の価値(そんざい)を証明する。母さんの死が無駄死にだなんて……もう誰にも言わせない」

 

 最早その身には大好きを叫ぶ権利も、夢を謳う権利もない。それでも彩歌が音楽を続けるのは、義務を果たすため。その身の罪を贖うため。母の命と死を無価値としないために、己の価値を証明する。それこそが己が音楽を続けることを許されている唯一の理由だと、彼は言う。

 

 その声音に、嘘の気配はない。悲壮な決意を語る彩歌の姿は美律が知る彼そのもので、だからこそ正面からそれを受け止めた美律は現実から逃れる事もできない。足元が、抜けるような思いだった。

 

 暗然たる感慨の中で、美律はようやく自覚する。己は、彩歌の事が好きだったのだと。友愛もあった。敬愛もあった。そしてそれ以上に、自らの夢と〝大好き〟に誰よりも真摯で、誰より素直な彼に恋をしていたのだ。

 

 けれど、彩歌は変わってしまった。その目は冥く、宿した決意はまるで燦然たる漆黒の星のよう。美律が好きだった彼の姿は、その洞のような光輝の許に在っては視認さえできない。

 

 だが人が変わるには必ず切っ掛けが要る。それが急激なものであるのならば猶更だ。原因が無ければ結果はない。その因果に逆転は有り得ない。ならば彩歌の変化にも原因がある筈で、そんなものは考えるまでもなかった。

 

 今度こそ否定の仕様も、逃避もない。恋をしていた筈なのに。好きだった筈なのに。その実、あの日あの病室で、深く傷ついた彩歌を見た美律の胸に去来した感情は──

 

「……ない。認めない……!」

 

 譫言めいた、それでいて確かな呪詛を孕んだ声。それが彩歌に対して向けられたものである事は疑い様もなく、だが彼はその現実を前にしても眉根ひとつ動かす事も無い。全てを当然として受け止めるかのように。

 

 だが、認めないとは何をであるか。自らの母の教えを蔑ろにした彩歌か、或いは彩歌に恋をしていたという過去か、はたまた己もまた彩歌を変えてしまった無自覚の共犯者であったという現実か。きっとそのどれでもあって、どれでもない。胸の裡で煮え滾る情念の正体は美律自身にも判然せず、そんな事はどうでも良かった。今はただ、この恩讐をぶつけなければ、気が済まない。

 

「うちはあんたを認めない……! 愛歌先生はあんたを守って死んだのに、どうしてあんたは……!」

 

 激情は止まない。一度溢れ出した思いは留めようもなく、心がそれ一色に染まっていく。嘗て抱いた思い出も、慕情も、全て押し流していくかのように。その喪失を悼む気持ちすら、濁流の裡では無力だった。そうして美律はその身を焦がす衝動のまま、遂に決定的な一言を放つ。

 

「あんたなんか、あんたなんか……! あんたなんか、あの時に死んでいればよかったのに!」

 

 それが、結実。一度発した言葉は最早戻る事はなく、憎悪は揺るがぬ現実として確立する。

 

 ──此処に、決別は成った。そしてそれは真野彩歌という男の、少年の日の終わり。呑み下された涙と共に、彼の甘美なるユメが、終焉を迎えた瞬間であった。

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