【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第26話 ソノ裏切りに、目一杯の応報を

 夕景の茜色に沈む真野邸の洋間にて、机を挟んで向かい合う一対の男女。それは奇しくも数か月前、せつ菜が己の正体を明かし胸中に抱えた呵責を吐露した時と同じ構図であり、しかし決定的に異質であった。或いはそれは逆転とでも言うべきであろうか。

 

 机上にはホットミルクの昇らせる安穏とした湯気も無く、咎人たる少年は組み合わせた両の空手に視線を落として虚構たる空白を自ら打ち破る。それにせつ菜が待ったをかける事はなく彩歌もまたそれを望んでいるかのようで、ならばその独白は告解めいてもいよう。ならば聴取者たるせつ菜はさながら、告白を聞き届ける聖職者だろうか。

 

 されど罪は罪のまま咎人の内に在り、そこに赦しの秘蹟(サクラメント)の介在する余地はない。いかに赦しが崇高なものであろうとも、それを求めぬ者に届く筈もないのだ。故にせつ菜の言葉を待たず、彩歌は続ける。

 

「……俺は母さんに助けられた。助けられたからには、義務を果たさなくちゃ」

 

 それはいつかの日、己を糾弾する美律に対しても告げた言葉。詰まる所、彩歌の理屈とはその一言に終始するのだ。その身は母の命と引き換えにして守られた。ならば助けられたからには、為さねばならぬ事がある。それはサバイバーズギルトとでも言うべきであろうか。

 

 どうしてこんな事に、とは彩歌とて何度も考えたのだ。だが、それはあまりに女々しく、かつ無意味な思索だ。事象は既に遠く離れ、過去は揺るがぬ現実として決している。故にその所以には最早価値はない。

 

 ただひとつ確かであるのは、今でも彩歌は生きているという事。他ならぬ彩歌自身がそう規定し、そしてそれだけは誰にも否定できない。

 

「だから──っ……!?」

 

 だから、何だというのか。その言葉を吐き出すと共に彩歌はそれまで不可視の過去へと向けられていた視線を振り上げ、その刹那、目に映った光景に思わず口を噤んでしまう。

 

 緊迫した空気の中にあってはいっそ頓狂とすら言える応答だ。だが彩歌の自認と置かれた立場からすれば、それも致し方ない事であった。それほどまでに彼が受けた衝撃は大きく、感情に理解が追いつかない忘我の中で言葉が漏れる。

 

「優木さん……泣いているの……?」

 

 それは彩歌にとって、あまりに理解の外にある事象でった。先の告解は彼が他者に対して隠し続けてきた罪の開示であり、それ故にある種の決別であったのだ。責められこそすれ、泣かれるなどあり得ない。告白を決心した時点で、彩歌はそれさえ覚悟していたのだ。せつ菜から責められる事があったとしても、それは必定の末路なのだと。

 

 それなのに、泣いている。珠のような漆黒の双眸より溢れた雫が重力に従って頬を滑り、夕陽の鯨波の中を落ちていく。彩歌の茫然とした声でようやくせつ菜は自らが泣いている事に気付いたようで必死に拭うけれど、そんな彼女の仕草に反して涙は止め処なく溢れてくる。困惑。正しくその一言だった。

 

「どうして……」

「だって……だって、こんなの、酷すぎますっ! それじゃあ、彩歌くんが救われないっ……!」

「──!」

 

 自らが落涙している自覚はなくとも、それはずっとせつ菜の胸中にあったのだろう。最早流れ落ち続ける涙を拭う事すら放棄してせつ菜は思いの丈を叫び、彩歌はそんな彼女を前にして息を呑む。何を返せば良いか、分からなかったのだ。

 

 愛歌の死の真相、そして彩歌の過去を知り彼の前で涙を見せるという点においては、せつ菜の反応は嘗ての同門らと同じだ。だがその性質において両者はあまりにも乖離していて、故に彩歌は即応できなかった。せつ菜の言葉はあくまでも彩歌を想うそれであり、そして優木せつ菜という少女の性質を彼は知っているが故に思いは彼の胸を締め付ける。

 

 その幻痛が、今更な事実を彩歌に改めて実感させる。優木せつ菜という少女は、あまりにも優しすぎる。己にその権利はないとして彩歌が置き去りにした約束を、その事実を知りながら未だ守ろうとしているのがその証左だ。

 

 けれどその優しさを受けて生まれた痛みを、彩歌は冷徹を以て覆い隠す。

 

「違う。それは違うよ、優木さん。俺はもう十分に救われてるんだ。俺は今もこうして生きてる。それ以上の救いなんて、俺にはないよ」

「っ……じゃあなんで、今も彩歌くんはそんなに辛そうな顔をしてるんですか」

 

 せつ菜としては珍しい、いっそ責めるかのような声音であった。だがそれは感情的ではありつつも底抜けに真摯であり、故にその前に在っては彩歌の心にこびりついた自己欺瞞は全くの無力。そうして残されるのは、無防備となった無力な少年ひとりだ。

 

 彩歌にとって、嘘とは不可視の仮面であり鎧だった。自らが規定した在るべき己を纏う事で、昔日の残響に圧し潰されそうな己を守っていたのだ。だが元来嘘を苦手とする彼には自罰を固めて作った鎧はあまりに重く、故に破綻は必然だ。自滅か破滅か、結局の所は遅いか早いかの違いでしかない。残響はいつか鎧を食い破り、彩歌をその手に掛けるだろう。その終わりが、せつ菜には我が身の事であるかのようにすら感じられた。

 

 事ここに至り、せつ菜は改めて確信する。嘗ての彼女と彩歌は同じなのだ、と。同じ痛みを知りその道の先に何があるかを知ればこそ、彩歌は自らと同じ側に菜々が堕ちてしまうのを厭うたのだ。であるならば、彩歌の痛みをせつ菜が理解できるのもまた道理。それが分かっていながら彩歌の裡には未だ恐怖が居座っていて、懊悩は震えとなって現れる。

 

 だが怨念めいた恐怖に凍結しそうな心を溶かすように、不意に熱が彩歌の手を包む。あまりに唐突なそれに忘我より立ち返り、そうして彩歌の群青がせつ菜の双眸とかち合った。未だ涙を湛えた、珠のような漆黒。しかしそこには確かな信用と慈愛の光があり、それが真正面から彩歌を射抜く。

 

「あぁ……そうだった。もう(ソレ)は要らないって、言ってくれていたのに」

 

 その呟きは自嘲か、さもなくば自罰のようですらあった。先刻の夕景の中、せつ菜は彩歌に告げていたのだから。もう嘘を吐く必要はない、自分を裏切る必要はないのだと。

 

 それなのに、彩歌は嘘の鎧で自らを守ろうとした。釈明の仕様はいくらでもある。しかしそれらは全て言い訳に過ぎず、ならば何を言い募ろうともそれは只管に自らの罪業を積み上げる事にしかなるまい。何より、それはせつ菜をこれ以上に裏切る事になる。

 

 だが同時に、全てを赤裸々に語るというのはつまり己の醜く弱い部分を晒すという事だ。自らの過去を話した以上は今更かも知れないけれど。故に間隙は数拍続き、その幕切れと共に彩歌がせつ菜の手を握り返す。震えは未だ収まらず、けれど彩歌は再び口を開いた。

 

「……ごめん。俺、また嘘を吐いた。

 あぁ。キミの言う通りだよ。でも、それが俺の責任なんだ。これ以上を望んだら、きっと罰が当たってしまう」

 

 絞り出すような声音であった。触れ合った肌より伝わる震えは止まず、仮面の剥がれた顔には泣き笑いめいた悲痛が浮かんでいる。それはまさしく混沌とでも言うべき有様であり、それ故に嘘の色合いが立ち入る余地がない。

 

 責任。結局の所、彩歌の論理はそこに集約される。ある種の信念と言い換えても良いだろう。責任とは果たすものだ、という信念。それは一見してあまりりにも当たり前の事であろうが実際に履行できる者はそう多くはなく、けれど彩歌のそれはあまりにも度が過ぎていよう。

 

 だが、それこそが正しく彩歌の本音なのだ。彼が己自身にさえ嘘を吐いて本心を押し殺しているのも、全てはそのため。自らの責任を果たすために自己が邪魔であったが故に、彼はその選択をしたのだ。

 

 その理屈(ロジック)が他人事には思えなくて、せつ菜は思わず表情を歪める。自罰と自責の果て、悪を全てその身に背負い己を殺す。その痛みを知るが故に彼女の共感は一入であり、それを目の当たりにした彩歌が自嘲的に薄く嗤う。

 

 そうして、するりと抜ける手。熱の名残を惜しむ間も無く彩歌は席を立ち、せつ菜に背を向けるように壁を向いて立つ。その視線の先には何枚もの賞状を収めた額縁があり、直下のショーケースには所狭しとトロフィーや楯が並べられている。全て、彩歌がこれまでに獲得してきたものだ。

 

「優木さん。“神才”なんて渾名されてた俺の母がどうして個人経営のピアノ講師をしてたか、キミは知ってるかい?」

「いいえ。でも……」

「うん。多分、キミが思ってる通りだよ。……それが、母さんの夢だったんだ」

 

 せつ菜の解答を先回りし、彩歌はそれに肯定を返す。こうして他人の言葉の先を正確に読んでしまうのも彼の癖のひとつであり、しかし今となってはそれもあまりに痛々しい。或いは彼の裡でその洞察を育てたのは、他者への恐怖であるのかも知れないのだから。

 

 数多の才能が犇く音楽界においてさえ“神才”などという大仰な異名で呼ばれるような才人が小規模な音楽教室の経営をしているというのは、それだけならば聊か奇妙な話ではある。才能というのは度を超せば本人の意思を無視して生き方を決めてしまう程のもので、愛歌の才能は紛れもなくその域だったのだ。

 

 にも関わらず愛歌が一介のピアノ講師に甘んじていたのは、それこそが彼女の夢だったから。そう前置きして、彩歌は更に続ける。

 

「ピアノ講師として自分の教室で子供達にピアノを教える。それが母さんの夢で……父さんはそんな母さんの夢を応援してた。あの教室は、両親(ふたり)の夢だったんだ。それなのに……!」

 

 その言葉と共に、ショーケースに突いた彩歌の手に力が籠る。ともすればその握力だけでガラスを砕き割ってしまいそうな程に。そんな在り得ない想像が過ってしまうだけの圧力を、今の彩歌は放射していた。ずっと裡に抑え込み続け高まり果てた熱量が溢れ出したかの如きその有様に、彩歌の瞳の中で漆黒の星が再び瞬く。

 

 愛歌の教室は彼女の夢であると同時に陽彩の夢でもあって、故に夫妻の夢の結実だったのだ。ふたりの息子であり彼らを尊敬し追いつかんとしていた彩歌だからこそそれをよく知っていて、それだけに激情の奔流は留めようもない質量を伴って溢れてくる。

 

 覚えている。子供達にピアノを教える愛歌の幸せそうな表情を。覚えている。愛歌の死後、教室の看板を下ろす時に見た陽彩の悲し気な顔を。それら過去の全てが、彩歌に圧し掛かる。雨が、総身を乱打する。

 

「俺が奪ったんだ! ふたりの、みんなの夢を‼ 俺が……俺がっ……!」

 

 血を吐くかの如き絶叫であった。一度決壊した枷は最早彩歌の裡で用を為す事はなく、溢れ出した情念は濁流と化して主たる彩歌の身体を支配する。感情が理性を飛び越えて、思考が飽和するようだった。

 

 黄昏に満ちる悲痛な声。既に嘘の鎧はなく、なればそれこそは彩歌の中で堆積し続けてきた自責そのもの。彼が己で己自身を罰していた所以こそがそれであり、しかし悲嘆と後悔の声音に反しそこに涙はない。ただそれに比するだけの嘆きが、そこにはあった。

 

「そんな奴が救われていいハズない! 夢を見ていいワケがない‼ あぁ、いっそあの時、俺だけが──」

 

 死んでいれば良かったんだ、と。そう続く筈だった言葉はしかし、半ば強引に途切れ声として結実しなかった語気は呻きにも似た吐息となって外界に漏れる。目は驚愕に見開かれ、その中で凶星が揺れる。

 

 動揺。或いは間隙。その要因となったのは唐突に彩歌の背中に触れた衝撃であり、果たしてその正体とは他でもない、せつ菜であった。後ろから、せつ菜に抱きしめられている。──訳が、分からなかった。

 

 前後不覚。まさしくその一言だった。暴発する感情の荒波に打ちのめされ尽くした理性では状況への適応にはあまりに不十分で、その中にあって激情の矛先が一切せつ菜に向かないというのは一種の奇跡であった。だが自縛は甘く、故に蒼惶は容易く口を突いてまろび出る。

 

「優木さん……何を……?!」

「──彩歌くんはずっと、辛い思いをしてきたんですね」

 

 全く以て答えになっていない物言い。それどころか、彩歌の問いを聞いていたのか否か。けれどどうしてかせつ菜の言葉は彩歌の耳朶より入り込み、その内側で暴れ狂う波濤の間を抜けて奥底へと届く。

 

 せつ菜と彩歌は同じだ。共に誰かの夢を奪ったという自責に苛まれ、本当の己を殺し全ての罪科を独りで背負う事でその責を果たそうとした。自己を殺す痛みという点で、彼らは同質だ。だからこそ彼らは他の誰より互いの心に近い所にいる。

 

 だが全てが同じである筈もない。せつ菜は周囲から裏切られる辛さも、突然母を亡くす喪失も知らない。大好きな筈の事に、その気持ちを封じたまま自己を費やす空虚も。彩歌がせつ菜になれないように、せつ菜も彩歌にはなれない。彼らは何処まで行っても他人だ。他人であればこそ、寄り添う事ができる。味方でいられる。嘗て、せつ菜に対して侑や彩歌がそうしたように。

 

「突然大好きな人を喪って、お前のせいだって責められて、大好きを素直に叫べなくて、ずっと自分を呪い続けて……」

 

 彩歌(おまえ)が死ねばよかったのに。それが彼の奥底にある、彼を呪う言葉。4年前、彼を詰った同門や大人たちは気付いていたのだろうか。彼らが告げるまでもなく、誰より彩歌自身がその言葉で自分自身を呪っていたという事に。

 

 優木せつ菜にとって、真野彩歌は“優しい人”だ。彼女はその優しさに救われたからこそ、それが確信できる。優しいからこそ他人を呪えず、しかし彼と母を轢いた名も知らぬ誰かにさえ向けられる優しさは、決して彼自身には向けられない。

 

 或いはそれこそが彩歌にとって、不幸を乗り越えるための処方だったのだろうか。誰かを一度でも呪ってしまえば、その呪いだけが己の全てになってしまいそうだから。自分ひとりを呪って、他者の呪いを背負って、その呪いを以て己が身を燃やす事で前に進もうとした。雨音の幻聴から嘘の鎧で身を守りながら、その鎧の下で自らを呪い、燃やし続けた。全ては母の死を無意味としない為に。

 

「それでも……それでも私はっ……」

 

 彩歌の身体に回した細腕に力が籠る。確かに彼は此処にいるというのに、そうしなければ何処かに行ってしまいそうで。そんな錯覚のせいだろうか、絞り出した声はどうしようもない程に涙に濡れている。

 

 分かっている。きっとこの言葉もまた彩歌を呪う、ただの我儘だ。それが分かっていながら、せつ菜は言わすにはいられなかった。自らの気持ちを叫ぶのが、彼の肯定した『優木せつ菜』であるが故に。

 

「貴方が生きていてくれて、よかったっ……‼」

 

 怖かった。彩歌の告白を聞く中で、せつ菜はどうしようもなく恐怖した。今目の前にいる大切な人が、或いは死んでしまっていたかも知れないという事実が、ひどく怖かったのだ。

 

 故にそれは、純粋な歓喜と安堵だった。無論、愛歌が亡くなってしまった事実への悲しみはある。だが今は、彩歌が生きていてくれた事が何よりも嬉しい。それが、偽らざるせつ菜の本心。

 

 逃避は許されない。棄却は無価値だ。あらゆる虚飾を奪われた心はせつ菜の思いを凌ぐ術を持たず、彼女の告白が胸を射抜く。呪詛のそれとは全く異なるその熱が、罅割れた心に染み入っていく。

 

「だから、自分が死んでいればなんて言わないでください……」

 

 真実の開示を自ら求めておきながら言うな、などと。矛盾している事はせつ菜自身にも分かっている。けれど、それでも言わずにはいられなかった。相反する心情、相克する葛藤こそが、理外の心胸であるが故に。

 

 矯飾は無く、欺瞞も無く、それどころか理屈さえあるかも分からない、少女の希求。なればそれは、全身全霊の生存肯定。拒絶や否定の仕様もない思いをぶつけられ、少年の瞳が揺れる。

 

「あ──お、俺は……」

 

 せつ菜の言葉は彩歌に対して責任を求めるものではない。或いはいっそ惨烈という他ない過去を経てもなお今も彼が生きている事を歓び、そしてこれからも生きていて欲しいという純粋な願いだ。己の身を焼く怨嗟の炎とは全く別種のその熱量に、少年が揺らぐのは必定であった。

 

 元より、彩歌の自己欺瞞は限界に近かったのだ。生来嘘を吐き通す事を苦手とする彼がその全能力を動員したとて本心を偽るには足りず、そうして生まれた軋轢は心を苛む。精神が摩耗する。自らを焦がす呪いと相まって、それは地獄のような辛苦であった。

 

 だが、確かに存在したのだ。彼の生存を罰する者と同様に、彼の生存を歓ぶ者も。故に、その手を取ってしまいたくなる。それは彼の弱さが生んだ抗い難い衝動であり、しかし彼の目前に屹立する過去の具現──半ばから折れたトロフィーがその軟弱を圧し潰す。そのトロフィーこそは4年前、事故に遭った時に彩歌が持っていたものであった。

 

 そう、赦された気になどなってはならない。彩歌の脳裏に張り付いた、不可視の己が声をあげる。光を見た気になどなってはならない。理解者を得た気になどなってはならない。自身の生存を望む他人(だれか)を理由に全てを無かった事にするなど、そんな非道は言語道断だ。そんなものは依存でしかなく、何より──

 

「──それでも俺は、これ以上"俺"を裏切れない」

 

 動揺と葛藤、そして希求の果て、それが彩歌が至った解答だった。彼自身を苛む葛藤の中、それは半ば無意識的に零れた言葉ではあったけれど、不思議と彼の胸の裡に自然と収まっている。まるで、元からそこにあったものをようやく自覚したかのように。

 

 今まで、彩歌はずっと己を裏切り続けてきた。未だ音楽が好きだと叫ぶ心を奥底に沈め、他者への恐怖を押し殺し、只管に自己を贖罪のために費やしてきた。そのあまりに矛盾した心理のために、彼は少しずつ心を擦り減らし続けてきたのである。その類稀なる自律と克己を以て、自身を裏切り続けてきたのだ。

 

 だが、何という皮肉か、その自律と克己の原動力たる自罰もまた紛れもない彼の本心であり、故にこそ彼はそれを裏切れない。それさえ裏切ってしまえば、彩歌の手元には何も残らないだろう。無条件に希求に縋ってしまうというのは、きっとそういう事だ。

 

 その結論を、せつ菜はどう思ったのだろうか。即座の返答はなく、けれど触れ合った熱の震えが内心を予感させる。そんな彼女の内心を知ってか知らずか、彩歌は更に言葉を続ける。

 

「でも、もうキミの事も裏切りたくない。……矛盾しているようだけどね」

 

 幾許かの間隙を置いてそう零し、彩歌は苦笑する。それは懊悩の果て、葛藤の裡より滲み出た苦し紛れの笑みであった。

 

 あまりに矛盾した物言いだ。これ以上自身を裏切りたくないと言っておきながら、同時にもうせつ菜の思いを裏切りたくもないなどと。彼が選択し今まで張り続けてきた在り方(つよがり)の上では、それらはふたつにひとつ。両立する事はない。

 

 そんな矛盾は彩歌とて承知の上。それでもそう思ってしまったのだから、それが真野彩歌の本心という事なのだろう。具体的な展望も何もない、純粋な我儘。或いはその域すら超えて、それは無謀にすら近い。だがそうするしかないのだ。それが彼女にこうまで言わせた彩歌の責任であるのなら。

 

 いつだってそうだ。自らの性質を改めて自認し、彩歌は自嘲する。真野彩歌という人間は責任の全てを棄てられず、自らの領分を超えて誠実であろうとするが為に不実なのだ。その具現にも近しい告白を受け、数拍。せつ菜の影が、彩歌から離れる。その別離を彩歌はどう捉えたのか何かを言いかけて、せつ菜がそれに先んじる。

 

「もう自分も私も裏切りたくない……ですか。ふふっ、何だか、彩歌くんらしいです」

「俺らしい……?」

「はい。やっぱり、彩歌くんは彩歌くんです。ワガママで頑張り屋な、私の知ってる彩歌くんです」

 

 そう言って、せつ菜は笑む。その目尻には未だ夕陽を照り返しその存在を主張する涙の残滓があって、それでも彼女の笑みは紛れもない本物だ。まるで太陽のような、相対する者の心を照らす笑顔だ。

 

 せつ菜も分かっていたのだ。きっと彩歌は選べない。或いは選ばないという解を選ぶ。選択して破却するなどという器用な事ができるのなら、きっと彼はこうも苦しまなかっただろうから。贖罪という在り方に自己を費やしながら“大好き”を捨てきれず苦しんでいた事が何よりの証左だ。

 

 でも、とせつ菜。

 

「彩歌くんが幸せでいて欲しいと願う人は、きっと私だけじゃないと思います。心当たり、あるんじゃないですか?」

「それは……」

 

 問われ、答えに窮する彩歌。だがその逡巡こそが何よりも雄弁に彼の解答を示していよう。そしてそれを見逃すせつ菜ではなく、彩歌もまた一見すると脈絡が無いようにも見えるせつ菜の問いに込められた意図を察している。その言外の交感は、彼らが重ねた思惟の年月が齎すものであった。

 

 生きてくれていてよかった。彩歌の命が在る事を歓ぶ、その言葉。それと同じものを、嘗て彩歌は貰っていた筈だった。4年前、あの病室で。それは親友からのそれであり、師からのそれであり、何より、父からのそれ。せつ菜の思いを裏切りたくないというのなら、それは彼らの言葉も信じるのと同義だ。

 

 だがそれを思うと、どうしてか足が竦む。まるで暗闇の中に踏み出すかのような訳の分からない躊躇いがあり、だがそれを少しずつ、彩歌は解体し言葉にする。

 

「……怖いんだ。もしも本心を晒し合って、今まであったものが崩れたらと思うと、どうしようもなく足が竦む。失うかも知れないのが、怖いんだ」

 

 4年前、病室で同門らに詰め寄られたその時から、或いはそれよりも前、母の死を知ったその時から、彩歌の中にはずっと他者への恐怖があった。それはせつ菜と本心を晒し合った今になっても変わらない。他人から裏切られる事、そして他人を裏切ってしまう事への恐怖は心に根を張っていて、易々と枯れるようなものではない。

 

 だからこそ彩歌は常に他人と距離を空け続け、笑顔の仮面を被り続けた。それは親友や家族にさえも同じ事。そうして他人に好都合な自分であれば裏切る事も裏切られる事も無い。そう信じて、彼はずっとそうしてきた。

 

 だが自分への裏切りはそのまま自らを大切に思う他者への裏切りにも等しいと理解した今その在り方は揺らいでいて、それを前にして残存する恐怖が叫んでいる。そうすることで今まであった筈のものが失われてしまう事を。知らない方が良かった事を知ってしまう事を。

 

 彩歌は自らが父から愛されている事を確信している。だがもしも、その裏に夢を奪った彼への憎悪が存在していたならば。そんな嫌な想像が、脳裏を過るのだ。彩歌の吐露からその凡そを察したのか、せつ菜が反駁する。

 

「大丈夫ですよ、絶対」

「……そうかな」

「はい! まぁ、根拠はないんですけど、えへへ。……でも、思うんです。もしかしたら……」

 

 そこで一旦言葉を区切り、せつ菜は改めて自分の思いを吟味する。この予感に、根拠はない。もしも()()であったなら多くに辻褄が合うのは確かだけれど、或いは彼女が“こうであったらいい”と願うだけの、あまりにも度が過ぎた希望的観測である可能性もある。それが分かっていながら、せつ菜の裡にはある種の確信めいたものがあった。

 

「もしかしたら、愛歌さんと陽彩さんにとって、彩歌くんも夢だったんじゃないかな、って。私はそう思うんです」

「俺が、夢……?」

 

 譫言のようなリフレイン。それは忘我の呟きにも近しく、けれどせつ菜の言葉は不思議と彼の胸の裡に自然と落ちていくようであった。無論、それがただの希望的観測でしかない事は彼も分かっているけれど。

 

 それを一縷の光明のように感じる己がいる。そんな筈はないと叫ぶ自分がいる。相反する心を自覚し、幾許か。押し黙る彩歌の手を取り、せつ菜は無言で笑む。その笑顔に背中を押されるようにして、彩歌は再び口を開いた。

 

「そうなのかな。……そうだったらいいな」

「きっと、そうですよ。だから……」

 

 向き合わねばならない。今まで、ずっと目を逸らし続けていたものと。たとえその果てに何もかもを喪うのだとしても、そうしなければならない。そうでなければ真野彩歌が語る誠実は全て虚像と化し、不実の影はいつまでも彼を苛むだろう。

 

 未だ恐怖はある。けれどもう決意したのだ。それらが綯い交ぜになった混沌を呑み下し、彩歌は今一度せつ菜を正面から見据えた。少年の孔雀青と少女の漆黒がかち合う。そこに、これまでのような群青からの嘘はない。そうしてようやく、少年は仮面に非ざる笑みを覗かせた。

 

「──ありがとう、優木さん」

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