【完結】彩る世界に響く音   作:かってぃー

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第27話 カレだけの光、強く、熱く

「あの、ありがとうございます。こんな時間に、ここまで送っていただいて」

「いいんだ。元はと言えば、俺が面倒をかけてしまったのが原因だからね。このくらいはするさ」

 

 黄昏は既に地平の間際まで追い遣られ、その大半が濃紺で染め上げられた空のカンバスの中で星々が細やかに存在を主張し始めた頃。せつ菜、もとい菜々と彩歌がそんな会話を交わしたのは、中川家が入居しているマンションの出入り口前での事であった。

 

 菜々だけではなく彩歌までもがこの場にいるというのは、何ということはない、暗くなるまで菜々を真野邸に引き留めてしまったために念のため付いてきたというだけの事。だが今まで彼らは付近の交差点で別れるのが通例で、出入口まで彩歌が付いてきたのは初めての事であった。そのせいだろうか、彩歌の視線は時折周囲を気にするように揺れている。

 

 常は飄々としている彩歌のそんな幼い仕草に、思わず微笑する菜々。しかし彩歌にとってそれは無意識の挙動であったのか、合点がいかないといった表情で小首を傾げる。そんな仕草でさえ何処かおかしくて、しかしそこにこれまでのような打算はない。(うそ)規定(つよがり)も介在しない、全身全霊の”真野彩歌“であった。

 

 そしてそれは現在、彩歌がこの世界で唯一菜々にだけ見せる姿でもある。その事実を再認すると菜々の胸中にはこそばゆさのような、或いは憂いのような、混沌とした言い様のない感情が顔を覗かせて、それを隠すように彼女は首を横に振った。彩歌の方も特に追及するつもりはなかったようで、疑問の気配が立ち消える。

 

「では、私はこれで。また明日です、彩歌くん」

「あっ! ちょっと待ってくれるかな、優木さん」

 

 別れの言葉と共に踵を返した菜々を背後から呼び止める声。だが、話すべき事は既に話している。それに彩歌の過去に関係のない他愛ない話も帰路の道中で交わしていて、改めて呼び止めるような用事も特に菜々には思い当たらなかった。故に今後は菜々が首を傾げて、そんな彼女の視線の先で彩歌はひとつ、大きく呼吸する。まるで何か、決心するかのように。大袈裟であるかも知れないが菜々にはそう見えて、一拍を置いて彼は口を開く。

 

「もう既に言ったけど、改めて。……ありがとう、優木さん。きっと……俺はずっと、キミに救われてた」

「────」

 

 それは或いは態々呼び留めてまで言うべき事ではないのかも知れない。今生の別れという訳ではなく彼らは明日も会えるのだから、伝えようと思えばいつでも伝える事ができる。にも関わらず彩歌がこのタイミングを選んだのは、何という事はない、今言うべきだと感じたから。それだけだ。

 

 今日の邂逅は、間違いなく彩歌にとって救いだった。それは間違いない。だが彩歌が菜々から与えられていた救いは、きっとそれだけではないのだ。ともすればその縁さえ。真野彩歌という存在を肯定し、寄り添ってくれていた事。それは彼にとって、紛れもない救いだった。

 

 よもや改まってそんな事を言われるとは思っていなかったのだろう、菜々は数拍の間呆けた顔をして、それから彩歌の思惟を咀嚼したと見えてその顔を笑みで彩る。だがそうして彩歌に数歩歩み寄り上目遣いで見上げながら、まるで拗ねたように唇を尖らせた。

 

「ふーん……それなのに、俺に救われる権利はない、なんて言っていたんですか?」

「うっ、それは……」

「ふふっ、冗談です。いつもからかわれてますから、仕返しですっ」

 

 してやったり、とでも言いたげな勝ち誇った表情である。そこに彩歌に対する不満の色はなく、であれば先の不平は本当に彩歌への仕返しであったか。これで手打ちとするというだけであるのかも知れない。どちらであるかは彩歌には知り得ない事で、しかし諦念めいて溜め息を零す。

 

 彩歌としても自身の背馳に自覚はあったのだろう。そんな反応に菜々は申し訳なさを覚えつつも同時におかしくて、笑声を零す。それにつられるようにして彩歌も笑みを覗かせ、言葉も交わさずに笑い合う。それは何度目になるかも分からない、言葉に依らざる交感。そうして、今度こそ菜々は満面の笑みを浮かべた。

 

「……じゃあ、これで私たちはお揃いですね」

「お揃い?」

「えぇ。だって、私も彩歌くんに救われていますから。だから、お揃いです」

 

 彩歌にとって菜々の存在が救いであるように、菜々にとっても彩歌の存在は救いである。故にこそのお揃いなのだと、菜々は言う。そしてその言葉と笑みの前ではそれを疑う余地などある筈もなく、純粋な思いをぶつけられた彩歌は思わず息を呑む。だがその動揺さえ予想していたかのように、菜々は瞑目する。

 

「貴方はいつも、私の事を知ろうとしていてくれた。私の“大好き”を受け止めてくれていた。それだけで、私は救われていたんです。小学校の頃から……ずっと」

「……!」

 

 見透かされている。言外に彩歌はそう察して、短い笑声を漏らした。或いは菜々はずっと覚えていたのかも知れない。せつ菜が復活したあの日、西棟屋上で彩歌が吐露した言葉を。

 

 自分がしてきた事など、きっと自分でなくてもできた事。それが自身の行為に対する彩歌の認識であり、そしてその認識にきっと間違いはない。たとえ彼がいなくても、侑達は菜々を救っていただろう。彼女達はそれができる人々であると、彩歌は知っている。

 

 だがその認識を知った上でも、菜々は言うのだ。それでも、と。中川菜々が真野彩歌に救われていたという事実は変わらない。それが現在の上にある事実であるのなら、彩歌がそれを否定する事はない。何故なら彼は責任の人なのだから。ある種の相互理解とでも言うべきそれ。ならば逃げ場など在る筈もなく、彩歌の笑みはあくまでも柔和であった。

 

「そっか。なら……確かに、俺達はお揃いだね」

「はい! えへへ」

 

 それは或いは何という事もない事象であるのかも知れない。他者との関わり合いの中で他者を助け、他者から助けられるというのは全く以て極自然な事で、ありふれた出来事だ。けれどそんな事は菜々も承知の上で、それでも嬉しそうに彼女は笑む。それを前にして自身の心にも言語化しにくい、けれど確かに暖かなものが広がっていくのを彩歌は自覚する。同時に、それを拒むような幻痛が奥底で彼を苛む事も。

 

 分かっているのだ。いくら誰かに救われようと、人はそう簡単には変われない。そんな簡単に変革できるようならば、初めから彩歌は今のようにはならなかっただろう。彼が積み上げた“真野彩歌”という方向性は容易には変わらず、雨音は今も耳朶を叩いている。きっとそれはこれからも彼を責め苛み続ける。これ以上、彼は彼自身を裏切れないが故に。

 

 だが、それでも、と。自罰も恐怖も罪悪感も、彼は捨てられない。それでも、目の前の笑顔を裏切る事も彼は己に許さず、故にこそそれは宣誓であった。

 

「……これまでずっと、俺は間違え続けてきた」

 

 聊か唐突にも思える彩歌の吐露にも、菜々は何も返さない。まるでそれを予期していたかのように微笑みながら、彼の続きを待っている。

 

 これまで、ずっと彩歌は間違え続けてきた。それを彼は常に心の何処かでは自覚していながら、ずっと見て見ぬふりを続けてきたようにさえ思える。もしもその間違いを認めてしまえば、その瞬間に母の死を無駄と宣った人々の悪意を是認してしまうような気がして。故にこそ、間違ったまま走り続けた。自己欺瞞を以て、多くの過誤を孕みながら。

 

 まさしく大嘘吐き(プリテンダー)とでも言うべき悪徳。そんな者の言う事など、今更誰が信じようか。だが目の前には、それでも彼に笑顔を向けてくれる人がいる。そういう人々がいる。ならば、それを裏切る事は許されない。今までの疾駆にも、全ての間違いにも責任を取る方法が、きっとある。それは誰に委ねられたものでもない、彩歌自身の判断だった。

 

「それでも……キミの信頼には、応えてみせるよ」

「……はい」

 

 月下、咎人は少女に宣誓を捧げる。その瞳にはもう、凶星の気配は無かった。

 


 

 静寂。まさしくその一言であった。鴻大な真野邸の中、家人の存在は彩歌以外に無く、その彩歌も自身のベッドに五体を投げ出して黙考に耽っているというのだから、生活音と言えるのは時折彼が身じろぎをした際に生じる衣擦れの音だけだ。締め切られたカーテンの先に広がる夜景に車の姿は殆ど無く、故に今の彼の部屋はまるで周囲より隔絶された異界のよう。そのせいか、秒針が刻む時の存在が嫌に強く意識される。

 

 帰宅から就寝までの間の時間をたったひとりで過ごすというのは、彩歌にとってさして珍しい事ではない。むしろ彼にとってはそれが普通で、最早慣れきってしまった日常であった。何しろ4年もそうなのだから嫌でも慣れるというもので、しかし静寂に物寂しさを覚えるのもまた事実。だが今日だけは、その静寂が有難かった。彼には考えるための時間が必要だったのだ。混沌とした己が心を見つめ直し、解体し詳らかにするために。

 

 故に、黙考は必然。静寂は必定。自らに対してすら秘し続けた自我の裡へと潜航する試みはいっそ自失にも似ていて、そのせいか時間の感覚すらも曖昧だ。

 

 だがまるでその黙念を断ち割らんとするかのように、唐突にスマホが鳴動する。枕元に放り出していたものだからそれを無視する事もできず、思索を切り上げてスマホを手に執った彩歌が見たのは〝高咲侑〟の三文字。その下では赤と緑のふたつの丸が明滅している。

 

 電話である。だが、態々かけてくるような要件に心当たりが無く、彩歌が首を傾げた。とはいえ、彼にはその着信を無視する理由も、またそのつもりもない。手早くイヤホンを無線接続して応答の操作を行うと、彼の方から口を開いた。

 

「もしもし?」

『もしもし、彩歌くん? 私、侑だけど、今時間あるかな?』

「あるけど……いきなりどうしたんだい? 何か急ぎの用事とか?」

 

 ええっ!? と侑。彩歌としてはあえて電話をせずとも学校でも話せる所を態々電話という手段を執ったのだから、相応の理由があろうという想定であったが、侑の反応からそういう訳ではないのは明らかであった。

 

 暫しの逡巡。その間にもスピーカーからは侑が考えを巡らせる声が聞こえてきていて、その時点で明確な理由は無いか何か言えない事情があると察するには十分だ。けれどそこまで悟っておきながら懊悩を見守っているのが楽しくなってしまって、彩歌は黙って言葉を待っている。そうして数瞬の間を置いて、侑の返答があった。

 

『うーん……な、なんか急に声が聴きたくなっちゃって。アハハ……』

「……まぁ、そういうコトにしておくよ」

 

 まるで告白だな、と内心で独り言ちる彩歌。こんな状況ではあるが彼もひとりの男子高校生であり、相手の発言に全く動揺しない程枯れているつもりもなかった。それで勘違いする程初心でもないけれど。

 

 しかしあえて取って付けたような理由を挙げた事で、侑が何の用も無く電話をかけてきた訳ではない事は自明となったも同然であった。横たえていた身体を起こし、話を続ける。

 

「それで、俺の声が聴きたかった高咲さんは、本当はどんな話がしたかったのかな?」

『か、揶揄わないでよっ、もう! 

 ……コンクールの後、あのままお別れになっちゃったでしょ? だから……大丈夫かなって』

 

 その返答に、思わず息を呑む彩歌。侑の言う通り彼女が最後に見た彩歌の姿は過呼吸発作を起こして前後不覚に陥っていた時のそれで、その時には話をする事もできなかったのだ。侑からすれば、心配になるのも当然というものである。

 

 故に彩歌の剽軽な物言いに対して抗議こそすれ、同時に侑は安心もしたのだ。少なくともそれだけの元気は戻っているという事なのだから。その点では、先の誤魔化しも半ば建前ではなく本音とも言えるだろう。

 

 なれば彩歌が一瞬だけ言葉に窮し、手持ち無沙汰そうに前髪を弄っていたのも致し方ない事だろう。高咲侑とは善意の人であると、彼も知っていた筈だ。けれど彼はそれが再び自身にも向けられ得るものとは思ってもみなくて、であれば申し訳なさと共に気恥ずかしさを覚えてしまうのも全く自然だ。

 

「そっか。ごめんね。俺の個人的な事情で、キミの気を煩わせてしまった」

『ふふ、彩歌くん、前と同じコト言ってる。友達だもん、気にしなくていいのに。……それに、謝らなくちゃいけないコトなら、私にもあるし』

「……?」

 

 侑から彩歌に対して謝らなければならない事。すぐには合点がいかずに彩歌は記憶を掘り返してみるが、やはり心当たりはない。彼には侑から迷惑をかけられた覚えなどなく、むしろ自らが謝罪しなければならない事案が思い出されるばかりであった。

 

 そんな彩歌の気配を電話越しにでも感じ取ったのだろうか、微かに笑声が漏れる。しかしそれに続いたのは声ではなく、唾液を呑み下す音。嫌に重く硬い色合いに、彩歌もまた無意識に居住まいを正す。

 

『──4年前の事、大雅くんから聞いちゃったんだ。だから……私も、ごめん』

 

 続く衣擦れの音は、謝罪と共に侑が頭を下げた事によるものだろうか。対面している訳ではないのだから何をしても見えないというのに。あまりにも律儀である。或いはそれこそが、侑の善性の証明であるのかも知れない。

 

 侑が知っている。4年前の事件を。侑が知っているという事は、まず間違いなく歩夢も知っていると言っても良い。聡明な彼女らであるから、大雅から知り得た時点で彩歌が隠し続けていた理由にも気づいたのだろう。間隙と覚悟がその証左だ。

 

 ともすれば再び先日のような発作を招いてもおかしくはない告白である。故にこその空白。だがその数拍を置いた後に彩歌が返したのは、先と何ら調子の変わらない「そっか」という一言だけであった。

 

『怒らないの?』

「怒る理由が無いよ。ああなったらもう隠しきれなかっただろうし……何より、もういいんだ、そういうのは」

 

 今度は侑が首を傾げる番であった。もういい、と。恰も何かを諦めたかのような物言いであるが、彩歌の声音はそれとは裏腹に憑き物が落ちたかのようですらある。せつ菜が彩歌と話したのは知っていても何があったかまでをまだ知らぬ侑には、その所以を察する術がない。

 

 だが少なくとも悪い変化ではないと理解するには十分であり、それさえ分かれば個人的な事情に深入りするつもりは、侑には無かった。そんな彼女の返事を待たず、彩歌は続ける。

 

「それに、大雅(アイツ)が話しても問題ないと思ったなら、それは間違ってないだろうからね」

『信頼してるんだね、大雅くんのコト』

「……まぁ、親友だし、俺にとっては恩人でもあるからね」

『ふふふ、大雅くんもそんなコト言ってたよ?』

 

 えっ、と彩歌が言葉を漏らす。彼が返答に要した一瞬の間隙が孕んだ意味に、侑は気付いているのだろうか。表情が見えないこの状況でそこまで察する程の洞察力は彼になく、だが侑の声音には彩歌の心根を見透かしているかのような響きさえあった。

 

 侑に対して嘘を吐いたつもりは、彩歌にはない。それなのに返答に詰まってしまったのは、ばつが悪かったのだ。彩歌と大雅は親友である。それは自他が認める事実だ。けれど同時に、彩歌は他者への恐怖を大雅にさえ適用していた。それを自覚しているが故に、即応できなかったのだ。

 

 彩歌のその心理を、侑は既に知っている。尤も、気づいたのは彼女自身ではなく大雅であるが。

 

 彩歌は大雅にさえ恐怖を向けていた。それは事実だ。だが同時に、その恐怖があってさえ友誼と信用は揺るがなかったのも事実なのだ。矛盾した心理だが、その在り様は心的外傷があってもなお彩歌が誠実を貫こうとした結果であるのだろうから。信頼を疑うつもりは、侑にはなかった。

 

『本当に仲良しなんだね、彩歌くんと大雅くん。そういうの、素敵だなって思う』

「フフ、俺からしたら、キミと上原さんもそう見えるよ」

『そう? ありがとっ』

 

 或いはどこか友達自慢めいた、他愛のない会話。それだけでも楽しくて、ふたりは互いに笑い合う。彩歌にとっては久方ぶりの、己の過去とは何ら関係のない笑顔だ。半ば無意識のコトであったが故に、彼にその自覚は無かったけれど。

 

『そうだ、大雅くんから聞いたコトで、ひとつだけ確認したいコトがあるんだけど……』

「うん? 何だい?」

『えっとね……えと……』

 

 侑にしては珍しい歯切れの悪さであった。あえて言葉を切っているといった気配ではなく、それを尋ねる事自体を逡巡しているかのようでさえある。彩歌の隠し事を聞いた事実を告白する時の決心さえ一瞬だった侑が、である。

 

 であれば、余程深刻な事なのだろうか。その予感に彩歌は思考を巡らせるが、やはり思い当たる節は無い。そもそも彩歌の隠し事など心的外傷に由来するものの他に無く、故に答えは出ない。それに先んじて、侑が口を開いた。

 

『彩歌くんって、あの〝さっちゃん〟なんだよねっ?!』

 

 

「────え」

 

 

 あまりにも間の抜けた、頓狂の極みにある応答であった。それは侑の問いがあまりに予想の外であったからか、それともその名前が侑の口から出てくるとは全く思っていなかったからか。彼自身にさえ分からなかった。

 

 だが侑の声音は紛れもなく高揚した時のそれであり、そのせいか彩歌には目を輝かせた侑の表情が目に浮かぶようであった。初めて言葉を交わした時に、彼は一度その輝きを向けられているが故に思い出すのも容易である。

 

 あまりの想定外に動転(フリーズ)する思考。それを落ち着けるべく、深呼吸を数回。そうしてようやく彼は幾らかの正常を取り戻し、侑の発言が意味する所を理解する。

 

「高咲さん……もしかして、配信とかも……」

『うん! いつも見てるよ!』

「マジかぁ……」

 

 友人が実は視聴者でした、などと。全く予想だにしていなかった告白に、彩歌が両の手で顔を覆う。だが耳までは隠しきれず、彼が紅潮しているのは誰の目にも明らかであった。この部屋には彼以外に誰もいないけれど。

 

 ただ〝さっちゃん〟の正体を知っているというだけならば、侑だけではなくせつ菜や、情報漏洩者たる大雅もそうだ。だが自ら明かすのといつの間にか知られているのでは訳が違う。訳の分からない羞恥に、思わずわっと叫びたくなってしまう。

 

 侑が〝さっちゃん〟の存在を知っているという事はつまり、一人称だとか口調だとか、配信者として多少演じていたキャラを彼女は知っていて、それが今、彩歌と接続されてしまったという事でもある。羞恥するのも致し方なかろう。

 

『わぁ……! 凄いなぁ、本当に彩歌くんがさっちゃんなんだぁ……!』

「あんまり言わないでよ、恥ずかしいから……それに、大雅から正体を聞いたって事は、俺が配信を始めた理由も聞いたんだろう? あまり、褒められたものじゃない……」

 

 独白めいた彩歌の吐露に、侑はすぐには応えを返さない。だが彼にとってはその沈黙こそが肯定にも等しくさえ感じられた。侑は素直だ。知らぬというのであればあえて黙るような真似はしないと、彼は了解している。

 

 だが己自身でそれが誉められたものではないと理解しているのならば、相手の理解に任せて何も語らずにいる事こそ真に不実な行為だ。既に知られているのならば、最早今更。言葉にするに、支障は無かった。

 

「あの事故から今まで、俺は贖罪の事しか考えてなかった。自分の心を殺して、耳を塞いで……俺の価値(そんざい)を示す事だけが俺に許された全てだと思ってたんだ。いや、今でもそう思ってる俺がいる。配信を始めたのだって、結果が欲しかったからだよ。

 本当……愚かだよね」

 

 その事実を、彩歌は認めよう。自他をこれ以上裏切らないと誓い、己を客観視できるようになった今、彼は目前に屹立する己が愚昧から目を逸らす事は許されなくなったのだ。直視こそが、義務だ。

 

 母の死の原因を作った己に母の教えを守る権利などなく、それどころか音楽を続ける事さえ烏滸がましい。けれど辞めてしまうのなら、それは母への裏切りだ。自らで自らを無価値としてしまえば、それは本当に母の死を無駄死にと認めてしまう事になる。

 

 それだけは看過できない。ならば己の価値を示さなければ。最早その身には音を楽しむ権利も、大好きを叫ぶ権利も無いのだとしても。元より犠牲の許に救われた命。犠牲に恥じぬ結果を示す事だけが、許された唯一の道だ。

 

 これまでの4年はその一念の許にあって、配信を始めたのもそれ故の事。綺麗な理由は何処にも無い。それが全て。

 

 彩歌とて分かっているのだ。いかな友人といえど一視聴者でしかない侑にそんな事を言っても仕方がないと。慰めが欲しかったのではない。ただ彼女の無邪気な声が痛くて、言わずにはいられなかった。

 

 静謐。それが自らの招いたものであると気づいて彩歌は何かを言いかけて、しかし侑がそれに先んじる。

 

『それでも、だよ』

 

 只管に優し気な、それでいて有無を言わさぬ声音。それを受けた彩歌は声を漏らす事もできず、吐き出される寸前だった息は行き場を失って虚空に溶けていく。ある種の強制力が、彼女にはあった。

 

『初めて彩歌くん(さっちゃん)の演奏を聴いた時、私、すっごくトキメいたんだぁ。世界にはこんなに音楽が上手くて、大好きな人がいるんだって思った。心の底から、そう思ったの』

「っ──」

 

 侑の言葉に、嘘はない。彼女の人柄への理解ではない、しかし疑う余地の無い所から、彩歌はそう確信する。それは或いはただの予感と言うべきものであるのかも知れないが、それだけに強力だった。

 

 今までの話において、彩歌は事実しか語らなかった。決して嘘を吐かなかった。なれば、侑が嘘を吐く筈もない。それを確信できるからこそ、彩歌は余計な言葉を差し挟めない。

 

『だからね、ピアノの練習に詰まった時、スクールアイドルの動画だけじゃなくて、さっちゃんの配信も見てたの。そうすると、勇気が出た。私も頑張ろうって思えた。その内に作曲の勉強も始めたり……そうそう、最近ね、貰った楽譜がなくてもCHASE! が弾けるようになったんだぁ』

 

 凄いでしょ? と誇らしげに笑む侑。相変わらず表情は見えないけれど、気配だけでそれが伝わってくる。そのせいだろうか、彩歌は何も言えずに首を縦に振るばかり。服が擦れる音だけが侑に聴こえる全てで、それだけで十分だった。

 

 思わず、鳩尾の辺りを握り締めた。侑の言葉を聞いたせいだろうか、訳の分からない、けれど懐かしくて暖かい何かが胸の奥から湧き出して堆積していく。そんな感覚であった。まるでずっと押し込めていたものが、ひとつの切っ掛けで溢れ出してきたかのように。

 

 さながら郷愁の奔流。彩歌がそんな有様である事を知ってか知らずか、侑は更に続ける。

 

『だから、ありがとう。今日はそれが一番言いたかったの。……えへへ、何だか恥ずかしいな』

 

 未だ感情の整理はついていない。けれど礼を言わなければならないのはむしろ自身の方である事は彩歌にも理解出来て、けれどそれが声になるより早くに別な声が微かではあるが電話口に混じる。歩夢だ。

 

『あっ、歩夢だ!

 ゴメン、彩歌くん、歩夢に呼ばれたから、もう切るね! また学校で話そ!』

「あぁ。……ありがとう、高咲さん」

『……! へへ、どういたしまして!』

 

 その言葉を最後に電話は切れ、部屋には静寂が戻る。スマホの画面もまた電話中のそれからロック画面へ。イヤホンを外せばそこにあるものは数刻前と変わらぬそれであり、されど彩歌の裡に残留する熱だけは異なっている。

 

 どれほどの間電話をしていたのだろうか。正確な所は分からないが変わらず家人は彼ひとりで、故に彼は己が感情を解体しにかかる。その正体を知るために。そうしなければならないという感覚があった。

 

 検分する。見つめ直す。言葉を吟味するありとあらゆる試みを不明に対して施して、そうして暫しの時間をかけた後、彩歌は()()()()()。その定義を。不要と切り捨てた筈の感慨を。

 

「そうか……俺、嬉しいんだ」

 

 全く気の抜けた声であった。だがそれは自身が抱いた喜びに対して無感動であるからではない。自らの理解に感情が追いつかず、その空白より現れた虚であった。そして空虚とはいつか塗り潰されるが定め。数拍を置いて、抗い難い感情の波濤が彼を打つ。

 

 嬉しい。嬉しい。侑が演奏を聴いてくれていた事もそうだが、主たる要因はそれではない。ならば何か。決まっている。自分の演奏が誰かの背中を押せていた事が、誰かの夢を応援できていた事が、彼はたまらなく嬉しいのだ。無防備であるが為に偽る事のできない心で、彼はそれを強く実感する。

 

「あぁ、俺……やっぱり、まだ──」

 

 正直な所、彩歌は不安だったのだ。自他を裏切らないと誓い、果たしてそのために己の解体に成功したとして、もしもその中に何も無かったとしたら? 封殺され果てた〝大好き〟はとうに死んでいて、ただ自己欺瞞の為の作り物の痛みだけがそこに在る全てだったとしたら? 自分はその虚無を裏切らずにいられるのだろうか、と。

 

 だが、それは杞憂だった。だって、こんなにも嬉しい。証明も、弁護も、お為ごかしも要らない。この感情はそんなものでは測れない。そこにあるだけで十分で、何よりも強力な感情だ。こんなものをずっと殺そうとしていたのだ。死んでしまいそうな程に痛むのも当たり前で、見て見ぬふりをしても漏れ出てしまうのも自然という他ない。

 

 思わず泣いてしまいそうな程に激しい情動。けれど彩歌は意地を以て、それを抑え込んだ。泣くべきは今ではない。それにはまだ早い。しかし全てを堪えきれる筈もなく、彩歌は万感の混沌と共に言葉を吐き出した。まるで己に、世界に、それを知らしめるかの如くに。

 

「───こんなにも、音楽が大好きじゃないか……!!」

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