煌々と輝く、燃えるような夕景。あまりにも使い古され手垢に塗れ果てた陳腐極まる表現だが、彩歌の目の前に広がる景色を表すにはそれが最も適切な表現でもあった。
西の空により殺到する茜色の鯨波が街を黄昏に沈め、コンクリート・ジャングルの整然とした灰色が無遠慮に染め上げられる。今はまだ見えないが、水平線の上では今も濡羽色の空が黄昏を塗り潰さんと迫って来ているのだろう。
しかしそんな天上の闘争も、今の彩歌には全くの無縁の事だ。ダイバーシティ東京の威容が地に落とす巨大な影の下、少年は独り天球にて繰り広げられる階調の変遷を眺めるばかりだ。
視線を巡らし、背後に見えるのは白亜のヒトガタ。最早見慣れてしまったそれはやはり一角獣を模した姿のまま、影の内から衆生を睥睨している。その能面の内に隠された双眸を窺い知る事はできず、そこに何かを見出す試みは無意味に等しい。立像は立像。それ以上でも、それ以下でもない。
浮足立っている。柄にもなく全く無益な試行を犯した己を顧みて、彩歌はそう結論付ける。だが、仕方ないじゃないか、と。誰に向けたものでもない言い訳を内心で零す。事実、これから来るであろう待ち人の正体と彼の思惑を考えれば、彼の憂懼も自然な事であった。
だがそのままでいるのも気持ち悪くて、彩歌は鞄から取り出したイヤホンを装着するとスマホの音楽アプリを起動した。シャッフル再生をタップし、流れ出したのは洋楽。ミア・テイラー作曲のそれだ。嗜好している作曲家が作り出す世界に意識を飛ばし、彩歌は一時だけ現実を忘れる。
そのまま、どれだけの間そうしていたか。ほんの一瞬か、或いは何十分か。半ば忘我の裡にあった彩歌に分かるのは空模様はあまり変わっていないという事だけだ。不意に肩をたたかれ、彼は現へと立ち戻る。そうして反射的に振り返り、彼は介入者の正体を認める。
「父さん」
「よう、彩歌。待ったか?」
イヤホンを外しながら呼びかける彩歌に、手をひらとさせる陽彩。仕事を早抜けしたその足で来ているためかその恰好は愛用である仕立ての良いスーツのままであり、だが目元を隠すサングラスだけがアンバランスだ。けれど彩歌に驚いた様子はない。彼にとって、父親のその姿は見慣れたものであった。
それは何も、陽彩の趣味という訳ではない。だが彼は元トップアイドルであり、未だに熱狂的なファンは少なくない。そのためプライベートな外出時には変装も兼ねてそれを着用している事が多いのだ。尤も、嘗ての彼と瓜二つの造作に育った息子が横にいてはあまり意味も無かろうが。
「待ちはしたけど……退屈はしてないよ」
「そうか。なら良かったが……またそれ聴いてたのか?」
「また、とは何さ。またとは。失礼だなぁ。そりゃ、ファンだもの。推しの曲に飽きは来ないさ」
揶揄うかのような声音の陽彩。基本的に一年中多忙で落ち着いて息子と言葉を交わす時間も少ない彼だが、息子の趣味嗜好程度ならば問題なく把握している。音楽の趣味などはその最たるものだ。
彩歌もそれを知っているために、返答は抗議でありつつも抗議の体を成していなかった。そもそも父には己を小馬鹿にする意志など無いと予め分かっているのだから、怒る理由がある筈もない。
つまりは、全くの茶番。言葉の応酬もそこそこに、ふたりは顔を見合わせて笑い合う。生活リズムの相違に加えて最近の騒動もあって同じ家に暮らしているにも関わらずあまり会話の無かった彼らだが、その程度で両者の暗黙が消退する筈もない。
だが、いつまでもそうしている訳にもいかない。他愛の無い会話の跡にはすぐに本題へ。その了解に異論を差し挟む余地は無く、周囲を見回してから陽彩が口を開いた。
「詩音さんは……まだ来てなさそうだな」
「うん。多分、仕事が長引いてるんじゃないかな」
極めて多忙でこそあるが、陽彩は勤め人である。事前の根回しと大幅な無理を重ねれば早退程度ならば可能であるのに対し、詩音はある種の個人事業主である。マネジメント等も基本は自ら行っている以上、方々との協議は自分自身で行わねばならず、その中で早抜けというのも厳しかろう。
とはいえ彼らも何の見通しも立たないまま今日に用事を入れるような蒙昧ではない。別日よりも比較的予定を合わせやすいからこそ今日を選んだのであり、ふたりは短い遣り取りの後に暫く待つ事を決定する。
そうなれば、後に残るのは延長された父子の時間。彩歌には、話したい事が山のようにあった。何しろ腰を落ち着けて話せるのは久しぶりなのだ。学校の事、友達の事、或いはもっと他愛の無い事まで。話題には事欠かない。
だがそれを差し置いてでも話すべき事が彩歌にはある筈で、だがそれを思うと暗雲めいた感覚が彩歌の胸中に去来する。覚悟はしていた。それでも長年に渡って彼の裡に居座り続けた恐怖は覚悟だけで払拭できるような生半なものではなく、相反する感情の相克が懊悩を生む。そこへ、陽彩の声。
「彩歌。身体の方はもう大丈夫か?」
「あ、あぁ。もう大丈夫だよ。別に、身体には元から問題は無いし……それに、これから母さんの墓参りに行くってのに情けない所は見せられないよ」
唐突な問いだ。あまりにも脈絡が無い。いかに父からの問いであるといえど彩歌はその意図を即座には察せず、返答には戸惑いが混じる。だが思わず視線が地面から父まで滑り、その表情を見た刹那、彩歌は陽彩の意図する所を了解した。
悟られている。正確にどこまで気づいているのかは定かではないが微笑を湛えた陽彩の漆黒の双眸は只管に優し気で、まるで彩歌の言葉を待っているかのようだ。いつの間にか、サングラスを外していたらしい。
或いはそれは、何も今に始まった事ではないのかも知れない。そう思うと何故だかひどくおかしくて、彩歌は笑声を漏らす。そうして、深呼吸をひとつ。それだけで、つっかえていた筈の問いは声となって現れた。
「───父さんはさ、俺を恨んだ事って、ある?」
声音は、彩歌自身でも驚く程穏やかなものであった。ずっと彼の裡に巣食っていた諦念にも似た抑圧の気配さえそこには無く、自然体である。およそ数刻前まで恐れで一歩踏み出せなかった少年には似つかわしくない姿だが、故にこそそれは包み隠す事の無い心底からの問いであった。
何を以て怨恨とするか、などと、陽彩は問い返さない。そんな事はあえて訊ねるまでもない。彩歌の心にずっと引っ掛かり、心根に影を落とし続けてきたものの存在を、彼が知らぬはずもない。故に、答えはとうに決まっていた。
「ある……と答えるのが、気の利いた返しなのかも知れないけどな。無いよ、一度も」
「そっか。……そうか。ハハ……ハハハハ!!」
二度の首肯。それに続くのは安堵の涙などではなく、誰憚る事の無い呵々であった。あまりにいきなりの事であったためか往来は彩歌に訝し気な目を向け、不審に思いつつも何事も無いと分かるとすぐに興味を喪って離れていく。
陽彩の言葉に嘘は無い。それは息子である彩歌が一番よく分かっている。分かっていた筈だ。それなのに、恐れていた。自分で自分自身を罰していながら、最も身近な人から罰されるかもしれないという幻想に踊らされていた。
初めからこうしていてば良かったのだ。全てはあまりにも簡単な二言に凝縮され、それだけで終わる命題だった。それなのに、そうしなかった。ありもしない幻想に取り憑かれ、独り芝居に狂っていた。これを道化と言わず、他に何と言うか。あまりにも滑稽で、彩歌は笑いを堪えきれなかった。だがそんな少年の髪に、不意に温もりが触れる。
「……ごめんな、彩歌」
「どうして父さんが謝るのさ。父さんには悪い所なんてひとつも……」
「いいや、ある。俺はな、彩歌。怖かったんだ。おまえの期待に応えようとしながら、同時に心を閉ざしたおまえにどう接すればいいか……その努力を怠っていた」
「そんな、そんな事は……」
無い、と言い切れるだろうか。彩歌は陽彩の息子であり互いに余人の介在を許さない理解があると自負している。だが父子であれど、突き詰めれば他人だ。その心根の全てを何の努力も無く悟る事ができる筈もない。
ならばその無理解を是正する手段が要る筈で、その選択肢はただひとつしかあり得ない。言葉だ。人間が相互理解を果たすには、言葉を以て己を晒すより他にない。相手に自分を知って欲しい。相手を知りたい。つまりは不明を既知へと堕とし、理解したい。それは人の基本欲求だろう。
だが世界は簡単ではなくて、相互理解にはいつだって障害がある。それは誰より近しい親子とて同じ事。生者同士とてそうなのだから、生者と死者の間でそれを十全に果たすなど不可能に近い。
誤解やすれ違い。言葉があるからこそそれらは生まれ、それが嘘となり相手を区別する。だがその嘘が白日の下にさらされたのなら、それは障害を乗り越える一歩にもなろう。言葉による誤解を恐れるのが人間ならば、言葉によって解り合えるのもまた人間だ。
「それでも父さんは、良い父だと思う。それは俺が保障するよ。父さんは俺にとって……誰より尊敬できる父だ」
「彩歌……ははっ、言うようになったなぁ、おまえも!」
息子の言葉にそう返すや否や、陽彩は彩歌の頭に乗せた掌を激しく動かし彩歌の髪をもみくちゃにしてしまう。あまりにも酷い蛮行だ。おかげで髪がぼさぼさになってしまっている。やめろー! と抗議する彩歌だが、その言葉とは裏腹に表情は嬉しそうだ。
確かに陽彩の言う通り、彼は半ば心を閉ざした息子にどう接するか探る努力を放棄していたのかも知れない。だが、それは最適解ではなかっただけだ。陽彩の心はいつだって息子にあって、それに気づかない彩歌ではなかった。
或いは完璧主義とでも言うべきなのだろうか。己の不出来を誰より自分自身が許せないという、あまりに不器用な在り方。それにあまりにも覚えがありすぎて、彩歌は思わず苦笑してしまう。
「いつだって父さんは俺を想ってくれてた。だからこそ、余計に怖かったんだ。その期待を裏切ってしまう事も、面倒をかけてしまう事も。……ひとつでも間違ったら、また大切な人が離れてしまいそうで」
彩歌とて分からなかった訳ではないのだ。父が自分を愛してくれている事は。分かっているからこそ怖かった。苦しかった。どんな幸せを享受していたとしても彼の心にはいつも希死の念があって、それが再起させるのだ。いつかの日から降り続ける雨音を。
だからこそ彩歌は努力した。只管に必死に、陽彩に迷惑をかけまいと。家事を完璧に身に着けたのも、特待生まで昇りつめたのも、全てはそのためだ。幸か不幸か、努力を積み上げその全てを掌握する事だけは、彼の得意であった。
陽彩が自身で描く良い父であろうとしながらそうなれなかったというのなら、彩歌もまた良い息子であろうとして、そうなれなかった。その告白を受けて、陽彩は彩歌の頭に手を添えたまま答える。
「良いのさ。俺達は都合の良い
「そう、だね……でも、なんか開き直りみたいなんだけど、それ」
「かもな。けど、真理だろ?」
人は都合の良い偶像などではない。それは嘗て彩歌自身もまたせつ菜に告げた言葉だ。だが他者にはそう言いながら、誰より彼自身が他者にとって都合の良い偶像であろうとしていた。それも、ただ"拒絶されたくない"などという理由で。
何と浅ましい動機だろうか。だがその感慨は以前の彩歌には無かったはずのもので、それは転じて彼が確実に前に進んでいるという事でもあるのだろう。そして彼がそう在れるのは、決して彼ひとりの力によるものではない。
「俺、ずっと"俺が死んでいれば"って思ってた。正直、今でもそう思ってる俺がいる」
「……そうか」
陽彩はそれ以上何も返さない。彩歌の言いたいことはまだあると察しての事なのだろうか。自分が死んでいればなどと、それは父が息子から最も言われたくない言葉であろうに。
静寂。数拍の間を置き、でも、と続ける。
「こんな俺でも"生きていてくれてよかった"と言ってくれた人がいた。"ありがとう"と言ってくれた人がいた。それで、思ったんだ。俺はずっと……俺がここにいてもいいって、生きていてもいいって理由が欲しかったのかも知れない」
自己肯定。生存承認。あえて形容するならば、彩歌の思いとはそれに終始する。或いは贖罪さえもそうであったのかも知れない。たとえ死んだように生きる事になったのだとしても、生きて贖う。それは生きる理由に他ならない。
贖罪を希求する自己とせつ菜の思いを裏切りたくない自己が同時に存在する理由も、全てそれで説明がつく。根底を同じくする思いであるならば、それは結果に至るための手段として同列だ。
だが希死念慮に突き動かされる己と生存を欲する己がいる事は明確な矛盾だ。彩歌はそれを自覚していて、故にそれ以上に言葉は続かない。そんな彼の横に腰を降ろし、陽彩は口を開く。
「おまえの罪悪感を、俺は否定しないよ。それはおまえなりに考えて出した結論だろうから」
「……」
「でも、これだけは覚えていてくれ」
彩歌の罪悪感を肯定する。果たしてそれは、どれだけの葛藤の果てに出した答えなのだろうか。おまえは悪くないと、そう言ってしまえたならどれだけ良い事か。言ってしまいたい自分がいる事も陽彩は分かっていて、それでも彼は息子の思いを認めた。
なぜならそれは、息子の懊悩を否定する事になるから。お為ごかしの正論など、ただの自己満足にしかなり得ない。罪悪感さえ熟考の先に出した思いならば、彼はそれを肯定する。
それでも、伝えなければならない事があった。それを、彩歌はまだ理解できない事かも知れないけれど。彩歌の孔雀青の瞳を真っ向から見据え、陽彩は言う。
「おまえは自分が
───おまえが夢なんだよ、彩歌。おまえの存在そのものが、俺たちの夢なんだ」
「俺が、夢……」
「そうだ。だから愛歌は夢を奪われたんじゃない。守ったんだよ」
自らの存在そのものが、両親の夢。そう告げられて、彩歌は二の句を継ぐ事ができない。理解に時間がかかっているのか、それとも驚愕によるものか。彼の裡にもその希望はあった筈なのに、それが現実のものとなると何も言えなくなってしまう。
それでも、確かな事がひとつ。愛歌の音楽教室は両親の夢だった。それは間違いない。けれど同時に彩歌自身もまた両親の夢であり、愛歌はそれを守るために命を擲ったのだ。
この事実で彩歌が愛歌に庇われた事実が帳消しになる訳ではない。故に彼の罪業が消える事は無く、けれど陽彩の言葉は理解を飛び越え、そのまま彩歌の胸に収まる。それは忘我として現出し、そんな愛息に陽彩は笑む。
「まぁ、子供が夢なんてのは俺達だけじゃないだろうけどな」
「そういうものなのかな……」
「そういうモンなんだよ。おまえもいずれ分か……るとは限らないか。今はそういう生き方ばかりじゃないからな。
まぁ、分からなくてもいいさ。思いは伝えた。それでいい」
彩歌はまだ子供だ。故に陽彩や愛歌の感覚を理解しようにもできない。或いは一生理解できないかも知れないし、それとは逆にすぐに理解できてしまうかも知れない。それらは全て可能性の話。今論じても詮無い事だ。
だが、託された。それだけは彩歌にも分かる。その思いが包含する性質は知らずとも。或いは初めからそうであったのだろうか。知ってからではその正否を論じる事はできないけれど、漠然と彩歌はそう予感する。
けれど、これはあんまりだ。託された以上、彩歌は最早歩き続けるしかなくなってしまった。迷走さえ道程であるならば、これまでの彷徨もまた彩歌にはもう否定できない。故に笑んで、皮肉を漏らす。
「最初からそう言ってくれれば、分かりやすかったのに」
初めからそうと知れていれば、これほど迷うことは無かった。それは正論ではあるけれど、同時に暴論でもあろう。陽彩はただ笑むばかりで何も言わず、彩歌もまたそれに苦笑を返す。
これは祈りだ。だが託された祈りを祝福とするか呪縛とするかは祈られた側の勝手であり、そしてどちらであれ陽彩はそれを否定するまい。それが彩歌が為すべきと思った事を為した結果ならば。
上等だ、と。理解を腹の裡に収め、不明を不明であると了解し、彩歌は思う。
「と──」
「──ごめんなさい! 話し合いが長引いちゃって……」
あまりにも喧しい、聞き知った声であった。全く予期していなかった横槍で言葉を遮られた彩歌であるがそこに不満は無く、だが皮肉めいた表情で横槍が飛んできた方向を見遣る。
果たして、そこにいたのは最後の待ち人である矢代詩音であった。話し合いが長引いたというのは本当と見えて、愛用のスーツを着たその姿で額には汗が浮かんでいる。恐らく走ってきたのだろう。
数秒の間肩で息をして、顔を上げる詩音。そうしてその間に漂っている色を視認したのか、問いを零した。
「あれ……? もしかしてあたし、お邪魔しちゃった?」
「あぁ、したな」
「したね」
えぇっ!? と詩音。その姿がおかしくて、父子は思わず吹き出してしまう。確かに彩歌の言葉は遮られてしまったが、彼らは何もそれを迷惑がっている訳ではない。むしろその宣誓は詩音にも聞き届けられて然るべきものだ。
だがそれについて言うならば、それを告げるべき場はここではないだろう。見れば、周囲には少しずつ人が集まってきている。かつてのトップアイドルと高名なピアニストが一同に会しているのだ、無理もない。今更スキャンダルになるようなものでもないが、不都合ではあるだろう。
「そろそろ行くか」
陽彩の言葉に頷きを返し、立ち上がる。いくら共感覚者といえど全てを了解できる訳もなく詩音は戸惑いを隠しきれていないようだが、それは道中で解決すれば良い事だ。
そうして立ち去る間際、彩歌は何気なく背後を振り仰いだ。
白亜のヒトガタ。数刻前には無貌であったそれは今やその真体を晒し、その躯体より発する深紅の燐光で以て地を照らしていた。その光はいつか虹となり、これより来る夜の無明に伸びるのだろう。
久遠の雨が、上がる予感がした。
──言うなれば、そこは"狭間"であった。
都心よりいささか離れた、東京郊外のとある一角。雑然とした世俗の喧騒とは全く以て無縁であるそこを満たす静寂はいっそ荘厳でさえあり、しかし林立する無機質な灰色は耽美とは程遠い光景であろう。
時は既に真夏であるのに地を撫でる風は穏やかかつ冷たく、暗がりの曼殊沙華が紅い手を振っている。まるで、来訪者たる彩歌達をその先へと呼び招こうとしているかのように。健気なその姿に、思わず笑みが零れた。
見上げれば空の蒼は既に霞み果て、西方より染み出した茜色に取って代わられていた。地平を遮る木々のために見えはしないが、きっと今頃は地の底より闇が現れんとしている事だろう。
なれば今この時こそは昼中と小夜の際目であり、そしてこの場所は現世でありながら最も幽世に隣接している。故にこその狭間。地続きでありながら境界たる在処。冷厳にして温和たる墓標の海原。実在と不在が混濁する只中にあっては、曖昧模糊さえその存在を許される。
掃除を終え、軽く一息。汗ばんだ肌に触れる風が心地良い。手に持っていた掃除用具を桶の中に放り込んで傍らに置いてから、彩歌らは再び
今日彼らがここへ来たのは、報告のためだ。他でもない、彩歌が全国大会へと駒を進めた事の報告である。それが愛歌が亡くなってからの慣例であり、しかし今回に限ってはそれだけではなかった。
黙祷。五感のひとつを閉じても生者に死者の声は届かず、けれど交感には充分だ。そして、自身の決意を再認するにもそれは十分に過ぎる。
「父さん。先生。お願いがあるんだ」
静寂を打ち破る彩歌の声。聊か唐突ではあったが、陽彩と詩音に驚愕の気配は無い。まるで彼が何か言うのを知っていたか、或いは待っていたかのように。そんなに分かりやすかったか、と内心で零す。
知らず、拳に力がこもる。余人からすればそれは大した事ではないのかも知れないけれど、彩歌にとっては難行の如きものであるのだ。何しろ今までずっと独りで立とうとしていたのだ。他者を頼るにも勇気が要る。
だが、今更な事でもある。懊悩の中に在り続けた日々でさえ、彼はずっと誰かに支えられ続けていたのだから。開き直りめいてはいるが、それでいい。ひとつ大きく空気を吸い込めば、言葉は自然と現れた。
「俺を助けて欲しい」
「……!」
詩音は気づいたのだろう。彩歌の告げたそれが、再会した日に彼女が言ったそれである事に。助けて欲しいときはしっかり誰かにそれを伝えろ。彩歌の嘆願は、まさしくそれであった。
嘆願の内容もいつかの黄昏の時と全く同じであり、けれど性質を全く異としている。今度は苦し紛れではなく、本心から。情けない話だとは分かっているけれど、それは約定でもあった。
今、彩歌は自己矛盾の裡に在る。せつ菜の言葉を裏切らず、"大好き"に忠実に在りたいと願う自分。希死念慮に突き動かされるまま、自己を贖罪に費やさんとする自分。どちらもその先にある
「今度こそ、俺は全国を獲る。他の誰でもない、俺自身の音で」